織田氏の出自と織田一族について(3) | 気まぐれな梟

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 今日は、井上陽水の「断絶」から「もしも明日が晴れなら」を聞いている。

 

 渡邊大門「戦国大名は経歴詐称する(柏書房)」(以下「渡邊論文」という)は織田氏の出自についての検討の続きである。

 

(3)忌部氏と伊部臣

 

(a)伊部臣は渡来系氏族の伊部造

 

 掘大介の「古代敦賀の神々と国家(雄山閣)」(以下「掘論文」という)によれば、剣神社の現在の由緒では、伊部臣が座ケ岳の峯に神剣を奉斎し鎮座していたものを、神功皇后摂政十三年二月に忍熊皇子が現在の地に勧請したとされている。

 

 この伊部臣について、掘論文は以下のようにいう。

 

 越前国敦賀郡人 右大史正六位上伊部造豊持 賜姓飯高朝臣、即改 本居貫左京五条三坊、其先出自孝昭天皇皇子 天足彦国押人命也 「日本三代実録』貞観十五年十二月癸巳条

 越前国敦賀郡出身で、右大史正六位上の伊部造豊持が飯高朝臣の姓を賜うとの内容である。貞観十五年(八七三)の記事であるので、九世紀における足取りが知り得る。
 

(b)伊部造は秦氏

 

 この伊部造について、堀論文は以下のようにいう。

 

 「新撰姓氏録」山城国諸蕃によれば「伊部造 出自百済国人乃里使主也」とあり、百済国人の乃里使主が祖で、伊部氏は渡来系氏族の子孫とみられる。

 

 また、堀論文は、敦賀郡や織田盆地に渡来系氏族の痕跡が強く存在していると以下のようにいう。

 

1)鉱物資源と伊部造

 

 「延喜式」巻第一〇神名下収載の敦賀郡「伊部磐座神社」は、その社名から伊部郷の地にある磐座をもとにした神社で、伊部氏の奉斎した神社の鎮座地とみられる。

 

 剣神社の縁起中にある座ヶ岳の別名、荒暗嶽も磐座信仰の存在をうかがわせる。祭祀の中心となった氏族は秦氏あるいは伊部氏など渡来系の氏族とみられる。境内隣接地から出土した陶質土器(五世紀後葉~六世紀前葉)は、その当時の祭器として使用された可能性が高い。

 

 磐座といえば織田盆地北部に越前町岩倉の地名がある。集落の裏山は石切山と呼ばれ、中世には良好な石の産出地で、軽石の切石が越前窯体の強度・耐久性を高める口石に用いられる。岩倉の北境は越前町の糸生地区(旧朝日町)と接し古代の丹生郡との境界にも相当するので、伊部にある磐座神社は磐境祭祀ととらえられる。 

 剣神社境内東側の隣接地では過去の井戸掘削中に陶質土器の高杯二点が採集された。ともに五世紀後葉から六世紀前葉にかけての時期で、朝鮮半島束南部の新羅ないし新羅の影響下のある地域で焼かれたとみられている。

 

  日本海沿岸地域に接する丹生山地では渡来系とみられる考古資料が点在し、奈良時代の敦賀郡伊部郷には「間人石勝」「秦日佐山」など渡来系氏族の存在を思わせる史料も存在している。

 織田には渡来系遺物が確認される。ちなみに剣神社の歴代の神官は忌部氏である。別系統ととらえられるが、仮に伊部氏が斎戒を意味する忌部に由来すれば、中臣氏とともに朝廷の祭祀を担当した中央氏族との関係が指摘できる。ちなみに伊部郷は天平神護二年(七六六)「越前国司解」に記載があり、その存在が明らかになっている。

 こうした堀論文の指摘から、忌部氏の同族とされている伊部臣は、本来は伊部造という渡来系氏族であり、その最初の氏姓は、おそらく秦氏であったと考えられる。

 

2)丹生(水銀)と秦氏

 

