織田氏の出自と織田一族について(6) | 気まぐれな梟

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 今日は、井上陽水の「断絶」から「「小さな手」を聞いている。

 

(8)清須三奉行

 

 菊池浩之「織田家臣団の謎 角川選書598(角川書店)」(以下「菊池論文」という)は、信長の家系について以下のようにいう。

 

 「織田信長を語る数多い記録の中で、比較的信憑性が高いといわれる「信長公記」では、信長の家系を以下のように語っている」


 「尾張国は八郡から成る。上の郡四郡は、守護代・織田伊勢守(信安)が諸侍を味方にして支配し、岩倉というところに居城を構えていた。あとの半国、下の郡四郡は、守護代・織田大和守(逵勝)の支配下に属し、上の郡とは川を隔てて、清須の城に尾張国の守護・武衛(斯波義統)を住まわせ、自らも同じ城内に住んで守護の世話をしていた。
 

 織田大和守の家中に三人の奉行がいた。織田因幡守、織田藤左衛門(良頼、または寛故)、織田弾正忠(信秀)」
 

 「つまり、織田家は尾張守護・斯波家に仕える守護代の家系であるが、上四郡を支配する岩倉織田家(伊勢守家)と下四郡を支配する清須織田家(大和守家)の二家に分かれ、信長の家系はさらにその清須織田家の三分家の一つでしかなかったというのだ」

 

 三木清一郎編「愛知県の歴史(山川出版社)」(以下「三木論文」という)は、信長の家系について以下のようにいう。

 

 「やがて清須方の織田弾正忠家に、信長の父信秀が登場するにおよんで、他家を圧して勢力をのばし、尾張にようやく統一のきざしがみえはじめる」


 「信長の家系は良信・信定・信秀と続く織田支族で、清須守護代家の政務を司り、代々弾正忠から備後守を称した」

 

 小和田哲男の「地域から見た戦国150年⑤東海の戦国史(ミネルバ書房)」(以下「小和田論文」という)は、信長の家系について、以下のようにいう。

 

 「太田牛一の著した「信長公記」首巻に、「大和守内に三奉行在之、織田因幡守・織田藤左衛門・織田弾正忠、此三人奉行人也」とあ」り、「織田弾正忠の家が信長の家で」、「二つある守護代家の一方である清須城の大和守系織田氏の三人の奉行の一人にすぎなかったことがわかる」

 

 「「三奉行」とか「三家老」といういい方をして」おり、「おそらく、大和守系織田氏からの分かれと思われるが、いつ頃の分かれなのかは不明である」

 

 菊池論文、三木論文、小和田論文が指摘するように、織田信長の家系は清須織田家の三分家の一つ、いわゆる「勝幡織田家」であり、清須織田家の一族でその家臣の家系であったが、信秀から信長にかけて、やがて主家の清州織田家や尾張守護斯波氏を圧倒し、実力で尾張を統一していった。

 

 良信ー信定ー信秀と続く織田信長の家系を織田氏の嫡流とする後世の織田氏の系譜は、織田信長の家系が清須織田家の家臣の家系であったという事実を隠ぺいするものであると考えられる。

 

(a)勝幡織田家の系譜


 小和田論文は、勝幡織田家の系譜について以下のようにいう。 

 

1)良信

 

 「「信長公記」によると、信長の祖父にあたる信定の法号を月巌(月岩とも)といい、その前を西巌(材岩とも)といったという」が、「この西厳が良信である」

 

 「良信の名は、文明十四年(一四八二)の清須宗論に奉行として出てきており、「織田彈正忠良信」とみえ、官途名が彈正忠であることと、それ以後の通字「信」が共通しているので、まちがいないであろう」

 

2)敏信

 

 「ただ、良信より前の代になるとわから」ず、「良信の父を史料にみえる織田備後守敏信に当てる考え方があ」り、「万里集九の「梅花無盡蔵」文明十七年(一四八五)九月八日の条に、「尾之清洲城備後敏信第、見犬追物」とある敏信を良信の父とみる」

 

 「信長の父信秀が、弾正忠から備後守となった例もあるので、その可能性もあるかもしれない」が、「敏信の第、すなわち屋敷が清洲(清須)城だったとすると、別系統とみるのが正しいのかもしれない」

