■冷戦下のインテリジェンスの活動。――

キム・ィルビーの時代と本の戦後

 

ジョン・ル・カレ「ドイツの小さな町」(宇野利泰訳、早川書房、昭和50年)。

 

ある本を読んでいたら、冒頭にこんな詩が載っていた。

 

 ずっと向こうの小さな町に、

 ドイツの小さな町に、

 一人の靴屋が住んでいた。

 名前はシューマン。

 これでもおれは音楽師

 祖国のための音楽家。

 おれの持っている大バス・ドラム。

 鳴らしてみせよう、このとおり!

 

戦後のドイツ占領地区で、イギリス軍の兵士たちが、好んで口ずさんだという酒場の俗謡らしい。そのメロディには、替え歌としいて「ラ・マルセーズ」の卑猥な歌詞がついている。

ジョン・ル・カレの書く「ドイツの小さな町」(早川書房、昭和50年)という本である。ぼくはこの本をいつごろ読んだのだろう。ジョン・ル・カレの5冊目の本である。

ジョン・ル・カレといえば、「寒い国から帰ってきたスパイ」のほうが知られているだろう。

スパイ小説の代表作になっている。それもおもしろかったが、ぼくは、この「ドイツの小さな町」も好きだ。

作者はもともとオクスフォード大学で学び、スイスの大学で研鑽をつんで、学究的な生活に身をおいていた。彼が外交官になって、ボンのイギリス大使館に二等書記官として2年間駐在した経験をもっている。小説の舞台になった西ドイツのラインラント地方は、作者のホームグランドといっていい。

ボンはむかしは西ドイツ政府の本拠地で、ベルリンが東ドイツの領域内に、孤立したかたちで蟠踞(ばんきょ)していたため、諸官庁と外国公館は、大急ぎで建造しなければならなかった。首都とはいえ、そのころは、小説の題名になるほど「小さな町」である。

1962年、――そのころ日本は東京オリンピックを控え、銀座通りの石畳ははがされ、銀座通りを走っていた都電がなくなり、新橋の土橋のやなぎも姿を消したが、新幹線の運行や、オリンピックムードで高速道路ができ、あちこちのビルの破壊と建設がはじまり、東京の街はいたるところで、かまびすしい騒音をまき散らしていた。

東京の街には、ベトナム帰還兵たちがあちこちにたむろし、セーラー服の海兵隊員らが、うようよいた。ぼくが大学に入った年、これらの映画が都内で上映されていた。

そのころ、西ドイツではライン河から吹き寄せる濃霧が、いたるところに立ち込め、街には外国人の人影が知らないうちに往来し、国際的な暗雲が垂れ込めていた。

しかし西ドイツは西側陣営の砦となり、経済的な優位を復活させていた。

そのうちに被占領当時の遺物を取りのぞこうという機運が生まれ、政府はふたたび顔を東方に向け、東側難民の救済を目的にソ連と提携し、西ドイツにおける新しい枢軸政策が画策されていた。

民間も、――とくに銀行はこれに応じた。

そして奇跡的な現象がおとずれる。

コミュニストの排斥運動が起こり、全国的な排英デモがくり返された。

イギリスは7つの海を睥睨(へいげい)したかつての権威を失い、英連邦内で西欧自治省のごきげん取りに汲々となった。ECに加盟することで国家的な行き詰まりの打開策を模索していた。

こんな情勢下に、ボンのイギリス大使館から大量の機密書類がなくなり、館員のひとりが姿をくらました。

 

スタン・ラウリセンス「ヒトラーに盗まれた第三帝国」(大山昌子・梶山あゆみ訳、原書房、2000年)。

 

この物語は、そうした大使館を舞台にくり広げられる。

娯楽に供せられる読み物とはいえ、当時の歴史を踏まえて書かれていることに、ぼくは興味を持っだ。そこに登場するスパイは、ジェームズ・ボンドのような華麗な男ではなく、むしろグレアム・グリーンの小説のなかに出てくる、――たとえば「第三の男」のような趣きがあって、より現実味があって楽しめた。

スパイは事実を知ることが目的で、そのために危険を冒して盗みに入り、そこで第一級の極秘情報を手に入れる。

政変を裏から画策する、というものである。

スパイ行為は、どこの国でも実際にあり、活躍しているものだが、けっして追跡されたり、発見される恐れのない計画を秘密裏に遂行する。もしも発覚したスパイ行為は、最小限のリスクにとどめなければならない。国運がかかっているのである。

 

 

映画予告「亡国のスパイ」

 

 

キム・フィルビー

ヘミングウェイは、のちに「第五列」という小説を書いている。これはヘミングウェイにはめずらしいスパイ小説である。第5列とは、何だろう?

