そのカップルは、店の入口で店長と話をしたあと、ワインを飲んでゐるぼくの斜め前のテーブルに案内されてきた。

 

 結婚式場に併設されてゐるこのフレンチでは、いちばん値の張る「記念日ディナー」を予約すると、5階にある写真室でプロカメラマンに記念写真を撮つてもらふか、店の横にある専属の花屋がつくる花束か、どちらか一つのサーヴィスが付く。

 

記念写真を希望する客が多く、店に着くとまづ店長に促されてエレベーターで写真室のスタジオへ上がるのが普通だが、そのカップルは女性の方が花束を選んだらしい。

 

余計なお節介を言ふなら、真率なサラリーマン風の30男はこの時点で、相手の女性の変化を察知すべきだつた。女性はふたりの写真が残るのを嫌つたのではないか。

 

誤解されないやうに言つておくと、その店に毎日ワインを飲みにいく「売れない老作家」は、そこで出会ふ客たちをながめて楽しむ嗜欲があるわけでもなければ、ことさら客の会話に聞き耳を立てるわけでもない。

 

ただ、近くのテーブルの若い男女などに対して、それなりに関心がわくのは致し方のないことで、ましてこの日、女は白い胸から深い谷間がのぞく赤い服を着てゐた。

 

料理が始まつても、ふたりはぽつぽつとしか話をしない。

 

30男はサッカーW杯の話や数日前のJR駅前の薬屋の火災など、なんとか会話をつながうとするのだけれど、女は「さうね」とか「ええ」などと短く応答するだけで、コロナ禍の小学校の給食のやうに、ほとんど「黙食」状態である。

 

女が水しか頼まないので、男もコップの水を何度も口に運んで間を持たせてゐる。

 

女は魚料理も肉料理も端のはうにちよつとフォークを付けるだけだ。

 

そのとき、女が口に出した言葉が、やけに鮮明にぼくの耳まで届いた。

 

「さつき、ホテルを予約してあるつて言つてたけど、キャンセルはできるの?」

 

女は一語一語、事務的な口調で質問した。

 

男もやつと女の態度が妙なことに気づき、

「どうかした? 気分でも悪い?」

とフォークの手をとめて女の顔色をうかがつた。

 

「ええ、さつきから急に頭が痛くなつて。よくあることなの」

 

女はつぶやき、「悪いわね。こんな時にーー」とつけ加へた。。

 

「いや、突然の頭痛ぢや仕方ないよ」

 

男は相手をいたはり、「食事を終へたら家まで送るから、けふはすぐ寝た方がいいよ」と、ボーイを呼んでデザートのコーヒーを急かした。

 

「この後のことは、またの機会にしよう」

 

男のその言葉よりも、ぼくの頭には赤い服の女がさつき言つた「ホテル」「キャンセル」がまだ尾を曳いてゐた。

 

女の方からそんなことを訊ねるのが驚きだつたし、近くのテーブルにゐる客を特に気にするでもなく、そんなことを口にできる女の野卑がまぶしかつた。

 

男は信じてゐるのかもしれないが、ふたりのあひだで「この後のこと」は永遠にない予感がした。

 

頭痛といふのは便利な病気である。

 

怪我などとちがひ他人にはまつたく分からないし、「嘘も方便」で使へば、その苦痛は知れた病気だから説得力がある。

 

仮病にはもつてこいだ。