豊臣秀吉の出自と初期の親族・家臣団について(1) | 気まぐれな梟

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 今日は、「愛と青春のうた [Disc 1]」から、加藤和彦と北山修の「あの素晴しい愛をもう一度」を聞いている。

 

 渡邊大門「戦国大名は経歴詐称する(柏書房)」(以下「渡邊論文」という)は豊臣秀吉の出自について、以下のようにいう。

 

(1)豊臣秀吉の出自についての代表的な記述


 「秀吉の出生にまつわる事実について」、「主要な歴史・人名辞典の中から、いくつか代表的な記述を抜き書き、掲出する」

 

(a)「戦国武将合戦事典」(吉川弘文館)


 天文六年(一五三七)生まれる。「太閤素生記」によれば尾張国愛知郡中村(名古屋市)の木下弥右衛門の子という。弥右衛門は織田信秀の足軽であったが負傷して村に帰り百姓となった。秀吉の母なか(大政所、天瑞院)は弥右衛門との間に、姉とも(瑞竜院日秀)と秀吉を生み、弥右衛門死後おなじく織田家の同朋であった竹(筑)阿弥に嫁し、一男一女をあげた。

 

(b)「朝日日本歴史人物事典」(朝日新聞社)
 

 尾張国愛知郡中村(名古屋市)の百姓で織田信秀の足軽木下弥右衛門を父に、同郡曾根村の百姓の娘なか(天瑞院)を母として誕生。父は戦傷のため帰農、秀吉7歳のときに没し、母は秀吉と姉ひとりを抱え信秀の同朋衆竹阿弥と再婚した。

 

(c)「日本大百科全書」(小学館)
 

 尾張中村(名古屋市中村区)の百姓弥右衛門の子。母は尾張御器所村(名古屋市昭和区)の生まれで、名はなか(後の大政所)。

 

 「いずれも似たような記述ではあるが、若干の差異を認めることができる」

 

 「(a)、(b)は秀吉の父・弥右衛門に「木下」という姓を付け、織田信秀に仕えた足軽身分であるとして」おり、「(b)によると、その出典は「太閤素生記」である」

 

 「(b)、(c)は母の再婚相手まで記している」

 

 「(c)については、「木下」という姓を付けず、単に百姓弥右衛門として」、「姓も記されておらず武士身分ではない」

 

 このように、「秀吉の出自には、定説がないことをうかがわせ」、「秀吉の出生を明らかにする確実な史料は「ない」といっても過言ではな」い。

 

 渡邊論文はこのようにいうが、秀吉の出生については確かに「確実な史料」はないが、様々な伝承や系譜などは存在し、それらを状況証拠としてある程度の想定は可能だと考えられる。

 

(2)豊臣秀吉の生年


 「かつて、秀吉の生年月日は」、「「太閤素生記」に基づ」いて、「天文五年(一五三六)一月一日と考えられてきた」が、「桑田忠親氏は秀吉の生年について、次のように指摘を行っている」

 

 「「関白任官記」(「天正記」所収)の中に「誕生の年月を算うるに、丁酉二月六日吉辰なり」とあ」り、「丁酉の年は天文六年(一五三七)であり、秀吉の誕生日は二月六日になる」

 

 「天正十八年(一五九〇)十二月吉日白山御立願状之事(「桜井文書」)には、「関白様 酉之御年 御年五十四歳」とある。天正十八年(一五九〇)に五十四歳であるとすると、誕生年は天文六年(一五三七)になる」

 

 「以上の点から、従来の天文五年(一五三六)一月一日説は否定され、現在では天文六年(一五三七)二月六日説が定説となった」

 

 渡邊論文が指摘するように、秀吉の生年は天文六年(一五三七)二月六日が正しいと考えられる。

 

(3)各種史料に見る秀吉の出生

 

