20年前の今日・・・そして、今。 | 見上げれば、青空 ~羽生結弦選手に夢を託して~

見上げれば、青空 ~羽生結弦選手に夢を託して~

励まされ、受けとめられて、初めて人は、生きていけるのかな?

コメント、嬉しいです。
励まされないと、何もできない性質なので・・・・。
って、いきなり弱気?

フィギュアスケートの羽生結弦選手を応援しています。

苦しい程に結弦くんが好きな方、ようこそ!

20年前の今日、私がいつものように目覚まし時計を止めてテレビをつけると、
NHKのニュース番組では、薄暗い街を俯瞰で捉えた映像を流していました。


神戸で大きな地震があり、
けが人が数人出ていると知らせていたけれど、

その震度でその人数ということではないだろうと震えたことを、
今でも昨日のことのように思い出します。


当時、銀行のオンラインシステムを支える技術者だった私は、
神戸の人たちのためにできることが沢山あるはず、
とにかく一刻も早く会社に着かなければと、

朝食もとらず、
(いや、とてもじゃくて、食事など摂れる心境ではなかった・・・。
 今の私だったら、その後に続く激務に耐えるために、
 食べたくなくとも、胃の中に流し込んでいくことを選んだだろうが。)

化粧もせず、
(いや、一応、日焼け止めだけは塗ったような気がするが)

スーツの足元はウォーキングシューズという出で立ちで、
(文字通り、飛び回って仕事をするつもりで)

胸いっぱいに抱えた不安をどうすることもできないまま、
地下鉄に飛び乗った。

あの日のことは、
まるで無声映画の一場面のように脳裏に貼り付いたまま、誰も剥がしに来てくれない。

でも、私の経験なんて、とるに足らないもの。
でも、そんな私の記憶ですら、消せない記憶になっている。



会社の自分のフロアに飛び込むと、
始業時刻の1時間ほど前だというのに、
メンバーの大半が顔を揃えていた。

神戸の支店と、全く連絡が取れないこと、
そして、神戸のマシンが反応していないことを知らされた。


やがて判ったことは、
神戸の支店は、ワンフロアまるごとがビル内で潰れていたということだった。

地震が起きたのが早朝未明で、自宅の布団の中で逃げ場を失った方が沢山いらしたこととは対照的に、
潰れたフロアに、社員もお客さまもただの一人もいなかったことは救いでもあった。

コンクリートの天井が、
その上に存在する何フロア分かのコンクリートの塊となって押しつぶしてくる恐怖を私たちは想像し、
言葉を失った。


それでも私たちは感情を押し殺し、
ただただ、神戸の支店と、そこに口座を持つお客さまを支援するための資料作りに没頭したのだった・・・。

何もかもを失ったと絶望している方々に、
でも、あなたの財産は、ここに存在しているし、
それはあなたの命や生活をきっと守ることができるのだと、
いち早く知らせるために。



現地から遠く離れたところにいた私たちは、
そこで凍えるひとのために、
暖かいお握り一つ、届けることもできないし、
倒れた住居の下敷きになっているひとを救い出すために、
瓦礫の一つも持ち上げることもできない。

でも、できることがあるのなら、とにかく頑張ろうと走り回っていた日々・・。


あれから20年。

あの時ワンフロアが圧壊した建物は、
潰れたフロアから上を取り除いた形で補修工事を行い、
生き長らえたと知った。


20年の間、震災の記憶とともに立ち続け、
そして今年、ついに、取り壊されたという。


今日のニュースでも、美しく復興していった街の賑わいが歓迎される一方で、
震災の記憶の風化が問題として存在していうのだと報じられていたが、
本当に、「風化」しているのだろうか?


存在しているけど、
見えなくなっている、あるいは、
目立たなくなっているだけではないだろうか?




大切な人を亡くした記憶は、

たとえ20年たったとしても、
残された人の心の中に、
いつも重くのしかかり、
光を見ることを忘れさせているに違いないのに。


(追記)
「阪神・淡路大震災 あの日から20年 「心の復興」は」

「あの日から20年「心の復興」は」
「阪神・淡路大震災から20年、親になって今思う」




時が解決するというのは、
間違いではないかもしれないが、


でも、

時が経てば良いのではない。


何年経っても、

何十年経っても、

正しいケアが為されなければ、

大切な人を亡くした悲しみから立ち直ることは、

とても、難しい。
(ケアされたとしても、難しいものだと思う。)


