パムのてきとーブログ -117ページ目

パムのてきとーブログ

いろいろと書いていきます
当ブログは、民法720条1項/2項(正当防衛/緊急避難)、及び公益通報者保護法2条1項(内部告発)に基づく内容があります。
「パムのトラブル」等への宣言
https://tl.gd/n_1srqui4
同情無用!心配不要!
#拡散希望
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実現困難な欲求や苦痛な体験などを無意識の中に封じ込め忘れようとすることである。
その内容には観念、感情、思考、空想、記憶が含まれる。
ジークムント・フロイトはこの「抑圧」が最も基本的な防衛機制と考えた。
特に心的外傷体験(トラウマ体験)や、性的な欲求などの倫理的に禁止された欲求が抑圧されると考えられている。
否認との違いは、否認は実現困難な欲求や苦痛な体験を一時的に忘れるだけで、他人に指摘されるとその事に気付く。
しかし抑圧は意識より深い心の深部(前意識や無意識)にまで押し込められてしまう。
そのため基本的には思い出せなくなってしまう。
思い出すには努力が必要であり、それほど悪い観念でなければ簡単に思い出せるが(前意識からの思い出し)、
強い抑圧は無意識にまで押しやられているので思い出すのは困難である。
その代表例としては赤ちゃんの頃の記憶などがある。

ああ、確かに赤ちゃんの頃の記憶は覚えていませんね・・・。




抑圧(よくあつ、英: repression 独: Verdrängung)とは、
自我を脅かす願望や衝動を意識から締め出して意識下に押し留めることであり、
意識されないままそれらを保持している状態である。
精神分析において想定される自我の防衛機制のうち、最も基本的なものと考えられている。

都合が悪い記憶を排除するようなモノでしょうか???
「パムのトラブル」ではこの種の防衛機制はありませんでしたね。




フロイト以降

抑圧概念はフロイト以降の精神分析家によって様々に語られているので、現在では同じような用途で使われるとは必ずしも限らない。
抑圧が頻繁に起こる時期やそれがどのように行われるのかは論者によって異なる。

外傷性事件の記憶に関して「抑圧された記憶」という用語がある。
この概念は衝動ではなく記憶に重点を置いているので抑圧とは厳密には異なるが、よく混同される。
この物議を醸す「抑圧された記憶」の存在可能性をめぐって、1990年代頃に激しい議論が行われたとされるが、「抑圧された記憶」はある。
問題は「抑圧された記憶が蘇った」というその内容を常に事実として信じるべきなのかという点を巡っての論争であり、
人の記憶はビデオのように記憶されているものではなく、
思い出すそのときに構成されるものであるというのが現在の脳科学、および認知心理学での到達点である。

>問題は「抑圧された記憶が蘇った」というその内容を常に事実として信じるべきなのかという点を巡っての論争であり、
>人の記憶はビデオのように記憶されているものではなく、
>思い出すそのときに構成されるものであるというのが現在の脳科学、および認知心理学での到達点である。
だから、「パム」はメモを続けているのですよ。
https://00m.in/CeUb2


 「同じような痛み、苦しみ、悲しみ、屈辱を味あわせてやる!!」
人は誰かに傷つけられると、傷つけた相手にやり返したい、復讐したいと思います。
しかし、冷静になればわかると思いますが、復讐したところで何も得られません。
復讐すると一時的には気分がスッキリします。
けれども、それだけで心の傷はちっとも癒えないのです。
それに復讐の代償はあまりにも大きいものです。
復讐は大きなマイナスのカルマを生むだけでなく、魂を酷く汚すのでオーラが著しく濁り、波長が極めて低くなります。
すると、幸せやチャンス、良縁は近寄ってこれず、暗い暗い道のりを歩むことになるのです。
これは霊性(霊格)を下げることになるので守護霊や先祖霊を悲しませるのはもちろんのこと、
周りの人間も悲しませ、なにより自分自身をも悲しませることになります。
だから、
 たとえどれだけ理不尽に傷つけられても、
 どれだけバカにされたとしても、
 純粋な想いを踏みにじられ、利用され、もてあそばれたとしても、
絶対に復讐してはいけないのです。

さてさて、「パムのトラブル」で、「パム」は「復讐された」のか「復讐している」のかどっちでしょうか???
「パム」が提訴している「民事訴訟」の被告は「パムとパムが対立している相手との関係を弄んで、多くの悲劇を産んだ」のです。
だからこそ、その構図に気がついた「パム」がその1人だけを提訴したのです。




もう時効だと思うので話しますが、僕は17才の頃に復讐の鬼になっていました。
冗談ぬきで、あと一歩間違っていたら新聞に載っていたと思います。
 「裏切り者には死を!」
 「裏切った人間には、生まれてきたことを後悔させてやる!」
 「俺と出会ったことを後悔させて、死ぬまで苦痛を味あわせてやる!」
 「二度と笑えない人生にしてやる!」
 「地獄の底に連れていってやる!」
 「死ぬほどの苦痛と恐怖を与えて自殺に追い込んでやる!」
これは、当時の僕が思っていたことです。
知り合いの東京のヤクザにお金を払って、ある人間を消してもらおうかとも本気で考えていました。
今、思うとゾッとします。(汗)
けれども、当時の僕は本気でしたし、恋愛や交遊関係で裏切った人間は、
相手が年上だろうが誰だろうがおかまいなしに復讐して、脅迫まがいなこともしていました。
それで、
 いつか誰かに殺されるかもしれないけど、それでもかまわないし、
 もし殺されるのなら死ぬ前に相手の目ん玉を潰す(失明させる)か、顔か体に大きな傷を残してやろう、
とも思っていました。

自暴自棄というよりは、もはや怨霊、鬼、魔物のようだったと思います。
 (今、考えると憑依もあったと思います。)
 意図的に人を傷つけ、利用し、もてあそぶ人間には徹底して生きる苦しみを与えてやろう、
という異常なまでの憎しみと執念があり、復讐心に燃えていたのです。

 人を利用し、裏切る人間はいつまでも同じことを繰り返して、犠牲者を増やすばかり。
 反省なんて、これっぽっちもせず、ノンキに楽しそうに幸せに生きてやがる。
  許せない。
 裏切られた人間の苦しみをとことん味あわせて、地獄を思い知らせてやる。
  絶対に許さない。
  絶対に。
  絶対に。
 そうやって自分に言い聞かせていたので、17才の後半〜19才までは復讐の鬼と化していたのです。
 なぜ復讐の鬼になったのか、またどうやって復讐の鬼を卒業したのかということはいつかブログで書こうと思いますが、
 本当に10代は暗黒の時代というか、今のクリーンホワイトな僕(?)からすると想像もつかないくらいダークだったように思います。

