保守主義とは何か 宇野重規著 読書感想 | ユビュ王の呟き

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右でも左でもない政治について語るブログです。
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反グローバリズム、反ワクチン関連の話題を中心にしていきます。

 

こういう本を読みました。

新書なので入門編というか概略的な内容だけどなかなか面白かったな。

保守主義の源流たるエドマンド・バークに始まり、イギリス、アメリカ、日本における保守主義について書かれています。

特にバークについての下りは、僕はまだバークの本を読んでいないので概略を知るには良かったし、アメリカの保守主義には三つの流れ(伝統的保守、リバタリアニズム、ネオコン)があるというのも面白かった。

引用を交えながらできるだけサラッと紹介したいけどできるかな。

 

 

過去に回帰すべき範を求めるのではなく、抽象的な原理に基づいて未来へ跳躍すること。バークが震撼したのは、そのような事態であった。

バークは、このようなフランス革命の中に自己蔑視をみてとった。自らの過去や父祖の行いに対する敬意を持つことで、人は自己への尊敬を育む。これに対し、フランス革命は自らの過去と決別した上で、抽象的な原理に基づいて社会を作り直そうとしている。このことは自尊の精神を否定し、さらには「自己を尊重する習慣を教え込まれていない人間」に権力を与えることに繋がりかねない。(p.54-55)

 

 

人間の思考とは、長い時間をかけて漸進的に発達したものであり、必ずしも合理的に設計されているわけではない。このように考えるバークにとって、啓蒙思想家たちは、ひとたび偏見や迷信を打破すれば、後戻りすることなく、理性がおのずと支配的な地位に立つと考えた点で、根本的に誤っていたのである。(p.58)

 

 

フランスとイギリスという二つの国の現在の在り方を比較すると分かりやすいけれども、フランスは王制が廃止され階級制度もない共和政なのに対し、イギリスでは王制が残りいまだに階級制度が残っていますね。

今のフランスが啓蒙主義、進歩主義の産物ならば、イギリスは漸進主義、保守主義が生きている国なのかもしれませんね。

 

 

階級制度があった時は不平等があるのが普通で、人はそれを不平等だとも思っていなかったが、ひとたび平等が実現されると、人は平等の中の不平等に目が行くようになり、それに対する不満が蓄積されるようになる。

そんなことをトクヴィルは言ったらしいのだけれども、カンボジアのポル・ポトの虐殺は例えば眼鏡をしているから知的に見えるとか、単に美男美女であると言った理由で虐殺の対象になったのは、平等主義の行きつく先、極限の結果なのかもしれませんね。

それは極端な例かもしれないけれども、最近の欧米のLGBT運動や、親を親と呼ばずに「あの人」みたいに呼ばせる傾向もあるようで、すべて偏見や迷信を打破すると自己否定せざるを得ず、歴史から切り離された人間しか生み出さないというバークの指摘は、今日でも新しい気がします。

 

 

それでは、リバタリアニズムとは何であるのか。「リバタリアン」という言葉自体は古い起源をもつものであり、もともとは人間の自由意志を強調する一連の思想を指した。この言葉はやがて、社会主義の中でも反国家主義的傾向の強いグループを指すものとなり、アナーキズムと同一視されたり、社会における搾取や抑圧を批判する勢力が「リバタリアン社会主義」と呼ばれたりすることもあった。

しかしながら、二十世紀後半になって、この言葉はアメリカで、まったく新しい意味を獲得する。背景には、リベラリズムという言葉の意味の転換があった。この言葉はもともと、政府の権力を抑制して個人の自由を守ることを指したが、この時期にむしろ、「大きな政府」の下で個人の自由を実現することへと変化する。結果として、このような意味でのリベラリズムに違和感を覚える人々は、新たな言葉を求めたのである。

その意味で、二十世紀的なリベラリズムの意味の転換を主導したアメリカで、リバタリアンという言葉の意味の変化が起きたのは偶然ではない。この時期以降、リバタリアンとは、リベラル派による政府の権限拡大に激しく対立し、むしろ個人の選択と「小さな政府」を強調する立場を意味するようになったのである(日本語では、しばしば「自由至上主義」や「自由尊重主義」と訳される)。この言葉は、極めて興味深いことに、現代アメリカ保守主義の一翼を担うことになる。

伝統的に社会主義など左派的立場と結びついて用いられてきた「リバタリアン」という言葉は、「大きな政府」に対する不信感を紐帯に、すでに述べた伝統主義と合流していく。政府に対する不信と強固な個人主義が結合し、独特な「保守主義」が生まれることになったのである。それは政府主導の進歩主義的改革を激しく批判するという意味で「保守主義」と呼ぶことができるが、ここまで本書で述べてきた保守主義とは大きくその色合いを異にするものであった。なによりも、市場や民営化に対する強いこだわりは、むしろ現代アメリカ保守主義の「急進的」性格さえもたらしたのである。(p.125-127)

 

 

日本人にとって「リバタリアニズム」という言葉は馴染みがないし、それはリベラリズムとどう違うのかとか、理解が難しい概念のように思いますが、この下りは分かりやすく解説されていると思いました。