 代表的な史料での秀吉の出自の記述は次のとおりである。
 

(a)「太閤素生記」


 「江戸時代の旗本・土屋知貞の手になる[太閤素生記]は,「「甫庵太閤記」(寛永二年(一六二五)成立)を参考にした形跡があるので、それ以降から知貞が亡くなる延宝四年(一六七六)までに成立したと考えられて」おり、「御伽衆であった知貞の父・円都や母からの聞き書きがベースである」

 

 父は木下弥右衛門という中々村の人で、織田信長の父・信秀の鉄砲足軽を務めていた。多くの戦場で手柄を挙げたが、それがもとで怪我をしたので、中々村に引っ込んで百姓となった。秀吉と「とも」を子に持ったが、秀吉が八歳のときに亡くなった。

 

 「鉄砲伝来は一般的に天文十二年(一五四三)のこととされている(異説あり)」ので、「弥右衛門が活躍した時代(天文年間初頭)を考慮すると、さほど鉄砲が盛んに用いられたとは考えがた」く、「「鉄砲足軽」という箇所に関しては、執筆者である知貞の何らかの思い込みがあったと推測される」


 「秀吉の家系は百姓身分だったと考えるほうが自然であり」、「名字を名乗っていたのは有力名主や土豪クラスの武士である」ので、「木下姓を名乘ったという記述は不審である」

 

 「もともと弥右衛門は「木下」姓を名乗っていなかったのであるが、誤って付け加えられたと考えられる」

 

 「おそらく、弥右衛門は中村出身の百姓だったが、兵農未分離の時代にあって、信秀から動員されて合戦に従軍したのだ」が、「思いがけず戦場で怪我をしてしまい、百姓に戻らざるを得なかったのが事実に近いのではあるまいか」

 

 渡邊論文が指摘するように、おそらく「弥右衛門は「木下」姓を名乗っていなかった」と考えられるが、「太閤素生記」が「弥右衛門は「木下」姓を名乗っていた」と書いたのは、作者の土屋知貞が個人的に「誤って付け加えた」からではなかったと考えられる。

 

 秀吉の木下の姓は、彼が織田信長に仕官して以降に、織田信長から下賜されたのもで、その意味は秀吉の顔が猿の様だったので、「木から降りた猿」という意味で「木下」と付けたのだと考えられ、秀吉の父を弥右衛門としたときに秀吉の姓の木下を遡及させて、木下弥右衛門が誕生したのだと考えられる。

 

 秀吉は晩年、天皇の落胤説を唱えるが、秀吉が信長に仕官して武士になった時点、あるいは秀吉が信長の武将になった時点で、事実はどうあれ父親の名を「弥右衛門」と主張したはずであり、そのときには下賜された「木下」姓を遡及させ、以降は自分の父は木下弥右衛門だったと、自分からは言わなくても、問われれば応えていたと考えられる。

 

 そうであれば、「太閤素生記」が「弥右衛門は「木下」姓を名乗っていた」と書いたのは、そいういう話が流布されていたからであって、作者の土屋知貞が個人的に「誤って付け加えた」からではなかったと考えられる。

 

(b)「豊鑑」


 「寛永八年(一六三一)に成立した、竹中重門の手になる「豊鑑」という史料」の作者の「重門は、秀吉に仕えた竹中半兵衛重治の子で、この史料の執筆に際しては、父・重治からの聞き取りもあったのではないかといわれている」が、「重治が三木城(兵庫県三木市)攻略中に亡くなったのは、天正七年(一五七九)のことで」、「重門が誕生したのは、天正元年(一五七三)のことであり、父が亡くなった時点では七歳である」ので、「七歳の子どもに聞き取りを期待するのは、いささか難しいだろう」

 

 「重門が多くの人から情報を得ていたことはたしかであると考えられるが、書かれた内容のすべてを鵜呑みにするわけにはいかないだろう」


 「「豊鑑」には。秀吉の父祖について、二ヵ所にわたり気になる記述が見られる」

 

 (秀吉は)尾張国に生まれ、「あやし」 の民であったが……


 (秀吉は)郷の「あやし」の民の子であったので、父母の名も誰かわからない。一族についても、同じである。

 