 ・「パム」は「復讐されている」
と考えましょう。

「パムのトラブルのきっかけになった人物」は、「パムのトラブル」が発生してからすぐに、「パム」への報復行為を開始しました。
そして、念願かなって、今の「パム」は、日々の生活を凌ぐので精一杯な「ワープア」になって、「復讐」を果たすのに成功しました。

「パム」が民事訴訟しなければねwww




でも、ダークだったからこそ、学べたことも沢山あるのです。
その一つが
 「復讐は止めたほうがいい」
ということ。
 どのような形であれ、復讐は絶対にすべきでない
と学びました。
復讐に費やす時間と労力、精神力(念)をもっと他のことに、もっと自分が幸せになるために費やしたほうが絶対にいいのです。
それが復讐から解放される唯一の道。
なにより、人は幸せになろうとすることで、深く傷ついた心も少しずつ癒え、復讐心も弱まってきます。
だから、過去の出来事や復讐にとらわれるのではなく、幸せになりたいと心から願い、幸せになるために前を向いて生きることが大切なのです。
 復讐しても気持ちが晴れるのは、ほんの一時。
 気持ちは一時は晴れますが、心の傷は癒えません。
 むしろ悪化します。
 これは復讐の鬼だった僕が断言します。
 復讐心に満ちれば満ちるほど幸せは遠ざかり、平穏もなくなり、常に怒りと悔しさと憎しみに支配され、
 何のために生きているのかわからなくなるのです。
 だから、復讐したい想いはぐっとこらえて、自分のこれからの幸せについて考えることなのです。

人を利用し、裏切り、バカにし、踏みにじり、傷つけた人間にはいずれ「カルマの法則」により、
それ相応の結果が返ってきますから、全てを天に委ねればいいのです。
しかし、天に委ねても
 「相手に早くカルマが返ってきて不幸になるように!」
と願うのは自分のマイナスのカルマになりますから、その気持ちは放念することです。
だから、ネガティブな感情、ネガティブな思考は放念してから、全てを天に委ねましょう。
放念するためには、これまでの苦しみ、悲しみ、辛い思い出に目を向けるのではなく、これからの自分の幸せに目を向ける必要があります。
そうすることで、徐々に復讐心は小さくなり、完全には許せなくても復讐にとらわれない日が来るのです。

最後にもう一度だけいいますが、復讐は止めてください。
復讐したい気持ちも捨ててください。
顔を上げ、しっかり前を向いて歩けば、必ず幸せや喜び、楽しみに満ちた人生になるのですから、
復讐なんてつまらないことは考えず、もっと自分の人生を生き、自分の幸せについて考えるべきなのです。

「パムを15年近くストーキングしている50男」「暴言が酷い精神科医」の夫婦は、膨大な時間を「パム」の為に費やしています。
「夫婦の会話」にさえ「パム」の事が話題になる程、「パム」の為に時間を使っているのです。

この夫婦は一体、なんなんでしょ?

https://00m.in/6DMfU

https://00m.in/y68TV


満たされなかった欲求に対して、理論化して考えることにより自分を納得させること。
イソップ寓話『すっぱい葡萄』が例として有名。
狐は木になる葡萄を取ろうとするが、上の葡萄が届かないため、
 「届かない位置にあるのはすっぱい葡萄」
だと口実をつける。



心理学における合理化(ごうりか、rationalization、rationalisation)とは言い訳(いいわけ、making excuses)とも知られ、
否認の一種であり防衛機制のひとつである。
満たされなかった欲求に対して、理論化して考えることにより自分を納得させることである。

問題とされている行動・感情について、その事実を述べることを避けるために、一見すると合理的で論理的な正当化して述べることである。
あるいはもっともらしい手段により、意識的に許容できるものにすることである。
これはまた、推論における非形式的誤謬(informal fallacy)でもある

「パム」が悩んだのは、この「合理化」をしていると中傷された事です。
それは、「パムがADHDである。」事を理由として述べた一連の行為を指すのですが、
「パム」を中傷する人の中にも「ADHD」がいたりして、ある意味笑えました。




合理化は、以下の2段階によって行われる。

 1.何らかの理由によりまず先に決定、行動、判断が行われる。
   もしくはまったく理由がないこともある。
 2.事実の後、行動を正当化しようとする試みとして、一見すると問題なく論理的なものを構築しようと合理化が行われる。
    (これは自身のためのこともあれば他人のためのこともある)。

合理化は、非合理的または容認できない行動、動機、感情を誘導し、またそれにはしばしばアドホックな仮説を伴う。
このプロセスは、完全に意識的に行われていることもあれば
 (たとえば他人からの嘲笑に対しての心理的防衛)、
ほとんど無意識的に行われていることもある
 (たとえば内面的な恥や罪悪感の意識に対しての防衛)。

「パム」が「パムのトラブルのきっかけになった人物」が主宰しているロックバンドをクビになった時の理由が、
まさにこの要素も含まれています。

 ・「パム」は「パムのトラブルのきっかけになった人物」を憎んでいるにも関わらず、接近した。

これ、事実ではありません。
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経済学者ピケティの理路で「努力しないから貧しくなる」を吹き飛ばす

日本の貧困問題について社会的成功者(と見なされていそうな人)たちに意見を伺った。
彼らの多くが
 「貧しいのは本人の努力不足ゆえ」
という見解をもっていて正直びっくりした。
市場の動向にすばやくキャッチアップすることを大事にしている人たちが、
市場に確かな位置を占める「貧困層」について理解をもっていないのである。
あるいは彼らの言う「市場」に貧困層はふくまれないのだろうか。
だとしたら、ことは深刻というほかない。

わたしはボクシング漫画『はじめの一歩』の言葉を思いだした。
 「努力した者が全て報われるとは限らん」
 「しかし!
  成功した者は皆すべからく努力しておる」
ボクシングジム会長の言だ。
この言葉にふれた当時、わたしは高校生だったけれど、これには得心がいった。
 「世のなか報われない努力はある」
とわたしも感じていたからだ。
あれから約20年。
いま貧困層にとっての
 「努力が報われる=(たとえば)経済的な上昇をとげる」
確率は、きびしいほどに低くなった。

