織田氏の出自と織田一族について(7) | 気まぐれな梟

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 今日は、井上陽水の「断絶」から「人生が二度あれば」を聞いている。

 

(9)織田信秀の勢力拡大過程

 

(a)信秀の継承

 

 渡邊大門「戦国大名は経歴詐称する(柏書房)」(以下「渡邊論文」という)は織田信秀の家督継承について、以下のようにいう。

 

 「信秀は、永正八年(一五一一)に信定の子として誕生し」、「信秀が家督を譲られたのは、大永六年(一五二六)四月から翌年六月までの間と考えられて」おり、「まだ十代半ばの若さだった」

 

 「信秀は清須城の西にある、勝幡(愛知県稲沢市から愛西市にまたがる地域)に本拠を定めていた」が、「同地は、水上交通における要衝の地として知られており、経済的に豊かな地域だった」

 この点について、小和田哲男の「地域から見た戦国150年⑤東海の戦国史(ミネルバ書房)」(以下「小和田論文」という)は、以下のようにいう。

 

 信秀が、「生まれたのは永正七年(一五一〇)とい」い、「信定から家督を譲られたのがいつかはわからないが、天文二年(一五二三)にはすでに当主として振る舞っていたことが、京都の公家山付言継の「言継卿記」によってわか」り、「その日記によれば、言継は蹴鞠の名手であり宗家でもある飛鳥井雅綱をともなって、信秀のもとを訪れ、新築成ったばかりの城内の建物に通されている」
 

 渡邊論文によれば、織田信秀は一〇代半ばで家督を継承したというが、信秀の子の信長が結婚したのは十四歳のときで、父信秀の急死ということがあったにしろ、信長が信秀の後を継いだのは十八歳のときであったので、信秀も信長も十代での家督相続であったことになる。

 

 なお、信秀の死後に勝幡織田家で信長と弟の信勝の家督争いが勃発したのは、本来の勝幡織田家を継承する予定だったのは信勝であったので、信勝は彼固有の本来の勝幡織田家の所領と家臣団を持っていたからであったと考えられる。


(b)主家を凌駕する信秀の勢力拡大

 

 渡邊論文は、織田信秀の勢力拡大について、以下のようにいう。

 

 「当時の織田家は混乱期にあり、岩倉城の織田伊勢守と清須城の守護代家とが互いに尾張半国を支配し対抗する関係にあった」が、「この混乱に乗じて、守護代配下の三奉行の力が強大化し」、「天文年間に至ると、信秀は、尾張国の清須三奉行から身を興し、やがて主家である守護代の大和守家を圧倒」、「やがて信秀はその中から抜け出し、主家を凌ぐ勢力を持つようにな」り、「信秀は一族間との激しい競争を勝ち抜いたのだ」

 

 この点について、小和田論文は以下のようにいう。
 

 「「言継喞記」によると、天文元年、信秀は、それまで対立抗争を続けていた主君でもある守護代の織田達勝、および「清須三奉行」の一人織田藤左衛門と和睦したとい」い、「信秀が山行言継・飛鳥井雅綱らを尾張に招いたのは、一つには、織田一族の融和をはかる盛大なセレモニーを挙行するためであり、また一つには、そうしたセレモニーを信秀が主催することによって、信秀の経済力と政治力を達勝や藤左衛門といった他の織田一族の人間にみせつけるためでもあったのである」


 「このことから明らかになってくるのは、信秀の力がすでに主家をしのぐものだったという点であ」り、「「信長公記」は信秀を評して、「備後守は取り分け器用の仁にて、諸家中の能者とも御知音なされ、御手につけられ……」と記し、味方をふやしていった状況にふれているが、そうした政治力の背景には信秀の卓越した経済力があった」

 

 渡邊論文や小和田論文が指摘するように、織田信秀は主家である清須織田家やその家中の同僚たちを凌ぐ勢力を持っていた有力者であったと考えられる。

 

(c)信秀はあくまで清須織田家の家臣だった

 

 菊池浩之「織田家臣団の謎 角川選書598(角川書店)」(以下「菊池論文」という)は、信秀と清須織田家との関係について、以下のようにいう。

 

 「信秀は天文九(一五四〇)年六月に三〇〇〇の兵を率いて三河安城城を攻め落とし、天文一七(一五四八)年三月に三河小豆坂で合戦に及んで」おり、「天文一三(一五四四)年九月と天文一七(一五四八)年一一月に美濃に攻め入っている」が、「清須織田家と対立関係にありながら、後顧の憂いもなく隣国へ出兵することは可能なのだろうか」
 