 「服部英雄氏は「あやし」の語に「賎」という字を当てたうえで、秀吉が卑賤の出自であったと指摘し」、「そのことが、秀吉の賎民出自説の一端へと繋がっていく」が、「「賎(いやしい)」には「あやし」という読み方はない」ので、「むしろ、「怪し」つまり「得体が知れない」と考えるべきで、それがイコール「卑賤」を意味したと解釈したほうが自然である」


 「天正十七年(一五八九)、名胡桃城(群馬県みなかみ町)をめぐる北条氏と真田氏との戦いがはじまると、秀吉は北条氏が大名間の私闘を禁じた惣無事という政策基調に背いたとして、討伐することを決意した」が、「その際、秀吉は北条氏直に宛てた宣戦布告状の中で、「秀吉、若輩(若い頃)に孤(一人)と成て(以下略)」と記している(「言経卿記」)」

 

 これは「わずか一行にも満たない文章であるが、秀吉自身の言葉でもあり、先述した「父母の名前もわからない」という記述は、まんざら嘘でもないと考えてよい」

 

 「これまで父の存在はあやふやだったが、幼少期に父母ともに亡くなったという事情が影響していたのであろう」

 

 「秀吉は、幼くして、孤児になった可能性が非常に高い」


 「父母の名もわからないとなると、秀吉の母・大政所ですら、もとは名も知れぬ一女性に過ぎなかった可能性があろう」

 

1)清須の非人村に流入した秀吉

 

 服部英雄の「河原ノ者・非人・秀吉(山川出版社)」(以下「服部論文」という)は秀吉は若いころに一時期乞食となって清須の非人村に流入していたといい、その後、大道芸をしながら行商して遠江国まで来たときに、松下加兵衛之綱に見いだされてその家臣となるのだが、新参の非人は平民から流入してきた人たちで、非人からの離脱も可能であったので、秀吉は一時非人に転落したところから這い上がって立身出世をしたのであったと考えられる。

 

 そのことを賎民出自説と呼ぶかどうかは渡邊論文次第であるが、秀吉は若いころに一時期乞食となって清須の非人村に流入していたというのはおそらく事実であったと考えられる。

 

 また、服部論文は、「豊鑑」の「「あやし」 の民」という言葉だけで、若いころに一時期乞食となって清須の非人村に流入していたと指摘しているわけではなく、秀吉の周囲の人達が被差別民たちと限りなく接点に存在していたことなどからも、若いころの秀吉の「卑賎」の境遇を指摘しているのである。

 

 だから、渡邊論文が「「賎(いやしい)」には「あやし」という読み方はない」ことを根拠として、「秀吉が卑賤の出自であった」=秀吉が卑賎の身か立身出世を遂げたということを否定するのなら、その主張には従えない。

 

 そして、秀吉の周囲の人達が被差別民たちと限りなく接点に存在していたということは、非人村に流入する以前の秀吉自身や秀吉の家族たちもみな、被差別民たちと限りなく接点に存在していたのだと考えられるのである。

 

 また、渡邊論文は、「あやし」の語は「、「怪し」つまり「得体が知れない」と考えるべきで、それがイコール「卑賤」を意味したと解釈」するというが、「得体が知れない」が「イコール「卑賤」を意味」するとはとても思えない。

 

 それに、「怪し」つまり「得体が知れない」「がイコール「卑賤」を意味した」というのであれば、結局、秀吉の出自は「卑賎であった」ということであり、そうであれば、服部論文の指摘と意味することはほとんど変わらなくなる。

 

 渡邊論文は一体何に拘ってるのだろうか?