軍隊で、兵士が隊列を組み、縦列隊になったとき、その第4列目のつぎに、目には見えない第5列目があり、それをスパイといわれるようになった。

スパイは兵士と行動をともにしない。

まして外交上の機密は、兵士以上の特別に訓練された技術を持っている。敵対勢力などの情報を得るため、合法・違法を問わずに敵の情報を入手したり、手のこんだ諜報活動をする。彼らは、たいていスパイとはいわない。間諜(かんちょう)、密偵(みってい)、工作員(こうさくいん)、情報機関員、軍事探偵などと呼ばれているインテリジェンス(intelligence)一般を指す。

さいきんは「産業スパイ」と呼ばれることがあるが、それもお互いに、敵側のみを「スパイ」と呼んでいるにすぎない。

諜報機関要員は、おもに情報機関の要員であり、特殊な訓練を受けた多くの外交官や駐在武官として海外に赴任し、外交活動をし、知りえた機密情報を本国に送る。外交官として赴任する者は、他国によって逮捕されることはない。

中身はすべて、検閲されずに荷物が送られるといった外交特権を持っており、また大使館のなかは治外法権があるため、安全に暮らせるだけでなく、暗号で情報を本国とやり取りするなど、諜報活動をおこなう上で、もっとも重要な拠点となる。彼らは、職務を通じて、政治家や官僚といった工作対象の人間に接触する。

スパイとか、諜報工作ということばは、現在の日本人にはなんとなく隠微な感じを与える。ところが、おなじことばを英語でいうと、「インテリジェンス」となる。もっとも直接的なことばは、イスピオナージ(espionage)といい、アメリカ語では「エスピオナージ」といっている。

つまり、教養ある冒険というニュアンスがあっておもしろい。

アラビアのロレンスで知られるT・E・ロレンスは、対英博物館がおこなった中東遺跡発掘調査に参加したことにはじまり、陸軍情報部に招聘され、情報将校としてカイロにおもむく。そこでは諜報員ロレンスだった。情報工作員であると同時に、彼はすぐれた考古学者でもあった。

ロレンスとおなじころ、おなじ中東の砂漠を舞台にして活動していたイギリス人がいた。彼の名は、ハリー・セント・ジョン・フィルビー。

イギリス統治下のメソポタミア内務大臣、トランスヨルダン駐在イギリス代表部主席などをつとめたあと、アラビア国王イブン・サウドの懐刀となって、アラビア内陸部を調査した。

ときどき彼の息子をともなっていた。その子が、ハロルド・エイドリアン・ラッセル・フィルビーだった。

この青年が、のちにロレンスとはまったく逆の立場で、イギリスの現代史にその名をとどめることになる。

ハロルド・フィルビーは、1912年にインドのアンバラで生まれた。のちに彼の愛称「キム」は、インドを舞台にして小説を書いたキプリングになぞらえたものだった。後年彼が、世界を震撼させるスパイ事件の親玉になったときも、この愛称「キム」が、世界のメディアを席巻した。

ハロルド・エイドリアン・ラッセル“キム”フィルビー(Harold Adrian Russell "Kim" Philby 1912年-1988年)は、イギリス、ソ連の職業的諜報員であり、もっとも知られたスパイである。元M16の職員で、ソ連側の二重スパイだった。

彼は妻のすすめにしたがい、社会主義国ソ連のために働く決心をし、1936年、スペインでフランコ独裁政権に反対して、共和派の市民が武器を取って立ちあがると、彼は共和派を支援するために、世界の各地から義勇兵をあつめ、スペインに送った。

キムと妻リサは、パリのアパートメントを共和派の連絡事務所として開放した。そこにやってきたのは、あのヘミングウェイだった。

キムもイギリスの「タイムズ」紙の特派員として活躍した。

やがて、前述したとおり、キムは第二次世界大戦が勃発したとき、諜報組織M16に参加し、対独諜報活動に従事した。

そして1963年、キムらはソ連に寝返り、ソ連の諜報員となり、英米の核技術にかんする機密情報がソ連に漏れていることが発覚し、世界はパニックになった。そのキムが、高名な二重スパイとなって暗躍したソ連は、世紀末の1991年に崩壊したのである。

これとは逆に、ある思想が、自国の人間に奪われ、「第三帝国」と呼ばれるものをつくった男がいる。

 

私にとって、歴史はモノクロ写真でしかない。ところがこの男にとっては、歴史は記憶なのだ。彼は昔の写真からぬけだしてきたかのように、細い黒のズボンと黒いシルクのシャツを着て、鳥のような首には白い絹のスカーフをまいている。

私たちはあたたかい午後の日差しのなかに座っていた。

男の手と顔には、肝臓疾患によるしみが浮き出でいる。彼は具合が悪そうなせきをして、何も置いていないテーブルにツバを飛ばす。そして大きな白いハンカチをとり出してテーブルをきれいに拭く。この男――オットー・シュトラッサーは、ナチ草創期の最後の生き残りである。

(スタン・ラウリセンス「ヒトラーに盗まれた第三帝国」より)

 

作者のスタン・ラウリセンスは、ベルギーの作家でジャーナリストでもある。

「第三帝国」というのは、一般には、ヒトラー内閣の成立ではじまり、第二次世界大戦におけるドイツの敗北によって崩壊したナチズム体制の公式な名称である。

そもそも「第三帝国」という思想がどこから出てきたかといえば、ヒトラーではなかった。ヒトラーはその思想をパクッたのである。

だれから?

この「ヒトラーに盗まれた第三帝国」の主人公、メラー・ファン・デン・ブルックから盗んだというのである。彼はヒトラーより13歳年上のドイツの政治思想家だった。

第一次世界大戦のドイツ保守系右派の代表的な存在だった。のちにそれが本になって「ドイツ第三帝国」と題され、英訳本が出た。これは要約本である。ヒトラーがその思想をもしも盗まなかったら、ナチスは生まれなかったかもしれない。歴史はおもしろい。