 

3)信定


 「良信の跡をついたのが信定であ」り、「永正十三年(一五一六)の年が記されている「妙興寺文書」には弾正忠信貞」とみえるので、信定は信貞と書いていた時期もあったのであろう」

 

 「清須城主で下四郡守護代だった織田達勝の老臣の一人であ」り、「活躍の時期は一五一〇年代から二〇年代のあたりと思われる」


 「連歌師宗長が大永六年(一五二六)三月、尾張の熱田神宮に参詣したあと、津島の正覚院に泊まったことが「宗長手記」にみえるが、そのとき、この地の「領主織田霜台息三郎」が宗長を訪ねてきたことを記している」

 

 「台というのは弾正台の唐名なので、この場合は織田弾正忠信定のことを指し、息三郎は信秀のことを指している」ので、「その頃はまだ信定の時代であったことを物語って」おり、「同時に、すでに信定の頃には、津島近くの勝幡城を本拠にしていたこともわかる」


 「もっとも、「信長公記」首巻には、「彈正忠と申すは尾張国端勝幡と云ふ所に居城なり。西厳・月厳・今の備後守・舎弟与二郎尉・孫三郎殿・四郎二郎殿・右衛門尉とてこれあり。代々武篇の家なり」とあり、「今の備後守」は信秀のことなので、その祖父にあたる西厳、すなわち良信の時代から勝幡に拠っていたと考えることもできよう」

 

 小和田論文では、勝幡織田家の系譜は、良信(西厳)ー信定(月巌)ー信秀と繋がっていくが、小和田論文は良信の父を敏信とすることには懐疑的である。

 

4)敏信の出自

 

 菊池浩之「織田家臣団の謎 角川選書598(角川書店)」(以下「菊池論文」という)所収のP25「「尾張群書系図部集」掲載の織田家系図」(以下「織田家系図」という)によれば、織田敏定の兄弟に織田敏貞、織田敏信がいて、織田敏貞の系統は、敏貞の子の広貞、その子の広延長、その子の達広と続いて清須三奉行の一つ織田印旛家になり、織田敏信の系統は、敏信の子の良信、その子の信定、その子の信秀、その子の信長と続いて清須三奉行の一つ勝幡織田家になり、織田良信の兄弟の織田良縁の系列は良縁の子の良頼、その子の寛雄と続いて清須三奉行の一つ小田井織田家になるという。

 

 なお、織田印旛家の達広の子の信友が清須織田家の達勝の養子となって清須織田家を継いだとされている。

 

 小和田論文は良信の父を敏信とすることには懐疑的であるが、菊池論文の織田家系図によれば、勝幡織田家の系譜は清州織田氏の敏定の兄弟の敏信に始まるとしていて、岩倉織田氏の敏広の兄弟の広近の系統が小口織田家になっていることを参考にすると、織田家が分裂して抗争を開始した織田敏広や織田敏定のころに、夫々の勢力範囲を維持・拡大するために、岩倉織田家でも清須織田家でも庶流の織田家が創出されていったとすれば、敏信を敏定の兄弟とし、勝幡織田家の初代とする推定には、それほどの無理はないと考えられる。

 

 なお、小和田論文は、織田敏信の屋敷が清洲(清須)城だったとされていることを根拠として、敏信は勝幡織田家とは別系統とみるのが正しいのかもしれないというが、敏信が清須三奉行の一人であったとすれば、その執務場所は清須城にもあったはずであり、そうであったとすれば、敏信の屋敷が清須城にあったことは、敏信が勝幡織田家の人物であったことを否定はしないし、敏信は清須城に住んで次代の良信の代から勝幡に住んだということも考えられるので、小和田論文の指摘には従えない。

 

(b)織田印旛家

 

 菊池論文は、那古野城に移った織田信秀が、その那古野城を子の信長に譲って古渡城に移転した経過について、以下のようにいう。

 

