今年のテーマは藤原氏ビックリマーク紫式部も藤原氏ビックリマーク

九条家も五摂家も藤原氏上差し

閑院宮邸跡の東側。京都御苑内です。



厳島神社。



平清盛が母祇園女御のため厳島神社の神を祀ったのが始まり。祇園女御・市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命も合わせて祀っております。
池と傍らの拾翠亭はもと九條家のもので、この社は同家の鎮守社だった。社前の石鳥居は笠木が唐破風で京都三珍鳥居の一つで池の弁財天とも呼ばれております。




九条池。





平清盛公ゆかりの鳥居であり、笠木の真ん中あたりが唐破風型になっている珍しい形。「京都三珍鳥居」⛩️ 国の重要美術品に指定。


拾翠亭。

京都御苑内の南寄り、九条池のほとりに建つ茶室。京都五摂家のひとつ九条家が屋敷内に設けた庭園の遺構。

五摂家のひとつであった九條家の現存する唯一の建物ビックリマーク






九条邸跡。



九条家は、五摂家の一つで、平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政や関白につきました。その娘の多くも天皇妃となり、大正天皇の皇后 節子(さだこ)もその一人です。


五摂家

「五摂家(ごせっけ)」は、鎌倉時代から続く五つの名家。ルーツは、藤原鎌足に始まる藤原氏ラブ

藤原家は不比等の子の代で、北家・南家・式家・京家の「藤原四家」に分かれます。そのうち最も力があったのは北家でした。藤原北家が繁栄するきっかけの一つとされるのが、「薬子(くすこ)の変」です。810(弘仁元)年、帝位への復帰を狙った平城上皇と弟の嵯峨天皇が争いました。

平城上皇の寵愛(ちょうあい)を受けていた藤原式家の薬子と兄・仲成(なかなり)は平城上皇側に、藤原北家の冬嗣(ふゆつぐ)は嵯峨天皇側につきます。嵯峨天皇の勝利によって、冬嗣と藤原北家は勢力を伸ばしていきました。

「御堂関白(みどうかんぱく)」と呼ばれた藤原道長も、藤原北家の出身です。関白にはなれませんでしたが、天皇に上奏する文書をまず見て処理する「内覧(ないらん)」、君主に代わって政治を行う「摂政(せっしょう)」、律令制度における最高の官位「太政(だいじょう)大臣」などを歴任し、藤原氏は絶頂期を迎えます。

摂関家として栄えた藤原北家は、平安末期、内部抗争によって二家に分かれます。摂政・関白を務めた藤原忠通(ただみち)の子のうち、基実(もとざね)が近衛家、兼実(かねざね)が九条家を興しました。鎌倉時代に入ると、近衛家も基実の曾孫(そうそん)の代で近衛家と鷹司家に分かれます。また、兼実の曾孫の代で、九条家は九条家・二条家一条家の三家に分かれ、五摂家が成立しました。










拾翠亭。







丸太町通り。退散します。



烏丸丸太町。



九条家(摂家)の略系図。













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