日本のプロ野球開幕戦の巨人―阪神戦をテレビで観た。
ほかならぬジャイアンツの会社で41年間働いてゐたから、この時季になると東京ドームの開幕戦のチケットがあんがい容易に手に入り、毎年観に行った。
ことしの開幕戦は4―0で巨人が楽勝、阿部監督の初陣を飾ったが、試合としては凡戦で、盛り上がりの少ない試合だつた。
とくに痛感したのが、スター選手のゐないゲームの退屈さである。
ことしは大谷翔平人気の大リーグの野球を早くから見慣れて、“スーパースター”が打席に立つ瞬間の感激を味はつた直後といふ事情もあつて、日本のプロ野球が妙に白けて、平板で、面白みに欠ける気がした。
これは偏(ひとへ)にスパースターがゐないせゐで、次打者席に入つた瞬間からスタンドが炎上して、異様な歓声、拍手がわき起きる、あの大リーグの興奮がない。
いま日本球界にはスーパースターがゐない。「昔の名前で出てゐます」の選手はゐるが、いづれも三十路がらみになつて、少々手垢の付いた「元スター選手」ばかり。数チームを渡り歩いてよれよれの顔もある。
開幕戦でピッチャーをつとめた巨人の戸郷翔征は、一応ことしの新人の目玉だが、まだ海の物とも山の物とも見極めがつかない。第一、パフォーマンスにも発言にも華がない。
近ごろ日本にスーパースターがゐないのはスポーツ界だけに限らない。
政界はいふに及ばず、芸術、音楽、演劇の世界などでも、さらには文学の世界でも、「ことしの紅白出演間違ひなし」とか、レコードや著書がミリオンセラーとなつて後世にその名を残すであらう俊傑した芸能人や作家が出現しない。
これは今の日本がことさらスーパースターを必要としないといふことなのか、あるいは、今の日本がスーパースターを押し潰してしまふのか。
小学校の運動会で1番2番を付けないといふやうに、よろず「平等」「みんな同じ」を旨とする日本社会は、政治的にはヒットラーの出現を防ぐ安全弁の機能を有するが、他方、大向かうが狂喜乱舞するスーパースター誕生を阻害するのだらうか。
百万人の落伍者も作らないが、一人のスーパースターも作らない。
その結果、日本を出て世界で活躍する「日本人のスーパースター」はゐても、肝心の日本にスーパースターが生まれない。
全員同列――思想信条によつては、これはこれで結構なことなのかもしれないし、それが民主主義といふものなのかもしれないけれど、ぼくのやうにミーハーの俗人からすると、スーパースターのゐない日本は、鼻のないお面のやうにおぞましく、捉へどころがなく、ツマンナイ。