 大和岩雄の「続 秦氏の研究(大和書房)」(以下「大和論文1」という)は、丹生(水銀)と秦氏の関係について、以下のようにいう。

 

 加藤謙吉は土佐の丹生と秦氏の関係について、


 土佐には奈良時代の吾川郡に秦勝がおり、長岡郡には仁平元年(一一五一)豊楽寺の薬師堂造立に喜捨した結縁者のなかに秦氏の名がみえる。さらに同国の幡多郡の郡名や白鳳・奈良時代の寺院址(秦泉寺廃寺)のある土佐郡秦泉寺の地名も秦氏に関連するとみられ、秦氏集団の居住の痕跡が認められる。


 しかもこれらの分布地域と符合する形で、現高知県吾川郡池川町土居・長岡郡大豊町穴内・土佐郡土佐山村土佐山などでは、近代に入って水銀鉱山が経営されており(現在は休業中)、ニウの名を持つ中村市入田(旧幡多郡具同村)の地で採取された土壌からは、〇.〇〇〇六%という水銀含有値が報告されている。

 

 土佐国にはこの他にも、安芸郡に「丹生郷」の郷名があり(「和名抄」)、各地に仁尾・仁井田・入野・後入・丹治川(立川)など朱砂採掘とかかわる地名が残り、その多くは、微量分析の結果、入田と同じく高い水銀含有量を持つ。


と書いている。

 讃岐の秦氏と丹生の関係について加藤謙吉は、「讃岐では大内∴二木・山田・香河・多度・鵜足の諸郡秦氏・秦人・秦人部・秦部など泰系集団の濃密な分布が認められる。

 

 大内郡には「和名抄」に「入野」の郷名が見え、東急本や伊勢本では「尓布野也」(にふのや)の訓を施している。

 

 「平家物語」は「丹生屋」と記すが、松田氏が同郷に比定する香川県大川郡大内町町田の丘陵で採取した土壌からは、○・○○三〇%という水銀含有値が析出された。

 

 入野郷には寛弘元年(一〇〇四)の戸籍の一部が残存し、秦(無姓)二十数名と大(太)秦(無姓)三名の人名を掲げている。入野郷が秦氏の集住地であったことは少なくとも事実であろう」と書いている。


 四国の水銀(丹生)と秦氏・秦の民の関係だけでなく、若狭・越前の両国についても、加藤謙吉は、「朱砂の産地とみられる若狭国遠敷郡と三方郡、越前国敦賀郡と丹生郡はすべて秦系集団の分布地である」と書き、「「和名抄」に「上丹郷」、「長屋王家木簡」に「下人里」と記す近江国坂田郡の上丹生・下丹生(現滋賀県米原町)の地や紀伊国安諦郡の丹生の地(現和歌山県有田郡金屋町丹生)も、松田氏の調査によれば古代の朱砂産出地とみられる。

 

 坂田郡には秦(無姓)と秦人がおり、安諦郡には平城宮跡出土木簡に「幡陥郷」の戸主としての秦人の名がみえる」と書いている。


 このように四国の丹生地名の朱砂産地は、ほとんど秦氏・秦の民にかかわるが、大和の宇陀に隣接する伊勢の丹生産地も秦氏・秦の民にかかわっている。

 

 古くから水銀の産地としてもっとも有名なのは伊勢国である。「続日本紀」の文武天皇二年(六九八)九月二十八日条に、「伊勢国は朱砂・雄黄」を献じたとある(他に「朱砂」を常陸・備前・伊予・日向が献じ、豊後が真朱を献じている)。

 

 松田育男はこの六力国が水銀産地であることを現地に行って確認して、「この六国のうちでも、記録の上で最も輝かしい実績を示しだのは伊勢の水銀であろう」と書く。


 伊勢水銀の主産地は現在の多気郡多気町丹生で、この地には水銀鉱山が多数あった。この地は古代の飯高郡だが、「延喜式」神名帳にはこの郡の式内社を九座記す。二社は丹生神社と丹生中神社である(飯高郡は現在は多気郡で、二社は多気町丹生にある)。

