年度末もドンづまりの3月31日。テレビ番組を通じて大々的に公表された「フジテレビ問題の第三者委員会報告書」。

 

寄り合ひ所帯の弁護士サンたちが時間をかけて作成した読み物としてはまあまあの出来だが、特に目を引くのは後半で、この一テレビ局の陰湿なモラル風土をあらはすものとして、取締役などの女性社員に対するセクハラ行為が一部実名入りで記述されてゐる。

 

就中、秀逸なのは、テレビ番組の現役キャスターを務めるフジテレビ幹部の某氏が、女性社員をデートやドライブに誘ひ、やがて女性がつれない態度をとるやうになると、男の風上にも置けない稚拙な報復手段に出たといふのである。

 

このキャスター氏はあまり女性にモテないタイプなのか、距離を置くやうになつた女性社員に執着し、あらうことか部内の業務用の一斉メールを使つて、女性社員を名指しし、「原稿が遅い」などと業務にかこつけて峻烈な嫌味をぶつける挙に出た。

 

ふられた男が最もやつてはいけない禁じ手である。

 

と言つても、企業トラブル等を調査する「第三者委員会」なるものが、どれほど権威のある存在か知らないけれど、ふつうに考へて、職場で部下の女性にちよつかいを出したくらゐでいちいち世間に公開されたらたまつたものではない。

 

某氏にも家族、親類はゐるだらうし、ヒヤッとした「幹部氏」はどこの企業にもわんさとゐたのではないか。

 

ぼくが新聞社に就職した1960年代、省庁、役所、警察など公的機関の建物の一画を賃料無料で占拠する「記者倶楽部」なる組織は、読売や朝日など新聞社系と、共同通信や時事通信など通信社系が牛耳つてゐて、後発ジャーナリズムであるテレビ局やラジオ局などは加盟を認められてゐなかつた。

 

新聞社などで構成する「日本新聞協会」が誕生したのは1946年。

 

遅れること20年余の1969年、新聞社、通信社、NHK、民放テレビ局・放送局などが一緒になつて「日本記者クラブ」が生まれた。

 

それまでは、テレビや放送局は独自取材するか、公的機関が記者発表した情報を系列の新聞社や通信社からの配信に頼つて報道してゐた。

 

当時、発足間もないテレビ局はスタッフも貧寒で、社会的な評価も低く、たとへば大学生の就職先人気ランキングでもまだまだ下の方だつた。

 

今は昔。ご存じのやうに、いまやテレビ業界は、学生にも人気が高く、何か事あれば今回のやうに大騒動になる。

 

片や新聞業界はどうかといへば、少子高齢化やインターネットの普及で新聞の部数は年々減少し、新聞社収入の過半を占める広告収入も減り、「次に取材拠点を縮小するのはどこか? 最初に潰れる三大新聞はどこか」などといふやうな、なんとも不景気な話ばかりである。

 

今の新聞社にも、好きな女性社員をデートに誘つて、「第三者委員会」からセクハラだ!と叱られるやうな、血の気の多い老取締役はゐないものか。

 

「政界では、スキャンダルが何もなくなるとこんなことまで問題になるのか」

 

石破首相の愚痴が聞こえる。

 

食事会に招いた新人議員15人に10万円づつの商品券を配つたことが責められてゐる。「人をお招きしたら、お車代を渡すのは常識ぢやないか」

 

政界にも愚痴の絶えない人がゐる。

 

ある年の自民党・中曽根派の忘年会。

 

ホテルの大部屋を借りてのカラオケ大会の場にどよめきが起きた。

 

これまで酔つて大声を上げたり唄を歌つたりしたことのない初老の代議士が、突如、手を上げたのだ。

 

中部地方選出のその議員は、地元の公立大学の政治学の教授上り。

 

当選回数はとうに大臣適齢期を迎へてゐたが、政治家としては地盤が軟弱で、当選したり落選したりをくり返し、いまだに大臣の声がかからなかつた。

 

党役員や国会の主要な役職にも就いたことがない。

 

「えつ、彼が歌ふの?」

 

 注目を集める中、ステージに上がつた彼が選んだ曲は、三橋美智也の「哀愁列車」。

 

「惚~れ~て、惚れて、惚れてゐながら行~く俺に、旅を急かせ~るベルの音」といふ、戦後間もないころのヒットソングである。

 

ふだん話し声もぼそぼそ、小声で、呵々大笑などとは無縁の政治家。

 