数年前の「ピケティブーム」はご記憶の方も多いと思う。
経済学者ピケティの『21世紀の資本』がベストセラーになった。
社会的成功者たちも、多くがピケティに群がった。
しかし、ピケティが世に問うたことが彼らにピンとこなかった可能性がある。
なので、ここでかんたんに解説する。

『21世紀の資本』で「r>g」という不等式が有名になった。
詳細は省くが、この式は、
 「成長率が低い経済のなかでは、『労働』から得られる所得よりも『保有する富』が生みだす所得のほうが大きくなる」
ことを示している。

表現がむずかしかったかもしれない。
誤解を恐れず要言しよう。
つまりピケティは、
 「汗水ながして働いて得られるお金よりも、資産家が資産運用等で得るお金のほうがはるかに多くなっていく社会」
が今まさにあって、しかも
 「金持ちはより金持ちに、貧乏はより貧乏になりやすい環境が刻々と生まれている。
  その原因が資本主義なのだ。
  資本主義はそのようにできている」
と分析的にのべた。

貧乏人が努力しても、金持ちとの格差は基本、広がる。
金持ちの子は金持ちに、貧乏人の子は貧乏になっていく。

この結論は
 「努力や能力の差が、経済格差にあらわれる」
という新自由主義者が好む理路を吹き飛ばす威力をもっていた。

つまり、努力より資産の方が威力があるんですね。
非常に納得です。




「貧しい人にチャンスがこない社会になっている」(政治学者パットナム)

しかし、社会的成功者たちは反論するかもしれない。
 「もちろん報われない努力もあるけれど、成り上がりのチャンスを活かせば富者になれる可能性はある。
  チャンスを活用する努力はすべきではないか。
  要は、努力の『しどころ』の問題だ」
と。

ところが、ピケティのすぐあとに政治学者パットナムがこの見方を粉砕した。
パットナムはアメリカを例にとり、
 「貧しい人たちは教育や就労の場を選べなくなっている。
  彼らの成功のチャンスはどんどん失われている」
と分析的にのべた。
パットナムは、成り上がりのチャンスがめぐってこない貧困層の実態を示し、アメリカン・ドリームは破綻の危機に瀕していると訴えた。

 貧しい人が成り上がれない社会は、アメリカの「今」である。
 そしてそれは、多分にして日本の「遠くない未来」でもある。
 なぜなら、日本はグローバル化という「アメリカ化とも形容できる取りくみ」に余念がないからだ。
  否、わたしの肌感で言えば、成り上がれない社会はもはや日本の「今」といえる。

貧困層は努力を惜しまない。
それでも経済的にうかばれない。
彼らには
 「今を生きるために必要な『防衛本能的な努力』以外にリソースを割く余力」
がないからである。
にもかかわらず、彼らに
 「チャンスをモノにする努力くらいすれば?」
と言えば、
 「道義的にどうなの?」
との大衆の反応を呼び起こすだろう(希望的観測)。
社会的成功者たちも、これには同意する気がする。

しかし彼らは、とっさの時には
 「努力不足が貧しさを招いている」
と語る。
彼らにとっては、市場に存在するはずの貧困層が
 「存在しない」
ことになっているからだ。
誇張的にいえば、商売モードに入った瞬間、彼らの視野から貧困層は「消える」。
そのため、ビジネスシーンにいる彼らは、おそらく
 「貧しい人たちが日々生活のなかで
   『俺(わたし)って、貧しいな(弱者なんだな)』
  と確認させられるシーンに幾度となく遭遇し、傷ついている」
ことを知る機会をほとんどもたない。
 「家賃を滞納して住居を失った」
 「ブラック企業で酷使されて心身を壊し、再就職もできない」
 「家族との関係が悪く、行き場がない」
といった悩みはたくさんの要素がからんでいて、個人の力ではとても解決できない。
その「複雑さ」に理解が及ばないので、「自己責任」という単純思考で切って捨てて、彼らは(見た感じ)平気でいられる。

>貧困層は努力を惜しまない。
>それでも経済的にうかばれない。
>彼らには
> 「今を生きるために必要な『防衛本能的な努力』以外にリソースを割く余力」
>がないからである。
努力を惜しまないんじゃなくて、努力しなきゃ生き残れないんですよ。




日本の貧困の実情を「貧困層以外の人」が訴えることの大事さ

わたしたちは「個人」であるまえに共生体の一員である。
 「家族の一員であるまえに個人である」
という人間はこの世に存在しない。
親に依存し、保護され、扶養される存在として誰もが人生をスタートし、
さまざまなファクターに支えられ、育てられ、「今の自分」が形づくられている。
「今の自分」に至るまでにかかわった無数の要素を思うと、今の自分が「たまたま」あるにすぎないことに気づく。
途中の要素のどれが欠けても今の自分はなかったかもしれない。
そういった推論は成り立つし、そう思えば
 「今の俺があるのは俺の実力」
とは口が裂けても言えない。

それでも「自己責任論」をふりかざして社会的成功者が恥じないでいられるのは、きびしく言えば、世論がそれを受け入れているからである。
また、結構な数の貧しい人たちも
 「俺(わたし)の努力が足りないから、食べるのにも困る現実があるんだ」
と思っている(思いこまされている)。
たとえば社会運動家・藤田孝典さんが
 「貧困は切実な日本の問題である」
ということの確かさを強調しつづけているのは、「日本の貧困」に対する日本人の自覚が足りないことに起因する。

 「貧困って、遠い国の話だよね」
と根拠もなしに思っている人は案外、多い。
流行の『FACTFULNESS』という著作は、「事実」から出発して「思い込み」を打ち破る作法を紹介している。
ビジネスエリートなら既読だろう。
しかし、日常に戻った瞬間、彼らの多くは「それまでの思い込み」に居直り、『FACTFULNESS』のメッセージを「既読スルー」してしまう。

 同書に、こんな質問がでてくる。

  問.世界の人口のうち、極度の貧困にある人の割合は、過去20年でどう変わったでしょう?
   A 約2倍になった
   B あまり変わっていない
   C 半分になった

正解は「C」。
単純な3択だが、14カ国12000人のほとんどはこの設問に正解できなかった。
 「貧困問題は年々、深刻になっている」
と思い込んでいるからだ。
仮に
 「貧困が改善されている」
という「ファクト」を目にしても、わたしたちの多くは記憶を更新しない。
もっといえば、わたしたちは、自分が正しいと思っていることの反証になる情報をときに無視する習性をもつ。
なので、
 「日本は貧困を抱えている」
という事実はなかなか浸透しない。