 「信秀の子・信長が織田一族の両守護代家(清須織田家、岩倉織田家)を倒して尾張を統一したため、従来は父・信秀もまた尾張統一を志し、その障碍となる両守護代家と対立していたと考えられていた」が、「近年の研究では、信秀が清須織田家と協調関係にあり、むしろ、清須織田家の支援を受け勢力を拡大してきたと指摘されてきている」


 「郷土史家の横山住雄氏は「信秀は、国内においてはあくまで斯波氏三奉行の一員としての家格を遵守して行動しなければならず、かつまた国人層(同僚たち)の所領を奪って自領を拡張するわけにはいかない。信秀にはそうした制約があるから、自領の拡張は斯波・織田の支配圈以外の敵性的な土豪の所領を奪取するか、あるいは他国へ進出するほか無いと考えたのである」と指摘している(「織田信長の系譜」)」

 

 菊池論文が指摘するように、織田信秀は清須織田家の家中の一番の有力者ではあったが、信秀の行動はあくまで清須織田家の家臣としての行動の範囲内の行動であったと考えられる。

 

 信秀が尾張の隣国の美濃や三河に出兵するのも、清須織田家の旗の下に、清須織田家の家臣として信秀と同格の他の国人層を組織した清須織田家の軍事行動としてであり、清須織田家の勢力圏の中で同格で同僚ともいえる他の国人たちと戦争して彼らの領地を奪うことはできなかったので、信秀が自分の領地を増やし清須織田家の家中の中での権力を拡大してくためには、他国と戦争をして他国の領地を得るしか方法がなかったからであった。

 

 そうであれば、勝幡織田家が津島湊を掌握して経済力を高めたのも、同様に、国内での領地の拡大が困難であったことの反映でもあったと考えらる。

 

 そして、そうした状況での織田信秀の権力掌握の戦略は、清須織田家の家中の一番の有力者として、清須織田家の対外的な軍事行動を指揮することで清須織田家の家中の同僚たちや国人層への影響力を強め、清須織田家の実権を掌握すること、そしてその軍事力や清洲織田家の家中などへの影響力のために、津島湊の掌握による経済力を確保することであったと考えられる。

 

 つまり、信秀は主家の清須織田家を凌駕・打倒する機会を狙っていたのだと考えられる。

 

(d)信秀権力の源泉と居城の移動

 

 渡邊論文は、信秀権力の源泉と居城の移動について以下のようにいう。

 「信秀権力の源泉は、勝幡城近くの津島社の門前町や港町として繁栄していた津島」であり、「信秀はここを支配したことにより、経済力をつけ」、「次第に、信秀は他の織田一族を凌駕していき、居城を那古野(名古屋市中区)、古渡(同中区)、末森(同千種区) へと移動しながら、勢力を伸ばした」

 

 「古渡城に拠点を移したたのは、天文八年(一五三九)のこと」で、「経済的基盤となったのは、熱田神宮の門前町、港町でもある熱田」であった。

 

 「その前の拠点だった那古野城は、子の信長に譲った」

 

 この点について、小和田論文は以下のようにいう。

 

 「信秀の経済力を支えたものが津島湊だった」

 

 「但秀の居城である勝幡城のすぐ近くに、当時、木曾川舟運の湊として栄えていた津島湊があ」り、「伊勢湾の海上交通と木曾川舟運の結節点であり、また、津島社、すなわち牛頭天王社の門前町としても栄えていた」が、「信秀はこの津島湊の商業権を握っており、そのことで経済力をつけ、主家である守護代家をも凌駕していくことになったのである」

 

 勝幡織田家は勝幡城を築城して居城とする前には津島湊に津島館を建設してそこに住んでいたという伝承があり、渡邊論文や小和田論文が指摘するように、勝幡織田家が勝幡城を拠点としたのは、津島湊の掌握のためであったと考えられる。

 

 そして、渡邊論文が指摘するように、織田信秀が勝幡城から古渡城に居城を移動したのは、古渡城の付近の熱田湊の掌握のためであったと考えられる。

 

 おそらく、国内の国人層や清洲織田家の家中の同僚たちと戦って彼等の領地を奪うことが、清須織田家の家臣という立場では、織田信秀にはできなかったので、清須織田家の対外的な戦争に勝利することで他国に領地を得るか、繁栄する港を掌握するかしか、織田信秀が勢力を拡大する方法がなかったのであったと考えられる。

 

 そうすると、こうした湊の掌握は織田信秀にとっては死活問題であったと考えられる。

 

