心理学界最大の謎の一つ

 

EMDRの効果については、現在では多くの研究で実証されています。しかし「なぜ効くのか」という問いに対しては、実はまだ完全な答えが出ていません。これはEMDR研究における最も興味深い、そして正直な部分でもあります。

現在有力とされている仮説をいくつかご紹介します。

 

仮説①:ワーキングメモリ仮説(Working Memory Hypothesis)

最も支持を集めている仮説の一つです。

眼球運動を行うとき、脳のワーキングメモリ(作業記憶)には一定の負荷がかかります。同時にトラウマ記憶を保持しようとすると、限られたワーキングメモリの容量を両方で奪い合う状態になります。その結果、トラウマ記憶の鮮明さや感情的な強度が自然と低下する——というのがこの仮説の核心です。

オランダの研究者ヴァン・デン・ホウト(van den Hout)らの一連の実験が、この仮説を支持する結果を示しています。眼球運動だけでなく、計算課題など別の認知負荷を与えても同様の効果が得られることも報告されており、「両側性刺激そのものより、注意の分散が鍵」という見方も出てきています。

 

仮説②:記憶の再固定化理論(Memory Reconsolidation)

記憶は一度形成されたら固定されるわけではなく、想起されるたびに「不安定な状態」になり、再び固定される(再固定化)ことが神経科学の研究で明らかになっています。

EMDRのセッションでトラウマ記憶を想起させながら両側性刺激を与えることで、再固定化のプロセスに介入し、記憶の感情的な色合いを書き換えることができる——という仮説です。これはトラウマ治療全般に共通するメカニズムとも重なりますが、EMDRの両側性刺激がこのプロセスを促進する可能性が示唆されています。

 

仮説③:REM睡眠類似仮説

シャピロ自身が早くから提唱していた仮説です。眼球運動がREM睡眠(夢を見る睡眠段階)中の眼球運動と類似しており、REM睡眠が感情的記憶の処理に果たす役割と類似したプロセスがEMDRセッション中に起きているのではないか、という考え方です。

REM睡眠中に日中の感情的な体験が処理・統合されるという「睡眠と記憶の感情処理理論」(Walker & van der Helm, 2009など)とも接点があり、神経科学的に興味深い仮説です。ただし直接的な検証はまだ十分ではありません。

 

仮説④:適応的情報処理モデル(AIP:Adaptive Information Processing)

これはシャピロが提唱したEMDR独自の理論的枠組みです。人間には本来、経験を適応的に処理する情報処理システムが備わっている。しかしトラウマ的な出来事は、その処理が「凍結」した状態で記憶に残ってしまう。EMDRはその凍結を解き、本来の適応的処理を再起動させる——という考え方です。

これは神経科学的な仮説というよりも、EMDRの臨床実践を支える概念モデルとして機能しており、セラピストがセッションをどう構造化するかの指針にもなっています。

 

「なぜ効くかわからない」ことの正直さ

複数の仮説が並立している現状は、一見すると理論的な弱点に見えるかもしれません。しかし実際には、「作用機序が完全に解明されていない治療法」は心理療法に限らず医療全般に珍しくありません。重要なのは、効果のエビデンスが積み重なっているという事実です。

 

次回はそのエビデンスの中身を、国際的な評価とともに詳しく見ていきます。

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「眼球を動かすだけ」ではない

EMDRという名前を聞くと、「目を動かしながらトラウマを思い出す療法」というイメージを持たれる方が多いかもしれません。確かに眼球運動(あるいはタッピングや音などの両側性刺激)はEMDRの特徴的な要素ですが、それはセッション全体のほんの一部にすぎません。

EMDRには、丁寧に設計された**8つのフェーズ(段階)**があります。

 

フェーズ1:病歴聴取とアセスメント

まずクライエントの生育歴、現在の症状、ターゲットとなる記憶などを丁寧に聞き取ります。すべての記憶を扱うわけではなく、現在の症状に最も影響していると考えられる記憶を特定することが重要です。また、EMDRに適しているかどうかの判断もこの段階で行います。

EMDRは何にでも効果のある魔法ではありません。ここで,適応の可否を見定めることが重要になります。

 

フェーズ2:準備

EMDRの仕組みをクライエントに説明し、安心できる「安全な場所」のイメージを作るなど、感情を調整するための技法を練習します。セッション中に強い感情が出てきたときに、自分でコントロールできる感覚を持てることが大切です。

ここは全てのトラウマセラピーに関して共通することですが、まずトラウマ体験の記憶を扱う前に、いつでもこの安心できる場所のイメージを自分自身で得ることができるという感覚を掴むことが大変重要になります。

 

フェーズ3:アセスメント(ターゲット記憶の評価)

