織田氏の出自と織田一族について(5) | 気まぐれな梟

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 今日は、井上陽水の「断絶」から「「小さな手」を聞いている。

 

(7)尾張守護代織田氏と岩倉織田家、清須織田家

 

(a)織田常松

 

 渡邊大門「戦国大名は経歴詐称する(柏書房)」(以下「渡邊論文」という)は尾張国移住後の織田氏について、以下のようにいう。

 

 「織田氏は尾張国守護を務め、管領でもあった斯波氏のもとで、尾張国守護代を務めていた」

 

 「最初に守護代を務めたのは、織田伊勢入道常松(常昌)であり、その発給文書は少なからず残って」おり、「常松は、応永九年(一四〇二)に前任の甲斐将教(祐徳)と交代で、その職に就いた」

 

 「常松が亡くなったのは、永享三年(一四三一)三月以前であるといわれている(「建内記」)が、それ以外の詳しい経歴は不明である」

 

 小和田哲男の「地域から見た戦国150年⑤東海の戦国史(ミネルバ書房)」(以下「小和田論文」という)は、織田常松について、以下のようにいう。

 

 「斯波氏は、斯波義重のとき、応永七年(一四○○)頃から尾張守護も兼ねることにな」り、「斯波義重は、はじめ、越前守護代の甲斐氏に尾張守護代を兼ねさせていたが、応永九年ないし翌十年から織田常松という者を守護代とし、尾張に送りこん」だのが、「越前の織田氏が尾張に根をおろすきっかけとなった」

 

 織田常松は、「当時の史料に「織田伊勢入道」とあり、また「沙弥」とも出てくるので、常松は出家してからの名前で、「じょうしょう」と読んだ」のだが、「常松を名乗る前の諱が何であったのかがわからない」

 

 「織田伊勢人道常松の名が「満済准后日記」の正長元年(一四二八)八月六日条にもみえることから」、「明徳四年の仮名置文に名のみえた織田将広と」「同一人物とするのは無理で、その子かあるいは一族の人物とみるのが妥当と思われる」

 

 「「建内記」永享三年(一四三一)三月八日条に「織田故伊勢入道」とみえるので、それより少し前に没したものと思われ」、「「伊勢入道」」から、「岩倉織田氏は受領名伊勢守を継承している」ので、「おそらく常松の系統が岩倉系織田氏になったのであろう」

 

 渡邊論文、小和田論文が指摘するように、尾張織田氏の初代は常松であり、応永七年(一四○○)頃から越前守護に加えて尾張守護となった斯波義重のもとで、応永九年(一四〇二)七月二十日付けの大徳寺文書によれば、守護代の権限を「教広」という人物が行使しているので、この「教広」が、応永九年(一四〇二)に、前任の甲斐将教(祐徳)と交代で尾張守護代となり、越前国から尾張国に下向した常松であったと考えられる。

 

 なお、小和田論文は、織田常松は織田将広の子かあるいは一族の人物であったというが、織田常松が斯波義重によって尾張守護代とされ、織田将広の「将」が斯波義将の偏諱を受けたものであったとすれば、斯波義重の父が斯波義将なので、織田常松もおそらく織田将広の子であったと考えられる。

 

 剣神社の明徳四年の藤原信昌・同兵庫助将広父子の仮名置文は織田家のものであったと考えられるので、織田家の系譜は、信昌ー将広ー常松と推定される。

 

 斯波義淳の名は応永四年(一三九七)の元服で名乗ったとされているが、義淳には義教という名が伝わっている。

 

 応永三十五年(一四二八)に足利義教が室町幕府の第六代将軍となったことで、当代の将軍と同名になることを避けるために斯波義教が改名して斯波義淳となったとすれば、斯波義淳の名は応永四年(一三九七)の元服で名乗った名は義教であったと考えられる。

 

 そうすると、応永九年(一四〇二)にの尾張守護代就任によって、常松は新たに斯波義教の偏諱を受けて教広を名乗ったのだと考えられる。

 

 なお、世代的には織田常松が斯波義重と対応するならば、歴代の織田氏当主が、広の字を通字として、そこに尾張守護斯波氏の当主の偏諱を受けた名を名乗っていたことから、おそらく常松が教広に改名する前の名は重広であったと考えられる。

