織田氏の出自と織田一族について(4) | 気まぐれな梟

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 今日は、井上陽水の「断絶」から「感謝知らずの女」を聞いている。

 

(4)斎藤氏の実体は秦氏

 

(a)越前秦氏に婿入りした藤原利仁の父親と藤原利仁

 

 「福井県史 通史編2 中世」(以降「通史」という)は藤原利仁と越前秦氏が強く繋がっていたと以下のようにいう。


 藤原利仁の母は「尊卑分脈」に越前の国人秦豊国の女とある。越前秦氏は、おもに坂井・丹生・足羽の越前北部の各郡に展開していた。「尊卑分脈」によれば、利仁の祖父高房が越前守に任じられているので、それが契機となって父時長が秦豊国に婿入りし、やがて利仁が生まれたのであろうか。芥川竜之介の短編「芋粥」の源話となった、「今昔物語集」二六―一七の著名な話では、利仁は敦賀の豪族有仁の婿だったとあるから、彼も父と同じような結婚をしたことになる。

 

 通史が指摘するように、藤原利仁の妻の父親の姓氏は「今昔物語集」には書かれていないが、通史がいうように、藤原利仁の父親が秦氏の娘と結婚し、敦賀郡の越前秦氏に入り婿として入ったのであれば、藤原利仁も同じ越前秦氏の女を妻にして、越前秦氏との結合を強くしたのだと考えられる。

 

(b)坂井郡を本貫とした越前秦氏

 

 「類聚国史」に、天長九年(八三二)六月、荒道山道を作った坂井郡の秦乙麻呂に越前国正税三百束を給すとある。荒道山道とは北陸道の一部、すでに荒廃していたかつての愛発関を通る山道であろう。この関は敦賀郡疋田にあったとみられ、敦賀の松原駅に向かう。乙麻呂は坂井郡を本貫とするとともに、敦賀方面にも影響力を行使する豪族であったと思われる。利仁の母方の祖父にあたる秦豊国も、彼の一族だったかもしれない。利仁の敦賀との縁もそのあたりから生じた可能性がある。

 

(c)越前国の土地開発を推進したのは越前秦氏

 

 藤原利仁のひ孫の代に分岐した疋田系・河合系斎藤氏は越前平野の南北に呼応する形で展開している。

 

 通史が指摘するように、越前秦氏の本貫が坂井郡であったとすれば、「白山豊原寺縁起」に「坂南北、是れ則ち豊国の家領也」との記述がみえるから、斎藤氏(溯って秦氏)の本来の勢力圏が、坂北の疋田系、坂南の河合系とに分割された可能性がある。

 

 摂関期の農村は、今日では想像もつかない荒涼たる景観を呈していた。未開地が多く、既耕地でも畠の比重が高い。水田は荒田が多く、連年の耕作にたえない不安定耕地も少なくなかった。そこで十一世紀以降の国衙は、未開の荒野・空閑の開発と荒廃公田の再開発を奨励し、後者のために荒野開発なみの特権を与える政策的対応をとった。
 

 こうしたなかで開発(再開発)に取り組んだ人びとに、国衙の勧農を私的に担った在庁官人・郡郷司、さらには中央の中下級官人や中央大寺社の僧侶・神人らがいた。当時私領主とよばれた人びとで、彼らの一部は十一世紀後半になると、土地と住民に対する支配力を強め、そのなかから在地領主(開発領主)とよばれる階級が登場してくる(高橋昌明「中世社会の展開」「中世民衆の世界」)。
 
 摂関期の不安定耕地は、天水に頼るなど水利施設の貧弱さに主な原因があったから、開発・再開発は潅漑・排水施設などの整備、河川の統御や用水路の掘削など、用水面での前進なしにはありえない。

 

 「通史」の指摘するように、当時の越前国には、未開の荒野・空閑と荒廃公田が広がっていたとすれば、それらの未開地や荒田、不安定耕地を開発していくためには、潅漑・排水施設などの整備、河川の統御や用水路の掘削など、用水面での前進は必須であったが、それを可能とする力を持っていたのは都から下向してきた藤原利仁達ではなく、越前国の在地に、水銀と織物のネットワークを構築していた越前秦氏であったと考えられる。

 

(d)越前秦氏が系譜を仮冒して誕生したのが斎藤氏だった可能性

 

 通史が指摘するように、越前秦氏の本貫が坂井郡で、その一族が敦賀郡の秦豊国であったのならば、斎藤氏の実体は越前秦氏であったと考えられる。

 

