織田氏の出自と織田一族について(8) | 気まぐれな梟

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 今日は、井上陽水の「断絶」から「愛は君」を聞いている。

 

(10)信秀の那古野城奪取

 

(a)南西部の隅の方から中原への進出

 

 小和田論文は、織田信秀は尾張国の南西部の隅の方から中原に進出したと以下のようにいう。


 「勝幡城にしても、また、その近くの津島湊にしても、尾張国全体からみれば南西部の隅の方といった印象はぬぐえない」ので、「信秀が、そのまま勝幡城に居続けたならば、その後の飛躍的な発展はなかったかもしれないし、そうなると、あの信長の登煬もなかったかもしれない」

 

 「信秀は尾張の中原に討って出た」が、「それが那古野城奪取であり、それに引き続く古渡城の築城である」

 

 「信秀が中原に討って出ることを考えた要因は二つあった」

 

 「一つは、どちらかといえば消極的な理由ということになるが、勝幡城ではそれ以上の勢力拡大が望めないと考えたことであ」り、「海東郡には足利一門石橋氏が勢力を持っており、また、木曾川流域の特に伊勢湾に近い河口部は本願寺門徒が大きな勢力圏を築いており、そこにくいこむことはむずかしかっかと思われる」

 

 「もう一つは積極的理由ということになるが、津島湊とともに伊勢湾海の交通の重要な湊である熱田湊を掌握しようと考えたことであ」り、「津島湊で味をしめた商業活動掌握による経済効米を熱田湊でもとねらったというわけである」


 「そこで信秀が目をつけたのが那古野城だった」が、「信秀の時代、そこには駿河今川氏の一門、那古野今川氏がいた」

 

 小和田論文は、織田信秀は尾張国の南西部の隅の方から中原に進出したというが、勝幡織田家の居城の勝幡城が尾張国の南西部の隅の方に作られたのは、勝幡織田家が津島湊を掌握するために津島湊の付近に拠点を設定したからだった。

 

 津島湊をるためには、主家の清須織田家の国内の勢力への戦いに関与することで、その分け前を、主家の清須織田家の国内の勢力への戦いに関与することで、その分け前を貰うことが必要だった。

 

 その機会が、清須織田家による、那古野城の奪取とその城主の那古野今川氏の領地の併合であった。

 

(b)那古野城今川氏

 

 菊池浩之「織田家臣団の謎 角川選書598(角川書店)」(以下「菊池論文」という)は、那古野城の今川氏について、以下のようにいう。

 

 「信秀が頭角を現す契機となったのが、那古野城を攻略し、城主・今川左馬助氏豊を放逐したことである」が、「今川氏豊は、駿河守護・今川義元(一五一九~六〇)の実弟」で、「駿河守護の今川家が那古野城を治めていたのではなく、駿河守護とは独立した今川家の庶流が那古野城に代々住んでいて、義元の弟がその養子に迎えられたのだ」


 「横山住雄氏は「那古野荘にも、鎌倉時代以来、地頭が補任されていた可能性があり、室町時代になってからの地頭は、駿河今川家の分家であったらしい」(「織田信長の系譜」)と語」り、「下村信博氏は、那古野今川家は今川家の家柤・今川「国氏の娘が嫁いだ名児耶氏こそが、のちの今川那古野氏につながる」と推測している(「新修 名古屋市史 2」)

 

 小和田論文は、那古野城の今川氏について、以下のようにいう。

 

 「今川範国の二男了悛が著した「難大平記」によると、範国の父基氏の妹が名児耶(那。日野)氏に嫁ぎ、その子が基氏の養子となって、子孫が足利尊氏から止式に今川一門として認められるようになったとい」い、「これが那古野今川氏のはじめで、室町時代には奉公衆になって」おり、「奉公衆は守護の指揮下には入らず、将軍直属だったので、尾張守護となった斯波氏の家臣になったわけではなく、独立した存在だった」


 「信秀の頃の那古野城主は今川氏豊であ」り、「駿河今川氏の当主今川氏親の末子だった」

 

 菊池論文や小和田論文が指摘するように、那古野城の今川氏はおそらく古くからの国人領主であり、駿河今川氏の当主今川氏親の末子の今川氏豊が当主となっていたので、おそらく駿河今川氏の勢力下にあったのだと考えられる。


(c)信秀の那古野城奪取の年と経過

 

 菊池論文によれば、信秀の那古野城奪取の年と経過は以下のとおりである。

 

