織田氏の出自と織田一族について(9) | 気まぐれな梟

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 今日は、井上陽水の「断絶」から「限りない欲望」を聞いている。

 

 宝賀寿男の「古代氏族の研究⑱ 鴨氏・服部氏(青垣出版)」(以下「宝賀論文2」という)は、忌部氏について以下のようにいう。

 

(11)忌部氏

 

(a)祭祀氏族の忌部氏

 

 古代大和朝廷における祭祀を主に担ったのが、中臣氏と忌部氏だと知られる。斎部広成の「古語拾遺」には、かつては中臣・斎部・猿女・鏡作・玉作・盾作・神服・倭文・麻績などのいわゆる「名負氏」が祭祀関係で任命されたが、今(九世紀初め頃)では中臣・斎部ら二・三の氏族のみであって、他の氏族は絶え気味だと見える。このうち玉作・倭文・麻績は忌部の同族とされ、鏡作も広い意味の同族となろうが、これら諸氏の神祇奉祀については「古語拾遺」の主張にすぎない。
 

(b)中央の忌部氏

 

 忌部のうち中央の忌部は、のちに斎部宿袮を賜姓し、神祇官の中央官人で鎌倉・南北朝期頃まで活動が史料に見える。系譜は、天太玉命を祖とする神別「天神」とされた氏族で、管掌する地方の忌部(及びその長)には天孫系、天神系のいくつかの系統があった。
 

 本拠地は大和国高市郡の忌部邑(現・奈良県橿原市忌部町)あたりで、現在も当地に祖神を祀る天太玉命神社(式内名神大社)が残る。また、阿波・出雲・紀伊・讃岐等に設置されていた品部を管掌して物資を収め、祭具の作製や神殿・宮殿造営に携わった。
 

 氏の名の「忌(いむ)」が「ケガレを忌む」、すなわち「斎戒」を意味し、古代朝廷の祭祀・神事を主に担い、併せて祭具の作製や神殿の造営などの任務も担った。古代では各地に部民としての「忌部」が設けられたが、それらを管掌し率いた中央氏族の忌部氏を主に指しており、広義ではこれに率いられた部民までも含められる。
 

 中央の忌部氏は、首姓で、高市郡忌部邑あたりを根拠地とし、各地の忌部を率いて中臣氏とともに古くから朝廷の祭祀を司った。祖神を天太玉命として、この神は天児屋命(中臣氏の祖神)とともに記紀の天岩戸神話にも登場する。

 

(c)地方の忌部氏

 

 部民としての「忌部」には、朝廷に属する品部として各地にあり、なかでもには、玉を納める出雲の忌部、木を納める紀伊、木綿・麻を納める阿波、盾を納める讃岐などがあったとされる。それらの部民も忌部を名乗ったと文献に見える。
 

 「古語拾遺」では、五柱の神が天太玉命に従った神として「忌部五部神」とされ、各地の忌部の祖とされている。「書紀」には、高皇産霊尊が葦原中国服属のときに五神の役割を定めたと見える。

 

 朝廷の品部としての「忌部」は、出雲・紀伊・阿波・讃岐や筑紫・伊勢が代表的なものとされる。そのほか、越前・備前・淡路・美濃・隠岐などにも忌部・伊部が分布した。

 

(d)越前忌部氏の特産品

 

 (a)(b)(c)のこうした宝賀論文2の指摘から、越前国には祭祀氏族忌部氏の部民が存在したことがわかる。

 

 全国各地に展開する忌部の部民は、夫々の特産品を中央の忌部氏に貢納していたが、越前国の忌部の貢納品は何だったのだろうか?

 

 「織田氏の出自と織田一族について(3)」では、以下のように述べた。

 

 剣神社に遷座・合祀される前の織田神社が蚕神を祀る織物ゆかりの地主神であったとすれば、その織田神社を奉斎したのは、養蚕に係る伝承を持つ秦氏であり、敦賀郡には秦氏が広範囲分布していたと考えられる。

 

 そして、秦氏が織田盆地に養蚕と機織とともに、朝鮮半島の巨岩祭祀に係る磐座信仰と座ガ岳を対象にした神体山信仰を持ち込み、丹生郡の丹生が辰砂であったように、周辺の鉱物資源の開発も行っていったのだと考えられる。

 

 伊部造の本来の名は忌部造であり、在地の渡来系氏族の秦氏の一族で織田神社を奉斎していた一族が、織田神社の遷座と剣神社への合祀の過程で剣神社の神官となり、中央の忌部氏の支配・統制下に入ったことで、忌部造の名が誕生した。

 

 「織田氏の出自と織田一族について(3)」で述べたように、越前国の織田盆地の特産品が織物と丹生(辰砂)であったとすれば、越前の忌部氏の中央への貢納品も織物と丹生(辰砂)であったと考えられる。

 

 地方の忌部氏の拠点は、宝賀論文2が指摘するように、出雲・紀伊・阿波・讃岐や筑紫・伊勢が代表的なものであり、越前・備前・淡路・美濃・隠岐などはそうでもないのは、おそらく、後者の開発時期が比較的遅かったからであったと考えられる。