 

2)「孤」は、家を出て放浪したこと

 

 秀吉は「養父」とされる筑阿弥との折り合いが悪く中村の家を出て放浪し、清須の非人村に流入するのであるが、「秀吉、若輩(若い頃)に孤(一人)と成て(以下略)」という発言は、「養父」と実母のいる家を出て一人ぼっちで放浪したということであり、「幼少期に父母ともに亡くなっ」て、「幼くして、孤児になった」訳ではない。

 

 秀吉の母は大政所として秀吉から大事に扱われているので、「幼少期に父母ともに亡くなった」という主張は理解できず、「秀吉の母・大政所ですら、もとは名も知れぬ一女性に過ぎなかった」ことと、秀吉の母が死亡して秀吉が孤児として成長してきたということは、全く異なることであり、ここでの渡邊論文の主張は全く理解できない。

 

 秀吉が、「若輩(若い頃)に孤(一人)と成て」というのは、秀吉が家を出て放浪したことを指すものであり、「父母の名も誰かわからない」というのは、父はそうかもしれないが、母はそうではないことは大政所の存在が証明していることであり、「幼少期に父母ともに亡くなっ」て「幼くして、孤児になった」という渡邊論文の主張には何の合理的な根拠もない。

 

(4)極貧で乞食だった若いころの秀吉

 

(a)安国寺恵瓊の書状


 「安国寺恵瓊は天正十年(一五八二)六月の備中高松城(岡山市北区)の攻防後、領土割譲をめぐって秀吉との交渉に臨んだネゴシエーター(交渉人)である」が、「その恵瓊が秀吉との領土割譲を交渉する天正十二年(一五八四)一月、秀吉を評して記したのが、「若い頃の秀吉は一欠片の小者(下っ端の取るに足りない者)に過ぎず、乞食をしたこともある人物であった」という有名な一文である(「毛利家文書」)」


 「恵瓊は外交僧を務めていたので、幅広い情報ルートを保持していたと考えられる。そうなると、若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていたという情報は、あながち否定できないだろう」

 

 渡邊論文が指摘する「若い頃の秀吉が乞食同然の生活を送っていた」という安国寺恵瓊の発言は、「秀吉は若いころに一時期乞食となって清須の非人部落に流入していた」という服部論の指摘と全く同じことであるので、渡邊論文が、服部論文の指摘を批判するのは、全く理解できない。

 

 渡邊論文が指摘する安国寺恵瓊の書状からすれば、「秀吉は若いころに一時期乞食となって清須の非人村に流入していた」という服部論文の指摘は正しいと考えられる。

 

(b)フロイスの「日本史」(第一六章(第二部九七章))

 
 彼は美濃の国の出で、貧しい百姓の伜として生まれた。若い頃には山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた。彼は今なお、その当時のことを秘密にしておくことができないで、極貧の際には古い蓆以外に身を掩うものとではなかったと述懐しているほどである。

 

 「一行目の美濃(岐阜県)は、尾張の誤りであ」り、「ここでは、明確に秀吉が百姓の子であると記されている」が、「百姓という言葉は、純粋に農業を意味するのではな」く、「秀吉は農業だけで生活が成り立だなかったのか、薪を売って糊口をしのいでおり、生活が厳しいときには古い蓆を身にまとっていたという」

 

 「服すらなかったのであ」り、「この記述は、恵瓊が述べる「乞食であった」という言葉を裏付けている」

 

 渡邊論文が指摘する「極貧の際には古い蓆以外に身を掩うものとではなかったと述懐している」という記述の「蓆を身を掩う」のは、服部論文によれば乞食が行うことで、清須の乞食は非人村の流入していたという。

 

 「若い頃には山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた」というのは、薪を行商で売っていたのであり、おそらく中村の家を出てからは、そういう行商によって日銭を稼いで、一日一銭入れる非人村の宿泊料を賄っていたのだと考えられる。そして、秀吉は、ある程度の元手を貯めて、ある日、清須の非人村を出て遠江まで大道芸をしながらの行商の旅に出るのだが、そのときには薪ではなく、針の行商を行ったと考えられる。

 

 そう考えると、フロイスの「日本史」のこの記述も、服部論文の指摘を裏付けるものであると考えられる。 

 

(c)イエズス会の報告書(「一六〇〇年及び一六○一年の耶蘇会の日本年報」)

