今年のテーマは、藤原氏紫式部も藤原氏
東三条院(藤原詮子)の離宮へ。
会津藩殉難者墓地から歩いて数分。
阿弥陀如来露仏。
鐘楼。
三千佛堂。
本堂。
県井観音。
鎌倉地蔵尊。
手水。
三重塔。
向井去来。
本堂を正面から。
千體地蔵尊。
弁財天。
京都映画誕生の碑。
2008年、「京都・映画100年宣言」プロジェクト推進協議会の呼びかけにより、吉永小百合さんや田村正和さんなどの映画関係者を中心とした81人の寄付で建立されました。
この四角い形は、「映画の父」と呼ばれるリュミエール兄弟が発明した複合映写機(シネマトグラフ)を模しています。京都生まれで「日本映画の父」として日本映画の創世記を築いた牧野省三が、1908年にシネマトグラフを用いて撮影した初の劇映画『本能寺合戦』の舞台となったのが真如堂の境内でした。この地で、日本の映画文化が誕生したのです。
慈覚大師と東三条院
真如堂の始まりに大きく関わった平安期の歴史的人物です。
慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)は、最澄に師事した比叡山の僧侶であり、唐から密教経典を持ち込んだ入唐八家のひとりです。第三世天台座主を務め、天台宗の教えを大成させました。真如堂の御本尊・阿弥陀如来立像は、慈覚大師円仁が苗鹿大明神で見つけた霊木で彫ったもので、衆生済度、特に女人済度の阿弥陀如来とされています。
ある晩、「神楽岡のあたりに小さな桧千本が一晩のうちに生えた場所がある。そここそ仏法有縁の地であり衆生済度の場である」というお告げを受けた比叡山の僧・戒算上人が、この阿弥陀如来立像を比叡山から京へと持ち出して、そのお告げの場所である東三条院の離宮に遷座させました。東三条院(藤原詮子)は、藤原兼家の娘であり藤原道長の姉であり、円融天皇の女御にして一条天皇の母です。とても信心深い女性と伝えられています。その後、真如堂は一条天皇の勅願所となり、多くの人々、特に女性から深い帰依を得ることとなりました。
菩提樹。
本堂へ上がります。
内部は撮影禁止です。安倍晴明の念持仏がありました。
安倍晴明の蘇生
安倍晴明(あべのせいめい)は平安時代に活躍した陰陽師です。陰陽道とは陰陽五行説に基づくもので、平安貴族の日常生活や国政に大きな影響を与えた信仰的思想です。安倍晴明は、同時期に生きた東三条院に吉凶を勘申していたかもしれません。真如堂御本尊の脇侍の不動明王は、安倍晴明の念持仏(自邸にまつっていた仏像)といわれています。
「真如堂縁起」には、不慮の死に遭った安倍晴明が閻魔大王の前に引き出された時、この不動明王がその場に飛来して命乞いをする様子が記されています。閻魔大王は「是は我が秘印にして、現世には横死の難を救い、未来にはこの印鑑を持ち来る亡者、決定往生の秘印なり。是は汝一人のために非ず。娑婆へ持ち帰り、この印鑑を施し、あまねく諸人を導くべし」と言って、「五行之印(決定往生の秘印)」を授けました。その後85歳まで生きた安倍晴明は、この秘印を多くの人々に施したと伝えられています。
お庭を拝見します。
随縁の庭。
燈明寺(木津川市 加茂町)石燈籠。
東山、比叡山を借景にしてます
大文字が見えます
枯山水。
センリョウ、マンリョウ
石の配置、何かを表現しているんですよねぇ。
随縁の庭。
日本を代表する作庭家・重森三玲の流れを引く重森千青氏が2010年に設計した庭園です。四つ目の家紋(三井家家紋)が印象的に配置されています。作庭にあたって、重森氏自ら境内を巡り歩いて見つけ出した石が再利用されています。
「随縁」とは「随縁真如」の略で、「真理が縁に従って種々の相を生じる」という教えです。その本質は変わらずとも、季節や天候、時間帯など条件の違いによってさまざまな表情を見せることで随縁を体現しています。
本堂からの様子。
退散します。
三重塔。
総門へ向かって。
振り返って。
総門。
乗ると幸せになれる京都ヤサカタクシー「四つ葉のクローバー号」が停まってた
次へ行きます。
パンフ。