参院選が終はつたばかりだが、最近の選挙では、立候補者の「涙の訴へ」をほとんど見かけなくなつた。

 

開票日に「当選確実」が出ると、支持者に囲まれて「バンザイ!」とともに涙を流す候補者は今もゐるけれど、選挙戦の終盤、街頭演説の候補者が、「皆さま、大変苦戦しております。どうぞ清き一票を私に」と涙ながらに絶叫する光景は少なくなつた。

 

「さうね、選挙で泣くと票が入つたのは大昔の話だね」

 

石破政権の命運でも聞かうかと、久しぶりに電話した元代議士の老人に「選挙と涙」について話を向けるとかう笑はれた。

 

「今の有権者は、万一候補者が涙を見せようものなら、この人はなんと弱々しい人間なんだらう、頼りにならん、つて感じるんだよね。涙の価値が変はつたんだね」

 

彼は続ける。

 

「もし今、窮地の石破が記者会見で泣いてごらん。世論は『可哀さう』といふよりも、『これぢやあダメだ。こんな人は一刻も早く辞めたはうがいい。もうこの人には国を任せられない』になるに違ひない」

 

さういへば、最近、私たちの日々の生活の中でもあまり涙を見なくなつたのではないか。

 

ヒトの感情の中でも、最も分かり易い、素朴な表現である「一粒の涙」が、現代社会では著しく価値を喪つてゐるのではないだらうか。

 

いま、唯一涙がハバをきかせてゐるのはテレビドラマくらゐだらう。

 

ラヴストーリーでも病院物でも学園物でも、涙がドラマの最後を盛り上げる。

 

どんなダイコン役者も、涙を流すと一応サマになる。

 

ドラマは素人だが、「涙」は演出手法としてはイロハのイなのだらう。

 

だが、あれもいつまで通用するだらうか。

 

有権者が立候補者の涙の作為を見抜いたやうに、いづれテレビドラマのお茶の間の観客も、ありきたりな涙頼みの演出を見捨てる時が来るに違いない。

 

ぼく自身、最後に涙を流したのはいつだらうと振り返ると、もう何年も泣いてゐないことに気づく。

 

子どものころから「泣く」のは得意でなくて、悲しくてもほとんど涙を見せない不感症人間だつた。

 

両親の死に際しても、特にわけはなく涙は出なかつたし、もとより他人の葬式や送別会などで泣いたことはない。

 

涙はヒトの感情の発露としてはかなり根源的なもので、素朴で、自然で、正直で、“ヒトらしい”反応なのだらうが、その能力が自分に欠落してゐるといふのはどういうことか。

 

よほど冷徹な、「血も涙もない」人間なのか、それとも、単に能力として「泣く才能」に欠けた人間なのか。

 

選挙権のない子どものころはもちろん、社会人になつてからも、実は選挙にはあまり興味がない。

 

政治記者だつたころは、国政選挙当日といへばほとんど徹夜仕事を余儀なくされたから、昼間は貴重な“寝溜め”の時間だつた。

 

近所の小学校の投票所に行つたのは、友人に頼まれた地域選挙一回だけだ。

 

選挙なんてバカバカしいと思つてゐた。

 

「この一票が社会を変へる」なんて選挙標語は実感がないし、もともと投票所まで出かけて行くのが億劫だつた。

 

こんどの参院選も同じで、7月20日が投票日だといふこともあまり関心がない

 

。投票所へ行く夕方には、たぶんいつものやうにワインバーへ行くだらう。

 

「でもね、今回の参院選はちょつと面白いんぢやない?」

 

記者時代からの友人が、別の用件でかけてきた電話の最後にかう言つた。

 

彼はぼくが週刊誌の編集長をしてゐたころ、(特に性別、年齢は秘すが)ある国会議員と個人的に喧嘩したことがあるのを知つてゐる。

 

自称「人権派」のその国会議員は、わが週刊誌の締め切り日の土曜日の深夜、「週刊読売編集長」と名指しで電話して来た。

 

その週に組み込みの号に、読売とは別の新聞社のソウル特派員のスキャンダル記事を掲載するつもりか、と訊かれた。

 

「はい。載せる予定です」

 

もう校了済みの記事である。政治家はかう続けた。

 

「その記事は正しくないです。名誉棄損の疑ひがあります。掲載すると言ふなら、これから私が直接、裁判所へ出向いて、出版差し止め請求を提出します」

 

「記事が正しくない」といふ根拠を質すと、そのソウル特派員が旅行中の日本人異性に「性的暴行をした」といふのは、その異性が勝手に虚偽の話を週刊誌に垂れ込んだ私怨であり、些細な男女のいざこざに過ぎない。

 

それを記事にするのは特派員の名誉を傷つけることになるので、出版差し止め請求に値する。

 

手続きはただちに執るーーといふのがその政治家の言ひ分だつた。

 