そんなことを考えていたので、わたしは本稿で、日本の貧困について、あらためて強度をたずさえ、のべた。
自己責任論はもともと品がない議論だけれど、それはファクトからも縁遠い。
読者諸賢にはこのことを語っていってほしいと思う。

貧困層には、インターネットが日常でない人がたくさんいる。
彼らが「自らの貧しさ」に問題意識をもち、ソリューションにたどりつくよう努力することも必要かもしれない。
が、それよりずっとハードルが低いのが、
 「貧困層以外の人が認識をあらため、となりの悩める人に、解決につながる情報を提供しようと努力すること」
である。
まず
 「困っている人の『隣人』に、あなたがなる」
こと。
そして、貧困に悩む人同士、貧困の解決に向かおうと思う人同士がつながることである。
そこに希望の種が、植わる。
地道だが、そんな土壌づくりから世論の醸成をうながしたい。

いま世のなかは「努力が報われにくい領域が広がる社会」に向かっている。
「グローバル化」の美名のもとに、「結果にコミット」できない(しにくい)努力が量産される環境を整備している。
しかし、このことに自覚的な人は、あまりいない。
一度立ち止まって考えをめぐらせる必要があるのではないか。
グローバル化が待ったなしだとしても、このことを自覚して推進するのとそうでないのとでは、結果は天地雲泥の差になると私は思う。

・日本は貧困国である。
これは「事実」でしょう。

昭和時代の光景は今や「過去の栄光」です。
一度、レールから落ちると、いくらあがいてもどうしようも無いんですよ。
https://00m.in/6DMfU

https://00m.in/GzV6R


苦悩を避けるために、自分のパーソナリティの一部を一時的だが徹底的に一部変更すること。
遁走など。



解離(かいり、英語: Dissociation)とは、無意識的防衛機制の一つであり、
ある一連の心理的もしくは行動的過程を、個人のそれ以外の精神活動から隔離してしまう事である。
抽象的に表現するならば、感覚、知覚、記憶、思考、意図といった個々の体験の要素が
 「私の体験」
 「私の人生」
として通常は統合されているはずのもののほつれ、統合性の喪失ということになる。

その中には誰にでも普通にある正常な範囲のものから、障害として扱われる段階までを含んだ幅広い解釈があり、
解離を主として著しい苦痛を伴うものは解離性障害に分類されるが、こうした症状は他の障害や、身体疾患でも生じる。
 https://00m.in/Tb81I

う~ん、どんな内容なんだろ???




正常な範囲から障害の段階まで


生物学的解離と心理的解離

パトナム (Putnam,F.W.) とともに北米での解離性障害の大家として知られるコリン・ロス (Ross, C.A.) は
1997年に解離性同一性障害についての治療者の教科書ともいえる『解離性同一性障害:多重人格の診断、臨床的特徴、および治療』改訂版において、
解離を「病的/健康」「心理的/生物学的」の 2つの軸により 4つに分けている。

 ・健康な心理的解離は「講義に退屈するという心理現象のために白昼夢を見、授業の内容を思い出せない」。
 ・健康な生物学的解離は「睡眠という生物学的な現象に伴い、夜中にトイレに行ったことを思い出せない」。
 ・病的な生物学的解離は「脳震盪という脳への生物学的な影響のために交通事故を思い出せない」。
 ・そして病的な心理的解離が解離性障害であるとする。

後述するヒルガード (Hilgard,E.R.) の実験のように催眠によっても意図的に解離を引き起こせるが、
それはここでいう「健康な心理的解離」であり、
また薬物によっても解離を引き起こすことがあるが、それは「病的な生物学的解離」の範囲であり、解離性障害ではない。

ああ、この程度なら良くあるのでしょうね。



連続的か不連続か (DES)

コリン・ロスの2軸のひとつに「病的/健康」があったが、
ジャネもモールトン・プリンスも、
「現在の解離性同一性障害あるいは解離性障害の範囲に対して「解離」という用語を用いており、「正常な解離」など想像もしていない。
それを正常、あるいは日常的な範囲まで拡大したのがヒルガード の新解離論であり催眠実験である。
そこでは「解離」は普通の人にも当たり前にある正常な状態から、障害として扱われる異常な状態まで無段階で連続しているとした。

パトナムも当初はその連続体モデルの立場に立ち、
1986年という、まだ誰もが手探り状態のときに、解離体験尺度(DES:Dissociative Experience Scale)を作成する。
そしてその解離体験度の大きい者の中に解離性障害が潜んでいる可能性が高いと考えた。
DES は、正常範囲の解離現象から精神病的な解離現象までについて尋ねた 28項目の質問紙であり、
各問いに0%から100%までの11段階で答えてもらい、全28 項目の平均体験率をDES得点とする。
そしてそのDES得点が平均30点以上の場合に、解離性障害を疑ってみるというツールである。
あくまでもスクリーニングテストであり、それで障害が確定するものではない。

冒頭に解離は正常な範囲のものから、障害として扱われる段階までを含むとしたが、
それは無段階に連続的なのか、それとも不連続で正常と障害の2つのグループがあるのかという問題がある。
パトナムも当初はその連続体モデルの立場であったが、
後に離散的行動モデルへ傾き、それを不連続な2つの別のグループという見方に考えを改めている。
それがDES・解離体験尺度にも現れているので、以下その項目を例としながら、3段階に分けて見ることにする。

「解離」の段階は不連続、そうなんですね。




誰にでも普通にある正常な範囲

大学等の退屈な講義の最中に空想の世界へ入り込み、チャイムで我にかえる。
小説やゲームに没入して友達が話しかけてもまったく気がつかない。
飲み過ぎた翌朝、昨日のことが全く思い出せない。
これらは広い意味での解離ではあるが、だれにでもあり、病的な解離ではない。

DES・解離体験尺度は初期のバージョン 28項目には解離の「正常な範囲」も多く含まれていた。
以下はDES 28項目から病的解離指標DES-T の8項目を除いた正常解離指標 (NDI) 20項目の一部である。
コリン・ロスの 2軸 4分類でいえば「健康な心理的解離」に相当する。

