言葉というものは本質的に自由であり、無意味であり、無価値であり、最強である。
なのでダラダラモードだと、ブログなんか毎日いくらでも書ける! となるんです。
だってなんでもいいのだから。
自分の意志が伴っていようがいまいが、言葉はただそれだけでいくらでも増殖する。
だけどその言葉を発している自分は、それはそれとしてなんらかの意志を持っている。
言葉に自分の心がきちんと反映されているかはわからないし、そもそも自分の心という曖昧不可思議なものをどれだけ言葉で表現できるの? という話ではあります。
だからこそ、適当でいい。
と同時に、ものすごく真面目に言葉というものを選ぶというのも、まあ適当にやったほうがいいかもねとなります。
私は「美しい」とか「愛」とかいった言葉が嫌いなんですが、これらの言葉は雑すぎるから。
自分が感じているものを表現するのに、これらの言葉は雑すぎて、自分が本当に言いたいことを言う上では全く役に立たない、と感じるんです。
そして、自分の気持ちをうまく表現できない気がするのなら、そもそも表現しなくてもいいのかもしれない。
それでも、気持ちというものは確実に存在している。
その気持ちを形にする方法は言葉だけでなく、いくらでもある。
最近言っている脳内暴力というものは、つまるところ、しばしば人が封じがちな「怒り」を表現するための一つの強力で有力な方法なんじゃないのかなと思うんです。
そしてイメージというものもまた、言葉と同様に、万能のようでいて全然万能でもない。
イメージよりも現実の経験のほうがずっと強力で手っ取り早いということはよくある。
けれど、どんな現実よりもイメージのほうが強烈だった、ということもまたあります。
寝てみる夢にそれはよく表れていて、いい夢であれ悪夢であれ、現実で体験する以上の強烈ななにかを夢で体験する、ということはある。
そう思うと、胡蝶の夢というのもまたどうでもいいんだろうなと思うんです。
夢だろうが現実だろうが、強烈なものは強烈だし、どうでもいいものはどうでもいいのだから。