一つだけ紛(まが)ふことのない香があつた。香といふよりも普通に、匂ひと言つたほうが適切な感じがする。

 

 たとへば、東南アジアのみやげ物店に一歩入つたとき鼻をつく、布製品の民族衣装や木工細工、アクセサリーなどに染みついた、あのスパイシーな匂ひだ。

 

 「これは、スモタラです」

 香炉を畳に戻すより早く、ぼくは答へる。

 

 「ふふ、これだけは毎回即答されますのね」

 

 ホテルオークラの茶室・聴松庵で茶の稽古をはじめて数年たつたころ、少し年上の女師匠が一対一で香遊びを教へてくれた。ぼくは30代だつた。

 

 香は。伽羅(キャラ)、羅国(ラコク)、真南蛮(マナバン)、真那賀(マナカ)、寸門陀羅(スモタラ)など、「六国(りつこく)」といはれる六種類の香木を嗅ぎ分けるもので、昔から親しみのある伽羅や、扇子に使はれる白檀に似た佐曽羅(サソラ)はすぐ分かるが、六種類全部を正確に言ひ当てるのは難しい。

 

 「スモタラはお嫌ひなやうね」

 「ええ、ちよつと濃厚な癖があるので、どちらかといへば苦手です」

 「まだ、お若いのよ」

 

 そのとき、師匠はきものの衿から白い湿潤な首すぢをのぞかせて笑つた。

 

 この正月、何年ぶりかで師匠に招ばれた茶席で、香を聞く趣向があつた(香では匂ひを嗅ぐことを「聞く」といふ)。

 

 コロナ禍で、回し飲みの濃茶ができないので、薄茶のあと香といふ段どりである。

 

 「六国」を順に炭にくべた香炉を座に回しながら、一巡目は隣りの人から「キャラでございます」などと口伝へで香木名が明かされる。

 

 二巡目になると何も教へてもらへず、自分で嗅いで、判断して、それぞれ懐紙に香木名をメモする。

 

 ――なんとも懐かしいかをりだつた。

 

 香遊びは久しぶりなので、マナバンやマナカは分別しにくかつたが、その香りだけは鼻が覚えてゐた。香炉に手をかざしただけでそれと分かつた。

 

 おどろいたのは、そこから受けた印象である。

 

 あのスモタラの匂ひが、いまでは苦手どころか、香らしい幽玄な奥行きがあつて、正直にいへば、まさに妖艶、まどやかに熟した女性ともいふべき官能的な香がした。

 

 脳が専門の医者の友人から聞いた話だが、視神経、聴神経、顔面神経など12対ある脳神経の中で、人間にとつて最も基本的かつ高度なのは嗅神経ださうだ。

 

 匂ひを嗅ぎ分けられないと、いざといふとき腐つた物を食べたりして生死にかかはるからだといふ。

 

 八十歳近くになつて、一転、スモタラのかをりに惹かれたのは、果たして嗅覚の成長なのか退化なのか、気が気でならない。

 

大臣室を訪ねると、文部大臣がひまさうにしてゐた。

 

1週間前、九州出身のその老政治家が、大臣就任後初の選挙区入り(俗にいふ”故郷(おくに)帰り”)するのに、所属してゐた文部省記者倶楽部からただ一人同行取材し、3泊4日いろいろ迷惑をかけたので、その詫びをまづ述べた。

 

 「いや、私が選挙区の後援会回りに忙しくて、何もおもてなしできないで失礼しました」
 

 確かにその通りだつたが、新任の大臣と親しくなるのが目的の同行取材だつたから、『おもてなし』はこれからだと思つてゐた。

 

 「大臣、先日、国会の文教委員会で取り上げられた私学助成金の件ですがーー」

 

 ぼくが40歳のころの話である。いまも、日大の前理事長、元理事の不祥事で私学助成金90億円の不交付が決定するなど生々しい話題だが、当時、東京の二、三の私大で入試不正が発覚した。

 

 私学助成は国民の税金の遣ひ道にかかはることだから重大な問題で、新任の文部大臣は国会で、「慎重に検討中」などと曖昧な答弁で逃げてゐた。

 

 「新たに就任された大臣がスパッと決断して、存在を世間にアピールする絶好の機会ですよ」

 

 ぼくは「後付けのおもてなし」を期待して、さう唆(そそのか)した。

 

 「さう思ふかね。この間、地元でもこの話題に関心が高かつたな」

 

 「スキャンダル大学の助成金に断、なんて、大臣の初仕事としてカッコいいぢやないですか」

 

 「マスコミとしてさう思ふかね。反響は大きいかもね――それでいくか」

 

 ぼくの書いた記事は一面のトップを飾つた。

 

 朝、記者倶楽部へ出ていくと、ライバルの記者たちはぼくと目を合はせない。――喧嘩が始まつた。

 

 その日から二日間、ライバルA紙の痩せた記者は、記者倶楽部の奧の麻雀室や、文部省の暗い廊下の隅で、他社の記者数人とひそひそ話をしては、こちらの顔を見ると連れ立つて姿を隠した。

 

 ぼくひとりを除外するかたちで、記者倶楽部の数社が何かを画策してゐるのが分かつた。

 

 記者倶楽部は時に陰湿な戦場になる。

 

 省庁、警察署、政党本部、地方自治体など、全国どこにもある記者倶楽部では、特ダネ競争のゴングが鳴ると、各社が神経質に敵の動きに神経をとがらせ始める。

 

