小学生のころの10分ほどの通学路に、越すに越せない“関所”があった。

 

2500年の歴史を誇る官幣大社のケヤキ並木の参道を挟んでならぶ、神社関係者の豪壮なお屋敷。毎朝、その一軒から、まるで僕の通学時間を狙ったかのやうに、ひとりの老人が姿をあらはす。

 

老人とは言つても小学生の目からさう見えただけで、いま思へば50代くらゐだつたか。

 

特に何をするでもなく、朝の暇つぶしに参道に立つて子どもたちを眺めてゐたにすぎないのだが、こちらにとつてはなんとも不気味で、「コワイをぢさん」だつた。

 

急に声をかけられて、わけもなく何かお説教されさうな気がした。

 

けさは出て来なければいいなと思ひながら近づくと、待ち構へてゐたかのやうに、不精髭の男がぬつと生垣の横から出てくる。

 

こちらは一瞬、思はず立ち止まる。

 

その風体に威圧されるといふか、なんとなく恐怖を感じるといふか、見えない手で行く手を遮られる感じがした。

 

さういへば、これまでの人生では、仕事でも社会でも、かういふ“関所”がときどき出現した。

 

学生時代、純文学雑誌に大家の予定の穴が開くと、「無名作家の短編小説」を年に一編か二編掲載してくれる新潮社の編集者を訪ねた。

 

個室に通されて待つてゐると、先に郵送してあつた原稿用紙の束を持つた編集者が入つてくる。

 

それからの一時間ほどが息の詰まる“関所”だつた。

 

編集者に特に注文をつけられるわけでもなく、煩瑣な直しを求められるわけでもないのだが、「無名作家」は一方的に悪い方向へ悪い方向へと思ひをめぐらして、相手の一言二言に怯えたりたぢろいだりした。

 

80歳を越した今でもかういふ“関所”はある。

 

毎朝欠かさない朝一番の習慣――ベッドを下りて、東向きの窓まで歩き、硝子戸をひらいて顔を大胆に朝日に向ける。

 

仮借ない澄明な陽光を浴びるだけなのに、無言の一撃を食らつたかのごとく、妙にたぢろぐ。

 

参道の老人も窓の朝陽も、実は何も心配することもないものに対して怯えてゐるだけなのだが、こんな性癖のためにソンをしたり、好機を逃してきたことはないだらうか、と今ごろになつて反省したりする。

 

子どもぢやないのだから、勝手に怯え、たぢろいでも可愛くもない。

 

残り少ないこれからは、多少憎々しげに見えても、真に老人らしく、泰然自若、何事にも動ぜず、デーンと構へてみるとするか。

 

ムリだらうな。

 

初対面の政治家に取材のアポイントをとり、国会議事堂裏の議員会館の部屋を訪ねて、型通り名刺交換する。

 

政治家は当然、「新聞記者がなぜ自分のところに取材に来たのか」と緊張するし、ぼくはどんな感触の政治家だらうかと警戒する。

 

「“おくに”はどちらですか?」

 

手渡したばかりの名刺に目を落しながら、ほとんどの政治家がさう言ふ。

 

もちろん国籍ではない。生まれ故郷、出身地はどこかといふ意味で、実はぼくにとつてはこの質問ほど当惑することはない。

 

初めての人と会ったとき、政治家の最大の関心事はその人の郷里だ。

 

端的に言へば選挙区である。

 

自分の地元ならベストだが、「おくに」を問ふことで、その地が輩出した過去の有力政治家、俳優、その地方が直面する懸案、話題になつた事件事故……などが気まづい空気を和らげる話の接ぎ穂になる。

 

「私には『おくに』と言えるほどのものがなくて。生まれた土地で今も生活してゐます」

 

素つ気ないぼくの答へに、

「おう、さうですか。それは結構なことですな」

などと応じながら、政治家は次のことばに詰まつて、緊張の針は下がらない。。

 

愛想がないかもしれないけれど、正直なところ、ぼくには人に向かつて「おくに」と言へるやうなところがないのだから仕方ない。

 