 

 そうすると、織田氏の系譜は、信昌ー将広ー教広(重広・常松)と推定される。

 

(b)教長(淳広)、郷広、敏広

 

 小和田論文は、常松以降の織田氏の系譜について、以下のようにいう。

 

 「常松の死後、在京守護代として名がみえるのは織田勘解由左衛門尉教長(または朝長)であ」り、「この教長は常松の子だったらしく、常松が亡くなる前の正長二年(一四二九)四月頃から京都で守護代の地位についている」が、「間もなく教長の名前はみえなくなり、それにかわって織田淳広が守護代になってい」

 

 「淳広の「淳」は、守護斯波義淳の偏諱であり、教長を名乗っていた織田勘解由左衛門尉が、淳広に改名した可能性も考えられる」ので、「教長と淳広を圜一人物とする解釈もある」

 

 「宝徳三年(一四五一)頃から織田郷広の名前が在京守護代としてみえてくる」が、「「郷」の字は、守護斯波義郷の偏諱を受けたもので」、「その郷広の跡をついだ敏広」も「守護斯波義敏の偏諱を受けたわけである」

 

 小和田論文が指摘するように、織田淳広の名の「淳」が斯波義淳の名に対応し、織田郷広の名の「郷」が斯波義郷の名に対応し、織田敏定の名の「敏」が斯波義敏の名に対応している。

 

 斯波氏の系譜は、義将ー義重(義教)ー義敦=義郷ー義健=義敏とされているが、義郷を義敦の実子とする系譜もあり、その系譜によれば、義重から義郷までで三世代となる。

 

 義郷の子の義健は若死にし、義将の弟の義種の子の満種の子の持種の子の義敏が養子となって家督を継いだので、世代数とすれば義重から義郷までの三世代と、滿種から義敏までの三世代が対応する。

 

 織田常松が斯波義重と同世代の人物で尾張守護代織田家の第一世代であったとすれば、織田淳広が斯波義敦と対応して同第二世代、織田郷広が斯波義郷と対応して同じく同第三世代、織田敏広が斯波義敏と対応して同第三世代となる。

 

 斯波義淳の名は応永四年(一三九七)の元服で名乗ったとされているが、義淳には義教という名が伝わっている。

 

 応永三十五年(一四二八)に足利義教が室町幕府の第六代将軍となったことで、当代の将軍と同名になることを避けるために斯波義教が改名して斯波義淳となったとすれば、織田常松の子は、斯波義教に対応した織田教長の名をその後織田淳広に変えたと考えられる。

 

 そうすると、織田教長は織田淳広と同一人物で、織田常松の子であったと考えられ、菊池論文所収の織田家系図でも、淳広と教長を同一人物としている。

 

 以上から、尾張守護代織田氏の系譜は、教広(重広・常松)ー淳広(教長)ー郷広ー敏広と推定される。

 

(c)織田氏の分裂

 

 室町幕府の分裂とそれに対応した管領斯波氏の分裂、尾張守護代織田氏の分裂の経過について、渡邊論文は以下のようにいう。

 

 「その後、織田一族は尾張国内で勢力を伸ばしたが、十五世紀半ば頃に守護代家は二つの系統に分かれ」、「伊勢守敏広は岩倉城(愛知県岩倉市)に本拠を置き、尾張北部の上半国四郡を支配し」、「大和守敏定は清須城(同清須市)に本拠を置き、尾張南部の下半国四郡を支配した」が、「守護の斯波氏は家中の分裂により、徐々に威勢を失っていき、大和守家のもとで庇護される形になった」

 

1)斯波氏の最初の家督争い

 

 小和田論文は、斯波氏の最初の家督争いについて、以下のようにいう。

 
 「斯波義重の跡をついだ義淳が永享五年(一四三三)に没すると、まず初めの家督争い」、「義淳の子義郷と、義淳の弟持有との」間で起こったが、「そのときは、将軍足利義教の支持を得た義郷が家督をついでいる」

 

 家督についた義郷は、「たった二年ほどで死んでしまい、あとを、わずか二歳だった千代徳丸がつい」だが、「千代徳丸が元服して義健と名乗るようになったとき、享徳元年(一四五二)に落馬がもとで死んでしま」い、「再び大がかりな内訌が持ちあがった」

