月刊パンツァー(PANZER)2020年3月号 特集■74式戦車(2)
さて、先回次号が楽しみだとしていた3月号である。
『次号(2020年2月号)では、「74式戦車の開発経緯とメカニズムに焦点を合わせる」と記述されているが、(中略)楽しみではある。』
と書いてしまったが、2月号は先月号なので勘違いによる誤記である事が判明してしまった。
ということで、今月号(2020年3月号)は二人の元戦車隊員による手記になっている。
つまり、残念な内容だ。
無論、私にとってである。
理由は明快で、私も戦車隊員だったから目新しい物はないだけである。
手記は、高級幹部であった葛原和三(元1等陸佐)氏と、PANZER誌でライターもしている藤井岳(元陸曹)氏による運用及び実績ということである。
葛原氏は指揮官、藤井氏は一戦車乗員としての立場からの記述であり、葛原氏がマクロ、藤井氏がミクロの視点からという事のようであるが、偶然にも両名とも豆タン(豆タンク:少年工科学校出身の戦車隊員のこと)出身者だ。
さて、気になったのは37ページに記述されている葛原氏が第73戦車連隊第2中隊長の時の話だ。
『戦車砲は自重により垂れ下がっているので(中略)そこで砲身の曲がりを最小限にするため軽い断熱材で砲身覆いを砲身い巻き付けた(これは90式戦車で「砲身被筒」となり(後略))』
えーと・・・
重力の影響で垂れ下がった状態の砲身が通過弾頭と発射ガス圧で砲身が真っ直ぐになり、発射を準備した砲腔軸線(ボアサイトによる砲腔軸線)と砲弾が砲口離脱時の砲腔軸線が異なることから発生する砲身偏差を「跳起角:ジャンプアングル(Jump angle)」というのは間違っていないが、跳起角は砲身被筒では除去できない。それどころか、被筒の重量でさらに増すのではないかと愚考する。
ちなみに跳起角は戦車の種類ごとに変わるものである。
砲と戦車との相性みたいなものなので、74式戦車は工場出荷時に跳起角を入力済みにしてあり部隊(使用者)でどうこうするものでは無い。
砲身被筒(別名:サーマルジャケット、サーマルスリーブ)は各種気象条件が主な要因として砲身の熱分布の変位から砲身が曲がる現象を無くす、もしくは最小限に抑えるものであり、この曲がる現象をベンド(bend, bending)と呼ぶ。
最も大きい要因は太陽熱による太陽光照射面と影の温度差から砲身が曲がるソーラーベンドがある。
ちなみに73戦連出身の元同僚が「断熱材(グラスウール)とシートでジャケット作ったのはウチが最初です。当たりましたよ~」と話していたのを思い出した。葛原氏が中隊長の時の隊員だったのだろうか。懐かしい。
しかし、第11戦車大隊が独立戦車中隊を2個も含んでいたのは知らなかった。
計7個中隊と6個中隊の二つの記述があるがどちらだったんだろう。
ちなみに74式戦車配備当時の戦車大隊は甲師団内戦車大隊が4個中隊編制、乙師団及び丙師団内戦車大隊が3個中隊編制であった。
なお、丙師団は機械化された第7師団である。
74式戦車配備当時の編成は以下のとおりである。
画像は富士学校資料館に展示されているものだ。
13個師団1個混成群編成である。
北海道(北部方面隊)の戦車部隊は各師団に1個戦車大隊を保有するとともに、方面直轄戦車部隊として3個の戦車群から編成される第1戦車団があった。
甲師団(9000名師団)4単位制
乙師団(7000名師団)3単位制
戦車大隊の編制
標準戦車大隊の戦車数は甲師団が58両、乙師団が44両である。
第2戦車大隊
ほぼ完全編成に近い第2戦車大隊(連隊改編前撮影:第2戦車連隊に掲示されているもの)
大隊本部に戦車2両、APC3両
本部管理中隊にAPC3両、戦車回収車1両
4個中隊編制であり各中隊は中隊本部に戦車2両、APC1両、戦車回収車1両がある。(2,3中隊は戦車回収車欠)
小隊は4個戦車小隊編制である。
よく見るとドーザ付き戦車は中隊本部、照準暗視投光器付戦車は小隊に1両程度しか装備していないのが確認できる。
なお、当写真は装軌装甲車両のみであり、このほかにジープ、トラックなどが装備されている。
95式軽戦車 里帰り計画
95式軽戦車 里帰り計画
NPO「法人防衛技術博物館を創る会」の賛助会員である私も当然のことながら寄付したので、小冊子「記録集2004~2019」が届いた。
もともとは、京都の「京都嵐山美術館」に展示されていたものという事であり、関西の同僚は見に行ったこともあると言っていた。残念ながらイギリスのコレクターの手に渡ってしまい里帰り費用として1億円を必要とする結果になった。
1億円が高いのか妥当なのかは何とも言えないが、この記録集を見た限りでは日本国内でレストアした場合、1億円あっても完成しないのでは無いだろうかという気がした。
コレクターの方はオリバー・バーナムといい、元イギリス軍王立砲兵連隊(ロイヤル・アーティリー)の方であるようだ。復元はこのバーナム氏の力によるものが大きいと感じる。
さて、気になったのは車内の色だ。
銀色で塗装されているのだ。
白じゃないのか?
