中居正広、國分太一と芸人のスキャンダルが世間をにぎはせてゐる。
しかし、あらためて言ふまでもなく、役者とか芸人とかに一般人と同じ性モラルを求めるのはもともとムリなことなのではないか。
明治、大正の時代から、作家などは女に関しても金に関しても不道徳の標本みたいな存在で、それを”売り物“にしてゐたところもある。
もつと古く、江戸時代からわが国の伝統芸能である歌舞伎や落語の世界では、芸人は浮名を流してナンボのものだつた。
浮いた話が風船のやうに身辺にひとつやふたつ漂ふことは“芸のこやし”と言はれ、誰もそれを咎めたりしなかつた。
芸人にはわれわれ庶民とは別の性モラルのスタンダードが厳然と存在した。
なぜ今、私たちは芸人に対して、われわれと同じ「聖人君子たれ」と要求するのか。
それは八百屋へ行つて魚を求める類ひの話ではないか。
今の芸人に真に望みたいのは、聖人君子ではない。
本業の「芸」に精を出してほしいといふことだ。八百屋には美味しい野菜や果物が並んでゐて欲しい。
ここで言ふ「芸」とは、昨今テレビのお遊び番組を席捲してゐる漫才師崩れや売れ損ないのタレントたちの、仲間内だけの、面白くもないツッコミを入れたり、相互扶助の出来合ひの笑ひを連綿と続け、笑へないことばや所作を繰り返して視聴者を白けさせる芸ではない。
何もすることのなくなつた暇な時間に、仕方ないからテレビでも観るかといふとき、観をはつて、なんとなく心がくつろぎ、やすらぎ、そんな暇つぶしをしたことがまんざら無駄でもなかつたかなと思へるやうな「芸」である。
芸人の「芸」とは、なんて素人の身で言ふのもをこがましいけれど、精妙な話術とは、ことばのアヤ、リズム、語彙、機知などが随所に、巧みに、かつ精緻に絡み合つたところに生まれるものだらう。
馴れ合ひの、ダジャレとクスグリと悪ふざけの繰り返しではない。
いまや新宿、上野、浅草などの寄席に足を運ぶ気にもならない。
テレビ局から声もかからない三流芸人の芸を、木戸銭を払つて聴きに行く気にはならない。
ついでに言へば、某テレビ局が日曜夕に放送してゐる長寿番組の名物コーナー、ヴェテラン噺家による「大喜利」も、このところとみに退屈になつた。
ホンモノの芸を身に着けた芸人ならば、時にスタッフの女にちょっかいを出したり、番組中に女子アナの手を握つたりしても、「まあ芸人だから、それくらゐのことはあるだらう」と笑つて、何の文句もつけない。
ただの「助兵衛」ではなくて、私たちを楽しませ、喜ばせてくれる「粋」な芸人が増えてほしい。
今のままだと、芸の世界に芸のある人はゐなくなつて、ただの助兵衛スキャンダルだけがつづく予感がする。