 

 「義健には子供がいなかったため、相談の上、一族の斯波持種の子義敏が跡をつぐことになった」が、「斯波氏の重臣で、越前と遠江の守護代を務めていた甲斐常治が、その義敏を歓迎せず、かえって侮って専横の振る舞いが目立つようになった」ので「義敏は常治の弟甲斐近江守を取り立て、常治に対抗させようとした」

 

 「両者は長禄三年(一四五九)に衝突」し、「義敏は将軍義政の命令を受けて、関東の古河公方討伐に向かうことになったが、自らが率いた軍勢で甲斐常治の拠る越前敦賀城を攻め、かえって敗退してしまった」

 

 義政は怒り、「義敏は逆に討伐される立場となり、大内教弘を頼って周防に敗走し」たので、そも「跡を子の松圧丸がつぐ形となったが、その松王丸も寛正二年(一四六一)、重臣たちによって追放されてしまい、家督には、新たに九州探題渋川氏の一族渋川義鏡の子義廉が迎えられる」

 

2)室町幕府の分裂

 

 小和田論文は、室町幕府の分裂について、以下のようにいう。


 「寛正四年(一四六三)、義政の生母日野重子が死去したあと、その追善ということで斯波義敏が赦免され、やがて、義敏は周防からもど」り、「義廉の父渋川義鏡が失脚していたことで義廉の立場は微妙なものとなり、ついに文正元年(一四六六)八月ニ十五日、斯波氏の家督と、越前・尾張・遠江三力国の守護職を義廉から義敏に改補するという命令が出された」が、「義廉はそれに抵抗した」


 「義政の次期将軍後継者に定められていた義政の弟義視が、幕府の二人の実力者、すなわち細川勝元と山名宗全に「伊勢貞親が私を誅殺しようとしている」と訴え出たことで、勝元・宗令の糾弾を受けた貞親は逃亡し、その貞親の後押しで斯波氏の家督をついたばかりの義敏も逃亡」し、この「文正元年の政変」と、「将軍家の家督争い、それと斯波氏と同じく管領家である畠山氏の家督争いとがからみ、応仁・文明の乱へ突入していく」


 「将軍義政は幕政をとろうという気持ちはなく、隠退し、東山銀閣で趣味三昧の日々を送りたいと考え、弟の義尋を還俗させ、義視と名乗らせ、次期将軍候補としていた」が、「正室日野富子が義尚を産んだことで、富子は義尚を後継者にしたいと考え」、「義政が義視の地位を保証し、後見人として細川勝元を指名していた」ので、「細川勝元に匹敵する実力を持った山名宗全を後ろ楯とした」

 

 「畠山氏でも政長と義就が対立していた」ので、「足利義視-細川勝元―斯波義敏-畠山政長ラインと、足利義尚―山名宗全-斯波義廉-畠山義就ライン」が対立することになった。


 応仁元年(一四六七)「の正月五日、それまで管領だった畠山政長が突然罷免され、十一日には斯波義廉が管領に就任し」、「管領斯波義廉は、畠山政長の屋敷を義就に引き渡すよう命じたが、十七日、政長け自分の屋敷に火をかけ、上御霊社に立て籠って挙兵をし」、「翌十八日、そこを義就の軍勢が攻めたて」、「応仁・文明の乱」が勃発する。


 「勝元は将軍義政を自分の陣営に招くことに成功し、各地の守護大名に招集をかけ、応じた車勢は二八万に達し、宗全の側にも一一万が集ま」り、「勝元は相国寺に本陣を置き、宗全は自分の屋敷を本陣とした」が、「そこは相国寺の西にあたっていたので、勝元側か乗軍、宗全側が西軍とよばれるようになった」

3)斯波氏の分裂
 

 小和田論文は、室町幕府の分裂について、以下のようにいう。


 「応仁二年(一四六八)十ー月になって、義視加東軍から西軍に移ったことで、義視は将軍として振る舞」い、「東軍の将軍義政に対し、西軍の将軍というわけで、西軍を西幕府、東軍を東幕府というようにな」り、「斯波義廉は西幕府の管領を務め」、「東幕府の斯波氏は松王丸改め義良が家督をついで」、「名を義寛と改めているが、この義良=義寛が越前から尾張に本拠を移しており、清須を守護所とする」