 

 「伊勢式内神社検録」は、「倭名鈔二飯高郡丹生ノ郷アリ。今猶丹生村存シ、丹生大明神ノ旧社顕然トシテ本殿二字アリ」と書く。伊勢の水銀は近世初頭まで日本最大の産出量だったが、ほとんどが丹生郷からである。

 

3)秦氏の水銀採掘・交易ネットワーク

 

 大和論文1は、秦氏の水銀採掘・交易ネットワークについて、以下のようにいう。

 

 和田萃は「丹生水銀をめぐって」で、欽明天皇即位前紀に秦大津父が伊勢へ往来して商いをしていたとあるが、こ
の商いを「伊勢の水銀をめぐる伝承ではないかと解釈されている」と書いている。
 

 加藤謙吉は「秦氏はこの伊勢丹生産の朱砂・水銀の交易にも関与していたらしい」と書いて、秦大津父を取上げ、「横田健一が、古代鉱産史上に占める伊勢水銀の位置や、「今昔物語集」が巻二十九に、伊勢国に通い巨富を得た京の水銀商の話を記すことから、秦大津父が伊勢で商った品目はあるいは水銀ではなかったかという見解を発表した」と書くから、和田萃も横田説が念頭にあったのだろう。 

 

 加藤謙吉は伊勢の丹生に「秦系集団」が関与していたことについて、横田健一が秦大津父が「大いに富をなした」理由を、「日本書紀」(欽明即位前紀)が「伊勢に向りて、商価して來還る」と書いているから、伊勢の丹生(水銀)を「商いしか」と書いているのは、「十分に蓋然性を持つと考えてよいであろう」と書く。

 

 そして「秦系集団は、山背深草と伊勢という広域的なネットワークに立って、丹生山の朱砂・水銀の採掘・製錬・交易に関与し、利益を上げていたと推測できるのである」と書いている。
 

4)伊部臣と飯高朝臣

 

 堀論文によれば、越前国敦賀郡出身で、右大史正六位上の伊部造豊持が賜姓されたのは飯高朝臣の姓であったというが、この「飯高」は、大和論文1によれば、伊勢国の水銀のほとんどを産出した丹生郷があった飯高郡の「飯高」である。

 

 伊部造が賜姓された飯高朝臣は秦氏系の既存の氏族であったが、古代の改・賜姓は、既存の氏族の姓氏に改賜姓される場合は、その既存の氏の本宗などの同意が必要だったので、伊部造は飯高朝臣の同意を得たことで、飯高朝臣への改・賜姓が可能になったのだと考えられる。

 

 そうであれば、伊部造と飯高朝臣との間に何らかの関係があったはずであり、それはおそらく、両者に丹生が共通することかすれば、秦氏系氏族が構築していた丹生(水銀)の採掘と交易の全国的なネットワークに、伊部造も参加するとともに、そのネットワークの中で伊部造が重要な位置を占めていたという県警であったと考えられる。

 

5)織物と伊部造

 

 織田神社は「延喜式」巻第一〇神名下の敦賀郡内に収載されており、「オリタ」との古傍訓がある。これを「織り処」と解すれば機織ゆかりの神名は一〇世紀前葉まで遡る。

 

 蚕神を祀る奇女の機織伝承も古い可能性が高い。越前国敦賀郡には秦氏が存在し、叙神社境内隣接地を含めた丹生山地には陶質土器が点在するなど渡来系氏族の痕跡がうかがえる。

 

 また「延喜式」第二四主計上では越前国の出すべき調物として両面・九点・羅・糸・絹などの繊維製品の名しか見えないので、絹織物の一大生産地であったことを示している。

 

 織田盆地は標高四、五〇〇メートル程度の山岳地帯からなる丹生山地のなかで一定の広さを占めるので、織物産業の拠点としての地理的な条件が整っている。さらに盆地北部には糸生という地域があり、織田の地名由来と関連づければ盆地中心に鎮座する織田神社は蚕神を祀る織物ゆかりの地主神であった可能性が高い。