 藤原利仁の子叙用の孫で越前国押領使であった伊傳が越前斎藤氏の祖であり、伊傳の子為延が疋田系斎藤氏の祖、同則光が河合系斎藤氏の祖であるとされているが、入り婿によって越前秦氏に入った藤原利仁のひ孫の代で初めて斎藤氏を称し、その子の代で越前秦氏の本貫の地の坂井郡の開発に着手しているというのは、入り婿と在地の開発の間にかなりのタイムラグがある気がする。

 

 この間の事情について、「通史」はこのように推定している。

 

 藤原利仁の母が越前秦氏で坂井郡を本拠としており、貞正・為延らが系図上その後裔となっていることは暗示的である。斎藤氏は秦氏の転身した姿か、もしくはその跡を継承した新興勢力だろう。後者だとしても、都に勇名を馳せた利仁将軍の末裔を名のるのは、一族の売りだしにとって損にはならない。

 

 入り婿と在地の開発の間にかなりのタイムラグということも含めると、斎藤氏は秦氏その跡を継承した新興勢力ではなく、秦氏の転身した姿であったと考える方が自然だと思う。

 

 おそらく、藤原利仁の父親と藤原利仁の二代にわたる越前秦氏の女との婚姻と、それが実質的には越前秦氏への藤原利仁の父親と藤原利仁の二代にわたる入り婿であったという事実を根拠として、坂井郡の開発に着手した、本来は越前秦氏の人物であった為延と則光が越前国押領使の伊傳の子とされて、藤原利仁の子孫を仮冒して斎藤氏を称し、その後、伊傳が斎藤氏を称したとされたのだと考えられる。

 

 「通史」は、「尊卑分脈」では伊傳・為延・則光にいずれも越前国押領使の傍注がついているというが。それが正しければ、為延・則光は伊傳の養子とされて、藤原氏を称した可能性がある。 

 

 また、「通史」は、伊傳・為延・則光が越前国押領使に任じられたという伝承には疑問があると、以下のようにいう。

 

 越前では溯る天暦六年(九五二)三月、国司から太政官に追捕押領使の停止申請が出されている。押領使の「随兵士卒」がその威を借りて国内を横行し、犯罪を口実に「人民を脅略」するので、管内が静まらないというのが理由である。


 追捕押領使が国単位に置かれたのは、国司支配に反抗する者を軍事的に抑え込むための措置であったはずだが、ここでも彼らが秩序の紊乱者としてたちあらわれているのである。


 押領使には、追捕押領使のほか諸陣押領使・官米押領使が知られている。前者は一陣をあずかる戦闘指揮者である。後者は、平時官物を京都に輸送する護送兵の長としての押領使で、国衙が「武者の子孫」を指名することによって成立する(戸田芳実「初期中世社会史の研究」)。

 

 中央での立場からすると、為延や則光が常時運米警固の業に携わったとは考えにくい。

 

 こうした「通史」の指摘から、伊傳・為延・則光が越前国押領使に任じられたという伝承は不確かな面があり、それが事実ではなかったとすれば、伊傳・為延・則光の三人共に越前秦氏の人物で、伊傳の段階で藤原利仁の孫に系図を接合して、藤原氏を称し、その後、同じ秦氏の同族であった、織田盆地の剣神社の神官の忌部氏(斎部氏)と関係を構築して斎藤氏を称したのだとも考えられる。

 

 なお、藤原利仁の子の叙用、その子の吉信は、「通史」によれば、系図には名前が乗せられてはいるが、彼らの名前や活動は確実な史料にみえず、系譜の真偽を確かめる手段がない。

 

 そのため「通史」は、それなりの事実を明らかにできるようになるのは、重光・伊傳らの次の世代になってからである。だから北陸の諸豪族がその祖を系図の上で利仁につなげただけかもしれない、ともいう。

 

 こうした「通史」の指摘から、越前秦氏が系譜を仮冒して誕生したのが斎藤氏だった可能性は高く、それは、伊傳の代で藤原氏の系譜に接続したか、あるいは、その子の為延・則光の代で藤原氏の系譜に接続したのかの、どちらかであったと考えられる。

 

 なお、系譜の仮冒は、何の関係がない者同士の間で起こることは殆どなく、両者の何らかの関係が存在することを基礎にして仮冒が行われるのが普通であり、その場合には、婚姻や婿入り、養子縁組などが重ねられて、事態として同じ一族になっていた場合が多い。

 

 そうであれば、越前斎藤氏も、越前秦氏と実体としては一体化していたのだと考えられる。

 

(e)豊原寺

 

 なお、「通史」は、豊原寺について、以下のようにいう。

 