 

 彼(秀吉)はその出自がたいそう賤しく、また生まれた土地はきわめて貧しく衰えていたため、暮らして行くことができず、その生国である尾張の国に住んでいたある金持の農夫の許に雇われて働いていた。このころ彼は藤吉郎と呼ばれていた。その主人の仕事をたいそう熱心に、忠実につとめた。主人は少しも彼を重んじなかったので、いつも森から薪を背負って彼にいいつけることしか考えなかった。彼は長い間その仕事に従事していた。

 

 「秀吉が亡くなったのは、慶長三年(一五九八)八月のことなので、没してから史料の成立までそれほど時間は経過していない。秀吉の住んでいた場所は土地が痩せていたようで、農業には適していなかった。そこで、秀吉は富裕な農夫に雇われ、薪を拾い集めて生活を支えていたことが判明する。 

 

 渡邊論文によれば、イエズス会の報告書は、秀吉は「ある金持の農夫の許に雇われて働いていた」というが、おそらくこれは、秀吉が家を出てからのことであり、その後、秀吉は大道芸をしながら針の行商をして尾張から遠江まで行って、松下加兵衛之綱に仕官するので、それまでの間の、おそらく清須の非人村にいたころのことであったと考えられる。

 

 清須の非人村にいたころの秀吉は、金をためて行商の元手を稼いでその境遇から脱出するために、色んな仕事に従事していたと考えられるので、「金持の農夫の許に雇われて」「薪を背負って働」いていたというのは、その中での一時的な仕事であったと考えられる。

 

 おそらく秀吉が後年、自分の若いころの思い出として周囲の人たちに語ったことが流布していったのだと考えられる。

 

 なお、この「薪拾い」の持つ意味については、秀吉の母系の出自に係るのもでるが後述する。

 

(d)「看羊録」

 

 朝鮮の儒学者「姜伉は十六世紀末期における「文禄・慶長の役」によって、日本に連行されていたが、「看羊録」は、そのときの見聞をまとめたものであ」り、「姜抗が亡くなったのは、一六一ハ年で」、「それから約四十年を経て、弟子によって「看羊録」はまとめられた」もので、「当該期における、貴重な史料といえ」る。


 「同書には、「(秀吉の)父の家は、元来貧賎で、農家に雇われてどうにか活計(生計・生活)をたてていた」と書かれて」おり、「この記述は、これまで紹介した記録と一致する」

 

 渡邊論文が指摘するこれも、おそらく秀吉が後年、自分の若いころの思い出として周囲の人たちに語ったことが流布していったのだと考えられる。

 

(5)秀吉の出自が卑しかったということは共通認識だった

 

 「秀吉の生きていた時代においても、秀吉の出自が卑しかったということが共通認識」で、「恵瓊に至っては、「乞食」とまで記しており、誠に興味深い」

 

 渡邊論文はこのようにいうが、「秀吉の出自が卑しかった」ということは周知のことなのであり、そのことのみを確認することにそれほどの意味があるとは思えない。渡邊論文はこれ以降、秀吉は薪売りだったと主張するが、秀吉が薪売りをしたのは一時的なことであり、解明するのなら、何故秀吉は薪売りをせざるを得なかったのかということ、つまり秀吉が若いころにどんな環境の下で暮らし、どんな暮らしをしていたのかということを、解明することのはずである。

 

 渡邊論文は、秀吉の母の名も、母の親族も分かっているのに、秀吉の「「父母の名もわからない」といい、秀吉の母が立身出世した秀吉に大事にされているのに、「秀吉は、幼くして、孤児になった」といい、結局、秀吉の父系と母系の系譜、妻方の系譜、秀吉の創世期の家臣団を形成した母方と妻方の親類縁者などの検討を放棄しているが、これらのことを解明することこそ、秀吉の出自を検討することのはずである。

 

 本来なすべきことを放棄したような、こうした渡邊論文の論述姿勢は、まったく理解できない。