 

 剣神社に遷座・合祀される前の織田神社が蚕神を祀る織物ゆかりの地主神であったとすれば、その織田神社を奉斎したのは、養蚕に係る伝承を持つ秦氏であり、敦賀郡には秦氏が広範囲分布していたと考えられる。

 

 そして、秦氏が織田盆地に養蚕と機織とともに、朝鮮半島の巨岩祭祀に係る磐座信仰と座ガ岳を対象にした神体山信仰を持ち込み、丹生郡の丹生が辰砂であったように、周辺の鉱物資源の開発も行っていったのだと考えられる。

 

6)秦氏と養蚕

 

 大和岩雄の「秦氏の研究(大和書房)」(以下「大和論文2」という)は、秦氏と養蚕・絹織について、以下のようにいう。


 養蚕神社は、木島坐天照御魂神社の境内社で、「太秦」の地にあるが、この地は山城秦氏の本拠地であり、「新撰姓氏録」(左京諸蕃上)は、

 

 太秦公宿禰 秦始皇帝の三世孫、孝武王自り出づ。男、功満王、帯仲彦天皇幡%の八年に来朝く。男、融通王鎰頸、誉田天皇認の十四年に、廿七県の百姓を来け率ゐて帰化り、金・銀・玉・帛等の物を献りき。鷦鷯天皇認の御世に、百廿七県の秦氏を以て、諸郡に分ち置きて、即ち蚕 を養ひ、絹を織りて貢り使めたまひき。天皇、詔 して日はく。秦王の献れる糸・綿・絹帛は、朕服用るに、柔軟にして、温煖きこと肌膚の如しとのたまふ。仍りて姓を波多と賜ひき。次に登呂志公。秦公酒、大泊瀬幼武天皇韶の御世に、糸・綿・絹帛を委積みて岳如せり。天皇、嘉でたまひ、号を賜ひて禹都万佐と日ふ。


と書く。

 

 「新撰姓氏録」(山城国諸蕃)は、
 

 秦忌寸 太秦公宿禰と同じき柤、秦始皇帝の後なり。(中略)普洞王の男、秦公酒、大泊瀬稚武天皇韶の御世に、奏して称す。普洞王の時に、秦の民、惣て却略められて、今見在る者は、十に一つも在らず。請ふらくは、勅使を遣して、検括招集めたまはむことをとまをす。天皇、使、小子部雷を遣し、大隅、阿多の隼人等を率て、搜括鳩集めしめたまひ、秦の民九十二部、一万八千六百七十人を得て、遂に酒に賜ひき。
 

と書く。
 

 このように、養蚕・絹織に秦氏が関係していると、「姓氏録」は書くが、「日本書紀」も、雄略紀十六年七月条には、詔して、桑に宜き国県にして桑を殖えしむ。又秦の民を散ち遷して、庸調を献らしむ。とある。
 
7) 白日(天照御魂)神と蚕・卵と秦氏伝承


 養蚕神社が木島坐天照御魂神社の境内社なのは、白日神(天照御魂神)と桑・蚕がかかわるからである。
 
 養蚕は桑をぬきには考えられないが、中国では、太陽は東海の島にある神木の桑から天に昇るとされ、日の出の地を「扶桑」と称した。「礼記」にも「后妃は斎戒し、親ら東に向き桑をつむ」とある。桑をつむのに特に「東に向く」のは、扶桑の観念による。


 太陽の中に三本足の息がいるという伝承は、古くから中国にあり、「礼記」の射義によれば、太陽信仰と結びつい
た桑の弓が、太陽崇拝にかかわる霊草(蓬)の矢とともに、男の子の出生の儀礼に用いられている。このように、桑は太陽信仰と結びついているから、日の出の地を「扶桑」と書く。

