大学卒業を前にしたとき、生まれて初めて大きな岐路に直面した。
選択肢は2つ。普通に入社試験を受けて会社員になつて、月給で安定した生活を選ぶか、あるいはどこにも就職しないで、生涯、一介の物書きとして自由業で生きるか、だつた。
学生時代、いろいろな新人文学賞に応募をしてゐたので、新潮社、講談社、文芸春秋社などの気鋭の編集者とコネができ、短編小説がひとつ書き上がるとぜつせと編集部に届けて読んでもらつてゐた。とくに新潮社の菅原國隆氏にはお世話になつた。
ほとんどの場合、小説は懇切な感想とともに返却され、または次の新人賞への応募に回されたりだつたが、年に数回、予定してゐた有名作家の原稿に穴の空くことがあると、「無名の学生作家」の小説が急遽、『新潮』や『文学界』『群像』といふ純文学雑誌に掲載された。
雑誌の目次や新聞広告には、たとへば三島由紀夫や小林秀雄、高見順、舟橋聖一、壇一雄、武田泰淳……などといふ当時の売れつ子作家と同列に、だれも聞いたことのないぼくの筆名が並んだ。
大学の正門前にある本屋に友人を連れて行つて、店頭に平積みされた文芸誌をさりげなく手に取つて目次をひらき、「こんな作家の名前、聞いたことある?」と遠回しに自慢して悦に入つたりした。
普通に入社試験を受けるとすれば、いわゆる3大新聞の一つの記者になる道で、よろづに無難をのぞむ両親は、明日をも知れぬ作家になるよりは新聞社に就職することを望んだ。
「小説なんか書いて、一生食つて行けると本気で思つてゐるのか」
と、警察署長をしてゐた父親は何度もぼくに説教した。
「一生食つて行けるか」――ぼくにはこの視点が欠けてゐた。どちらが楽しいだらうか、充溢感があるだらうかで選ばうとしてゐた。
食つて行けるか、と問はれて、冷静に年収の見通しをはじいてみた。
昭和の中ごろ、無名作家が手にする原稿料は(純文学雑誌はとくに安くて)原稿用紙1枚2,3千円だつた。短編小説が一つ売れても10万円になるかどうかだ。
運よく雑誌に載るのは年に数編だから、文芸誌以外のをちこちにエッセーや雑文を書きまくり売りまくつても、年収は100万円がやつとだらう。
――食つて行けない。結局、両親の希望に沿ふかたちで新聞記者になつた。
政治記者、週刊誌編集長などを41年間つとめ、65歳でリタイアしてから「さあ、こんどは筆一本だ」と、14年間に28編の長短編を書いた。
中には賞金100万円をもらつた文学賞もあるけれど、むろん今でも小説では食つて行けない。
あのとき両親に反逆して「一介の物書き」の道に進んでゐたら、わが人生どうなつてゐたか、と空しい想像に駆られることがないわけではない。
はたち過ぎの人間が「食つて行けない」といふ屈辱に負けたことを恥ぢる気がないでもない。
新聞記者生活はそれなりに刺激と逸楽に満ちて楽しかつたが、物書き業も記者業もなんとなく中途半端になつた感は否めない。
年収100万円の極貧生活で苦悶したり、逆に一ジャーナリストとして世間を驚嘆させるやうな新鮮な切り口を提示する機会などなかつた。
人生、過ぎ去つた岐路までさかのぼることはできない。
