特に急ぐ仕事もない午後の書斎。手元のスマホではなく固定式の電話がけたたましく鳴る。

 

だいたい相手は知れてゐる。

 

証券投資の勧誘、不動産会社の様子見、化粧品や医薬品メーカーのアンケートに名を借りた個人情報収集など、いづれにしても商売の電話である。

 

タイやフィリピンなどからの“トクリュー犯罪”の電話がかかつて来ることはない。

 

犯人は詐欺の対象の資産、銀行口座などを入念に調べるから、対象名簿から外れるらしい。

 

古物商の鑑定のお誘ひや宗教団体のお誘ひなども多い。

 

こちらの歳を知つてゐるのか、「墓石はいかがですか」なんていふ失礼な問ひ合はせもある。

 

この手の電話には、ぼくは一応丁寧に応対する。

 

やることもない時の暇つぶしには絶好だからだ。

 

「へえ、それはおいしい話ですねえ。たしかに儲かりさうだ」

 

と相手の言ふ儲け話に耳を傾ける。

 

「これは脈がある」と相手が感じるのか、居住まひをただすかのやうに説明に熱が入る。

 

ほどほどに相槌を打ち、相手のジョークにもそれなりに反応するし、相手の「おいしい話」がふと一段落すると、そのリスクも質問する。

 

いよいよ相手の話は熱を帯びる。

 

もうかなりの確率で自分の客になると信じるのかもしれない。

 

「ところで、そんなウマイ話なら、まづあなたがやつたらいいんぢやないですか?」

 

と意地悪く話を切り替へたりする。

 

相手はその筋の専門家だから、法律の知識を解説して、自分が手を出せないこと、もしやつたら逮捕、起訴される恐れがあること、など法律用語や業界用語を駆使して縷々説明してくれる。

 

こんな電話についての愉しみ方はいつぱいある。

 

こちらの質問に窮したとき、相手がいかにつべこべと言ひ抜けるか。話に沈黙の時間が生じたら、どんな話術で復活させるか、など興味は尽きない。

 

そこでぼくが気をつけなければいけないのは、こちらが実は老人の暇つぶしで、相手をからかつてゐるのではないかと疑はせてはならない。  

 

さうと分かれば相手はすぐに電話を切るだらう。

 

敵はこの道にかけては海千山千。油断はできない。

 

午後のひとときを楽しませてもらつてゐる相手には感謝しなければならない。

 

夕方、いつものワインバーへ出かけるまで、もうすこし楽しませてもらはうと思ふなら、こちらもそれなりに気を遣ふのがマナーだらう。

 

ガリ版刷りのプリント

 

ほとんど毎日、夕方になるとワインを飲みに行く近所のカフェの学生アルバイトが、就職のために近々辞めると言ふ。

 

理系で名高い地元の大学生で、専門は電子工学ださうだ。

 

すでに名のある民間研究機関との共同研究に参画してゐるといふから、来春の就職は内定してゐるも同然だ。

 

日ごろから店での働きを見てゐて、客とのとつさの応接力や、敏活な動きにアルバイトとも思へないところがあつて感心してゐたが、電子工学の研究をしてゐる若者とは思はなかつた。

 

ぼくの学生時代を思ひ起こすと、かういふバイトをするのは文系の学生が多かつた。

 

理系だとバイトなどする時間的な余裕が持てないのかもしれないと思つてゐた

 

ぼくはもとより文系一筋。

 

中学3年のときだつた。苦手だつた数学の試験で、まぐれで2度つづけて満点の成績をとつたことがあつた。

 

すると、定年間近とおぼしき男性教師に職員室へ呼ばれた。

 

「キミは文系を目ざしてゐるやうだが、適性は理系だと思ふから、これからはそのつもりで勉強した方がいい」

 

左の目尻に大きな黒子(ほくろ)のある老教師はさう言つて、たぶん彼が作つたガリ版刷りの二、三枚のプリントをくれた。

 