 「「名古屋合戦記」によれば、織田信秀は日ごろから今川氏豊と連歌のやり取りがあり、那古野城内に宿泊することも度々であったという。天文元年(=享禄五年、一五三二)三月一一日に、同城内に宿泊中だった信秀は、急病と偽って多数の家臣を呼び寄せ、夜中に城内外から火を放って攻め寄せたので、不意を討たれた今川方は敗れ、氏豊は降参して京都へ逃れたという」「新修 名古屋市史 2」)」


 「氏豊放逐の年次も、最近の学説では、天文七(一五三八)年のことだといわれて」おり、「天文七年一〇月に、守護代・織田逵勝が性海寺(稲沢市)に対する那古野への夫丸(普請人足の徴発)を免除するように命じた書状がある」

 

 このことについて小和田論文は以下のようにいう。

 

 「言継卿記」にも、「在名那古屋」の「今川竹王丸」という少年が、わざわざ蹴鞠を飛鳥井雅綱に習うため、勝幡城に来たことを記しているので、まちがいな」く、「それは天文二年(一五三三)の記事であり、天文元年の信秀による那古野城奪取は誤りだということがわかる」

 

 「なお、言継は、竹王丸を十二歳と記しているが、竹王丸すなわち氏豊は大永元年(一五一一)の生まれといわれているので、天文二年には十三歳であ」り、「天文元年にはまだ十二歳なので、連歌にのめりこんでいたというのも疑問である」

 

 「岡本良一・奥野高広・松田毅一・小和田哲男編「織田信長事典」で「出自」を担当した新井喜久夫氏」は、「那古野城奪取の年であるが、当時、那古野城の近くに天王社と若宮八幡社があり、ともにこの時の兵火によって焼亡し、天文八年に再建されたという伝えをもっている」が、「この再建年次から考え、那古野城の奪取は天文八年以前、七年頃と考えるのが妥当ではあるまいか」と述べて」おり、「卓見と思われる」

 

 菊池論文が指摘するように、織田信秀の那古野城攻略は、おそらく天文七年(一五三八)であったと考えられる。

 

(c)那古野城攻略は清須織田家が発案、信秀は家臣としての実行役

 

 菊池論文は、「天文七年一〇月に、守護代・織田逵勝が性海寺(稲沢市)に対する那古野への夫丸(普請人足の徴発)を免除するように命じた書状がある」として以下の書状を紹介する。

 

 急度申遣し候、仍て性海寺寺内の事は、先々より諸役免許の儀候の条、今度那古野へ夫丸の儀、相除くべく候、
     謹言 天文七 十月九日(織田逵勝花押)
       豊島隼人佐とのへ    鎌田隼人佐とのへ
       林九郎左衛門尉とのへ  林丹後守とのへ

 

 「この夫丸は那古野城修築のためだと推測され、「信秀の号令ではなくて守護代が那古野城修築のために指示を与えているということは、今川氏を駆逐して得た領域について、守護の斯波義統が信秀の領有を承認していたことを示すものといえる。形式的なことであるが、守護の名において、信秀に勝幡から那古野城への移転が下命されたのも間違いないだろう」(「織田信長の系譜」)」


 「つまり、那古野城攻略は、信秀が単独で行ったものではなく、守護代・清須織田家、さらにいえば、尾張守護・斯波家の承認下で実行されたの」であり、「そもそも、今川氏豊の正室は守護・斯波義統の妹といわれ、義統の承認なくして那古野城攻略はありえない」

 

 「「信長公記」では、信秀が那古野城を攻略したことが省かれ、あたかも信秀が那古野城を構築したように記している」


 「ある時、弾正忠(信秀)は尾張国の那古野に来て、ここに堅固な城を築くように命じ、この城に、嫡男の織田吉法師(信長)を住まわせた。一番家老に林新五郎(佐渡守秀貞)、二番家老に平手中務丞(政秀)、三番家老に青山与三右衛門、四番家老に内藤勝介、これらの宿老をつけ、(中略)弾正忠は、那古野の城は吉法師に譲り、自分は熱田の近くの古渡というところに新しい城を造って居城とした」
 

 「信長家臣団研究の第一人者・谷口克広氏は、天文一五(一五四六)年一月に信長が元服して那古野城を譲られたと推測し、その二年前に討ち死にしている青山与三右衛門が「信長公記」で三番家老として記述されているのが不審だと指摘している(「信長軍の司令官」)」ので、「おそらく、林佐渡守以下の四家老は、信秀が那古野城に移った際の体制なのだろう」
 

 「二番家老の平手政秀は勝幡以来の信秀の重臣であり、三番家老の青山与三右衛門(青山余三左衛門秀勝)も信秀の被官らし」く、「内藤勝介は小身で、家老ではないという説がある」
 

