織田氏の出自と織田一族について(10) | 気まぐれな梟

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 今日は、井上陽水の「断絶」から「家へお帰り」を聞いている。

 

 宝賀寿男の「古代氏族の研究⑱ 鴨氏・服部氏(青垣出版)」(以下「宝賀論文2」という)は、織田氏の初期系譜について以下のようにいう。

 

(13)尾張守護代織田家初期系譜

 

(a)織田氏の出自

 

 織田氏の平姓というのは、平資盛(重盛の子)の子という位置に先祖の親真をおく系図を後世に持つからである。

 

1)忌部氏出自系譜


 尾張の織田氏は、中田憲信が明治に記した稿「織田右大臣信長公ノ系統及履歴」(「好古類纂」第七集所収)や「諸系譜」第四冊に所収の「津田」系図には、忌部氏の先祖から始まり、斎部広成から織田氏につながるものが見える。


 これら系図によると、十三世紀前葉に活動した神祇権少祐斎部宿袮親澄が、祖父の頼親の兼任した越前国丹生郡の織田明神神主職を承けてこれを兼ねていたのを、その子の親真が父の死により貞永二年(一二三三)に神主職を承け、それ以降、一族が同社祠官を世襲したという。

 

 その子孫の常昌が、南北朝期に越前守護斯波高経に仕えて武家となり、子孫が尾張に移って、下四郡・上四郡それぞれの尾張半国を、守護代の伊勢守家(下津、清洲。守護居城地)、守護又代の大和守家(岩倉)の両系統がおさえて、戦国時代を推移したが、清洲織田氏の三奉行の一、織田弾正忠家(勝幡を居城)の信秀・信長親子の家が次第に優勢になり、一族を押さえたり滅ぼしたりで信長が尾張を統一し、更に天下に雄飛した。

 

 宝賀論文2が紹介する「諸系譜」第四冊に所収の「津田」系図では、親真を京の忌部氏の子とするが、この系譜は京の忌部氏の系譜に織田神社の神官の忌部氏の系譜を接合しようとした偽系図であり、親真の実在を前提にしているので、織田氏の平家落胤説の成立後、それと織田氏が古くは忌部氏に出自したという伝承を統合しようとして作成されたものであったと考えられる。

 

 なお、宝賀論文2が紹介する「諸系譜」第四冊に所収の「津田」系図では、織田常昌が、南北朝期に越前守護斯波高経に仕えて武家となったとされており、武士としての織田氏は斯波氏が越前国守護職となったことを契機に誕生したとしているが、そうであれば、織田氏の名乗りは比較的新しかったと考えられる。
 

2)津田氏の甲賀伴氏出自系譜

 

 「諸系譜」第四冊に所収の「津田」系図には、親真の父を、元久元年(一二〇四)に起きた伊勢での「三日平氏の乱」に参陣して誅された伴五家次(儀仗伴資兼の曾孫で甲賀伴氏一族。母は富田三郎平基度の娘)としており、鈴木真年もこれに基づき同様な記事を書く(「族諸家伝」織田信敏条)。

 

 「津田」の由来は、近江国甲賀郡津田村説(「津田」系図)と蒲生郡津田庄説(「近江輿地志略」。近江八幡市南津田町)との二説がある。このうち、蒲生郡説が妥当そうであり、そうすると伴五家次との所縁も疑問か。

 

 宝賀論文2が指摘するように、「津田」の由来は、近江国甲賀郡津田村説(「津田」系図)と蒲生郡津田庄説(「近江輿地志略」。近江八幡市南津田町)との二説があるが、「織田氏の出自と織田一族について(4)」で指摘したように、そもそも「津田」姓は、織田氏の平家落胤説と共に織田信長によって創設されたものであり、「津田」の由来の二説とも、事実ではないと考えられる。

 

3)織田氏の忌部氏出自説が有力

 

 親真の父は、京の斎部親澄ともなしがたく、普通に考えると剣神社祠官一族なのであろう。親真の母には、「蒲生三郎親長の娘で、真海阿闍梨の姪」という所伝もある(「諸系譜」第卅一冊に見える)。

 