 ・1. 車を運転した時や、電車やバスに乗っている途中の出来事を、一部または全部を憶えていない時がある[注 5]。
 ・2. 人の話を聞いている時、その内容の一部または全部を全く聞き憶えていない時がある。
 ・17. テレビや映画を見るとき、その話にあまりにも没入してしまって、周囲の出来事に気づかなくなる。
 ・18. 空想にのめりこみ、それが現実に起きていることのように感じる。
 ・20. 何も考えずに、時間が過ぎるのも気づかないで、ただジッと空(そら)を見つめている。
 ・24. あることを実行したのか、それともしようと考えただけなのか憶えていないときがある。

これらは誰にでも多少はある正常な範囲であり、研究者的には「解離」であっても、一般人の日常的な感覚ではわざわざ「解離」とは呼ばない。
例えば上記の 17.だった者に
 「没頭してたんでしょ」
とは言っても
 「解離してたんでしょ」
とは言わないし、普通の人には会話として成り立たない。

うん。
これは良くあります。
そして、「ADHD」は没頭しすぎる症状があります。




不幸な出来事ではあるが正常な範囲

不幸に見舞われた人が目眩を起こし気を失ったりするがこれは正常な範囲での「解離」である。
さらに大きな精神的苦痛で、かつ子供のように心の耐性が低いとき、
限界を超える苦痛や感情を体外離脱体験とか記憶喪失という形で切り離し、自分の心を守ろうとするが、
それも一時的であれば人間の防衛本能としての「解離」であり、日常的ではないが障害ではない。

つくづく思うのが、「パムのトラブル」で「パム」がこの種の「解離」になっていない事が凄い事だって事です。




障害となる段階

障害となるのは次のような段階である。
空想と解離は、慢性的なストレス状況におかれた子供にとっては唯一の実行可能な逃避行であるが、
状況が慢性的であるがゆえにその状態が恒常化し、コントロール(自己統制権)を失って別の形の苦痛を生じたり、社会生活上の支障まできたす。
これが解離性障害である。
解離性同一性障害は、
 切り離した自分の感情や記憶が裏で成長し、あたかもそれ自身がひとつの人格のようになって、
 一時的、あるいは長期間にわたって表に現れる
状態である。
解離性障害の可能性が高くなるのは、
DES-Taxon でも病的な解離性障害に関わる以下の8項目の少なくともひとつに相当の頻度で該当する、あるいは複数に該当する場合である。

 ・3. 気がつくと別の場所にいて、どうしてそこまで行ったのか自分でも分らない。
 ・5. 自分の持ち物の中に自分では買った憶えがない新しい物がある。
 ・7. まるで他人を見るように自分自身を外から眺めているという経験をすることがある。
 ・8. 友達や家族に気がつかない。あるいはそうと認めないことがあると、他人から時々指摘される。
 ・12. 周囲の人間や、物や、出来事が現実のものでないように感じる。
 ・13. 自分の体が自分のものではないと感じる時がある。
 ・22. 状況が変わるとまったく別の行動をするので、自分が二人いるように感じてしまう。
 ・27. 時々頭の中から聞こえて、何かを命令したり、自分の行為にコメントをすることがある。

これらの質問に高い確率で該当があれば解離性障害の可能性は高まるが、それだけで判断する訳ではもちろんない。
こうした定型の質問ではなく、より細かい具体的な話のなかから医師が総合的に診断を行うことになる。
解離症状は解離性障害だけにあるものではない。
急性ストレス障害 (ASD)、心的外傷後ストレス障害 (PTSD) にも、境界性パーソナリティ障害にも解離症状は見られる。

現在よく使用されるDSMの分類は「記述式」と呼ばれる「症状」を中心とした分類であるので、
解離性障害もPTSDも境界性パーソナリティ障害も別々の大分類に分かれるが、
構造的解離理論の中では解離の 3段階の中にPTSDも境界性パーソナリティ障害もとらえられていたりする。

障害となった段階の解離、および構造的解離理論については解離性障害を参照のこと。
 https://00m.in/Tb81I

ここまで行くと、「多重人格」ですね。



・・・・・・「パムのトラブル」ではこの「解離」はありませんでした。

https://00m.in/g1prN


ボーダーにだまされたあなたは未熟でしょうか?
それとも被害妄想なのでしょうか?

いいえ違います。ボーダーラインの特徴を有する人のパワーを甘く見てはいけません。
今現在、
 ボーダーラインの取り巻き連中があなたが受けた被害を信じてくれない
であろう状況だとしても何もおかしくないのです。

「パム」も今の「現実」が本当に「現実」なのか解らなくなりかけたりしてます。




そうね。
ボダ特有のパワーを甘く見ちゃいけないね。
彼等は内面が子供そのもの(しかも性質の悪い子供)だから疲れを知らないし、決して諦めない。
周囲をコントロールしちゃう傾向もあって、こっちが被害者なのに何時の間にか加害者にされていたりするんだな。
ボダは
 『自分に非は一切無い。』
と身勝手に思い込んでる人達だからこっちが嫌がってるのに
 『嫌がるのはアンタが悪い。』
とか本末転倒した結論に行っちゃう。
そしてこっちを罵倒する。
通常人の三倍は疲れる人種だ。
ボダと付き合い続けなければならない運命ならばきっと早死にするか、異常に老け込むだろうな。

実際に、「パムのトラブル」のそもそもの争点がどっかに行っちゃってますwww




私はパートナーが自分と同じ人種なんて絶対嫌だけどなー
だって究極の根本は
 「自分さえよければオールOK」
な人種だぜ?
もしボダがパートナーだった場合かんがえてみ
求め合い擦り付け合い責任添加し合いのオンパレードでエライことなるって
しかも困るのは二人共共
 『現状把握能力』と
 『問題解決能力』
を欠いてるから、二人の間に問題が起こったとして、
そのことに気付けた時には取り返しのつかない自体に陥ってることうけあい(=共依存)
そして互いにM属性だからエッチの相性も悪いに違いないw

たとえ言葉では
 「君しかいない。
  君を守る。
  理解してくれるのは君だけだ」
って言ってても、

その言葉の真意は
 「(好き勝手甘え根性が許されるのは)君だけだ。
  君を守る(それなら離れないよね?)。
  理解してくれるのは君だけだ(=君ほど都合よく扱い易い人間はいない)」
ってなもんでしょう 。
そんなうすら寒い関係嫌だ

ボダ同士上手く行ってるってカップルってさ、お互い脳内で美化し合った互いの虚像に恋して盲目の世界に入っちゃってるってゆー
はたから見ててイタタなカップルなんじゃないの偏見だけど

