イコロを振らない」

 

最初は、あるスイスの時計師の話から始まった。

「神はサイコロを振らない」か、……とおもった。これ、天才アインシュタインの有名なことばである。

量子力学を応用した日本の次世代コンピュータが3月27日に、アメリカ、中国に次いで稼働を開始した。現在のスーパーコンピュータが数万年数億年かかるような計算を、たった数分でこなす能力をもつ。

まさに、最先端技術の「侍ジャパン」といいたい。――だが、技術というそもそもの端緒は、あるスイスのしがない時計師の話から始まったのである。

 

輪郭線を最後に描いた。

 

つい先年、あれは、2015年のある暑い夏日のことだったなとおもう。――U・ロッキーが連れてきたドイツ人、ブルーノ・バウワー氏、――哲学者の名前とおなじだが、哲学とは無縁のビジネスマン――で、彼と3人で、六本木で食事をしたときのことだった。

彼はBМW関連の某部品メーカーに勤務し、その日本支社に派遣された30歳ぐらいの青年である。日本語は達者とはいえないが、まあ話せる。その彼はその前までイタリア支社に勤務していたらしく、オペラの話をしきりにしていた。

ロッキーはオペラには、たとえ金をやるからと頼まれても、逃げ出すほうである。あんな歌のどこがいい? ときいてくる。

だがブルーノは違う。

ミラノにはオペラを聴くために訪れたようなものだといっていた。

ミラノ・スカラ座の話になり、グッチオ・グッチの話になり、カバンの話になった。そうなるとロッキーはとたんに目覚める。

ロッキーのおしゃれは、イタリア感覚だからだ。さいきんスーツは、イタリア仕立てのものを着ている。当時、御年78歳。それでアウトバーンを150キロでぶっ飛ばすのである。「グッチ家の最後の経営者、マウリツィオ・グッチが殺されたのは、いつでしたっけ?」とロッキーにきいてみた。

これには応じず、ブルーノが答えた。

「イタリアの雑誌、《Luna》の編集をしていた男とわたしは友人でしてね。その話は彼からよく聞いていました」といった。

以下、その話を書いてみる。

 

 

田中幸光 自我に目覚めた近代文学

 

1921年、フィレンツェの小さな鞄店からスタートしたグッチは、創業者の想像もできない世界的なグッチブランドとなった。初代のグッチオ・グッチは、いまのような巨大ブランドになることを望まなかったといっている。

「ほう、それはどうして?」

「なにしろ、いまのグッチ・グループの主立ったポストにグッチ家の人間はひとりもいないんです。あくまでも、家族経営が好き。イタリアの小さな企業はつぶれていくなかで、グッチはどうやって、生き残れたのか、家族経営のセンスがあったからです」という。

 

 《人生に挑戦するのに年齢なんて関係ない。

 この世には時間などない。

 それは人間が勝手に作ったものだ。

 私は時計師だからそのことがよくわかる。》

 

これはスイスの時計師フランクミュラーのことばだそうだ。

「時間などない」と彼はいい切っている。時間にうるさいのはイタリア人もおなじ。だが日本はもっとうるさい、とブルーノはいっている。

「この時計、3分すすんでいますね」と注意されたことがあるそうだ。

 

西尾幹二さん。87歳。

 

ある人の話では、日本人はスイス人同様に、世界でもっとも時間を気にするそうだ。たしかに日本人の時の意識は高いようにおもう。

新幹線の正確な運行や、あらゆるビジネスシーンにおける、その正確さにおいて世界的にも抜きんでているだろう。

日本が明治6年に西欧のコヨミと時刻制度を取り入れてから、まだ140年しかたっていないけれど、この制度にすばやく見事に適応してきたことは、それだけ、日本人は時間にうるさいということかもしれない。

しかもこれは、ときの政府によって強引に押しすすめられた制度だったことは、あまり知られていない。わが国の近代化は、まず時間の管理からはじまったといっていいかもしれない。

日本の夏時間と冬時間の差は、イギリスほどではない。

ロンドンの位置は、グリニッジの経度零であるのに、東京は、東経140度にある。

ロンドンはほぼ地球の反対側に位置している。ロンドンの緯度は北緯51度にあって、日本の近くではサハリンの北半にあたる。

これにたいして東京の緯度は、ほぼ北緯35度にあり、西へ行けば、中国の山東省、アフガニスタンのカブール、バクダッド、モロッコの首都ラバト、カサブランカあたりに位置している。

ロンドンは東京よりずっと北に位置している。

オランダもイギリスとほぼ同じだが、イギリス同様に比較的温暖である。

イギリスは暖流のメキシコ湾流と偏西風のおかけで温暖な地である。とはいえ、ロンドンの冬は東京より寒く感じられる。オランダも暖流が流れていて、偏西風がつよく吹き、この国は風力を長く利用してきた。