政府に対する不信感と強い個人主義は、移民と開拓で出来たアメリカという国ならではという気がしますが、小さな政府志向や市場や民営化に対する強いこだわりは新自由主義とどう違うのかというと、個人の自由を絶対視する点のようですね。一言で言うと「政府は余計なことをしやがるんじゃねえ、俺たちの好きにやらせろ」という思想でしょうかね。

もともとは無政府主義に近いもので社会主義の一派だったけれども、リベラルが大きな政府志向に方針転換したのに反発し離れて保守主義に接近し結合していったというのは興味深い。

アメリカ人の政府に対する不信感というのはかなり根強いものなんでしょうね。銃乱射事件がどれだけ起きてもアメリカ人が銃を手放そうとしないのは、おそらくこの不信感によるところが大きいのでしょう。

そういえばトランプがリバタリアン党の大会で支持を求めて登壇したけれどもブーイングの嵐だったという報道があったけれども、トランプは宗教に依拠し、外交的には孤立主義を志向する伝統的保守に近いのかな。ただし経済政策は公共事業で下支えする「大きな政府」志向なので、そこがリバタリアン的には不評だったのでしょうか。

しかしそんなトランプが支持されているのは、伝統的に「小さな政府」志向だったアメリカの保守も変わりつつあるということなのかもしれません。

 

 

ネオコンを代表する思想家たちは、ウィーヴァーやカークのような伝統的な保守主義者とも、あるいはフリードマンやノージックのようなリバタリアンとも似ていない。例えば、ネオコンの多くの論者は、ジョージ・W・ブッシュ政権時代にイラク戦争を主導したが、歴史的に孤立主義への傾向が強い伝統的保守や、政府の余計な対外的関与を否定するロン・ポールのようなリバタリアンにとって、ネオコンの世界構想は極めて違和感が大きいものであった。逆にネオコンの指導者たちは、福祉国家や社会保障政策についてリベラル派と極端に意見を異にするわけではなく、「小さな政府」へのこだわりはそれほど際立つものではない。

しかも、後で詳述するように、ネオコンの初期の理論家たちは、ニューヨークを拠点とするユダヤ系の知識人たちであり、もともとはトロツキストであった人が多い。現代アメリカの保守主義者の中で、若き日に左翼的信条を持っていた人は少なくないが、反スターリン主義からさらに反共主義へと集団的に転向したという点で、ネオコンの人々は突出している。(p.139-140)

 

 ネオコンがもとは左派のトロツキストだったとは!これは知りませんでした。

ネオコン⁼新保守主義という言葉はイラク戦争の時に流行りましたが、源流はユダヤ系のトロツキストで、しかも東欧ユダヤ移民がメインらしいんですね。

例えばクリントン政権で国務長官を務めてオルブライト(チェコスロバキア系ユダヤ)、イラク戦争時の国務副長官のウォルフォウィッツ(ポーランド系)、そして最近では悪名高いヴィクトリア・ヌーランド(ウクライナ系)は皆ネオコンで且つ東欧ユダヤ移民です。

 

 

確かにアメリカの伝統的な孤立主義とは真逆の国際介入主義で世界を混乱させてきた彼らは、なにが保守なのかという感じですが、その出自がもともと左翼トロツキストだったと言われれば、共産主義の代わりに民主主義を世界に広めるという彼らの行動はなんだか納得できる気がしました。

ようするにいかなる主義を信奉するかよりも、自分の信じる主義を他人に他国に押し付けるという行動に対する信念というか主義のほうが彼らにとっては重要なのではないかと思った次第です。ほんとに、マジでやめてほしい。

 

 

もし、日本における保守主義が真に自らの基礎を再確認しようとするならば、歴史に対する真摯な反省と、それに基づく経緯が不可欠であろう。それでは、一体いかなる「歴史」を私たちは尊重すべきなのだろうか。

戦後日本の保守主義を困難なものにしているのが、敗戦と占領という経験であることは間違いない。結果として戦後日本の保守主義は、自らの政治体制を価値的なコミットメントなしにとりあえず保守するという「状況主義的保守」か、さもなければ「押しつけ憲法」として現行秩序の正当性を否認するという「保守ならざる保守」という、不毛な両極に分解することになった。そこに欠けたのが、現行の政治秩序の正当性を深く信じるがゆえに、その漸進的改革を試みるという本来の保守主義であることについては、ここまでも繰り返し指摘してきた通りである。(p.190)

 

 

最後に、日本の保守主義から、興味深いと思った箇所を引用して終わりにします。

ここにある「状況主義的保守」とはいわゆる「親米保守」「従米保守」で、「保守ならざる保守」とは「反米保守」ということになるのでしょうね。

著者はそのどちらも不毛であると言っていますが、必ずしも僕はそれにすべて同意するわけではありません。

しかし、僕たちは本当に何を守るべきなのか、そしてそれを守るために何を変えるべきなのか。

そういうことはちゃんと考えなければならないと思った次第です。