生まれた地には、日本全国誰もが知る名山や河川、風光明媚な温泉や観光地、名の知れた「郷土の味」など、いはゆる「おくにの話題」がない。

 

生まれた土地は関東平野の恐るべき平面都市。あるのは無粋で巨細なビル群と舗装道路、埋め立てられた側溝、高低差数メートルの坂道……くらゐで、地図に名前が載るやうな川も丘も海岸もない。

 

「台風は来ないし、集中豪雨もなしで、自然災害がなくていいですね」

 

「住みたい町ランキングではいつも上位ですね」

 

褒めようがなくて人はさう言つてくれるが、自然災害がないのは生まれたときからだから特別うれしいとも思はないし、「住みたい町」に名前が挙がるのは、地価公示の坪単価が上がり、それだけ固定資産税が高くなるだけで、住んでゐる人間にとってメリットは一つもない。

 

しかし、「おくに」のない人間なんて、まるで本籍不詳、路地裏で生まれた犬や猫同様、生誕のルーツがないやうで、一抹の寂しさがなくもないが、他の土地に住んだことがないのだから、どこが「おくに」だつたら良かつたといふ気持ちもない。

 

結局、生まれて80年余生活する場所が「おくに」といふしかないのかなあ。

 

アイドルグループ「嵐」が来春解散、といふ話が、芸能ニュースではなく一般ニュースとして流れた。

 

これって、トランプ関税やインド・パキスタン紛争などと並ぶ大ニュースなのか? と傍(そば)にゐた娘(50女)に疑問を呈したら、「元新聞記者もニュース感覚が鈍つたわねえ」と笑われた。

 

「嵐解散」は今の「ふつう人の感覚」からすれば十分にトランプ関税などと並ぶ大ニュースなのだといふ。

 

SMAP解散のときもさうだつたが、その辺のぼくの感度が本当に鈍くなつてゐるのか、あるいは娘が自負するやうな「ふつうの人の感覚」のはうがをかしいのか。

 

夕食後、見るともなくテレビを見てゐると、最近、毎日のやうに顔を見るお笑ひ芸人やタレントたちが何人もひな壇にたむろして、次々と流される曲のイントロの1,2音を聴いて曲名を当てるゲームをやつてゐる。

 

ポポン、ザザザ、などといふ1,2秒の音を聴いただけで、どうして曲名が分かるのか。

 

出演者には予(あらかじ)め、どんな曲が出題されるか予備知識を与へておくのではないか、とつぶやくと、こんどはやはり横にゐた80媼が反論した。

 

「そんなことないでしよ。どれもこれも一世を風靡した有名な曲ですもの、分かる人には分かるのよ」

 

マスコミの仕事をしてゐたころは、これも給料の内と思つて芸能ニュースや歌謡番組にも耳を傾けたが、リタイアしてからといふもの、観ようと思つてチャンネルを回すのは定時ニュースとスポーツ中継くらゐ。

 

あとは「なんとなくテレビが点いてゐるな」程度の認識しかない。

 

わけても芸能関係のニュースは、もう数十年、ほとんど“ほつたらかし”状態と言つていい。

 

それでも日々の生活――毎日通ふワイン屋のシェフやスタッフとの懇談、友人や道で行き交ふ近所の人との無駄話などには何の支障もない。

 

芸能関係のニュースとは無縁でも生きていくのに差し障りはない。

 

いや待てよ、と反省する。

 

もしかして、これは芸能ニュースに限つたことではないのかもしれない。

 

毎日、新聞、テレビ、パソコン、スマホなどを通じて、「気になる見出し」に気を惹かれ、目を奪われる事件、事故、スキャンダルといふやうなニュースの大半は、実はほったらかしにしておいてもほとんど困らないのではないか。

 

雑多な情報を始終見たり聞いたりしてゐないと時代に遅れる気がして、不安になつて、なんとなく落ち着かないのは、いつの間にか現代社会に瀰漫してゐる「ビョーキ」の一種ではないのか。