時刻をあらわす方法にはふたつある。

定時法と不定時法のふたつである。――明治6年に取り入れた時刻制度は定時法である。

定時法では、夏と冬では昼夜の長さがちがうため、夏時間、冬時間を刻むことはできないので、季節によって人びとが暮らしやすいように、自然のサイクルに合わせて時刻を決めるようになった。

ぼくが小学校にあがったとき、外は雪が降っているのに、国語の時間に、「さいた、さいた、さくらが、さいた」と学校では習っていた。

ロンドンは、日本の比ではなく、もっとはげしく変化する。それが不定時法である。

もともと不定時法は、昼と夜を分けて時刻を示すものだが、たとえば、英語の「デーday」は、ほんらいは昼間を意味し、「ナイトnight」は夜を意味するのだが、英語には一日にあたる語がないため、それにかわってdayを使っているにすぎない。一説には、ニュールンベルク時間というのがあり、これは不定時法であらわされている。

いま、西尾幹二さんの、グリニッジ天文台について書かれた文章を読んでいる。

ロンドン郊外のグリニッジを標準に子午線を設定したのは科学的な理由からではない。あきらかに世界の支配権をめぐる政治的な駆け引きから設定されたのだった。

ベルリンがグリニッジ標準時を認めたのは1916年のことである。西尾幹二さんの説では「地球の表面に先にラインを引いたほうが勝ちで、人類はイギリスがかぶせた網の中に閉じ込められた」といっている。

そのとおりだろう。

そのころのイギリスは、文字通り大国であった。それが歴史なのである。

かつてのガリレオ=デカルトの二元論は、いまでは否定されているけれど、じっさいには、現代の自然科学はガリレオ=デカルトの仮設にそって発展をとげている。しかも、自然の数量的、幾何学的、運動学的要因に分解し、観察し、定式化する高度化と緻密化へのエネルギーは、依然としてとどまるところを知らないようだ。

物質をめぐる数量化は、ガリレオ=デカルトの二元論にはじまるものの、その後、バークレイ、ヒューム、カントらによって懐疑的にとらえられ、ついには否定されるにいたった。

けれども、ガリレオ=デカルトの「自然の数学化」は、自然科学の方法として、いまでも盛んにおこなわれている。色、味、匂い、手触りなどといった性質でさえも、主観のなかに閉じ込めようとしている。

これは仏教でいう唯識論の域を出ない話かもしれない。

西尾幹二氏はその話をしている。――西尾幹二氏にお目にかからなくなって10年以上も時が過ぎた。現代文化会議の席上でお目にかかって以来である。そういうじぶんも、いつの間にかよぼよぼの老人になってしまった。

小柴昌俊さん

 

宗教と科学は、正反対の方向を向いて動いてきた、と西尾幹二氏はいう。

カミナリは、神の怒号であり、避雷針で避けることは神への信仰のさまたげになるといった。

ヴェネチアの聖マルコ寺院に避雷針をすえることは、まかりならんというわけである。ベンジャミン・フランクリンは、カミナリの電気的本質を明らかにし、「電気」というものを文明の利器に利用した。

16、17世紀の天体研究者たちは反宗教的なものではなかった。彼らの科学は、中世の神学を母体にしていた。コペルニクスは、太陽は宇宙の灯火であるといった。それはケプラーの天体観測によって、それを補正した。ニュートンは地上と天体の力学の解明にともない、宇宙は一定の法則によって動く偉大な機械であると考えるようになった。

そして2015年、日本の物理学者は、素粒子ニュートリノ発見で、標準理論を超える新たな地平を切り開いた。

ニュートリノは質量がゼロとうたわれていたが、「ニュートリノ振動」の発見で、ニュートリノには質量があることがわかったというもの。

1983年、岐阜県神岡町にある神岡鉱山の地下1000メートルの場所に、小柴昌俊博士が考案した素粒子観測装置「カミオカンデ」がつくられた。その装置で、マゼラン星雲からやってきた超新星ニュートリノをつかまえた。ニュートリノがもたらすチェレンコフ光を検出することに成功したのである。

それで、小柴昌俊博士は、2002年にノーベル物理学賞に輝いた。天体物理学の分野に新たな扉を開いたのでる。

1987年2月23日、約16万光年はなれた大マゼラン星雲で超新星爆発がおきた。カミオカンデは世界ではじめて超新星から飛来した11個のニュートリノを検出した。理論では予測されてはいたが、超新星ニュートリノが観測されたのははじめてだった。