上から下まで、見たくもない数学の問題がぎつしりと詰まつてゐた。

 

以来、その老教師は校内でぼくを見かけると、職員室に招き入れては数枚のプリントをくれた。

 

数学に興味のなかつたぼくは、家に帰るとそれにはほとんど手をつけなかつた。

 

学校の授業以外で数学の問題に取り組むなんて考へたこともなかつた。

 

老教師は校内でぼくに会ふと、何度もプリントをくれた。

 

あるときは校門のところまで追ひかけて来た。

 

ガリ版のインクが手に付きさうなプリントを家に持ち帰ると、勉強机の足元のごみ箱にそつと捨てた。

 

あのとき、教師の導きに従つて数学の問題に挑戦し、精緻に勉強してゐたら、ぼくは一体どんな仕事に就いてゐただらうと考へることもある。

 

間違ひなく言へるのは、政治記事を書いて給料をもらつたり、売れない純文学小説を書いて一生過ごすやうな人生ではなかつただらう。

 

ぼくの数学の力を買ひかぶつてくれた老教師には、いまでも感謝してゐるし、足元のごみ箱に溜まるばかりだつた空白のプリント用紙にはうしろめたい思ひが消えない。

 

 

 

参院選が終はつたばかりだが、最近の選挙では、立候補者の「涙の訴へ」をほとんど見かけなくなつた。

 

開票日に「当選確実」が出ると、支持者に囲まれて「バンザイ!」とともに涙を流す候補者は今もゐるけれど、選挙戦の終盤、街頭演説の候補者が、「皆さま、大変苦戦しております。どうぞ清き一票を私に」と涙ながらに絶叫する光景は少なくなつた。

 

「さうね、選挙で泣くと票が入つたのは大昔の話だね」

 

石破政権の命運でも聞かうかと、久しぶりに電話した元代議士の老人に「選挙と涙」について話を向けるとかう笑はれた。

 

「今の有権者は、万一候補者が涙を見せようものなら、この人はなんと弱々しい人間なんだらう、頼りにならん、つて感じるんだよね。涙の価値が変はつたんだね」

 

彼は続ける。

 

「もし今、窮地の石破が記者会見で泣いてごらん。世論は『可哀さう』といふよりも、『これぢやあダメだ。こんな人は一刻も早く辞めたはうがいい。もうこの人には国を任せられない』になるに違ひない」

 

さういへば、最近、私たちの日々の生活の中でもあまり涙を見なくなつたのではないか。

 

ヒトの感情の中でも、最も分かり易い、素朴な表現である「一粒の涙」が、現代社会では著しく価値を喪つてゐるのではないだらうか。

 

いま、唯一涙がハバをきかせてゐるのはテレビドラマくらゐだらう。

 

ラヴストーリーでも病院物でも学園物でも、涙がドラマの最後を盛り上げる。

 

どんなダイコン役者も、涙を流すと一応サマになる。

 

ドラマは素人だが、「涙」は演出手法としてはイロハのイなのだらう。

 

だが、あれもいつまで通用するだらうか。

 

有権者が立候補者の涙の作為を見抜いたやうに、いづれテレビドラマのお茶の間の観客も、ありきたりな涙頼みの演出を見捨てる時が来るに違いない。

 

ぼく自身、最後に涙を流したのはいつだらうと振り返ると、もう何年も泣いてゐないことに気づく。

 

子どものころから「泣く」のは得意でなくて、悲しくてもほとんど涙を見せない不感症人間だつた。

 

両親の死に際しても、特にわけはなく涙は出なかつたし、もとより他人の葬式や送別会などで泣いたことはない。

 

涙はヒトの感情の発露としてはかなり根源的なもので、素朴で、自然で、正直で、“ヒトらしい”反応なのだらうが、その能力が自分に欠落してゐるといふのはどういうことか。

 

よほど冷徹な、「血も涙もない」人間なのか、それとも、単に能力として「泣く才能」に欠けた人間なのか。