大人も、

子どもも。


特に、子どもは。



あれから20年。

あの震災の中で頑張ってくれた方々のお陰で、

東日本の震災で傷ついた子どもたちの心が、

今、支えてもらっている。


大きな災害があったとき、

何をすべきか、

どうやって備えておくべきか、

身を持って知ることになった阪神・淡路大震災。



教えてもらったことを、

忘れてはいけないと、改めて自分に言聞かせると同時に、


あの日に大切な人を亡くして突き落とされた心の闇に足を捉われたままになっている

かつての子どもたちに、思いを馳せている。



彼ら、彼女らは今、

20代、30代となって次世代を育む中核になっている。

あの日に大切な人を亡くした記憶は、

もしかしたら、心の奥底に眠っているかもしれない。

塩漬けになっているかもしれない。

無くなっては、いないのだ。


※「大切な人」の中には、「自分の心」も含んでいる。
 特に、少女だった女性たちの、自尊心。
 神戸新聞NEXT 震災10年目「性暴力 直視しない社会、今も」
もし、このブログを訪れた方の中に、このような苦しみを抱えてらっしゃる方がいたら、
今からでも、どうか、必要なケアが受けられるようにと祈っているのです。




あの時に刻まれた悲しみと苦しみが、

今も、心に大きな足かせを与えてはいないか?


今、大切な命を育もうとしている「かつての子どもたち」を

形を変えて、苦しめていたりは、しないだろうかと気になるのだ。




受けるべきケアを受けないまま、

悲しみや苦しみに

彼ら、彼女らに対して、

し忘れていることは、無いのだろうかと、

今一度、振り返ってみて欲しい。


もしかしたら、

今抱えている「生き辛さ」は、

正しいケアを受けることで、癒し、捨て去っていくことができるかもしれないからだ。




あの時の子どもたちの心と向き合ってきた専門家、専門スタッフの方々についての記事。

もっと他に沢山あるのだろうと思うのですが、

私が見つけることができた範囲からのご紹介です。


◆笑顔になるために 子どもの心のケア【3】児童精神科医に聞く 2015/1/17 18:40
http://www.kobe-np.co.jp/news/kurashi/201501/0007666783.shtml
「子どもの心の回復に、学校が果たす役割は大きい」と語る清水將之さん=神戸市東灘区(画像割愛)

【清水將之さん 「周囲は中・長期の支援用意を」】

 阪神・淡路大震災当時、日本児童青年精神医学会の理事長だった児童精神科医、清水將之(まさゆき)さん(80)=神戸市東灘区=は、20年間、被災地の子どもの心のケアに携わってきた。遺児のための拠点「あしなが育英会・神戸レインボーハウス」の顧問を務める清水さんに、災害を経験した子どもの心はどう変化していくのか、考えを聞いた。(中島摩子)

 -災害後、子どもにはどんな変化が表れるのか。

 「すぐには変化が出ないことが多い。神戸でも東北でもそう。震災当初、大人たちは泣いたり、住む場所がなくて混乱したりし、緊迫している。そういう時、子どもはわがままも泣き言も我慢し、けなげに、したたかに、『いい子』にしている。そして大人が落ち着いてきたころ、影響が表れることがある」

 「ストレスがかかったとき、大人はコントロールする力があるが、子どもはその力がない。そのため、遊びを通じてストレスを発散したり、つらい気持ちを少しずつ出したりすることが必要だ。神戸レインボーハウスでも、とてもアグレッシブ(積極的)に遊ぶ子どももいる」

 -心のケアで、学校はどういう役割を担うのか。

 「学校が再開し、日常を取り戻すことは、やる気や自己肯定感を取り戻すことになる。そして、阪神・淡路の被災地に配置された教育復興担当教員(心のケア担当教員)は、子どもにとって、セーフティーネット(安全網)になった。『なんとなく私を気に掛けてくれている』『いざとなれば助けてもらえる』といった安心感が、一歩を踏み出すことにつながる」

 -中期、長期のケアが欠かせないと説く。

 「子どもの心のケアは、長い見守りの道のり。何年かしてから、ためこんでいたストレスやトラウマ(心的外傷)が、はじけることがある。何年たったからもう大丈夫、といった考えは間違っている。神戸レインボーハウスには、小学6年のときに阪神・淡路で両親を亡くし、12年をかけて、ゆっくり回復した女性がいる。こういうケースがあることを、大人は知っておくべきだ」

 「震災後、その子なりの時間を費やし、周囲の手助けを受けながら、喪失体験を語ったり、心と折り合いをつけたりすることが可能になる時期がある。周囲は長期の支援を用意し、そこまで待つ根気が求められる」