この文も酷い罵詈雑言ですが、ボダって実際にこんなもんでしょ。




ボダでなくても思考の幼い人間は愛とエゴの区別がつかない己の足りない部分を埋めたたいだけ。
欲求を横着に満たすのがエゴ自分の感情をひたすら優先するから周囲をズタボロに引き裂いてしまう

与えるだけで見返りを求めないのが愛。
愛は誰も不幸にしない誰かを好きになっても、相手を思って身を引くことができるのが愛
愛を実践する人は、最終的にはよい出会いに恵まれ、幸せになってますね
与えることができる人は常に誰かに必要とされ、満たされる。
孤独と無縁


幼児期に愛された経験のない人間は成人しても人を愛する能力を持たないんですね。
母親や父親からの愛情は多くの場合、無償の愛です。
しかしそれを感じる事が出来ないで育った人間はその満たされない愛情の飢餓状態にある訳です。
それがボダの本質だと思う。
いい年こいた人間が相手の立場も考慮せず、自分の要求を遮二無二通して貰いたがる。
本当は自分の要求なんてどうでも良く、相手が自分の為にどれだけ己を犠牲に出来るかを見定めるんですね。
慢性的愛情飢餓のボダが無理難題を押し付けても決してそれを受容してはいけないんです。
一度受け入れたら更に無理難題を押し付けてくる。
で、本人は一向に良くならない。
悪循環です。
童話で『かぐや姫』ってのがありますが、彼女はボダじゃないか、と思う。
求婚者に無理難題を押し付け、自分はお迎えが来たからと世話になった人達に何ら挨拶もなくサッサと月世界に帰ってしまう。
自分は少しも良心の呵責なく(ボダに良心なんてものは無いと思いますが)少しも傷付かず帰ってしまう。

>幼児期に愛された経験のない人間は成人しても人を愛する能力を持たないんですね。
確かにそうだと思います。
実は、これ、「パム」が「恋愛」をストップした理由の一つです。




知り合いは顔も知らないネットの知り合い(異性)に粘着されて
 「会ってくれないならこっちから会いに行く」
とか言われて包丁持ったボダに実家を襲撃されましたよ
 (「こっち方面出身」みたいなことをblogとかで書いてたせい)
両親が警察を呼んだけど1度目だと調書取られて釈放なのね
2度目に包丁振り回して暴れたときにやっと逮捕してくれて措置入院になりました

うひゃ・・・。
ガチでこういう事もあるんですよねぇ・・・。




ココ見て友人の彼女が多分境界例なんだろうなと
その友人の元カノもすごかったし
彼がターゲットってやつなのかな
 彼女がリストカットして大変だから会社休む
とか
 むちゃくちゃな奴と付き合ってんだなぁ
位に思ってたら人格障害の人と付き合ってたんだね
彼も彼女も元カノもサラ金地獄境界例の人は借金しまくるって症状はあるの?
別もので金にだらしないだけかな


異常な程の浪費壁があるのってボダに多いよ。
つまり計画性云々と言うよりもその時、その場で欲しいと思ったらすぐに手に入れなければ気が済まないんだね。
だから平気で後先も考えず借金出来る。
男女関係についてもそう。
この男(女でもいいんだけど)を手に入れたいと思えば周囲の迷惑や、相手の都合も考慮せず、突っ込んでくる。
迷惑極まりない話だが性急な欲望のみに衝き動かされてるんだな。

この症状は「ADHD」の症状と酷似しているのですよ。
ボダもADHDも衝動に弱いのです。




ボダは善悪という概念が通常人とかなり異なるので、
 どう客観的に見ても自分が悪いとしか言いようが無いのに、相手が悪いんだ、
と断定してしまう。
って言うか、
 道徳観や倫理観ってのが非常に少ないか、全く無い
と考えた方が良い。
普通の人間なら
 『俺は悪くない!』
とか主張したとしても自分に非があると思ってる場合は心苦しいもんだが、ボダは全く違う。
そもそも 快、不快が行動基準になってるから心苦しくなんてならないんだね。
だからそういう人間には毅然として振舞った方が良い。
逃げ回ったって見透かされるだけだぜ、ボダに。

「パム」は「パムのトラブル」がエスカレートし過ぎた段階で、ある程度の「良識」を「敢えて」カットしました。
そうしないと、現実的な対応ができなくなって、ホンキで発狂しそうな事態でしたからね・・・。




ボダは一人歩きが困難な乳幼児に例えられますね。
幼少期に親(主に母親ですが)との分離が上手く行かずに自我の形成が健全な形で行われなかったのが原因と考えられます。
親が異常な程子供の成長に無関心だったり、
逆に親が子供が自分から分離してるのを恐れている場合に起こります。
ボダは愛されたいという願望は強く持ってるのですが、
真の意味で
 『愛された。』
という経験に乏しいので愛情について理解出来ないのですね。
他者に依存し、しがみつくのを愛情と思ってたり、他者が自分に依存しなけれ ば生きていけない状況を作ってたりするのは愛情ではありません。
もし人から
 『愛されたい。』
のであれば自らが人を
 『愛する。』
事が出来なければいけないのです。
でも自分を愛せない人間は他者を愛せないのです。
自我を確立する事が早急に望まれますね。
ただ自己愛みたいに肥大化した自我を極端に愛するのって健全ではありませんけどね。

自分を愛しすぎるのも問題なんです。


「パム」は今や「綺麗事」ばかり言う人を斜めから見るようになりました。
https://00m.in/6DMfU

https://00m.in/RqZ0N


周囲環境における出来事や対象を、過度に管理・統制しようとする。



コントロール(統制)は、レベル3防衛機制の一つである。
コントロールフリークは完璧主義者が陥りやすく、
それは自身が抱える内面的な精神の脆弱性から身を守るためであり、
他人の個人的生活など「全て」をコントロールしなければ、
児童期の不安や自身の持つ男性・女性のイメージを破壊されるなど誤った信念を持っているからである。
こういった人々は、他人へ自身の認識を強制し、操作し圧力をかけ、
また裏切られた男性・女性のイメージなど内面の虚しさから逃れるために他人の力を利用する。

「パムのトラブルのキーパーソン」のみならず、「パムのトラブル」の登場人物には、
 ・アドバイス
 ・世話
などの形で、「パムの個人的生活」まで介入しようとした人が多数おりました。

そして、「パムのトラブルのキーパーソン」は、
「パムを15年近くストーキングしている50男」や「パムのトラブルのきっかけになった人物」がややこしい事をするような状況をお膳立てして、
「パムの仕事」つまり、「保険外交員」と言う仕事にまで影響を与えようとして行きました。