大学教授は無事に務まつたのだらうが、普通の会社だつたら「うだつの上がらないタイプ」といふしかない。

 

古くからの名家の末裔で、その血縁と、代々受け継がれてきた広大な田畑を切り売りしながら選挙を戦つてきた。

 

自民党記者クラブで中曽根派担当だつたぼくとはふしぎと気が合つて、ときどき懇談した。

 

と言つても、会ふのは彼の指定で真つ昼間、場所は国会裏の議員会館事務所。

 

代議士と記者といふ立場ながら、大半は彼が一方的にしやべるのをぼくが聞いてあげる、といふ奇妙な仲だつた。

 

内閣改造で、同じ派内で当選回数が下の若手が彼を追ひ越して大臣になると、

 

「私の性格では、あの人のやうな派手な売名はできないですからねえ」

 

「親分の中曽根さんに対して見え見えの猟官運動をするのは、人間として恥づかしいことぢやないですか」

 

などと、息子ほども年の違ふぼくに向かつて泣き言の愚痴をこぼした。

 

――彼が「哀愁列車」を歌ひをはると、ぼくの隣りにゐた派閥領袖の中曽根康弘さん(当時、自民党幹事長)が、内緒話のやうにぼくの耳に口を近づけた。

 

 「早くからあれができてゐれば、もうとつくに大臣になれたのに」

 

 政治家は愚痴より演歌が大事、といふことか。

 

いつかこの話を彼に伝へようと思つてゐたが、次の選挙でまた落選、ふたたび永田町に帰つて来ることはなかつた。

 

サラリーマンをしてゐた41年間、幸か不幸か、仕事の都合で朝食以外は外食だつた。

 

昼も夜も、どこかのレストランへ出向かねばならなかつた。

 

食事が快適か否かは、その日の気分を大きく左右した。

 

不味(まづ)い料理はむろんのこと、女性店員の言動が気に食はなかつたりすると、その日はずつと暗鬱になる。

 

一日を気持ちよく過ごすためには、うまい食事があつて、気心の知れたオーナーや店員がゐる、閑雅な店でなければならなかつた。

 

そんな日々から学んだのは、居心地のいいレストランやバーを見つけるには、客の側がそれなりに努力しなければならないといふことである。

 

簡単にいへば、その店を「自分仕様に育て上げていく」といふことだ。

 

その結果、レストランの店長やスタッフに何人も友人ができた。

 

店が終はつてから店長夫婦と一緒に飲んだり、ときには家内を呼び出して一緒にカラオケに行つたり、わが家で催す枝垂れ桜の花宴にも毎年お招きした。

 

ぼくの母親の葬儀には、六本木のトンカツ屋の女将が黒のきもので来てくれた。

 

「自分仕様に育て上げていく」過程で、失敗もあつた。

 

赤坂のTBSに近い某イタリアンには週一回は寄つてゐた。

 

客足の絶えない店で、フランス、イタリア、スイスなどで修業した中年シェフとは、ふだんほとんど世間話もできない。

 

ある日、いつものやうにワインの赤と白を一杯づつ飲み、食事はパスタのボンゴレを注文した。

 

すぐに来た。食事のときには酒を飲むが、そのあと新聞社に上がつて自分が書いた記事のゲラに朱を入れなければならないから、酔つてもほろ酔ひ程度である。

 

ボンゴレを口にする。アサリの香りが鼻にきて、いつもながら旨い。

 

ただこの日、ワインが少々過ぎてゐたか、ソースの塩気が物足りない気がした。

 

店の女性を呼んで、「黒胡椒をください」と、家庭用の小さいミル(胡椒挽き)を両手で回す仕草をした。女性が奥に消えて、少し間があつた。

 

やがて、ふだん客席には顔を出さないオーナーシェフが、調理場の前掛けをしたままやつて来た。

 

「味が足りませんか? いつもと同じやうにしたのですが」

 

その手には、厨房のみで使用する50センチもあらうかといふ、野球のバットのやうな巨きな木製のミルが握られてゐた。

 

表情は強ばり、引き攣つてゐるやうにも見えた。

 

そこで初めて気がついた。客からわざわざ黒胡椒を要求されたといふことは、シェフにすれば自分の料理にケチをつけられたも同然。

 

永年かけて築き上げてきた料理人としてのプライドに針を突き刺された気がしたのかもしれない。

 

ぼくが野暮だった。それ以降、週一が週二に増えた。