 「信秀が頭角を現す契機となったのが、那古野城を攻略し、城主・今川左馬助氏豊を放逐したことである」が、「那古野城攻略は清須織田家が発案したもので、城主・今川氏豊と親しい信秀がその実行役に選ばれた」だけで、「氏豊放逐後、清須織田家の指示の下で那古野城は修復され、信秀が城代となったが、清須織田家の被官・林佐渡守が附家老としてその筆頭家老に選ばれた」と考えられる。

 

 「信秀は那古野城を攻略して移り住んだが、信長に那古野城を譲って、「どういうわけか」(「織田信長事典」における小和田哲男氏の表現)古渡城に本拠を移した」


 「なぜ、信秀は古渡城に移転したのか」、「そして、なぜ信秀は信長を古渡城に連れて行かなかったのか(なぜ信長に那古野城を譲ったのか)」、「また、いつ信秀が古渡城へ移転したのかも、わかって」おらず、「古くは天文三(一五三四)年から天文一一(一五四二)年、天文一七(一五四八)年までいくつかの説がある」

 

 「谷口克広氏は「信長の元服は、十三歳の時、つまり天文十五年である。推測にすぎないが、この元服を契機として那古野城を譲られたのかもしれない」と指摘している(「信長軍の司令官」)」


 「横山住雄氏も信長の元服が古渡城への移転のきっかけになったと記している」


 「「信長の元服は天文十三年以前であるが、その後しばらくして、信長を那古野城で独立させ、自らは古渡に新城を築いて天文十五・六年頃に移った可能性が強い」と指摘しているのだ(「織田信長の系譜」)」


 「筆者も、信秀は信長を元服させ、別家として独立させたのではないかと考えている」

 

 「天文一三年の美濃稲葉山城攻めで織田軍が大敗し、三奉行の一人・織田因幡守が討ち死にしている」


 「因幡守家の本拠地がいずれかは不明であるが、「新修 名古屋市史 2」では「この系統の一族の拠点として、松葉城を検討してみてはどうであろうか」と提唱して」おり、「この松葉城は天文ニ一(一五五二)年には信長方の城として「信長公記」に登場しているので、信長が因幡守家を継いだという見方はできないか」


 「守護代・織田大和守逵勝の養子を因幡守の子とする説がある」ので、「因幡守家の嗣子が守護代を継ぎ、因幡守家を信長が継ぐというシナリオは考えられないだろうか」


 「三奉行という職制が実際にあったのか疑問視する説もあり、かつ、そのような職制があったとしてもすでに有名無実化されていた可能性があるが、「三奉行」を「守護代の有力な庶流三家」と考えれば、その筆頭である因幡守家が守護代・大和守家を継承する代わりに、着実に勢力を高めつつあった信秀の嫡男・信長を因幡守家の継嗣に迎えるという策は、いずれの家にとっても好都合であろう」

 

 「そう考えると、信秀が晩年過ごした末盛城を、信長の弟・信勝(一般には信行)が継承したことも納得がいく」

 

 菊池論文の指摘から、織田因幡家の織田達広の子の織田信友が清須織田家の嫡流を継ぎ、勝幡織田家の織田信秀の子の織田信長が、おそらく織田因幡家の織田達広の養子となって織田因幡家を継いだと考えられ、本来の勝幡織田家は織田信長の弟の織田信勝(信行)が継いだのだと考えられる。

 

 そして、おそらく清須織田家の那古野城代の地位は、織田信秀から信長がそれを引き継いだ以降も勝幡織田家のものであり、信長は那古野城代の地位とともに、織田印旛家の所領も引き継ぐ権利を持っただのだと考えられる。

 

 つまり、この時点で織田印旛家と勝幡織田家の連合が、勝幡織田家の優位の元に形成されたと考えられる。

 

 なお、織田信秀の弟の信康が小口(犬山)織田家の織田廣近の養子になって小口織田家を継いでいることも、この時期に織田信秀の勢力が拡大して、織田信秀が織田一族の間での指導力を強めていったことの反映でもあったと考えられる。

 

 そうすると、織田印旛家の系譜は、菊池論文の織田家系図では、敏貞ー広貞ー広延ー達広とされているが、達広=信長と続くのだと考えられる。

 