その後、陽子崩壊とニュートリノの謎に挑む「スーパーカミオカンデ」がつくられた。陽子崩壊の瞬間をとらえることができれば、素粒子物理学のなかで多くの謎が残る「大統一理論」の新たな検証となる。それと、もうひとつの目的は、ニュートリノの観測だった。

スーパーカミオカンデは、ニュートリノや陽子崩壊で発生するチェレンコフ光をとらえることで、ニュートリノ反応や陽子崩壊を観測することができる。

地下深くにもうけられたのは、宇宙線や電波などの観測の障害になるものを地中に吸収させるためである。スーパーカミオカンデの水槽は、内水槽と外水槽それぞれ容量は3万2000トンと1万8000トン。そのなかには、内水槽には1万1100本、外水槽には1900本の光電子増倍管が取り付けられている。

 

梶田隆章さんご夫妻。ノーベル物理学賞を受賞。2015年

 

ニュートリノ振動。――カミオカンデでは、ミューニュートリノが、タウニュートリノに変身する《ニュートリノ振動》現象は、すぐには判断できなかった。

観測データを検証してすぐには判断ができなかったが、それがおきることは知られていた。中川昌美、坂田昌一、牧二郎、ブルーノ・ポンテコルボなど先駆的な研究で、それがおきることはよく知られていた。約10年間はデータ解析に費やされ、その結果、ニュートリノ振動がじっさいに起きていることがわかったというもの。

ニュートリノは圧倒的に軽く、当初はそれが問題だった。

ニュートリノ振動で、ニュートリノには質量があることがわかったわけだが、「特殊相対性理論」では、物体が速く動くと、物体とともに動いている時間はゆっくりとすすむ。どんどんスピードをあげて光速に近づいていくと、時計はほとんど進まなくなる。

ニュートリノが途中で変化したということは、途中で時間がすすんだということを意味している。その速さは光速ではないということ。光速で飛べるのは質量がないばあいであって、もしも質量があれば、光速で飛ぶことはできない。

このようにして、ニュートリノは、「反物質の謎」にせまる鍵をにぎっていることがわかった。ビッグバン宇宙は、その後冷えていき、現在の宇宙になった。ビッグバンのひじょうに熱い宇宙の初期の段階では、どう考えても物質と反物資が同じ数だけつくられたとおもわれる。

それがだんだん冷えていく過程で、どこかで物質の《素》だけが残らないといけないのだが、それにニュートリノが深くかかわっているのではないか、といわれている。物質と反物質の数が合わないのだ。――梶田隆章博士の考えでは、そのように説明されている。数が合わないために、物質世界ができた。こうして、変身するニュートリノの発見で、梶田隆章博士は2015年、ノーベル物理学賞を受賞した。

「ハイパーカミオカンデ」の構想は、こうした日本の物理学者たちの功績を一段とすすめる画期的な構想で、2025年の実験開始に向けて大きく動きはじめた。その装置は、地上634メートルの東京スカイツリーが、地表からさかさまに地下に向かって伸びているようなイメージをおもい浮かべてしまう。

その地下の先端は、東京ドームに匹敵する巨大な堆積を誇る水槽でできており、2015年、この構想に向けて、計13か国の国際研究グループが結成された。スーパーカミオカンデが5万トンの水槽であるのにたいして、ハイパーカミオカンデは、100万トン。その内壁には直径50センチの高感度センサーが10万個取り付けられる。この高感度センサーは、微弱なチェレンコフ光を、さらに強力なセンサーでとらえようという装置である。

「産業利益ではなく、人類の知識のために」というのが、小柴昌俊博士の考えである。日本の素粒子物理学は、小柴昌俊博士のいう路線をまっすぐに突き進んでいる。その構想の母体は朝永振一郎博士との交流から生まれたものだろう。日本のニュートリノ研究の系譜はいま、若い研究者に引き継がれた。

ヒッグス粒子による質量獲得というアイデアの元は、南部陽一郎博士だった。2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎博士は、ヒッグス粒子によって素粒子が質量を獲得するメカニズム、――「対称性の自発的やぶれ」を考えだされたことで知られる。「CP対称性のやぶれ」のCは、Charge(電荷)の頭文字で、Pは、Parity(鏡映)の頭文字である。

今後は、ニュートリノは、望遠鏡としても期待されている。

星のウラ側や、星の真ん中は知ることができなかったが、星のなかを飛んで行けるニュートリノを使えば、なんでも見通すことができる。ニュートリノは、ある条件の元では、光より速い。たとえば水中だと、ニュートリノのほうが速いのである。

――ぼくはきょう、草加の街を歩きながら、こんなことを考えた。