 

 そうであっても、中央忌部氏の部民としての越前忌部氏は、剣神社創建の以前に誕生していたと考えられ、その部民の現地管掌者の秦氏は、もっと早くから忌部氏に組織されており、その越前忌部氏の存在を前提として、織田神社を遷座・合祀することで創建された剣神社の祭官が忌部氏とされたのだと考えられる。

 

 そうであれば、剣神社の創建によって越前忌部氏が誕生したとは言えなくなる。

 

(12)越前の忌部と伊部

 

 宝賀論文2は、続けて以下のようにいう。

 

(a)伊部造

 

 越前に忌部が居たことは、奈良期天平神護二年(七六六)付「越前国司解」に足羽郡の上家郷戸主に忌部枚人、同じく同郷戸主の忌部大倉の名が見えて知られる(正倉院文書)。しかし、越前の忌部で史料に見えるのはこれくらいであり、大和の忌部首氏の系図においても北陸方面への分岐は見えないから、カバネも見えない「越前忌部」の過大評価はできない。

 

 越前国敦賀郡人に伊部造氏が見える。これは、「三代実録」貞観十五年(八七三)十二月条の記事であり、越前国敦賀郡人の右大史正六位上伊部造豊持に飯高朝臣を賜姓し、本貫を左京五篠三坊に改めるとあり、その先は孝昭天皇皇子、天足彦国押人命に出るとして、系譜は和珥臣の同族と記される。和珥氏の系図にも、伊部造の分岐が見える。

 

 豊持の左京移貫の後にも一族が越前に残り、その後裔として、「権記」長徳四年(九九八)三月廿一日条に「越前国正一位勲一等剣大神宮」の神主で伊部守忠が見える。鎌倉初期、建保六年(一二一八)十月の「妙法院文書」(「福井県史資料編2 中世」所収)にも、織田庄の立券に関して越前の在庁官人に「伊部宿袮」(欠名の二人がこの姓氏。親真の親の世代か)の名が見える。織田剣神社の社伝でも、もとは敦賀郡伊部郷座ヶ岳に「伊部臣」が神剣をスサノヲ神の御霊代として祀り、それが遷座したとされる(いま、織田剣神社の境内にも、伊部磐座神社が鎮座する)。


 だから、越前の「伊部」とは、神別の忌部ではなかった。「姓氏録」には山城諸蛮に伊部造をあげ、これは百済国人乃里使主より出るとする。

 

 宝賀論文2の指摘するように、越前忌部氏は中央の忌部氏から分岐したという系譜は持っていないので、在地の氏族が忌部氏に後から組織されたのだと考えられる。

 

 越前忌部氏である伊部造が和珥氏の同族であるという記事は、伊部造への飯高朝臣賜姓のときのもので、和珥氏の同族であるとされていた飯高朝臣の賜姓のための主張であり、「姓氏録」の山城諸蛮では伊部造が百済国人乃里使主とされているように、伊部造の本来の出自は渡来系氏族であり、具体的には養蚕と丹生(辰砂)との繋がりと、在地での秦氏の存在から、秦氏の出自であったと考えられる。

 

 なお、織田庄の立券が鎌倉時代に入ってからの建保六年(一二一八)とすれば、織田荘の荘官は、当初は剣神社の神官の斎部氏が兼務し、やがてそこから分岐する形で織田氏が始まったと考えられる。

 

 後述のように、宝賀論文2では、織田明神祠官家(後の上坂氏)と武家とは、南北朝初期頃に分かれたとみるとしているが、そうであれば、武士としての織田家の始まりは、それほど古くはなかったのかもしれない。

 

(b)近江北部の伊部姓

 

 越前の南隣、近江国浅井郡には伊部郷(現・滋賀県長浜市湖北町伊部)の地名や、戦国期の武家に浅井氏配下の伊部氏一族も見えており、近江北部が越前の淵源かもしれない。

 

 長浜市の伊部に伊部館跡があり、伊部為利の居館と伝え、浅井氏家臣の伊部清兵衛にも関連するかといわれ、館跡は小字「鍛冶屋田」の一角にあったという。地域的に考えて、近江北部から越前に行った蓋然性がありそうでも、淵源地は不明である。

 

 宝賀論文2が指摘するように、長浜市の伊部の伊部館跡が小字「鍛冶屋田」の一角にあったのは、近江半国守護京極家の重臣の伊部氏が、忌部氏の部民の現地管掌者の伊部造に出自し、近江忌部氏の貢納品の鉄に係る鍛冶がその重要な職掌であったことを示している。

 

 ただ、宝賀論文2は、伊部氏が近江北部から越前に北上したというが、そうではなく、中央忌部氏の在地氏族の地方忌部への組織化が、北近江から越前に進んでいったのだと考えられる。

 

(c)伊勢との繋がり

 

 豊持の飯高朝臣の賜姓から見て、伊勢起源も考えられ、剣神社奉斎といい、伊勢神宮奉仕の「忌鍛冶部」の流れだったか。

 

