選挙権のない子どものころはもちろん、社会人になつてからも、実は選挙にはあまり興味がない。

 

政治記者だつたころは、国政選挙当日といへばほとんど徹夜仕事を余儀なくされたから、昼間は貴重な“寝溜め”の時間だつた。

 

近所の小学校の投票所に行つたのは、友人に頼まれた地域選挙一回だけだ。

 

選挙なんてバカバカしいと思つてゐた。

 

「この一票が社会を変へる」なんて選挙標語は実感がないし、もともと投票所まで出かけて行くのが億劫だつた。

 

こんどの参院選も同じで、7月20日が投票日だといふこともあまり関心がない

 

。投票所へ行く夕方には、たぶんいつものやうにワインバーへ行くだらう。

 

「でもね、今回の参院選はちょつと面白いんぢやない?」

 

記者時代からの友人が、別の用件でかけてきた電話の最後にかう言つた。

 

彼はぼくが週刊誌の編集長をしてゐたころ、(特に性別、年齢は秘すが)ある国会議員と個人的に喧嘩したことがあるのを知つてゐる。

 

自称「人権派」のその国会議員は、わが週刊誌の締め切り日の土曜日の深夜、「週刊読売編集長」と名指しで電話して来た。

 

その週に組み込みの号に、読売とは別の新聞社のソウル特派員のスキャンダル記事を掲載するつもりか、と訊かれた。

 

「はい。載せる予定です」

 

もう校了済みの記事である。政治家はかう続けた。

 

「その記事は正しくないです。名誉棄損の疑ひがあります。掲載すると言ふなら、これから私が直接、裁判所へ出向いて、出版差し止め請求を提出します」

 

「記事が正しくない」といふ根拠を質すと、そのソウル特派員が旅行中の日本人異性に「性的暴行をした」といふのは、その異性が勝手に虚偽の話を週刊誌に垂れ込んだ私怨であり、些細な男女のいざこざに過ぎない。

 

それを記事にするのは特派員の名誉を傷つけることになるので、出版差し止め請求に値する。

 

手続きはただちに執るーーといふのがその政治家の言ひ分だつた。

 

週刊誌にイチャモンをつけてくる人は少なくないが、それにしても国会議員を笠に着て、ずいぶん一方的で、乱暴なイチャモンだと思つたが、それでも相手は名立たる“人権派国会議員”だ。

 

万一、裁判所がその主張通り「出版差し止め」の断を下しでもすれば、月曜発売の「週刊読売」は店頭に並ばないことになる。

 

その政治家が「記事は正しくない」といふ根拠は、特派員が否定してゐるだけで、何の証拠もない。

 

といつて、こちらが日本人旅行者から聞いた内容にも確たる物証はない。

 

夜も更けてゐたが、ぼくは一応、規定に従つて読売本社の法務担当にお伺ひを立てた。

 

法務担当は、その「人権派国会議員」の名前を耳にすると、「まあ、特派員の言ふのも、旅行中の被害者が言ふのも、どちらも確証がないなら、もう発売まで時間もないから、この場は政治家の顔を立ててやつたらどうか」と言ふ。

 

後で取材すると、その“人権派国会議員”と特派員とは、かねてから「新聞記者と国会議員以上の特殊な関係」といふ噂があることが分かつた。

 

なんてことはない。政治家が友人のために締め切り直前、「出版差し止め」の脅しを編集部にかけてきたのである。とんでもない“人権派”だ。

 

友人の言ふ「こんどの参院選はちよつと面白いのでは」とは、この参院選で“人権派国会議員”が仕切る小党の当選者数、政党得票率によつて、その政党が「国政政党の要件」を満たさないことになるのだといふ。

 

この党は戦後の日本で、永らく“自社対決”と称された、イデオロギー闘争の一方の雄の「なれの果て」である。

 

この参院選は、ぼくにとつて、にはかに「バカバカしいもの」でなくなつた。

中居正広、國分太一と芸人のスキャンダルが世間をにぎはせてゐる。

 

しかし、あらためて言ふまでもなく、役者とか芸人とかに一般人と同じ性モラルを求めるのはもともとムリなことなのではないか。

 

明治、大正の時代から、作家などは女に関しても金に関しても不道徳の標本みたいな存在で、それを”売り物“にしてゐたところもある。

 

もつと古く、江戸時代からわが国の伝統芸能である歌舞伎や落語の世界では、芸人は浮名を流してナンボのものだつた。

 

浮いた話が風船のやうに身辺にひとつやふたつ漂ふことは“芸のこやし”と言はれ、誰もそれを咎めたりしなかつた。

 

芸人にはわれわれ庶民とは別の性モラルのスタンダードが厳然と存在した。

 

なぜ今、私たちは芸人に対して、われわれと同じ「聖人君子たれ」と要求するのか。

 

それは八百屋へ行つて魚を求める類ひの話ではないか。

 

今の芸人に真に望みたいのは、聖人君子ではない。

 