 

 「文明九年(一四七七)十ー月に、大内政弘・土岐政頼ら西主力が京都の陣所を引き払って帰国したため西幕府は解散」し、「斯波氏の家督は義良=義竟に一本化し」、「斯波義廉は、義良と戦っていた越前の朝貪氏のもとに身を寄せていった」(「新修名占岸市史」第二巻)。

 

4)織田氏の分裂

 

 小和田論文は、織田氏の分裂について、以下のようにいう。

 

 「将軍義政は、斯波義敏の子義良を斯波氏の家督として認めて、義良派の尾張守護代織田大和守敏定に尾張進攻を命じ」、「文明十年(一四七八)九月、敏定は京都から尾張に下向し、十月には織田伊勢守敏広と戦いをくりひろげ」るが、「このとき、敏定が本拠としたのが清須城であ」り、尾張守護代織田氏は「岩倉城の伊勢守系織田氏と、清須城の大和守系織田氏の二つに分かれる」


 「敏広は美濃の守護代斎藤妙椿の婿だったので、妙椿の支援を得て善戦したが、中央で、西幕府がすでに解散しているという状況で、それ以上の戦いは無理と判断し、翌十一年正月、敏定に尾張国内の二郡分を安堵するという条件で講和が成った」が、「その後、敏定側が次第に優勢となり、同十三年二月の戦いで敏定側が勝ち、このあと、守護斯波義良、守護代織田敏定という形で推移し、清須織田氏の本拠清須城が斯波氏の守護所ともなる」

 

 「このことが、のち、上四郡(丹羽・葉栗・中島・春日井)守護代岩倉織田氏、下四郡(海東・海西・愛知・知多)守護代清須織田氏に分かれる起点となった」

 

 「尾張守護代は二家に分かれ、上四郡守護代が岩倉城の織田氏、下四郡守護代が清須城の織山氏で、岩倉城の織田氏は受領名伊勢守を世襲しているため伊勢守系織田氏、清須城の織田氏は大和守を世襲しているので大和守系織田氏といわれている」が、「尾張織田氏の始祖ともいうべき織田常松が伊勢入道と称していたことから、岩倉城の伊勢守系織田氏が尾張織田氏の嫡流だったものと思われ」、「江戸時代になって作られた「織田系図」のすべてが、信長の家が嫡流だったように描くのはまちがっている」
 

 三木清一郎編「愛知県の歴史(山川出版社)」(以下「三木論文」という)は、織田氏の分裂について、以下のようにいう。


 「応仁の乱をはさんで尾張を舞台にたたかわれた、守護斯波家・守護代織田家をそれぞれ二分する争乱は、二〇年間におよんだ」が、「その間に、守護代家の織田敏広は、守護所下津を焼かれて岩倉を本拠とするようになり、清須を本拠に守護斯波義寛(義良)を擁する織田敏定の系統が、以後あらたな守護代家となった」

 

 「岩倉の敏広の死後、その子千代夜叉丸(寛広)も斯波義寛のもとに帰順して、尾張は形のうえで統合され」、「長享元(一四八七)年の将軍足利義尚および延徳三(一四九一)年の将軍同義材による両度の近江六角氏攻めには、守護義寛が清須・岩倉両織田氏の軍勢を率いて参陣している」

 

 「しかし、明応四(一四九五)年に美濃守護代家で斎藤利国(妙純)とその家臣石丸利光の内紛(船出合戦)がおこると、岩倉の寛広は斎藤氏と結び、清須の敏定は石丸氏と結んで、両織田氏の抗争が再燃し」、「その結果、清須方では敏定が陣没し、嫡子寛定も戦死するなど大きな痛手を受け、その跡は寛定の弟寛村がついだ」

 

 「斯波義寛をついた子の義達は、今川氏親によって攻略された分国遠江の回復をめざして、永正八(一五一一)年以降遠征して今川氏とたたかうが、もはや父の代のように両織田氏を組織する力はなく、降伏して尾張に送還され」、「守護斯波氏の権威はいよいよ失墜し、以後清須の守護代織田氏に養われる傀儡となっていく」