 「これらに対して、一番家老の林佐渡守は林八郎左衛門の子で、清須織田家の被官・林九郎に連なる人物だと推測される(「織田信長の系譜」)」ので、「織田逵勝発給の書状にも「林九郎左衛門尉」「林丹後守」が宛先に挙げられており、林家が清須織田家の有力被官であったことを物語っている」

 

 「つまり、那古野城攻略は清須織田家が発案したもので、城主・今川氏豊と親しい信秀がその実行役に選ばれ」、「氏豊放逐後、清須織田家の指示の下で那古野城は修復され、信秀が城代となったが、清須織田家の被官・林佐渡守が附家老としてその筆頭家老に選ばれた」という、「そんな筋書きではなかろうか」

 

 菊池論文が指摘するように、信秀はあくまで清須織田家の家臣としての範囲内で行動せざるを得なかったので、那古野城攻略は清須織田家が発案、信秀は家臣としての実行役であり、信秀が那古野城の城主となったのは清須織田家の城代としてであったと考えられる。

 

(d)那古野今川氏の勢力範囲は愛知郡・春日井郡南部のかなり広範な地域

 

 菊池論文は、那古野今川氏の勢力範囲について、以下のようにいう。

 

 「新修 名古屋市史 2」では、天野信景が編纂した「尾張国人物志略」をもとに、那古野今川家臣団を推定し、「家臣の伝承地からみれば、今川那古野氏は、庄内川と天白川に挟まれた愛知郡・春日井郡南部のかなり広範な地域を勢力下において」いたと指摘している」


 「那古野城攻略で、信秀は今川家旧臣や那古野城周辺の土豪を家臣化していったようだ」

 

 また、菊池論文は、尾張守護斯波氏の勢力範囲について、以下のようにいう。

 

 「尾張一国は守護・斯波家が全域を治めていたわけではなく、那古野近辺は鎌倉時代以来の今川家が治めていた。また、海東郡・知多郡は三河守護の支配下にあり、他にも幕府奉公衆の所領が点在していた」

 

 菊池論文はこのようにいうが、海東郡・知多郡が三河守護の支配下にあったのは応仁・文明の乱の終結までのことで、応仁・文明の乱の過程で海東郡・知多郡の分郡守護職が三河守護の一色氏から奪われ、応仁・文明の乱の終結時の文明十年に没落してた一色氏が三河守護職を放棄したのであった。

 

 菊池論文のP36に所載の「那古野今川氏の家臣分布図」をみれば、那古野今川氏の家臣が愛知郡の北半分を中心としてほぼ全域に分布していることが分かり、那古野今川氏の領地であった庄内川と天白川に挟まれた愛知郡・春日井郡南部のかなり広範な地域は、尾張守護斯波氏の勢力範囲には含まれてはいなかったと考えられる。


(e)那古野今川氏の旧家臣の大身の侍は、清須織田家やその息がかかった林佐渡守の与力、信秀家臣団には小身の侍や若年の庶子

 

 菊池論文は、那古野今川氏の旧家臣の配置について、以下のようにいう。


 「那古野城攻略の四年後、天文一一(一五四二)年八月に比定される小豆坂の合戦で、「其時よき働の衆」(「信長公記」)として以下の名を挙げている」


・織田備後守(信秀)
・織田与二郎殿(信康)、信秀の弟
・織田孫三郎殿(信光)、信秀の弟
・織田四郎次郎(信実)、信秀の弟
・織田造酒之丞(信房)
・内藤勝介
・那古野弥五郎、古渡村(名古屋市中区古渡町)
・下方左近(貞清)、上野城主(名古屋市千種区鍋屋上野町)
・佐々隼人正、成政の兄。比良村(名古屋市西区山田町)
・佐々孫介、成政の兄。
・中野又兵衛(一安)、中野高畠村(名古屋市中村区亀島町)、妻は今川氏豊の娘。
・赤川彦右衛門
・神戸市左衛門
・永田次郎右衛門
・山口左馬助(教継)、星崎・鳴海城主(名古屋市南区本星崎町、緑区鳴海町)
 

 「このうち、少なくとも下方左近、佐々隼人正・孫介兄弟、中野乂兵衛、山口左馬助、那古野弥五郎は今川家の旧臣と思われる」が、「那古野弥五郎は「清洲衆にて候、討死候なり」と「信長公記」に記されており、今川家旧臣すべてが信秀に従ったわけではなく、清須織田家(もしくは斯波家)に仕えた者、もしくは遁世した者などがいたようである」