 蚕神を祀る茨城県の蚕影神社(筑波郡筑波町神郡豊浦湊)の祭神は「金色姫」という。「金色」という名称は、桑が太陽とかかわることに由来する。
 
 このように、桑・絹は太陽信仰とかかわっていることが、木島坐天照御魂神社の境内社として養蚕神社がある理由である。

 柳東植は、「朝鮮のシャーマニズム」で、朝鮮では「天神の降臨地と信じられた山岳の名称にこの字を当てた。例えば、白頭山、太白山、長白山、白雲台などである。山岳を天神の降臨した神岳と仰ぎ天神の降臨地と信じられた山岳の名称にこの字を当てた。例えば、白頭山、太白山、長白山、白雲台などである。

 

 山岳を天神の降臨した神岳と仰ぎ、「Park moi光明山」と呼ぶことに由来するもので、天神光明信仰を端的に表象するものである」と書いている。

 

 光明山が白山の意だから、白日は光明の意である。


 白冠を女祭祀者の最高位の呼称とする日前神宮は神体を鏡とする日神信仰の神社である。紀伊国も朝鮮半島と密接であることは文献や考古学上の遺物から証される。また、白山信仰の越前・若狭と朝鮮のかかわりの密接さも、文献・考古資料から裏付けられる。


 白日神がわが国で天照御魂神になっているのは、「白日」が「天神光明」のことで「天照」と同義だからである。大和の鏡作神社や他田の天照御魂神社の祭神が、天照国照火明命になっているのも、この神名からわかるように「照」「明」の神格を示している。白日神は太陽光輝(天照国照)の神格化なのである。

 

 養蚕神社が天照御魂神社の境内社になっているのは、秦氏が伝えた朝鮮の信仰によっている。
 

 大和論文2が指摘するように、養蚕は秦氏に係わり、北陸地方に分布している白神信仰、それが山岳信仰になった白山信仰も、養蚕にも関わる秦氏の太陽信仰を元にしたものであったという。

 

 そうすると、遷座前の織田神社は「オリタ」神社であり、この織田神社は本来は秦氏が奉斎した養蚕・織物の神の神社であったと考えられる。

 

(c)剣神社の創建と忌部造の誕生

 

 このような堀論文、大和論文1の指摘から、伊部造は秦氏の一族であったが、古くからの在地豪族の秦氏の一部が伊部造となったのは、伊部造の「伊部」が忌部氏や斎部氏の「忌部」や「斎部」であったとすると、織田神社が遷座・合祀されて剣神社が創建されたときであったと考えられる。

 

 忌部氏は中央の祭祀氏族であり、彼らが係わった神社は国家事業として奉斎された重要な神社であったので、剣神社が国家事業として創建されたときに、その剣神社の神官が忌部氏とされたのだと考えられる。

 

 国家事業として需要な神社を創建する場合の通常の方法は、既存の神社の神格を遷座や合祀によって変化させて創出した新たな神を奉斎するという方法であった。

 

 例えば、藤原氏の氏神の春日大社は、常陸国の鹿島神宮の鹿島大神をタケミカヅチの神として、常陸国の鹿島から大和国の春日山まで遷座させ、春日山にあった春日臣が奉斎していた春日社に合祀することで、藤原氏の氏神としてのタケミカヅチの神を創設したのであった。

 

 そして、そうして創設した新たな神を奉斎する神官は、それまでの古い神社を奉斎していた神官を、中央の忌部氏の同族、あるいはそれに準じて支配・統制することで創出された。

 

 例えば、紀伊国の日前・国懸神宮の神官は、忌部氏とされているが、紀国造の一族であった。

 

 そうすると、伊部造の本来の名は忌部造であり、在地の渡来系氏族の秦氏の一族で織田神社を奉斎していた一族が、織田神社の遷座と剣神社への合祀の過程で剣神社の神官となり、中央の忌部氏の支配・統制下に入ったことで、忌部造の名が誕生したのだと考えられる。

 

 なお、織田神社の社名が「オリタ」であったとすれば、織田神社を奉斎した秦氏は、おそらく服部氏であったと考えられる。