 早朝、政治部のデスクから自宅に電話をもらつた。「A紙、読んだ?」

 

 起きたばかりで、まだ読んでゐない。「夕刊で追つかけないわけにはいかないだらう。問題が問題だし、各紙がそろつて取り上げてゐるから、一応”特オチ”みたいな形になつてるし」

 

 郵便受けからライバルA紙とB紙を持つてくる。

 

 1面トップ、大きな活字で『政府与党、公立校6・3・3制見直しへ』。

 

 現行の小学6年、中学3年、高校3年の「6・3・3制」を、中等教育の充実強化を狙ひに「6・6制」に改革するといふ考へ方は、以前から政府、自民党内にあつた。一部の私立学校ではすでに中高一貫教育として導入されてゐる。

 

 記事には「自民党文教族を中心に学制改革の声が高まり、政府部内でも検討を始めた」とある。

 

 これはウソだ。ぼくも文部省を担当するやうになつてから、学制改革には大きな関心を払つてゐた。

 

 戦後から続く今の日本の社会・教育体制を大きく変へるもので、必要なことかもしれないけれど、10年や20年でさう簡単にできるものでないことは明白で、一度も記事にしたことはなかつた。

 

 出勤し、デスクの厳命で仕方なしに、「自民党の一部に公立校の学制改革を望む声も」といふ、意味不明な、中途半端な記事を夕刊に数行書いた。

 

 「これは2日前に『私大助成金カット』を抜いたぼくに対する記者倶楽部内のいやがらせで、A紙らが“みんなで渡れば”ででつちあげたデタラメ記事です」

 

 デスクや部長に説明したが、「かう全紙が書いてるとな」と、結局“特オチ”の心象は払拭できなかつた。

 

 あれから40年経つた今も、公立校の「6・3・3制」は一ミリも変はつてゐない。

 

 大学卒業を前にしたとき、生まれて初めて大きな岐路に直面した。

 

 選択肢は2つ。普通に入社試験を受けて会社員になつて、月給で安定した生活を選ぶか、あるいはどこにも就職しないで、生涯、一介の物書きとして自由業で生きるか、だつた。

 

 学生時代、いろいろな新人文学賞に応募をしてゐたので、新潮社、講談社、文芸春秋社などの気鋭の編集者とコネができ、短編小説がひとつ書き上がるとぜつせと編集部に届けて読んでもらつてゐた。とくに新潮社の菅原國隆氏にはお世話になつた。

 

 ほとんどの場合、小説は懇切な感想とともに返却され、または次の新人賞への応募に回されたりだつたが、年に数回、予定してゐた有名作家の原稿に穴の空くことがあると、「無名の学生作家」の小説が急遽、『新潮』や『文学界』『群像』といふ純文学雑誌に掲載された。

 

 雑誌の目次や新聞広告には、たとへば三島由紀夫や小林秀雄、高見順、舟橋聖一、壇一雄、武田泰淳……などといふ当時の売れつ子作家と同列に、だれも聞いたことのないぼくの筆名が並んだ。

 

 大学の正門前にある本屋に友人を連れて行つて、店頭に平積みされた文芸誌をさりげなく手に取つて目次をひらき、「こんな作家の名前、聞いたことある?」と遠回しに自慢して悦に入つたりした。

 

 普通に入社試験を受けるとすれば、いわゆる3大新聞の一つの記者になる道で、よろづに無難をのぞむ両親は、明日をも知れぬ作家になるよりは新聞社に就職することを望んだ。

 

 「小説なんか書いて、一生食つて行けると本気で思つてゐるのか」

 と、警察署長をしてゐた父親は何度もぼくに説教した。

 

 「一生食つて行けるか」――ぼくにはこの視点が欠けてゐた。どちらが楽しいだらうか、充溢感があるだらうかで選ばうとしてゐた。

 

 食つて行けるか、と問はれて、冷静に年収の見通しをはじいてみた。

 

 昭和の中ごろ、無名作家が手にする原稿料は(純文学雑誌はとくに安くて)原稿用紙1枚2,3千円だつた。短編小説が一つ売れても10万円になるかどうかだ。

 

 運よく雑誌に載るのは年に数編だから、文芸誌以外のをちこちにエッセーや雑文を書きまくり売りまくつても、年収は100万円がやつとだらう。

 

 ――食つて行けない。結局、両親の希望に沿ふかたちで新聞記者になつた。

 

 政治記者、週刊誌編集長などを41年間つとめ、65歳でリタイアしてから「さあ、こんどは筆一本だ」と、14年間に28編の長短編を書いた。

 

 中には賞金100万円をもらつた文学賞もあるけれど、むろん今でも小説では食つて行けない。

 

 あのとき両親に反逆して「一介の物書き」の道に進んでゐたら、わが人生どうなつてゐたか、と空しい想像に駆られることがないわけではない。

 

 はたち過ぎの人間が「食つて行けない」といふ屈辱に負けたことを恥ぢる気がないでもない。

 

 新聞記者生活はそれなりに刺激と逸楽に満ちて楽しかつたが、物書き業も記者業もなんとなく中途半端になつた感は否めない。

 

 年収100万円の極貧生活で苦悶したり、逆に一ジャーナリストとして世間を驚嘆させるやうな新鮮な切り口を提示する機会などなかつた。

 

 人生、過ぎ去つた岐路までさかのぼることはできない。