特に、「パムを15年近くストーキングしている50男」「暴言が酷い精神科医」の夫婦が、
 ・「パムが良く行くお店」
 ・「パムが良く行くライブバー」
 ・「パムの勤務先」
 ・警察署
などに、クレームやら通報やらをし始めました。



「パム」はこう言うのは完全無視して、「メモ」で対抗したのです。

https://00m.in/RGvnw


あなたは普段、メディアやネットで見聞きする「情報」をどのくらい信じているだろうか?
報道番組や新聞のことは信じるがネットの情報は信じない。
特定の媒体だけ信じる。
入ってくる情報はほとんど信じる。
人によってさまざまだろう。

しかし、世の中の出来事は、誰かの、何がしかの意図をもって切り取られ、発信され、初めて「情報」となる。
その切り取り方次第で印象が大きく変わり、情報の受け手はそのインパクトによって、いとも容易く情報をある一面でのみ捉えるようになる。

NHKの元ディレクターで作家の高木徹氏の 『国際メディア情報戦』(講談社刊)は、
戦争、選挙、テロなど国際的な舞台で繰り広げられた「情報戦」について論じた一冊だが、
私たちが日常生活の中で触れる「情報」に振り回されないためのヒントを得ることができる。

 https://00m.in/Sk8Zz

「情報」を加工する事で、同じ事象から来た「情報」でも別な意味になって行くのですよ。




■メディアから流れる「情報」の3つの罠

メディアの情報には、三つのキーワードがある。「サウンドバイト」「バズワード」「サダマイズ」だ。

「サウンドバイト」は、テレビ業界用語だ。
ある人物の発言を数秒から数十秒の長さにカットしてニュースの中に編集していく、その発言の短い断片のことを指す。
不祥事を起こした人の涙ながらの謝罪などの短い映像がその発言とともに繰り返し流されることがある。
まさにあれだ。

次の「バズワード」は、ある言葉を象徴的に使うことで、世論にある方向への印象付けを行うことに利用される。
今や「バズる」と日常的に使われ、馴染みのある言葉だろう。
たとえば、1990年代に起きたボスニア紛争では、
PR会社が「民族浄化」という言葉をバズワードにして、国際世論がボスニア政府に同情的になるように印象付けたという。

最後の「サダマイズ」は、イラクの元指導者であるサダム・フセインに起因した言葉で、言ってみれば悪役を仕立てる戦略だ。

「サウンドバイト」では、前後の文脈はカットされ、印象的な部分だけがクローズアップされる。
そこには編集する人間の意図が介在する。

また、「バズワード」をつくるのは、メディア側、もしくはメディアを味方につけている人間だ。
そこにも当然、その言葉によってどういう印象を与えたいかという意図が存在する。
さらに、出来事や事件の当事者たちのどちらかを悪役に見立てる構図は、報道などでよく見かけるだろう。
その構図をつくるのも、やはりメディアの側に立つ人間だ。

程度にかかわらず、「情報」は発信される時点で、必ず誰かの意図が介在している。
そのことを、3つのキーワードともに押さえておけば、情報リテラシーは高まるだろう。

「パムのトラブル」を例にしましょう。

 サウンドバイド:
   「 (『パムのトラブルのきっかけになった人物』と一緒にやるのは楽しいが、)
    『パムのトラブルのきっかけになった人物』にも悪いトコロはある
     (けど、それくらいは織り込み済みである)。」

 バズワード;
   「パムはシャブ中である。」
   ※単なる人格批判である。

 サダマイズ:
   「パムは『パムのトラブルのきっかけになった人物』を憎んでいるのに利用して捨てようとした。」
   ※実態は正反対の構図である。

ざっと、こんな感じでしょうか?



また、インターネット上の情報で気をつける必要があるのは、
 「一般のメディアが報じない情報」
 「○○業界のウラ話」
 「正しい○○屋の選び方」
 「○○ランキング」
などです。

以下を調べて、情報の正確性を検証しましょう。
 ・情報を発信しているサイトの発信源
 ・情報を発信する側で恣意的に可能か否かの検証
 ・文章の最後が「自社の宣伝」になっていないか?
 ・情報を発信する側の意図を、その社会的地位から推定する。

これは、歴史学の「史料批判」と似ています。




■情報は「拡大再生産」で真実となる

本書では何度か、「情報の拡大再生産」という言葉が使われている。
最初の出来事が些細なことであったとしても、多くのメディアが競い合って伝え始め、そのインパクトが急速に拡大するスパイラルだ。

例えば1992年のアメリカ選挙戦では、ブッシュ元大統領が「情報の拡大再生産」によって大きな痛手を被った。
彼がしたことは、
 討論番組である女性との質疑中にチラリと腕時計を見た
ことだった。
しかも、会場全体を広くとらえた映像でほんの一瞬の出来事だった。

しかし、(その後の対応も悪かったのもあるが)結果的に
 「質疑の最中に腕時計を見た」
という映像をメディアはこぞって流し、
ブッシュ氏が大統領選で敗北する決定打となった。

今では、情報を発信するのはメディアだけではない。
SNSの拡散力は当時とは比べ物にならないほど強力だ。
そこで拡大するインパクトについては言うまでもない。
だが、そのことは同時に、些細な出来事だけが「真実」になり、本質を見失わせるというリスクも生み出しているのかもしれない。

今や、誰の意図も影響も受けていない情報というものは、どんな媒体を探しても見つかりはしない。
唯一「純粋な情報」と呼べるのは、自身の目と耳で体験したものだけだが、この現代社会をそれだけの情報で生きていくことは難しいだろう。

では、どうするべきか。
自分たちが「情報戦」の末端にいる受け手だということを自覚すること。
そして、切り取られた情報を、むしろ楽しむくらいの余裕とタフさが必要だと著者は述べている。
(ライター/大村佑介)

SNSを利用した情報戦、意外に侮れないんですよね。
「誹謗中傷」は原則的には放置しておくとストップするモノです。
が、それが10年以上も同一人物から継続するとどうなるでしょうか???