 渡邊論文が指摘するように、信秀は「居城を那古野(名古屋市中区)、古渡(同中区)、末森(同千種区) へと移動しながら、勢力を伸ばした」のであるが、菊池論文によれば、信秀の那古野城への移転は清須織田家の城代としてのもので、信秀が那古野城を信長に譲ったのは、おそらく断絶した織田因幡家の家督を信長に継がせて、信長を別家として独立させたもので、末森城への移転は、清織田家が攻めてくることを警戒しての移転であったと考えられる。

 

 菊池論文は、以下のようにいう。

 

 「当時の清須から東へ向かう街道は二本あり、一つは古渡から熱田を経由して鳴海に続く道」、「もう一つは那古野から末盛を経て岩崎へと抜ける道である」が、「信秀はむしろ清須織田家を警戒して古渡から末盛へと移転したと考えるべきであ」る。

 

 「清須から古渡までは一本道だが、末盛であれば、間に那古野城があり、城主・信長が清須織田家からの進軍を食い止めることができる」

 

 菊池論文が指摘するように、織田信秀は清須織田家との戦いを想定して、古渡城から末森城に居城を移動させたのだと考えられる。

 

(e)信秀、信長の二代にわたる勢力拡大

 

 渡邊論文は、信秀の勢力拡大過程について以下のようにいう。

 

 「信秀は勢力拡大のため、積極的に国外へ打って出た」が、「三河国(愛知県)の松平氏とたびたび交戦し、天文九年(一五四〇)には西三河の安祥城(愛知県安城市)を攻略し、子の織田信広を城主とし」、「天文十六年(一五四七)になると、信秀は松平氏の当主・広忠を降伏に追い込んだ」


 「その五年前の天文十一年(一五四二)には駿河国(静岡県)の戦国大名である今川義元と小豆坂(愛知県岡崎市)で戦」かい、「さらに美濃国(岐阜県)の斎藤道三とも交戦し、両勢力の尾張進出を食い止め」、「天文十三年(一五四四)、信秀は斎藤氏に敗北するが、のちに道三の娘・濃姫と信長を婚姻させることにより和睦した」


 「天文十七年(一五四八)には、一族の織田信清(犬山城主、愛知県犬山市)、織田寛貞(楽田城主、同上)が謀反を起こすものの、これを鎮圧することに成功した」


 「天文十八年(一五四九)三月になると、今川義元は信秀を討伐すべく、家臣で禅僧の太原雪斎を将として約一万の軍勢を編成し、織田方の手に落ちた安祥城に送」り、「城主の信広は奮戦し、その攻撃を一度は退けたが、今川氏は同年九月に再出陣し」、「安祥城へ織田家の家臣・平手政秀が援軍として向かったが、安祥城は同年十一月に落とされた」

 

 「天文二十年(一五五一)三月三日、信秀は末森城で没した。葬儀は萬松寺(名古屋市中区)で行われ、僧侶三百人が参列した壮大なものだったと伝わる。没年については、天文十八年、同二十一年(一五五二)説もある。


 「信秀の死後、満を持して家督を継承したのが信長である」が、「信長が大きく飛躍できたのは、本人の能力もさることながら、信秀が十分に基礎作りをしてくれたからだった」

 

 渡邊論文が指摘している織田信秀の対外的な軍事行動は、菊池論文が指摘するように、あくまで清須織田家の軍事行動の指揮を執ったもので、織田信秀はこの時点では清須織田家の家臣としての制約を受けていたと考えられる。

 

 渡邊論文が指摘している織田信清(犬山城主、愛知県犬山市)、織田寛貞(楽田城主、同)の「謀反鎮圧」は、織田信清が、信秀の甥ではあっても、旧小口織田家=現犬山織田家の当主であり、織田寛貞が楽田織田家の当主であったので、夫々、岩倉織田家の分家ということになり、織田信秀が、おそらく清須織田家の了解のもとに、岩倉織田家の勢力範囲に介入していったものであったと考えられる。

 

 渡邊論文は、「信長が大きく飛躍できたのは、本人の能力もさることながら、信秀が十分に基礎作りをしてくれたからだった」というが、美濃の斎藤道三も、父と道三の二代にわたる過程を経て、美濃守護の土岐氏を追放して美濃国を掌握できたのであり、公的に承認された守護権力を持たない勢力が守護になり替わるのは、簡単なことではなかったのだと考えられる。 

 

 そして、美濃の斎藤氏以外でも、守護職が途中から存在しなくなった三河国で国人領主の松平氏が戦国大名になる過程も、北近江の浅井氏が守護の京極氏から実験を奪って取って代わる過程も、何代にもわたる時間をかけた粘り強い闘いが必要な過程であったと考えられる。