 現在、三重県三重郡菰野町千草(旧・朝明郡域)に同県内の殆どの伊部姓が集中し、残りが東隣の同町永井に居る。千草に千種神社があって、天照大神・国之水分神・建速須佐之男命を祀り、永井には式内社・井手神社があって水神岡象女神を祀るから、剣神社に通じるものがある。

 

 忌鍛冶部は近江の三上祝支族だから、伊勢から近江に戻って更に越前に展開したのが伊部造だった可能性も考えられる。

 

 宝賀論文2は、伊勢から近江に戻って更に越前に展開したのが伊部造だったというが、伊部造自体が自律的に展開したのではなく、中央忌部氏の在地氏族の組織化が、鉱物資源の所在とそこに存在した在地の鍛冶氏族の組織化として、伊勢から近江に、そして更に越前に展開したのだと考えられる。

 

 そして、伊部造であって、伊部臣や伊部連ではないのは、中央忌部氏によって組織化された在地氏族が、秦造ともいわれる渡来系氏族の秦氏であったからであったと考えられる。

 

(d)伊部=忌部

 

 越前では丹生郡に賀茂郷があり、越前南部に剣神社が数多く分布し(経津主神を祀る社もある)、阿波忌部が祖谷山地で剣神社をおおいに奉祀したから、伊部と忌部とは異なるとも言いきれない。

 

 敦賀郡式内社・織田神社の境外に霊泉が湧く。同郡の三前神社について、「神祇志料」には、立石・白木両浦の岬に数丈の巌石二基あり、人呼んで三島明神と云う、今廃たり、との記事も見え、三島神に縁由が深い。同郡式内社の志比前神社(三前神社の論社)が敦賀市道ノ囗にあり、経津主命を祭神とし、江戸期は香取明神と称した。


 備前の伊部も系統不明で、岡山県備前市伊部の備前焼(伊部焼)に阿波忌部氏が関与とする見方もあるが、これも裏付けがない。いまこの伊部の地に忌部神社があり、天津神社の北西に位置し、不老山の麓の山中に末社として鎮座し、境内に古の北大窯址が残される。その創建は不詳で、昔の小さな祠を、窯元六姓たちが陶祖・天太玉命を祭神に奉祀してきたという。もっとも、伊部周辺には、古墳時代・奈良時代さらに貢納平安須恵器窯址の発見は知られず、備前邑久郡の須恵器窯址群からの進出とされる。


 これら諸事情を見れば、越前の場合は、「伊部=忌部」としても良さそうだが、どうも判断がなしがたい。

 

 「剣神社文書」には、貞享五年(一六八八)に臨番神主として上坂内匠忌部正久、祠官で上坂壱岐正正則の名が見えるというが、近世に「忌部」を称しても、古代からつながる形での裏付けが史料として不明である(所伝の系図は適切につながらない)。

 

 平安後末期になって斎部宿袮頼親が剣神社の神主職を継いだというが、もしこれが事実であるのならば、この伊部造氏の跡なのであろう(京の斎部宿袮氏が神職跡を継いだということは、建保六年文書の存在からは疑わしそうである)。

 

 いま、大字織田の北方近隣に大字細野・岩倉があり、細野にも剣神社(祭神は織田と同じく素盞鳴命とする)があって、この細野を中心に岩倉・織田の一帯には、いま伊部の名字が飛び抜けて集中する(もっとも、大字織田には忌部の名字も若干だが居る)。

 

 日本歴史地名大系の「福井県の地名」には、伊部郷の項に、「伊部磐座神社は現丹生郡織田町岩倉の地にあった」(いまは越前町岩倉で、隣が細野)とみており、大字細野に鎮座の剣神社がこれに該当するとみる説が多い。

 

 宝賀論文2は、越前では丹生郡に賀茂郷があるというが、賀茂氏の居住は、鍛冶に使用する大量の木材を供給するためのものであり、備前の伊部氏は須恵器窯に隣接して分布し、織田盆地に分布する越前の伊部氏が丹生(辰砂)の採掘に係るとすれば、どちらも鍛冶や須恵器製作係る地方の忌部氏の出自であったと考えられる。

 

 なお、宝賀論文2によれば、織田神社の合祀された剣神社の祭官は、織田氏の後裔の上坂氏であったと考えられる。

 

 また、宝賀論文2は、阿波忌部が祖谷山地で剣神社をおおいに奉祀したというが、この「剣神社」の「剣」は、朝鮮語で「山脈」をsan-tʃulgi、「水柱」をmul-tʃulgiというように、tʃulgiは「幹・茎・柱」の意味で、「幹・茎・柱」の様であったことから、古代日本でも「剣」がtʃulgiとよばれ、そこから「剣岳」や「剣神社」の名もできたと考えられるので、阿波国三好郡の剣山や剣神社のと越前国丹生郡の剣神社は直接の関係はないと考えられる。

 

 そうであれば、その名の同一性は、伊部が忌部であったこととは別のことになる。