本業の「芸」に精を出してほしいといふことだ。八百屋には美味しい野菜や果物が並んでゐて欲しい。

 

ここで言ふ「芸」とは、昨今テレビのお遊び番組を席捲してゐる漫才師崩れや売れ損ないのタレントたちの、仲間内だけの、面白くもないツッコミを入れたり、相互扶助の出来合ひの笑ひを連綿と続け、笑へないことばや所作を繰り返して視聴者を白けさせる芸ではない。

 

何もすることのなくなつた暇な時間に、仕方ないからテレビでも観るかといふとき、観をはつて、なんとなく心がくつろぎ、やすらぎ、そんな暇つぶしをしたことがまんざら無駄でもなかつたかなと思へるやうな「芸」である。

 

芸人の「芸」とは、なんて素人の身で言ふのもをこがましいけれど、精妙な話術とは、ことばのアヤ、リズム、語彙、機知などが随所に、巧みに、かつ精緻に絡み合つたところに生まれるものだらう。

 

馴れ合ひの、ダジャレとクスグリと悪ふざけの繰り返しではない。

 

いまや新宿、上野、浅草などの寄席に足を運ぶ気にもならない。

 

テレビ局から声もかからない三流芸人の芸を、木戸銭を払つて聴きに行く気にはならない。

ついでに言へば、某テレビ局が日曜夕に放送してゐる長寿番組の名物コーナー、ヴェテラン噺家による「大喜利」も、このところとみに退屈になつた。

 

ホンモノの芸を身に着けた芸人ならば、時にスタッフの女にちょっかいを出したり、番組中に女子アナの手を握つたりしても、「まあ芸人だから、それくらゐのことはあるだらう」と笑つて、何の文句もつけない。

 

ただの「助兵衛」ではなくて、私たちを楽しませ、喜ばせてくれる「粋」な芸人が増えてほしい。

 

今のままだと、芸の世界に芸のある人はゐなくなつて、ただの助兵衛スキャンダルだけがつづく予感がする。

 

 

リタイアして18年になる新聞社から、毎月「社報」が郵送されてくる。

 

真つ先に目が行くのは、最後の方に掲載されてゐる「おくやみ」欄で、5月発行のこの欄に1966年同期入社の友人の訃報が載つてゐた。

 

ことしも年賀状はもらつてゐたが、彼が亡くなつたことはだれも報せてくれないので社報を見るまで知らなかつた。

 

同期入社といふだけで、担当する仕事も大学も異なる彼の「奇癖」については、数年前エッセーに書いたことがある。

 

「奇癖」といふのは、友人との飲み会のとき、彼は宴が終はりに近づくと必ずそつとトイレに消え、5分たつても10分たつても席に戻らないのだ。

 

飲み会は2時間ほどすると誰もが飲み疲れ話し疲れで口数が少なくなる。

 

自然にそろそろお開きかといふ空気になり、幹事の男が店に会計を依頼する。

 

店員が勘定書きを持つて来る。トイレに立つた彼はまだ戻つてゐない。

 

仕方ないから、彼を除いた人数で割り勘を計算し、みんなが出し合つて店員に支払ふ。

 

会計も済んで、さて全員が老いた腰を持ち上げようとするが、彼ひとりはまだ帰つて来ない。

 

みんなが帰り支度を終へて立ち上がつたころ、まるでその機を狙つてゐたかのやうに、彼が平然と席に戻つて来て、「いくら?」と幹事の男に訊ねる。

 

出口へ向かつて歩きかけてゐる幹事は、「まあ、外で」と促す。

 

店を出て、彼はまた「いくら?」と幹事に問ふ。

 

彼を加へた人数で改めて割り勘を計算し直すのが面倒な幹事は、「けふの会計は済んだから、また今度でいいよ」と答へる。

 

彼は済まなさうに、一銭も払はず財布をしまふ。これが何度も繰り返される

 

こんな友人も、社報で数行の訃報を見ると、「彼も死んだか。81歳か」といふ感慨しか浮かばない。

 

をかしな友人が一人ゐなくなつて「すつきりした」といふ気持ちよりも、同期が一人ゐなくなつた寂しさの方が大きい。

 

ぼくは何かにつけて、あまり「すつきりする」のは好きではない。

 

曖昧で、猥雑で、面妖で、怪異で、茫漠として……の方がいい。味がある。

 

どこに昨年の倍もの高値の因があるのかもやもやとしてゐた今回のコメ騒動は、「備蓄米の大量放出」といふ小泉農相流の「すつきりした政治力」で、当面、沈静化の先行きが見えてきたが、「政治力で事態をすつきりさせる」のは、実は危険なことでもある。

 

軍事衝突や戦争の動機は、たいがいどちらかが「もやもやをすつきりさせようとして」だ。

 

今のロシアとウクライナの戦争も、80年前の第二次世界大戦も、発端はどちらかの国の「事態をすつきりさせたい」といふ動機からだつた。

 

人間社会は、すべて「すつきりさせよう」とするよりも、「もやもやとして曖昧なまま」の方が、健全で安全なのではないか。