 豊原寺は丸岡町の市街地から東へ約四キロメートルの山間にある廃寺で、泰澄の草創といわれている。中世では平泉寺(勝山市)・大谷寺(朝日町)とともに、越前を代表した白山系の大寺であった。豊原寺縁起の末尾には元禄十六年(一七〇三)の年紀があるが、内容は応永二十三年(一四一六)までのことを述べており、原型は十五世紀中葉には成立していたようである。縁起の第三段には、利仁の崇敬のあとをうけて豊原寺が「当国坂北群(郡)斎藤の余苗」によって支えられてきたとあり、続いて天治元年(一一二四)疋田以成が豊原寺を再興した事情が述べられている。

 

 「通史」が紹介する、この豊原寺の「豊」は、藤原利仁の母は「尊卑分脈」に越前の国人秦豊国の女だったとされる、秦豊国の「豊」と共通するので、おそらく越前秦氏の氏寺が豊原寺であり、そうであったので、越前斎藤氏も自分たちの出自の寺として豊原寺を支え、再興させたのだと考えられる。

 

 そうすると、豊原寺への越前斎藤氏のかかわりからも、越前斎藤氏の実体は越前秦氏であったと考えられる。

 

 このように、越前斎藤氏がそうならば、もしかすると、加賀斎藤氏や加藤氏も同じように、在地豪族が藤原氏に系譜を接合させたことで誕生したのかもしれない。

 

(5)これまでのまとめ

 

 剣神社に遷座・合祀される前の織田神社の神官はおそらく秦氏であったが、織田神社の剣神社への遷座と合祀によって、織田神社の神官が剣神社の神官になるとともに、国家的な祭祀に係る中央豪族の忌部氏の同族とされた。

 

 藤原利仁がは越前秦氏に婿入りして越前国に下向した藤原氏と在地の有力豪族の秦氏が結合し、その結合を背景に、越前秦氏の人物が藤原利仁の子孫を称し、さらに、剣神社の神官で織田荘の荘官の斎部氏と結合することで、斎藤氏が誕生した。

 

 そして、室町時代に斯波氏が越前国守護となると、織田荘の荘官が武士に転化した織田氏が斯波氏の重臣となって、やがて、斯波氏の主義領国の尾張国に守護代として下向することで、尾張国に織田氏が広がっていく。

 

 そうすると、織田氏の出自は、越前秦氏であったと考えられる。

 

 なお、このように、古代氏族が歴史の荒波を乗り越えて、系譜果房などで出自を粉飾しながら存続する例はかなりある。

 

 渡邊大門「戦国大名は経歴詐称する(柏書房)」(以下「渡邊論文」という)が検討している戦国大名の出自のうち、宇喜多氏、大内氏、浅井氏、徳川氏はおそらく古代氏族の出自、それも渡来系の古代氏族の出自であったと考えられ、渡邊論文は検討してはいないが、阿波の三好氏、土佐の長宗我部氏、近江の佐々木氏、遠江の井伊氏も古代氏族の出自で、おそらく長宗我部氏、佐々木氏は渡来系氏族の出自であり、他にも、藤原秀郷の子孫を称する武士たちにも古代氏族に出自するものが多く含まれていると考えられる。

 

(6)織田氏の平家落胤説についての補足

 

 渡邊論文は織田氏の平家落胤説について以下のようにいう。

 

 「元暦二年(一一八五)の「壇ノ浦の戦い」において、平資盛は亡くなった。資盛には寵妾がおり、親真という子がいた。親真は母とともに近江国津田郷(滋賀県近江八幡市)に逃れ、母は豪族と結婚した。ある時、越前国織田荘(福井県越前町)の神官が親真のもとを訪れ、養子としてもらい受けた。その後、親真は神職を継ぎ、織田氏の祖となった」

 

(a)近江国津田郷は織田氏とは無関係

 

 織田氏の平家落胤説では、織田氏は元は津田氏であり、越前国の織田荘の神社の神官の養子になって織田氏になったとされている。

 

 織田信長の弟の織田信勝の子の津田信澄など、織田信長の同時代以降の織田氏の傍系の人物に津田氏が登場することから、織田氏と津田氏の関係について議論になることがある。

 

 しかし、織田信長の同時代以前の織田氏の系譜には津田氏を名乗る人物は確認できない。

 

 また、津田氏が登場するのは織田氏の平家落胤説の登場を前提にしている。

 

 織田氏の平家落胤説が織田信長によって主張されたものであったとすれば、津田氏の登場も織田信長が行ったことであり、そうすると、津田氏のいたという近江国津田郷が、織田信長が安土城を築城した地の近くであったことも、織田信長の近江国への進出とそこの中央部分への本拠地としての安土城の築城に合わせて、安土城の付近の津田郷を織田氏の先祖の地として設定したと考えられる。