週刊誌にイチャモンをつけてくる人は少なくないが、それにしても国会議員を笠に着て、ずいぶん一方的で、乱暴なイチャモンだと思つたが、それでも相手は名立たる“人権派国会議員”だ。

 

万一、裁判所がその主張通り「出版差し止め」の断を下しでもすれば、月曜発売の「週刊読売」は店頭に並ばないことになる。

 

その政治家が「記事は正しくない」といふ根拠は、特派員が否定してゐるだけで、何の証拠もない。

 

といつて、こちらが日本人旅行者から聞いた内容にも確たる物証はない。

 

夜も更けてゐたが、ぼくは一応、規定に従つて読売本社の法務担当にお伺ひを立てた。

 

法務担当は、その「人権派国会議員」の名前を耳にすると、「まあ、特派員の言ふのも、旅行中の被害者が言ふのも、どちらも確証がないなら、もう発売まで時間もないから、この場は政治家の顔を立ててやつたらどうか」と言ふ。

 

後で取材すると、その“人権派国会議員”と特派員とは、かねてから「新聞記者と国会議員以上の特殊な関係」といふ噂があることが分かつた。

 

なんてことはない。政治家が友人のために締め切り直前、「出版差し止め」の脅しを編集部にかけてきたのである。とんでもない“人権派”だ。

 

友人の言ふ「こんどの参院選はちよつと面白いのでは」とは、この参院選で“人権派国会議員”が仕切る小党の当選者数、政党得票率によつて、その政党が「国政政党の要件」を満たさないことになるのだといふ。

 

この党は戦後の日本で、永らく“自社対決”と称された、イデオロギー闘争の一方の雄の「なれの果て」である。

 

この参院選は、ぼくにとつて、にはかに「バカバカしいもの」でなくなつた。

中居正広、國分太一と芸人のスキャンダルが世間をにぎはせてゐる。

 

しかし、あらためて言ふまでもなく、役者とか芸人とかに一般人と同じ性モラルを求めるのはもともとムリなことなのではないか。

 

明治、大正の時代から、作家などは女に関しても金に関しても不道徳の標本みたいな存在で、それを”売り物“にしてゐたところもある。

 

もつと古く、江戸時代からわが国の伝統芸能である歌舞伎や落語の世界では、芸人は浮名を流してナンボのものだつた。

 

浮いた話が風船のやうに身辺にひとつやふたつ漂ふことは“芸のこやし”と言はれ、誰もそれを咎めたりしなかつた。

 

芸人にはわれわれ庶民とは別の性モラルのスタンダードが厳然と存在した。

 

なぜ今、私たちは芸人に対して、われわれと同じ「聖人君子たれ」と要求するのか。

 

それは八百屋へ行つて魚を求める類ひの話ではないか。

 

今の芸人に真に望みたいのは、聖人君子ではない。

 

本業の「芸」に精を出してほしいといふことだ。八百屋には美味しい野菜や果物が並んでゐて欲しい。

 

ここで言ふ「芸」とは、昨今テレビのお遊び番組を席捲してゐる漫才師崩れや売れ損ないのタレントたちの、仲間内だけの、面白くもないツッコミを入れたり、相互扶助の出来合ひの笑ひを連綿と続け、笑へないことばや所作を繰り返して視聴者を白けさせる芸ではない。

 

何もすることのなくなつた暇な時間に、仕方ないからテレビでも観るかといふとき、観をはつて、なんとなく心がくつろぎ、やすらぎ、そんな暇つぶしをしたことがまんざら無駄でもなかつたかなと思へるやうな「芸」である。

 

芸人の「芸」とは、なんて素人の身で言ふのもをこがましいけれど、精妙な話術とは、ことばのアヤ、リズム、語彙、機知などが随所に、巧みに、かつ精緻に絡み合つたところに生まれるものだらう。

 

馴れ合ひの、ダジャレとクスグリと悪ふざけの繰り返しではない。

 

いまや新宿、上野、浅草などの寄席に足を運ぶ気にもならない。

 

テレビ局から声もかからない三流芸人の芸を、木戸銭を払つて聴きに行く気にはならない。

ついでに言へば、某テレビ局が日曜夕に放送してゐる長寿番組の名物コーナー、ヴェテラン噺家による「大喜利」も、このところとみに退屈になつた。

 

ホンモノの芸を身に着けた芸人ならば、時にスタッフの女にちょっかいを出したり、番組中に女子アナの手を握つたりしても、「まあ芸人だから、それくらゐのことはあるだらう」と笑つて、何の文句もつけない。

 

ただの「助兵衛」ではなくて、私たちを楽しませ、喜ばせてくれる「粋」な芸人が増えてほしい。

 

今のままだと、芸の世界に芸のある人はゐなくなつて、ただの助兵衛スキャンダルだけがつづく予感がする。