 ▽しみず・まさゆき 1934年、芦屋市生まれ。大阪大医学部卒。阪神・淡路大震災後、神戸市児童相談所を拠点に被災した子どもの支援活動に取り組んだ。三重県立こども心療センターあすなろ学園長などを経て、同県特別顧問。神戸親和女子大客員教授。著書に「災害と子どものこころ」(集英社新書)、「子どもの精神医学ハンドブック」(日本評論社)などがある。阪神・淡路では両親を亡くした。


【恐怖によるストレス環境の変化が重荷に】

 兵庫県教育委員会が阪神・淡路大震災翌年の1996年度から、小学校と中学校で「震災の影響により心の健康について教育的配慮を必要とする児童生徒」を調べた。落ち着きがなくなる▽寝付きが悪い▽食欲不振▽腹痛-などさまざまで、98年度のピーク時には計4106人に上った=グラフ。

心の健康について教育的配慮が必要な児童生徒数

 震災を経験した恐怖によるストレスだけでなく、住宅環境や通学状況の変化が関係したと考えられ、「ケアが必要な児童生徒数がはっきり減少に転じるまでに、5年の歳月がかかった」と県教委。

 また、年月がたつにつれ、震災による経済状況や家族関係の変化が影響しているとみられるケースが、目立つようになったという。

 そんな中、被災地の小中学校には95年4月から、国の特例措置として教育復興担当教員(心のケア担当教員)が配置された。県教委によると、乳児期に被災した子どもが中学校を卒業する2009年度まで、延べ1671人が心のケアや防災教育などを担ったという。(中島摩子)


【震災5年後に変調表れる例も 兵庫県教委の資料から】

 <震災直後~1カ月、小学4年男子>自宅が全壊、男子も家具の下敷きになった。余震のたび部屋の隅にうずくまり、現実には見えないものが現れると言うようになった。学校の教室でも余震があると、突然、悲鳴を上げたり、壁や天井にひびが入っていると言い出したりし、授業がたびたび中断。少し狭い部屋や暗い部屋を怖がった。

 <震災3カ月後、小学6年男子>自宅が全壊したため、被害が少なかった親類宅に移り、その地域の小学校に転入した。誰とでも仲良く遊び、学習できる子どもだったが、転入3カ月後からイライラしやすく反抗的になった。攻撃的な言動を取るようになり、学校で孤立した。

 <震災3年後、小学5年男子>小学2年で震災を経験。夜1人でトイレに行くのを怖がり、トイレのドアを開けておかないと用を足せない。夜尿もたまにあった。

 <震災3年後、中学1年女子>震災行事で、ビルや高速道路の倒壊、火災の映像を見たところ、パニックを起こし、体を震わせ泣き始めた。女子は震災で自宅が全焼。その後、担任に「自分の家が燃えるのを見た怖さやつらかったことを、もう忘れたと思っていたが、思い出した」と話した。

 <震災5年後、小学5年女子>保護者から「家庭でトルコ地震の映像を見ていたら、様子が急変した」と連絡。サ行を「ちゃ、ち、ちゅ」と発音する幼児語になり、よちよち歩きのようになった。本人に年齢を聞くと「3歳」と答え、授業中に歌ったりするようになった。専門家のカウンセリングを受け、症状は改善した。

 (兵庫県教委の研修資料「災害を受けた子どもたちの心の理解とケア」より)




◆あしなが育英会の八木俊介さん
震災遺児の心のケアを 阪神で癒やしの家開設
http://www.47news.jp/feature/mamapapa/kids/201105post_82.html
 災害や病気などで親を失った子どもたちを支援する民間団体「あしなが育英会」(本部・東京都)で、遺児の心をケアする「レインボーハウス」の活動に携わってきた八木俊介さん(42)。「東日本大震災で生まれた多くの遺児たちがそれぞれのタイミングと方法で、悲しみを表現することができるよう、周りの大人がゆっくり見守ってあげてほしい」と話している。
八木氏

 ▽黒い虹
 東日本大震災から2週間後に被災地入りした。ある避難所で、ヘッドホンで音楽を聴きながらゲームに没頭する小6の少女の様子が気に掛かったという。
 「津波で、一緒にいたお母さんと弟を亡くしたそうです。すべてをシャットアウトするような様子が痛々しかった。一見、問題なさそうなほかの遺児たちも、時折見せる不安そうな眼差しは、16年前に出会った神戸の震災遺児たちと同じでした」

 16年前の1995年、八木さんは、あしなが育英会の職員として、阪神大震災直後の神戸市に派遣されていた。死亡者名簿を頼りに避難所をまわるローラー調査で573人の遺児を探し出し、震災から2カ月後には、遺児たちを元気づけようと、泊まりがけの「つどい」を開いた。
 「普段は明るく、無邪気に遊んでいても、話し合いの時間になると突然泣き出す子や、作文に『自分が死にたかった』と書く子もいました。その年の夏に開いた2度目のつどいで、海辺に設置したトーテムポールに小5の男の子が描いたのは、夜空に架かる黒い虹。遺児たちの心を象徴する絵となりました」