イギリス軍の戦車車内は銀色だからその塗装にしてしまったのかとも思ったが、レストア前の車内には元塗装も残っていただろうであろうという事で、改めて95式の写真を調べたら確かに銀色であるようだ。
思い込みとは恐ろしい。
教訓として真摯に受け止めよう。
もっとも、アスベストの内張りまでは復元していないようであり、内張りの色も無塗装(白色)なのか銀色塗装かどうかは白黒写真では判断できなかった。
いまのところイギリスにおいて保管中であるが、早く実物を見てみたいと思う。
ドイツ4号戦車vs95式軽戦車(どちらも模造品:撮影2017年8月26日)
74式戦車の油気圧式懸架装置について考えてみた。
昨年準備していたが、添付画像をどうしようか探したり、作っていたりしたうちに忘れ去られていたので、とりあえずアップしてみる。
月刊PANZER(パンツァー)誌2020年2月号の特集がらみで油気圧式懸架装置について若干述べたわけだが、少し突っ込んで考えてみた。
74式戦車の油気圧懸架装置
PANZER誌2020年2月号 27p(編集部)
(元記事:1978年5月号 23P(編集部))
このように油気圧懸架装置の目的は一般に広くいわれているように、車高を低くできるという防御面や凹凸地における射撃精度の向上にあったのではなかったことは注目される。従って、その他の特性は油気圧懸架装置を採用したことによる副産物であって、稜線上における戦闘の問題などは、どちらかといえば第4次中東戦争の戦訓から比較的最近になって多くの人の口に上るようになったことである。この意味では砲の府仰角の一部を懸架装置でまかなうというというSTBの方針はこの戦訓を先取りしたものであったということができる。
PANZER誌2008年8月号「陸上自衛隊MBTの試作車両」(著:三鷹聡)
それでも採用にこだわった当初の理由は、車高を調整することによって日本に多い水田地帯の走破性を高めようというものだったようだ。
今日いわれているように、府仰角を補正して稜線射撃という発想はなかったようで、稜線射撃はその後の中東戦争での実践研究でいわれるようになった「後知恵」らしい。
PAZER誌に掲載された両記事の解釈は以下の通り
●パンツァー編集部
① 当初予定
・主砲府仰角の増大
② その他
・結果として付随した副産物
・水田における通行能力によい影響
●三鷹氏
① 当初予定
・車高調節による水田地帯の走破性
② その他
・結果として付随したもの
・稜線射撃における主砲府仰角の増大の発想は無かった
真逆である。
おそらく参考資料からの解釈として編集部の方は「姿勢制御装置」、三鷹氏の方は「油気圧懸架装置」を主点においたのだろう。
三鷹氏については月刊PANZER誌1987年1月の特集『74式戦車』における高橋昇氏の記事を参考にしたのかな?と思える。
それなりの方(関係者)の記事や、部内用である『74式戦車取扱書』や『74式戦車整備実施規定』等を参考にできたとしても、各々の資料に開発経緯は書かれていないし、誤字、誤謬等の間違いもあるので注意が必要だ。
別の掲載例を見てみる。
■『戦後の日本戦車』発行:株式会社カマド
74式戦車の油気圧懸架装置については古是三春氏が執筆していおり、開発経緯を記した『第三章 時代の様相を反映した戦車開発』では戦車マガジン1978年5月号掲載の近藤清秀氏の記述を引用している。メカニズムについては『第四章 74式戦車の基本的構造と機能』(で以下のように記述している。
油気圧懸架装置の利点として、導入時から考えられていた点は砲耳軸傾斜の水平維持による正確な射撃実施のサポート以外に、日本特有の水田などの軟弱地や傾斜面での良好な機動性能の確保、地形に合わせた布陣(稜線射撃体勢での配置など)や隠蔽に際しての姿勢制御などがあげられる。
古是氏は当初から両方考えられていたとしているが、説明内容は「姿勢制御装置」だ。一応、最後の「姿勢制御」が最初の「利点」にかかっているのだろうが、少し分かりにくいかもしれない。
更に軍事雑誌としては歴史のある「丸」に掲載された丸編集部による『JGSDF主要陸戦兵器グラフィックレポート』(掲載年号不明)の初回が74式戦車であり、その中の記述では「売り物は油気圧姿勢制御」としており、「油気圧懸架装置による姿勢制御機能」と記述されている。ここにも1973年の第4次中東戦争の戦訓より前に「はやくも姿勢制御機能を取り入れた旧軍出身間発関係者は、現代戦の本質をよく理解している。」と書かれている。