 織田一族の発祥地は、越前国織田荘(現・福井県丹生郡越前町)で、当地・越前町織田の剣神社(境内社の織田神社も併せ、織田剣神社ともいう)あたりである。同社を尾張の信長も氏神として崇め、格別の似仰をもりて神領を寄進し同社を保護した。織田氏の本姓としては、藤原氏を称したことが長く(信長自身も「藤原」姓を称した)、のちに桓武平氏(平資盛後裔)を称する(羽前天童藩提出の「織田家譜」など)。

 

 これら祖系はともに疑問とされ、忌部説が割合、強くなった。

 

 宝賀論文2が指摘するように、織田氏の出自は平家の落胤でも藤原氏でもなく忌部氏なのだが、「織田氏の出自と織田一族について(4)」で述べたように、越前斎藤氏自体が越前秦氏が中央の藤原氏の系譜を仮冒して誕生したものであり、織田氏の起源の伊部造が越前秦氏が中央の忌部氏に組織された忌部造にあったので、ただ単純に織田氏の出自が忌部氏であったというだけでは不十分である。

 

(b)織田氏の初期系譜 
 

1)常昌

 

 剣神社の明徳四年(一三九三)六月・七月付の置文の藤原将広の「祖父」(信昌の「祖父」という見方もあるが、文書の主体が将広であるから、その観点で解すべき)とされる「道意」も、現存の系図一史料からは誰に比定されるのかは不明だが、斯波氏に初めて仕えた常昌に比定するのが自然である。

 

 中興の祖とも言うべき常昌には、兄・実昌(真昌)がおり、その子に織田太郎隆昌がいて、「織田祠官之祖」と系図に見えるから、年代的にみて信昌は隆昌と同世代とみられる(信昌の生年が添書から正和五年(一三一六)とした場合)。

 

 織田明神祠官家(後の上坂氏)と武家とは、南北朝初期頃に分かれたとみる。

 

 「織田氏の出自と織田一族について(5)」では 織田氏の系譜は、信昌ー将広ー教広(重広・常松)ー淳広(教長)ー郷広ー敏広と推定した、宝賀論文2がいうように、藤原将広の「祖父」の「道意」が、斯波氏に初めて仕えた常昌に比定されるのであれば、常昌ー信昌ー将広ー教広(重広・常松)ー淳広(教長)ー郷広ー敏広と推定される。

 

 宝賀論文2は、常昌には、兄・実昌(真昌)がおり、その子に織田太郎隆昌がいて、「織田祠官之祖」と系図に見えるというので、そうであれば信昌は隆昌と同世代となり、信昌の生年が添書から正和五年(一三一六)とすれば、斯波高経が建武の新政で越前国守護職となった建武三年(一三三六)のときには、信昌は二十歳で、その父の常昌は、三十歳後半から四十歳代の壮年期であったと考えられる。

 

 阿蘇大宮司を兼任した阿蘇氏や諏訪神社大祝を兼任した諏訪氏の例もあるので、織田氏は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、織田神社の祠官を兼任しながら、在地では、鎌倉時代に立券された織田荘の荘官としての武士でもあったと考えられる。

 

 織田氏が隆昌のときに武士と織田神社の祠官に分岐したとすれば、斯波高経が建武の新政で越前国守護職となって以降に、剣神社の神官で織田荘の荘官でもあった斎藤氏が斯波氏に仕え、その重臣となったことによって、その斎藤氏から武士の織田氏が分岐したとも考えられる。

 

 そうすると、鎌倉時代以降の、織田氏と名乗る前の斎部氏は、織田神社の祠官と織田荘官を兼ねた、在地の有力武士であったと考えられる。

 

 そして、斎部氏は、古くは伊部造の末裔で飯高朝臣の子孫を自称していたが、武士の時代になってくると、やがて斎藤氏の一族と自称するようになり、剣神社の神官の斎藤氏から分岐した織田氏も、斎藤氏の一族という出自を主張していたのだと考えられる。 

 

2)常松

 

 最初の尾張守護代として織田伊勢守常松、又代として織田出雲守入道常竹が見えるが、剣神社には、明徳四年(一三九三)六月・七月付の置文・添書があって、そこに藤原信昌・藤原兵庫助将広の親子の名が見える。子の将広は偏諱等から見て斯波義将に仕えた者であり、これを守護代初代織田常松の父とみる説もある(拙見では「将広=常松」か。横山住雄氏は、将広花押の筆順が常松に酷似する事情などから、この指摘をしたが、それに同意)。 

 