 ▽癒やしの家
 子どもたちの心に7色の虹を取り戻そう―。つどいをきっかけに、継続的な心のケアの必要性を感じ、99年に開設したのが、「神戸レインボーハウス」。八木さんは、そこで、ファシリテーターと呼ばれるボランティアとともに、子どもたちに寄り添い続けた。
 「遺児にとって、胸の奥にしまい込んだ感情を吐き出すのは心のケアの第一歩。そのためには、どんな気持ちも受け止めてもらえるという、安全で安心できる場が必要です。まだ幼かったり、口に出してしまうのが怖かったりして、言葉で表現できないのなら、思いっ切り暴れたり、地震ごっこや葬式ごっこをしたりしてもいい。レインボーハウスには、そのために、特別に工夫をこらした部屋も設けました」

 年を重ねるごとに、子どもたちが書く作文には、レインボーハウスへの感謝の言葉が並ぶようになった。「学校や家では言えない地震のことを話してすーっとした」「同じ境遇の友達と遊んでいるうちに前向きになれた」―。
 「レインボーハウスを訪れたすべての子どもが心を開いてくれたわけではないし、一度も来なかった震災遺児もたくさんいます。それでも、いつでも、どんな気持ちも、ここに来れば受け止めるというメッセージを発し続けてきたことの意義は大きいと思います」

▽東北へ
 そのメッセージを、今度は、東北の遺児たちに―。あしなが育英会は、東日本大震災後、いち早く、震災遺児のための特別一時金の支給を決定。4月には、仙台市内に同会の東北事務所を開設した。5月からファシリテーターの養成に着手し、2年以内の「東北レインボーハウス(仮称)」開設を目指すという。
 「今回の震災では、被害が広範囲に広がっていて、遺児の数すら把握できていないのが現状です。遺児たちが集う場としてのレインボーハウスも大事ですが、心を癒やすのは施設ではなく人。まずは、ファシリテーターの養成に力を入れていきたい。被災地全域で、サテライト的に活動をしながら、遺児を取り囲む多くの大人たちにも、レインボーハウスのノウハウを伝えていってほしいです」

あしなが神戸の子

 東北事務所の開所式には、阪神の震災遺児5人がボランティアとして駆け付けた。津波で親を亡くした幼い遺児に静かに寄り添いながら「自分がしてもらって嬉しかったことをしてあげたい」と話す姿に「16年経って、ここまで成長した彼らの姿が、東北の遺児たちにとって、何よりの希望になるはず」と、八木さん。神戸から仙台に、1本の虹が架かった―。

八木俊介(やぎ・としゆきさん)の略歴

 1969年千葉県生まれ。10歳の時に父親が交通事故死。遺児の奨学金で大学に進学し、93年、あしなが育英会事務局に就職。95年の阪神大震災直後から神戸市に勤務。99年、国内初の遺児のためのケア施設「神戸レインボーハウス」の開設に携わる。トルコ、中国四川、ハイチの地震遺児の心のケアにも取り組み、2007年から、東京都日野市に新たに開設した「あしながレインボーハウス」で、全国の病気、自死、災害遺児を対象に活動している。著書に「レインボーハウスのこどもたち―阪神・淡路大震災遺児の10年 (るんたBOOKS)」。

(2011/05/10 共同通信社デジタル編集部「子育てさがし」 kids@kyodonews.jp)


あしながレインボーハウスについては、何度か記事にしていますが、
なぜ、「レインボー」と名づけられていたのか、今、やっと知ることができました。

心を覆っていた「黒い虹」を、本来の七色の虹に戻してあげたかったからなんですね。


神戸で培ったノウハウが、今、東北の被災地で生きている。

ありがとう、あの日の子どもたち。



※これまでに当ブログで「あしながレインボーハウス」に言及した記事

「後半 / 羽生結弦選手が背負ったものを、少しでも、軽くするために・・・ 」

「五輪で最高の演技を 羽生結弦選手、3伯楽と充実の日々(その1)に添えて・・・ 」

「震災遺児の心のケアに、資金は全て募金から・・・仙台にレインボーハウス完成」

「FaOI幕張2014 会場レポ 」
(ゆづるくんの関連動画(7分半)へのリンクあり。)




※当ブログの記事を、もっと読みたいと思ってくださった方は、「読者申請とアメンバー申請についてのお願い」という記事にお目通し下さい。

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(元動画はゆすさんからお借りしました)