元同僚からめづらしく電話がかかつて来ました。
最近、昔の仲間からかかってくる電話はろくなことではありません。
コロナ禍前のやうな飲み会の誘ひなどはまづなく、たいがいは「〇〇さんが亡くなつた」「入院した」などといふ先輩、同僚の悲しい報せです。
その電話は単なる訃報ではありませんでした。
土曜日午後に行はれる先輩の葬儀に、彼は事情があつて参列できないので、その前にぼくと会つて香典を託したいといふのです。
参列できない理由を聞くと、同じ大学の後輩でゴルフ仲間の娘さんの結婚式が、同じ日のほぼ同じ時刻に、車で3時間はかかるところで予定され、彼は前からこの披露宴で新婦側主賓のスピーチを頼まれてゐるのださうです。
「へえ、結婚式と葬式が同じ日に、か」
とぼくは言つて、元同僚といふ気安さから少々出過ぎたことを口にしました。
「結婚式と葬式のどちらかを不義理するかとなつたら、ぼくだつたら結婚式を欠席して葬式に行くけどな」
「どうして?」
「結婚式はただおめでたいことだけれど、葬式は人の死といふ神聖な儀式だもの」
「いや、死んでしまつた人より、これからも縁のつづく友人のはうを大事にしたいんだ」
「――ところでさ」
とぼくは話題を変へました。
「この間の安倍晋三さんの国葬だけど、キミはどう思ふ?」
政治部記者として野党担当が長かつた彼は、「わざわざ国葬にすることはなかつたのでは」と並の国葬反対論です。「自民党葬」で良かつたのではと言ひます。
「さうかな」
とぼくは、こんども彼とは意見が異なりました。
ぼくは安倍氏にとくに個人的感情はないし(仕事で少し接したのは父親の安倍晋太郎氏のはうです)、安倍氏が後ろ盾になつてゐた旧統一教会は大嫌ひだし、いまは僧侶が政治に口出しした時代とは違ふのだから、宗教団体が政治にからむことには元々反対ですが、安倍氏の国葬については、どちらかといへば「いいぢやないの」といふ思ひです。
税金を投入してまでやることか、「国葬」の定義も決まつてゐないのに時の内閣の一存で強行したのはをかしいーー国葬を疑問視する人の意見は一応もつともですけれど、事は不慮の死を遂げた元総理大臣の「お葬式」です。
昔から日本には、人の死にかかはることだけは、あらゆる生活行事の中でも聖なる、一種別格なものといふ思想、慣習がありました。
それが人間の自然な感情だと思ひます。
国葬であるかないかは、さほど重要なことではない。大事なことは安倍晋三といふ人の死を、私たち国民が追悼し、静かに葬送するかどうかです。
労働争議ぢやあるまいし、葬儀を行つてゐる周辺で「国葬反対」の旗を振つたり、大声でシュプレヒコールをするなんて、人として礼を失し、品性下劣に過ぎるのではないでせうか。