 

 「代々の通称名から岩倉織田氏を伊勢守家、清須織田氏を大和守家とよぶが、戦国期の尾張は北部(上郡)をおさえる岩倉方と南部(下郡)をおさえる清須方によって、実力に基づく分割支配が行われた」

 

(d)織田家の系譜

 

 渡邊論文、小和田論文、三木論文の指摘から、室町幕府の分裂が斯波氏の分裂を呼び、尾張守護代織田氏の分裂ん帰結していったことが分かるが、これらの論文の記述から織田氏の系譜を推定すると以下のようになる。

 

 岩倉織田氏:敏広ー寛広

 

 清州織田氏:敏定ー寛定=寛村(寛定)の弟

 

1)織田常竹

 

 菊池浩之「織田家臣団の謎 角川選書598(角川書店)」(以下「菊池論文」という)所収のP25「「尾張群書系図部集」掲載の織田家系図」(以下「織田家系図」という)によれば、常松の弟に常竹という人物が記載され、又代、出雲守と表記されている。

 

 清州織田氏は下四郡の守護代になる前には、在京する守護代を尾張国に在国して補佐する又守護代の家系であったので、この織田常竹は清州織田家の初代であったと考えられる。

 

2)織田常任と楽田織田氏

 

 「群書系図部集」では、常松、常竹と同世代の人物として常任という人物が記載され、その子の勝久、その子の敏定とされていて、勝久と久長は弾正左衛門を称している。

 

 敏定は分裂後の清州織田氏の初代で、その「三奉行」の一つが代々弾正忠を名乗った織田信長の系統であったので、勝久と久長が弾正左衛門を称しているのは、「弾正」が清須織田氏の一族の通名として使用されていたことを示しているものと考えられる。

 

 そうすると、「寛政重修諸家譜」の織田久長の父の織田「某」は、常松の兄弟の常任の子の勝久で、おそらく常松の養子となったのだと考えられる。 

 

 織田勝久は初めに尾張北部の丹羽郡に楽田城を築城して居城としていたというので、丹羽郡付近に所領を持っていたと考えられるが、織田勝久がおそらく実子がいなかった織田常竹の養子となって在国の尾張守護又代家を継いで大和守を名乗ったために、木ノ城から尾張守護所の下津城に移り、尾張守護又代家の所領を相続したと考えられる。

 

 「群書系図部集」では、織田勝久の子の織田久長の弟に六郎を名乗る織田常孝という人物がいるが、織田久長が五郎を名乗っていたので、織田久長が兄で織田常孝が弟となり、おそらく織田常孝は織田勝久の丹羽郡付近の本来の所領を相続し、木ノ下城を居城としたのだと考えられる。

 

 三木論文は、織田家の分家について以下のようにいう。

 

 「戦国期もくだると、岩倉系から分出した小口(丹羽郡人口町)・楽田(犬山市)の両織田氏、清須の三奉行家といわれる因幡守・藤左衛門・弾正忠の三家など、各地の織田支族が独自の勢力をきずきはじめ、尾張の分裂状態はさらに進んだ」

 

 そうすると、おそらくこの系統が楽田織田氏になったのだと考えられる。

 

 なお、「寛政重修諸家譜」では、織田常孝の子孫に織田勝秀を載せその子の織田達勝が清州織田家の織田達定の跡を継いだとしているが、「群書系図部集」では、織田達勝は織田達定の実子とされている。

 

 織田達勝は織田達定の養子だったという伝承があることからうると、おそらく織田達勝は楽田織田氏の織田勝秀の子であって、清州織田家の織田達定の養子となって、清州織田家を継いだのだと考えられるが、織田達定の実子がいなかったので織田達勝が養子となったことから、また、織田勝秀の先祖にの織田常孝の「孝」の字が織田広孝の「孝」の字と対応することから、「群書系図部集」では織田達定の実子とされている織田達勝と織田広孝の兄弟は、楽田織田氏の織田勝秀の実子であり、織田達勝が清須尾張家を継いだので、おそらく織田広孝が楽田織田氏を継いだのだと考えられる。