 なお、清洲宗論で奉行人として名を連ねた織田広長、織田広貞のうち、広貞は広長の子であるとされ、織田家三奉行奉書において、文書に名を連ねる織田広延は、広長の子にあたるとされるので、菊池論文の織田家系図の敏信の名は広長であっったと考えられ、そうであれば、父の織田久長の「長」の字を子の「広長」が継承したと考えられる。

 

(c)小田井織田家


 菊池論文所収の織田家系図によれば、小田井織田家の系譜は、勝幡織田家の織田敏信の子の良縁が初代で、良縁ー良頼ー寛雄であるといい、清州宗論では織田良縁が、織田家三奉行奉書には織田良頼が登場するが、藤左衛門家の系図にあ織田常寛との関係は不明であると言われている。

 

 織田常寛は織田丹波守久孝と同一人物とされ、初め「久孝(ひさたか)」と名乗り、尾張守護斯波義寛の一字「寛」の偏諱を受け「常寛」と改めた推定とされるが、織田氏には「常」の字を持った法名を名乗る人物が多いことから、「常寛(じょうかん)」という名の法号であると考えられる。

 

 織田敏定が尾張守護所の清州城の支城として小田井城を築き城主となり、後に本拠を清洲城に移したため「常寛」が小田井城の城主となったというが、「常寛」が法号であったとすると、織田敏信が織田常寛であり、かつ、初めは織田久孝と名乗ったと考えられ、織田敏信は初めは小田井城にいて、その子の良信の代に勝幡城に移ったと考えられ、本来の所領の小田井城は良信の兄弟の良縁が継いだと考えられる。

 

 勝幡織田家の信秀の子の信長が織田印旛家を継ぎ、その弟の信勝が勝幡織田家を継いだのと同じように、楽田織田家の織田勝秀の子の達勝が清須織田家を継ぎ、その弟の広孝が楽田織田家を継いだように、小田井織田家も兄が尾張半国守護代清須織田家を創始したことで弟が本来の小田井織田家を継いでいったのだと考えられる。

 

 そうすると、兄が新しい家を創始し、弟がそれまでの家を継ぐというやり方は、いわゆる「兄弟の道」でもあり、末子相続の一形態でもあるが、それが織田家の継承方法だったのかもしれない。

 

 小田井城を築城して小田井織田家となる前の織田又守護代家の織田久長の所領のうち、本来の居城の小田井城の所領は織田敏信が継ぎ、織田敏信が勝幡織田家を創始したことに伴って、敏信の子の良信の弟の良縁が小田井城の所領を相続し、その結果として小田井織田家が成立したと考えられる。

 

 織田良縁、寛雄は藤左衛門、良頼は筑前守を名乗っており、この藤左衛門の名乗りは、織田氏が藤原氏の出自を主張していたことの現れであったと考えられるが、この藤左衛門の名乗りは清須織田家の織田久長も名乗っており、本来は清須織田家の名乗りでもあったと考えられる。

 

 また、織田久長の名乗りが弾正左衛門と藤左衛門の二つあったとすると、敏信もおそらくこの二つの名乗りを継承し、弾正左衛門の名乗りは勝幡織田家に、藤左衛門の名乗りは小田井織田家にそれぞれ継承されていったと考えられる。

 

 そうすると、織田久長は、小田井織田家の遠祖でもあったということになる。

 

 また、織田因幡家の織田敏貞、その子の広貞の名乗りは次郎左衛門であるので、この「左衛門」もおそらく織田常竹、常任に起源する織田尾張又代家に共通する名乗りでもあったと考えられる。

 

 天文十一年(一五四二)の大垣城攻めで戦死した織田寛維の父は織田寛故とされているが、この寛故は菊池論文の織田家系図では良頼とされている人物であると考えられる。

  

 織田寛維が戦死したので小田井織田家は、一時、寛維の父の寛故が継ぎ、その後、寛維の弟の信張が継いだが、信張には寛廉ともいうので、この「寛」の字は、常寛が受けた尾張守護斯波義寛の「寛」の字の偏諱を継承したものであり、織田良縁や織田良頼にもこの「寛」の字を含む名があったと考えられるので、織田良頼も織田寛故と同一人物であったと考えられる。

 

 そしてそうであるならば、おそらく織田良縁や織田良頼の「良縁」や「良頼」は、法号であったのかもしれない。