 「「新修 名古屋市史 2」では、「小瀬甫庵の「信長記」では後に「小豆坂の七本鑓」と称された、信秀方として活躍した七人を、織田孫三郎、同造酒丞、下方左近(当時屋三郎、ヱ(歳)、岡田助右衛門尉(「信長公記」に見えず)、佐々隼人正、弟同孫介(一七歳)、中野又兵衛(当時そち、一七歳)としている」が、「甫庵によれば、まだ一〇代の若者の活躍が目立」ち、「これが、信秀方の軍勢の参加者に若年者が多かったことの反映かどうか、興味をひかれる記事ではある」と指摘している」


 「ちなみに、「信長公記」の首巻で「清洲に那古野弥五郎とて、十六・七若年の人数三百ばかり持ちたる人あり」という記事が紹介されている」が、「那古野弥五郎は小豆坂の合戦で討ち死にしたので、その嫡男が跡を継ぎ、襲名した者であろう」

 

 「十六~一七歳で三〇〇人の兵を持つというから、かなりの大身の武士である」が、「これに対して、佐々の居城・比良城は「信長公記」に「小城」と記されており、佐々兄弟は小身の武士だったよ」で、「今川家の旧臣の中でも大身の侍は、清須織田家やその息がかかった林佐渡守の与力とされ、信秀家臣団には小身の侍や若年の庶子しか附けられなかったのではなかろうか」

 

 菊池論文が指摘するように、那古野今川氏の旧家臣の大身の侍は、清須織田家やその息がかかった林佐渡守の与力、信秀家臣団には小身の侍や若年の庶子であったと考えられ、このことからも、那古野城の奪取は清須織田家としての戦いであり、信秀は最も有力なメンバーではあったが、その実行役でしかなかったと考えられる。

 

(f)尾張守護や尾張守護代の勢力範囲

 

 菊池論文が指摘するように、那古野今川氏の領地であった庄内川と天白川に挟まれた愛知郡・春日井郡南部のかなり広範な地域は、尾張守護斯波氏の勢力範囲には含まれてはおらず、尾張国内に奉尾張守護斯波氏の勢力が及ばない奉公衆の領地が多数散在するとすれば、そもそも尾張国内での尾張守護斯波氏の影響力はそれほど大きくはなかったと考えられる。

 

 そうであれば、尾張守護代の岩倉織田家が、尾張八郡のうちの上四郡(羽栗郡、丹羽郡、中島軍、春日井郡)を支配し、同清須織田家が、同下四郡(海西郡、海東郡、愛知郡、知多郡)を支配したというのは、十六世紀前半に山田郡が庄内川を境に、北半分が春日井郡に、南半分が愛知郡に分割併合される前には尾張国の郡の数は九であったことからも、それほど当時の実態に基づかない、後世の大雑把な区分であったと考えられる。

 

 小和田論文が、文明十一年(一四七九)正月、「敏定に尾張国内の二郡分を安堵するという条件で講和が成った」という講和時の清須織田家の勢力範囲は、愛知郡には那古野今川氏の広範な支配領域があったので、おそらく海東郡と海西郡であって、そこから清須織田家は勢力圏を拡大していったのだと考えられる。

 

 そうすると、例えば、清州城も岩倉城も春日井郡にあり、勝幡城は中島郡にあり、尾張守護所のあった中島郡の下津城とその付近が岩倉織田家の拠点であったので、岩倉織田家と清須織田家の勢力範囲は単純に上四郡と下四郡というように分けられるものではなかったと考えられる。

 

 また、小和田論文によれば、「海東郡には足利一門石橋氏が勢力を持っており、また、木曾川流域の特に伊勢湾に近い河口部は本願寺門徒が大きな勢力圏を築いており、そこにくいこむことはむずかしかった」というが、木曽川河口とは海西郡の南部付近であったと考えられるので、そうであれば、海東郡も海西郡も清須織田家の勢力がストレートに全域に及ぶ地域でもなかったと考えられる。

 

 清須織田家が愛知郡を勢力範囲に加えるのは、勝幡織田家の信秀が那古野城を奪取したときで、織田家が知多郡に勢力を伸ばすのは、おそらくもっと後のことであったと考えられる。

 

 そうすると、そもそも尾張守護職斯波氏の勢力圏自体が尾張では小さく、特に下四郡での勢力圏は狭かったので、下四郡での清須織田家の勢力圏も狭く、おそらく清須織田家の所領やその分家、家中の家臣たちの所領は、岩倉織田家の勢力圏とされる上四郡内にも存在していたのだと考えられる。 

 

 そして、守護職の勢力範囲が狭く、その影響力も大きくはなかった上に、守護代家が分裂して対峙しているという尾張では、そうした分裂・分散状態に起因した公的な統一権力機構の不在こそが、有力な織田家の分家や国人層が尾張国内を統一していくうえでの障害にもなったのだと考えられる。