処理する記憶を具体的に評価します。記憶に関連したネガティブな認知(「私は無力だ」など)、望ましいポジティブな認知(「私は対処できる」など)、感情、身体感覚、そして苦痛の程度(SUD:0〜10点)を確認します。

 

フェーズ4:脱感作

いよいよ眼球運動(または他の両側性刺激)を用いながら、ターゲット記憶を処理していきます。セラピストの指の動きを目で追いながら、記憶に浮かぶものを自由に観察します。これを繰り返す中で、記憶に伴う苦痛が徐々に低下していきます。

 

フェーズ5:植え付け(インストール)

苦痛が十分に軽減したら、ポジティブな認知(「私は対処できる」)をその記憶と結びつけて強化します。

 

フェーズ6:ボディスキャン

身体に残っている緊張や不快感がないかを確認します。トラウマは身体にも記憶されているため、身体感覚の解放もEMDRの重要な目標です。

 

フェーズ7:クロージャー

セッションを安全に終了します。処理が完全でない場合も、安定した状態でセッションを終えられるよう整えます。

 

フェーズ8:再評価

次のセッションの冒頭で、前回の処理がどう定着したかを確認します。

 

「観察するだけでいい」という感覚

EMDRが他のトラウマ療法と異なる点の一つは、クライエントが記憶を詳細に語る必要がないことです。「何が浮かんでも、ただ観察していてください」という姿勢が基本であり、これがトラウマの詳述を苦痛に感じる方にとっての大きな入口になっています。

 

次回予告

では、なぜ眼球を動かすとトラウマ記憶の苦痛がやわらぐのでしょうか。次回は、EMDRの作用機序についての仮説を、現在の研究をふまえながら解説します。

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ここからは数回に分けて当カウンセリングルームでも最も問い合わせの多いEMDRについてシリーズ形式で紹介します。EMDRの有効性はさまざまなエビデンスの蓄積に伴って広く認知されていますが,それでも万能でもなく魔法でもありません。ご自分に合った方法を見つけるためのご参考としていただければ幸いです。

1987年の春、カリフォルニア州の公園で

EMDRの歴史は、一人の女性が公園を散歩していた日に始まります。

フランシーン・シャピロ(Francine Shapiro)。当時、心理学の博士課程に在籍しながら、自身もがんの診断を受け、ストレスフルな日々を過ごしていました。そのある日、気になっていた悩みごとを考えながら歩いていると、ふと気づいたことがありました。——考えていた内容の不快感が、気がつくと和らいでいる。

原因を探ると、自分の目が左右に素早く動いていたことに気づきました。意識的に眼球を動かしながら不快な考えを思い浮かべると、同じことが起きる。感情的な苦痛が、やわらいでいく。

これがEMDR(Eye Movement Desensitization and Reprocessing:眼球運動による脱感作と再処理法)の原点となった体験です。

 

偶然の発見から臨床研究へ

シャピロは直感を科学に変えようとしました。まずベトナム戦争帰還兵やレイプ被害者など、トラウマを抱えた22名を対象に試験的なセッションを行い、1989年に最初の論文を発表します(Shapiro, 1989, Journal of Traumatic Stress)。

結果は驚くべきものでした。1回のセッションで、長年抱えていたトラウマ記憶の苦痛が大幅に軽減したというのです。当初、心理学界はこの結果に懐疑的でした。「眼球を動かすだけでトラウマが治る」という主張は、あまりにも単純すぎると映ったからです。

 

論争と発展の時代

1990年代、EMDRは激しい賛否の中で発展していきます。シャピロ自身がトレーニングの普及に力を入れる一方、「眼球運動は本当に必要なのか」「イメージだけでも同じ効果があるのではないか」という批判的研究も相次ぎました。

しかしその論争が、皮肉にも研究の蓄積を促します。1990年代後半から2000年代にかけて、無作為化比較試験(RCT)が次々と行われ、少なくとも「EMDRがPTSDに有効である」という点については、次第にコンセンサスが形成されていきました。

 

国際的な認知へ

2013年、WHO(世界保健機関)はPTSDの治療ガイドラインにEMDRを推奨療法として明記しました。現在では、米国心理学会(APA)、国際トラウマティックストレス学会(ISTSS)など主要な専門機関が軒並みEMDRをエビデンスに基づく治療法として認定しています。

公園でのたった一つの気づきが、世界中の何百万人ものトラウマを抱えた人々の治療に使われる療法へと育ったのです。

次回予告

次回は、実際のEMDRセッションがどのように進むのか、8つのフェーズの流れをご紹介します。「眼球を動かす」だけではない、その奥にある丁寧なプロセスをお伝えします。

 

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