  

 なお、「群書系図部集」では、織田達勝は織田印旛家の織田達広の子の織田信友を養子にしているので、嫡流と諸流の間での養子縁組による相続は、織田氏では頻繁に行われていたことが分かるとともに、こうした嫡流の系譜が実子相続で継承されなかったという点も、清州織田家や岩倉織田家の支配の不安定さに繋がっていたのだと考えられる。

 

 「寛政重修諸家譜」では、淳広の弟の「某」が大和守を称し、その子の久長、その子の敏定その子の寛定、寛定の弟の寛村、その子の達定、その子の達勝と、大和守を称して続くが、寛定だけは近江守なのはおそらく家督を継ぐ前に戦死したので大和守を襲名出来なかったためであったと考えられる。


 そうすると、「寛政重修諸家譜」の系譜の、淳広の弟の「某」は、「群書系図部集」の系譜の織田常任の子の織田勝久であり、おそらく織田常竹の養子とすべきところを織田常松の実施で織田淳広の弟と誤って記載したものと考えられる。

 

 このように、織田氏の系譜では夫々の系統間での養子縁組や婚姻が多く行われており、嫡流が絶えた時には傍流の一族から養子を迎えて系譜が繋がれている。

 

3)小口(犬山)織田家


 菊池論文所収の織田家系図によれば、「群書系図部集」では、織田郷広は又二郎と名乗り、その弟に三郎と名乗った「某」がいて、その「某」の子に三郎を名乗る広久がいたとされ、分裂後の岩倉織田氏初代の敏広には、遠江守を名乗った広近、紀伊守を名乗った広遠がおり、広近には、遠江守を襲名した寛道、与五郎を名乗った「某」、与三郎を名乗った広忠、三河守を名乗った広成がおり、「某」の子の敏信が伊勢守を襲名して寛広の次代の岩倉織田氏の当主となり、その子の信安、その子の信賢と続く。

 

 なお、織田信安を織田広高の子とする系譜もあるが、世代的には「群書系図部集」の敏信が広高に相当するので、おそらく広高と敏信は同一人物であると考えられる。

 

 「群書系図部集」では、織田寛広は織田敏広の実子であるとされているが、織田寛広の名乗りの与次郎は、織田敏広の弟の織田広近の子の織田広忠の与三郎、同織田「某」の与九郎と同じような名乗りであり、織田寛広は織田敏広の養子であったという伝承もあるので、おそらく織田寛広は織田広近の実子で織田敏広の養子となって岩倉織田家を継いだのだと考えられる。

 

 織田広近はまず小口城を築城しその後木ノ下城を築城し居城としたとされるが、織田広近系統に養子に入った織田信秀の弟の織田信康が木ノ下城を廃城として移築して築城されたのが犬山城なので、この織田広近系統が三木論文がいう小口の織田氏、つまり犬山織田氏であると考えられる。

 

 そうすると、岩倉織田氏は敏広の次代の織田寛広を庶流の小口織田家から養子として迎えたのだと考えられる。

 

 なお、織田寛広も子がなかったようで、兄弟の「某」の子の織田敏信を養子にして岩倉織田家を継がせている。

 

 また、「群書系図部集」では、織田信秀の兄弟の織田信康が織田寛近の養子となって小口織田家の後継の犬山織田家を継いだとされているが、天文十二年(一五四四)の織田信秀の美濃出兵のときに、小口城主の織田与十郎寛近が立政寺(岐阜県岐阜市西荘)に禁制を掲げているので、世代的には織田寛近と織田信秀の父の世代であったと考えられるので、織田広近と織田寛近の間に一世代入るはずではある。

 

 織田寛近が織田広近の子であるのか孫であるのかははっきりとはしないが、この伝承は、織田広近の小口織田家を継承したのがその子か孫の織田寛近であって、織田寛近の系統が以降小口織田家を継承していったことを示していると考えられる。

 

 このように、岩倉織田家での織田敏広以降の継承も、清州織田家での織田敏定以降の継承も、嫡流に実子がなく庶流から養子を迎えて継承していくということが繰り返されたが、こうした継承の不安定さも岩倉織田家や清州織田家が衰退していった一つの要因であったと考えられる。