 

 また、織田氏の平家落胤説では、織田氏は近江の出身であるという主張もされており、その主張は、尾張一国の大名から天下に号令しようとする織田信長が、近江国に拠点を形成したのは、先祖の地に帰ってきたからであったという主張でもあり、当面の具体的な効果としては、近江国の武士団の織田家家臣団への統合を容易に進めるための主張でもあり、尾張国の在地領主であった武士たちの安土城の城下町への移住を促すための主張でもあったと考えられる。

 

 そうであれば、織田氏の傍系の人物が津田を名乗るようにしたのは織田信長であり、織田信長が創出した織田氏の平家落胤説が流布され、信じられていくのと並行して、織田氏の傍系の人物が津田を名乗ることも広がっていったのだと考えられる。

 

 昔の近江国津田郷、現在の滋賀県近江八幡市の南津田町には近年、織田氏の発祥の地の石碑が建立されたが、織田氏の発祥を証明するようなものは何もなく、北津田町には北津田城の城跡があるというが、小規模な城跡であり、おそらく戦国時代の土豪の城の跡であり、ここも織田氏の発祥を証明するものではない。

 

 織田信長が安土城の築城を開始したのは天正四年(一五七六)であるので、天正二年(一五七四)の織田信長の従三位に叙任を契機に、織田氏が藤原氏の出自から桓武平氏の出自へと変更されたとすれば、天正二年(一五七四)から天正四年(一五七六)の間に、織田氏の平家落胤説が創作される過程で、安土城の築城計画の浮上と並行して、織田氏が津田氏に出自するという伝承が創作されたのだと考えられる。

 

(b)親真は架空の存在

 

 織田氏の平家落胤説では、織田氏の祖の名は親真であり、越前国の織田荘の神社の神官の養子になって織田氏になったとされている。

 

 これまで見てきたように織田氏は、古代氏族で渡来系氏族の越前秦氏のうち織田平野に住んで織田神社を奉斎した一族に出自し、織田神社の剣神社への遷座・合祀によって斎部氏となり、越前藤原氏と利仁流藤原氏の縁組によって越前秦氏から利仁流藤原氏の一族として越前斎藤氏が誕生するとその同族とされた。

 

 こうした同祖・同族関係の成立は、その謂れを説明するその時点時点での系譜と物語を伴ったはずであり、織田氏が越前斎藤氏の同族とされたとすれば、織田氏の祖が越前斎藤氏の系譜の中に、疋田系斎藤氏か河合系斎藤氏のどちらかの一族として位置づけられていたはずである。

 

 また、斯波氏が越前国・尾張国・遠江国守護職になった室町時代には、織田氏は尾張守護代という重臣であったが、斯波氏が尾張国守護職になったのは応永七年(一四〇〇)で、応永十二年(一四〇五)には尾張国守護所の下津城の別郭として清須城を築城している。

 

 渡邊論文は織田氏の初代の尾張守護代の織田常松について、以下のようにいう。

 

 最初に守護代を務めたのは、織田伊勢入道常松(常昌)であり、その発給文書は少なからず残っている。常松は、応永九年(一四〇二)に前任の甲斐将教(祐徳)と交代で、その職に就いた。常松が亡くなったのは、永享三年(一四三回三月以前であるといわれている(「建内記」)が、それ以外の詳しい経歴は不明である。

 

 そうすると、織田氏は、応永七年(一四〇〇)以降に尾張国に下向し、応永九年(一四〇二)に尾張国守護代になったと考えられる。

 

 斯波氏が越前国守護職になったのは建武元年(一三三四)なので、織田氏と斯波氏との関係はそれ以降になるが、そこから、尾張国に下向して応永九年(一四〇二)に尾張守護代になるまでの間に、織田氏は斯波氏の家中の重臣となったということになる。

 

 そうすると、斯波氏が越前国守護職になった時点で既に、織田氏は越前国内の有力勢力であったと考えられるので、平安時代末から鎌倉時代にかけて、織田氏の祖は越前斎藤氏の系譜の中に、疋田系斎藤氏か河合系斎藤氏のどちらかの一族として位置づけられていたはずである。

 

 しかし、現行の越前織田氏の系譜には、その痕跡はなく、親真の「親」の字や「真」の字を名とする人物は殆どなく、それらの字を通字とする系譜もないので、おそらく親真は架空の存在であったと考えられる。 

 

 もしかすると、「親真」の名は、「真」の「親」=真実の祖先という意味で創作されたのかもsれない。

 

 以上、とりあえずここで織田氏の出自の議論を終え、以降は、室町時代の尾張国での織田氏一族について検討していきたい。