 室町前・中期の織田氏は、主君斯波氏から偏諱を賜るなどの事情で、同じ人が名前を変遷させたことがかなりあり、「信昌・兵庫助将広」親子を系図に見える誰に比定するかは難解である。一案として、「兵庫助」の称は本宗(清洲・伊勢守家)の敏広・寛広親子にも見えるから、その先祖とみれば、両人が「教広・教信」親子(「教信=将広=常松」)に当たる。

 

 宝賀論文2は、将広花押の筆順が常松に酷似することを根拠として将広=常松とするが、以下のように考える。

 

 斯波義将は貞治元年(一三六二)、十三歳で越前国に加えて越中国の守護職を与えられ、応永六年(一三九九)の大内義弘による応永の乱の鎮圧の功績で、尾張国守護職を与えられ、応永十七年(一四一〇)に死亡している。斯波義将の子の斯波義重は、応永五年(一三九八)に越前国守護職を与えられ、応永七年(一四〇〇)に尾張国守護職を与えられた。

 

 織田氏が尾張国守護代となったのは、応永九年(一四〇二)の織田教広が初出であり、織田常松が永享三年(一四三一)三月以前に死亡している。織田常松が織田教広であり、、仮に、織田常松の死亡時の年齢が五五歳前後だったとすれば、織田常松は二五歳前後でが尾張国守護代となったと考えられる。そうすると、明徳四年(一三九三)時点では織田常松は十五歳前後となり、剣神社に父と置文を行うにはちょっと早すぎる気がする。

 

 斯波義将は十三歳で越前国に加えて越中国の守護職を与えられたが、後見人として幕政を指揮した父の斯波高経が失脚すると連座し、斯波高経のしによって赦免されたのは、斯波義将が十七歳のときであった。斯波義将の子の斯波義重が加賀国守護職を与えられたのは十九歳で、その年に明徳の乱に斯波氏の軍勢を率いて参戦している。こうした例からすると、十五歳ではまだ一人前ではなかったので、剣神社に父と置文を行うにはちょっと早すぎると思われる。

 

 しかし、これは判断の問題であって、織田常松が十五歳前後で、剣神社に父と置文を行った可能性を否定するものでもない。

 

 なお、将広花押の筆順が常松に酷似するという指摘は、良く分からないが、将広の子が常松ならば、父親の筆順を模倣、継承した結果なのかもしれない。

 

3)常竹

 

 伊勢守入道常松は教信(教広の子)に、出雲守入道常竹はその従兄弟の常任(大和守家につながる。系図に教信の弟に置くも、常勝の子か)に比定するのが、割合穏当と思われる。

 

 宝賀論文2は常竹の従兄弟を常任とするが、「織田氏の出自と織田一族について(5)」では、常松、常竹、常任を兄弟とし、子がなかった常竹の後を、常任の子の勝久が継いだと推定した。

 

 このあたりの推定には確実な根拠もなく、考え方次第である。

 

4)信長の弾正忠家は岩倉の常任の流れ

 

 なお、信長の弾正忠家は、清洲奉行家の一とはいえ、岩倉の常任の流れか。伊勢守家は寛広のとき勢力を失い三河に遷したようで、その後は敏定の子孫が清洲・岩倉両方を占め、寛広の家の跡を岩倉の敏信が継ぎ伊勢守となる(こうした諸事情で、両系統の系譜の混乱が著しい)。

 

 宝賀論文2は、信長の弾正忠家は、清洲奉行家の一とはいえ、岩倉の常任の流れだとするが、そもそも、常任の子の勝久は常竹の跡を継いでいるので、常任を岩倉織田家の祖とするのは適当ではなく、常任に続く系統は清須織田家である。

 

 ただし、常竹の後を常任の子の勝久が継いで、勝久の弟が岩倉織田家の分家筋であった楽田織田家を継いだのは、おそらく事実であり、その意味では、常任は岩倉織田家に係る人物であったとも言えるが、そもそも尾張守護代の又代家以外は広義の尾張守護代家に属するとすれば、常任が岩倉織田家に係る人物であったという指摘にはそれほどの意味はないと考えられる。

 

 なお、織田氏の系譜では夫々の系統間での養子縁組や婚姻が多く行われており、嫡流が絶えた時には傍流の一族から養子を迎えて系譜が繋がれているのは事実であり、宝賀論文2が、両系統の系譜の混乱が著しいというのは、その意味では妥当な指摘である。