延喜式神名帳に記載されている神社のことを約して「式内社」と呼んでいる。
現在、神社行くと、式内社である表示を掲げている神社もある。それは、宣伝効果が抜群であるからである。
しかし、同じ名前の神社が存在したり、或いは、現在は別の名前に変更になっている神社もあったりする。反対に、江戸時代は、〇〇鹿島神社という名前に一旦変えていたが、元の神社名に戻したという神社もある。
延喜式神名帳自体で、もっとそれぞれの神社の紹介を詳しく書いてあれば、複数の事柄から少しは間違いが少なくなるのでは?と思う。また、複数の根拠を集めて、式内社であることを主張するかもしれない?
あまり宗教の変遷とか、政権の統治機能としての宗教勢力の活用といった点については、よく理解していない。
神仏習合、廃仏毀釈を経て、現代に至っている訳で、延喜式が編纂された状況とは、その土地自体の隆盛もあるだろうし、現在優位な神社であるように見えても、それは、違うかもしれないということである。別当寺と言って、神社を管理する寺が決められた時代もあった。大変複雑であるので、あっちいったりこっちいったりする。
また、口伝えに「〇〇」と言われたので、それと関係があるとか、「〇〇」という書物に記載されているからといったことで、引用エビデンスとしたとしてもそれが事実かさえもわからない。よって、信憑性が薄いという気持ちで、見ておいた方が賢明であると考える。
その昔、霞ヶ浦南側の地域は、信太(しだ)郡と呼ばれていた。そこの阿弥神社に関して式内社論争が発展して、寺社奉行に申し出た時の結果は、関係神社は、式内社と言わないという裁定であったようだ。しかし、現在では、竹来の阿弥神社のおいては、信太郡の二宮と呼ばれ、社号標には「延喜式内」と文字が刻まれている。こんなところを訪れた時に見てみるのも面白い。また、下記に参考文献で挙げたような研究者がこのような内容について、研究した内容について読んでおくといいと思う。要するに、公的機関などでは、「公的に認証してください」と言われても、元々、不確かな内容について、多くの不確かなエビデンスを付けて申請しても、一切相手にされないということである。
また、御朱印をいただくために、宮司のご自宅を訪ねた際に、本当のところ、どっちが式内社なの? と、失礼ですが訊いてみたりした際に、「古すぎてあった場所も解りません」と返されたすることもあるので、そういうものなんだと理解することも必要だと思う。
参考文献
・渡部 圭一『式内社・論社問題における書物と「口碑」』 2007-01-01
(作成日:2020年3月27日、最終更新日:2020年4月1日)