一つの「誹謗中傷」が拡大していきます。
「パムのトラブル」を例にしましょう。
  事実 :「パム」が「mixi」で「パムの語る鉄道車両シリーズ」と言う日記を「連載方式」で投稿していた。
      電車の仕様などは「誰が書いても同じ」だったので、そう言う箇所は「Wikipedia」の参照をするように記述した。
 
 誹謗中傷:Wikipediaは誰もが書けるサイトなので情報の信用性が低い。
      よって、そこを引用する「パム」は「ウソつき」である。
 
  デマ :パムは「知ったかぶり」する「ウソつき」である。


ところで、いわゆる「政治的背景」「宗教的背景」がある人が発信する情報の中には、
そのウラに「特定の政治団体」「特定の宗教団体」がある事を隠蔽しているモノも多いのです。
例え「専門家」であっても「特定の政治団体」「特定の宗教団体」の主張に沿った情報を発信するのです。

それに対しては、「東日本大震災」の時の「パム」の対応を例示します。
「東日本大震災」の時、
 ・福島第一原子力発電所からの放射能が千葉県東葛飾地方を汚染している。
と言う情報がありました。
当時の「パム」は柏市内つまり「千葉県東葛飾地方」に居住しておりました。
「パム」がこの情報を信じて、「原発容認派」から「反原発派(原発の代替エネルギー模索派)」に鞍替えしたのは、
 ・柏市役所が放射能汚染が柏市内で起きている。
と言う発表があってからなのです。
https://00m.in/6DMfU

https://00m.in/G18H1


希望的観測(きぼうてきかんそく、英: wishful thinking)は、信念の一形態であり、
証拠や合理性ではなく、
 「そうあって欲しい」とか
 「そうだったらいいな」
という希望に影響されて判断を行うことをいう。
一般に、好ましい結果が好ましくない結果よりもありそうだと予測することを指す。

・「パム」が楽観的過ぎる。
と言う指摘を良くされますが、そういう場合、ただ単に、「賭け」で動いているだけです。




誤謬としての希望的観測

認知バイアスや意思決定のまずい方法という以外に、希望的観測は誤謬の一種ともみなされ、
事柄の真偽を事実に基づかずに希望に基づいて決定する場合を指す。
この誤謬は
 「わたしはPが真(または偽)だといいなと思うので、Pは真(または偽)である」
というような形式を持つ。
このような希望的観測は感情に訴える論証に基づくもので、論点のすり替えの一種である。

希望的観測を使い、状況対人論証の一形式を生み出すことができる
 (「あなたはAだというが、それはBを導き出したいがためだ。
   だからAではない」)。
希望的観測は意図せざる結果を見逃す原因となることがある。
関連する誤謬として、無知に訴える論証がある
 (「それはまだ偽であると証明されていないから、真にちがいない」など)。
例えば、UFOを信じる人はほとんどのUFO写真が偽物であることには同意するが、
偽物と証明されていない写真がひとつでもあれば、それがUFOの実在を証明すると考えている。

「パムのトラブルのキーパーソン」にこの「希望的観測」がある気がします。
 ・「パムのトラブルがこじれて欲しい」
そして、次々と不要なトラブルが起こるようなタネをまいているのです。

 ・「パムは、パムのトラブル相手を憎んでいるから、その相手を陥れる為に動いている。
   だから、パムの言動は真では無い。
 ・「パムのトラブル相手の言動を信じると、『パムのトラブルのキーパーソン』が有利になる。
   だから、パムのトラブル相手の言動は真である。
このような具合です。



それに対して、「パム」は「メモ」でこれに対抗しているのです。

https://00m.in/PJuXi


 「白か黒か」「0か100か」という極端な考え方をやめる。

完璧主義者は、極端な考え方が目立ちます。
 「完璧か、そうでないか」
と考えているため
 「白か黒か」
 「0か100か」
という考え方が目立ちます。

 「うまくいけば白。
  それ以外は黒」
 「うまくいけば100点。
  それ以外はすべて0点」
一言で言えば、はっきりした性格です。
白黒はっきりしていると、意思表示をするとき、他人に伝えやすいでしょう。
はっきりした考え方は、わかりやすい性格でもあります。

・「パム」が「白黒思考」である。
と決め付けられて、非常に困ってます。

「パム」に憎んで欲しいのでしょうか?
だから、あんな事をしたのでしょうか?www

過去の「パム」はこの「白黒思考」だった事実はあります。
しかし、結局、それは自分を追い詰めるだけでした。




たしかにこうした考え方も必要になることがあります。
たとえば、契約関連の話し合いです。
法律と金銭が関係する場面では、白黒はっきりさせないといけません。
曖昧な言い方は余計なトラブルを招くもとになるため、話し合いが長くなっても煮詰める必要があるでしょう。
一部の場面では、明確に考えなければいけないことがあるのも事実です。

はい。
場合によっては必要なのです。
「裁判」もその一つです。




しかし、普段の日常なら、できるだけ極端な考え方は控えたほうがいいでしょう。
いつも両極端な考え方をしていると、ストレスをためやすくなります。
1つでも不備不足があれば、すべてNGになるため、充実感や満足感が得られにくくなります。
いつも不安や恐怖を感じることになり、リラックスした生活を送りにくくなります。

 「白か黒か」
 「0か100か」
という考え方は、視野や行動の幅を狭くします。
思考に柔軟性がなくなり、発想力やアイデアに乏しくなります。
失敗を怖がるようになるため、余計な行動や新しい挑戦を控えるようになります。
また、物事を途中で投げ出しやすいデメリットも見逃せません。
1つでも取り返しのつかないミスが発生すると、急に熱意・意欲を失います。
理想とする完璧を達成できなくなるため
 「続けても意味がない」
と考え、途中で投げ出しやすくなります。

 「白か黒か」
 「0か100か」
という考えに執着していると、人生を生きにくくなってしまうのです。
白でもない黒でもない、0でもない100でもない、真ん中の価値観を取り入れてください。
すなわち、グレーです。
グレーも素晴らしいと考え、中間の状態を楽しむようにしましょう。
グレーを許容することで、完璧を達成できなくても、心の動揺を抑えることができます。
 「人間だから完璧にできないのも当然」
と思えば、グレーの状態を心地よく楽しめるでしょう。
グレーという新しい価値観を手に入れて、ストレスを減らしてください。
 「曖昧も心地よい」
 「中途半端も1つの形」
 「中間も悪くない」
このような考え方を取り入れれば、グレーの素晴らしさに気づけるでしょう。
グレーの価値観を取り入れれば、今よりもっと人生を生きやすくなります。

「パム」が何故、「保険外交員」を3年も続けられたのでしょうか?
「パム」が「白黒思考」だったら、すぐに辞めてましたよ?