さて実態は如何なものであっただろう。
実は部内教育によっても開発経緯などの教育はほとんど無く、人伝えの話、ようは「噂」のレベルでしかない。何故かというと試作車両は防衛秘密物件であるという事が秘密保全上定められていたためである。
これが他国との大きな違いである。個人的には日本の兵器は抑止力のためにあるのだから、むしろ性能を秘密にするのは国防上好ましくないだろう。そもそも実質性能を大々的に見せる富士総合火力演習があるのだからカタログ性能を秘匿する意味が見いだせない。「偏った秘密主義ここに極まれり」と当時も今も思っている。
したがって74式戦車の開発に関する資料は少ない。
私もほとんど信頼できる1次資料は見たことがない。
唯一、懸架装置の要求仕様とされるのが以下である。
懸架装置
ア.戦車の路外機動性の向上、被弾率の減少等を考慮して車高の変換が可能なこと
最低姿勢を取った場合、車高は列国主力戦車中、最低(S型戦車を除く。)とする。
イ.路外機動性の向上、不整地における火砲の府仰角の付与のためには、前後、左右自由に傾斜姿勢がとれる。
ウ.火砲の府仰角は、火砲自体の俯仰と車体の傾斜によって与えられるので、操縦手のみならず、車長、砲手も操作できる。
エ.被弾による損害を局部に限定できることが必要である。
これとて、油気圧式があってこその要求であり、要求により油気圧式となったわけではないとも読み取れるが、上記要求事項を戦車設計上から分析すると以下のようになる。
なお、「ア」項を「車高の変換」、「イ」項を「前後左右の姿勢変換」、「ウ」項を「姿勢制御者の複数化」、「エ」項を「冗長性」とした。
【ア.車高の変換】
①機動性能:車高を上げることにより水田、湿地などの泥濘地及び積雪地での行動不能(スタック)の減少で路外機動性能(錯雑地の走破性)が増す。
②防護性能:車高を下げることにより被発見率及び被弾率が低減し間接防護力が向上する。
③火力性能:低姿勢による待機状態から高姿勢による射撃状態への変換が移動を伴わず可能となる。
【イ.前後左右の姿勢変換】
①機動性能:斜面横行において山側を低く谷側を高くすることで横転を防ぎ安定した走行が可能である。
②防御性能:車体傾斜を適切に取ることで得られる良好な避弾経始による直接防御と被発見率の低減による間接的防御が付与できる。
主砲俯仰の補完をすることで砲架側の俯仰量を少なくできるため砲塔を低く設計でき、被発見率及び被弾率の低減が図れると共に車体重量の軽減もしくは装甲強化ができる。
③火力性能:砲耳傾斜除去による射撃精度の向上、特に低初速の粘着榴弾(HEP)
列国戦車以上の俯角が付与でき稜線射撃能力が向上する。
【ウ.姿勢制御者の複数化】
上記「ア・イ」の効果を得る上において操縦手、砲手、車長のいずれも操作できる必要がある。
【エ.冗長性】
懸架装置の装甲化もしくは車内への収納、装置損傷時等の非常時に於ける補助手段
以上のように分析できる。
ではどのような懸架装置が適しているかというと、姿勢制御を可能とする懸架装置は油気圧式の一択しかなかったのである。
特に、被発見率・被弾率の低減と軽量な戦車重量を特徴とするソ連戦車並みの低車高を実現するためには物理的に主砲の俯角が制限されるのは目に見えており、61式戦車並みの俯角(-10度)を達成するためには車体姿勢制御による府角の補填が必須であった。
稜線射撃は帝国日本陸軍においても優先されるべき事案であった。旧陸軍出身者主導の61式戦車の開発においても大俯角における稜線射撃の位置取りの優位性は要求されていたのだから、第四次中東戦争の教訓ではないし、開発者の先見の明ですらない。
それどころか、全世界共通の戦車射撃位置の基本である。稜線射撃時における教訓云々は当時の西側戦車を凌駕していたソ連戦車の欠点を白日の下にさらしただけである。
もっともソ連軍はその欠点(装填速度の遅さも踏まえ)を数で補うという運用だったのは忘れてはなるまい。
この様な理由で、トーションバー懸架以上の基本路外走行能力(路外機動力)の向上と高姿勢による更なる走破性の付与及び低姿勢を実現するために不足せざるを得ない主砲の府仰角を補填する勢制御機構を組込むのが容易な油気圧式の懸架装置が選ばれた訳である。