詞と詩の違いと、詩のセオリーやルールについて | 皆見つかさ 公式ブログ 〜ソロアーティストの脳内と日常

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この記事は4938文字です。(読破予想時間:約11分45秒)

 

詞について、何度かこのブログで話をさせて貰った事があります。

その中で、「詞」と「詩(ポエム)」は違うと言う事も言ったりしてますが、実は僕は、その対比に使われる「詩」と言うものを、あまり理解していません。

「詞は詩とは違う」などと言いながら、一方の詩の事をあまり知らないでは話にならないと言う事で、少し、調べたり考察したりしてみたと言うのが今日の話です。

では、楽しんでいって下さい。:*:・( ̄∀ ̄)・:*:


「詞」と聞くと普通に「歌詞」の事だと連想する人は多いのではないだろうか?

で、大抵の人は、「詩」とは言葉のみで、「詞」とはメロディー(音楽)を伴うものと認識している筈だ。

結論から言うと、基本的にはそれでいいと思う。

しかし、楽曲の作者が書かれている欄に、時折、「作詩」と表現されている事がある。

これは、単に誤字のたぐいなのかと思ってしまいそうになるが、実は、これはこれで正解なのだ。


この「作詩」と言う概念は、2つある。

一つは、歌詞として書かれたものでははく、詩人が純粋に「詩」として書いた物に、作曲家が曲をつけて完成した場合の表記だ。

もう一つは、冒頭の結論と矛盾している様だが、「歌詩」、すなわち、「歌詞」の様にメロディーと一体になる事前提で書かれたものである。

「作詩」と言う表記を、今でもたまに、特に演歌などで見かける事がある。

そして、特に昔に「作詩」と表現されているものが多い。

この場合の「作詩」と言う言葉は、比較的短いものを指す事が多く、しかも、五・七調とか、三連詩などの定型詩の場合、『詩』と表現される事が多い。

昔の演歌や歌謡曲の場合、この作りが非常に多かった事から「作詩」と表現される事が、昔にさかのぼる程増えるのだそうだ。

 

年末が近付くと毎年行われる賞で長い歴史を誇る「日本作詩大賞」などもその一つであり、その名残りだ。


そして、五・七調などの縛りがなく、いわゆる自由律で書かれているものを「詞」と表現するのだそうだ。

ちなみに、自由律と言うのは、何でもアリの適当・無茶苦茶と言う意味ではない。

一般社会と同じ様に、自由と言う言葉の裏には、当然、いくつものルールや制約が存在する。

ロックやポップスやその他ポピュラーミュージックの場合、そのほとんどが自由律で書かれているものなので、演歌・歌謡曲が廃れてからの世代の人間が耳にするのは、ほとんど「詞」ばかりであり、「作詩」と言う言葉を耳に目にする機会はほとんどないと言える。

結局、音楽を伴う「詩」と言う物もあるので、厳密に言えば、「詩」と「詞」をメロディーの有無で分けるのは間違いであるのだが、現状からみて、基本的に音楽を伴うかどうかで分けて、ほぼ問題はないと言う意味で、「基本的にはそれでいい」と表現させて頂いたと言う訳だ。

つまり、今現在において、メロディーを伴う「詩」と言うものは、もはや特殊な扱いの部類に入る程、減っていると言う事だ。

なので、それを一つの歴史として知っておけばそれでいいのではないかと、個人的には思う。


ざっと、ここまではネットで得た知識ではないのだが、「詩」と「詞」について、ネットでもいろいろと調べてみると、やはりと言うか、予想通り、皆が持論を展開していて、どれが持論でどれが学術的・歴史的に正しい話なのか、もはや判別する事は不能な状態に陥っている。

では、どうして世の中全部が、こんな状態に陥る程、「詩」と言うものへの理解がこんなにも浸透していないのだろう。

それはおそらく、学校教育の段階で、「詩」と言う物の概念がしっかり生徒達に伝わっていない事が原因なのではないかと僕は考えている。

まず、自分が小学校の時の記憶をさかのぼる。

小学校低学年の頃から、国語の授業で詩を習い、そして何度となく書かされて来た。

和歌や短歌や俳句や川柳などの定型詩を筆頭に、詩にもいろいろあるが、ここでの話は自由詩の話である。

僕の記憶によると、学校の授業で自由詩のルールや概念・定義などを習った記憶はない

最初に教科書に出てきた詩を読んで、その詩の心情や表現方法などについて、講義を受けるといった内容の授業だったと記憶している。

その授業の中で、「自由に書いていいんだよ」と言う事は教わった記憶があるが、そこにはやはり自由の範囲があって、それを逸脱するともはや詩ではなくなる事は言うまでもない事なのだが、それをなかなか理解出来ない子供はやっぱりいた

自由に書けと言われて自由に書いたら、先生に「それは詩ではなく、作文です」とか言われた記憶がある人はいないだろうか?

大抵の生徒は、教科書のお手本を読んだだけで何となく、詩と言うものの雰囲気は掴んでしまう。

しかし、それを全員が出来るのかと言えば、そんな事は絶対に有り得ない。

子供にも得手不得手があって当たり前で、毎年の様に詩を習い、その度に授業や宿題で詩を書かされるのだが、必ずクラスに3人程は、詩と作文の区別がつかずに、モロに作文を書いて来る子がいたのを鮮明に覚えている。

平たく言うと、「昨日僕は、○○君と~をして遊びました。」とか、そんな文を書いて来るのである。

これを聞いた先生で、作文と詩の違いを明確に説明して、生徒達に理解させたと言う人は一人もいない

そして、作文と詩の区別がつかなかった子供にだけは徹底指導してあげたのかと言うと、それもなく、その子達は、大きな課題を残したまま次の学年に進級していく。

それが、最低限、義務教育の終わりまで毎年毎年繰り返し続くのである。

結局、自由律は自由でいいと分かってる人が多いのは、ネット上の検索結果でも明らかなのだが、その自由律が自由である為の制約を説明出来てる人が一人もいなかったのが、この国の教育の結末なのだ。

別に教育を嘆いている訳でもないし、批判している訳でもない

ただ単に因果関係を分析してみて、自分なりの仮説を立ててみたと言うだけの話だ。

僕自身、何か知りたければ、学校に文句を言ってないで自分で調べて勉強すればいいだけだと思っているので、例え、その仮説が正しかったとしても誰に対しても特に不満なんてない


詩の制約やら定義、そして「詩とは何ぞや?」と言う話の答えが八方ふさがりの中、ネットで、一つの灯りを見つけたのだ。

それは、詩の巨匠、谷川俊太郎さんへのインタビュー記事だ。

その記事は下記に記しておくので、是非、じっくり読んで欲しい。

 

「詩はくだらないもの」詩人・谷川俊太郎が切り開いた詩の世界


この記事を読んで、僕が望む様な、詩のイロハを教えてくれる様な記事ではなかったが、それ以外の「詩とは何ぞや?」と言う部分を十二分に埋めてくれる答えがそこにはあった。

詩人の最高峰が辿り着いた答えを、答えとしても僕はいいのではないかと思っている

詩人にしろ学者にしろ、結局、疑問に答えるのが人間であるならば、定義やイロハの様な普遍の部分ではない、抽象的な哲学的な部分での答えは、誰よりも長い間、たくさん詩を書いてきて、尚且つ、誰よりも評価を受けた人の言葉こそが答えでなくて何なのだという心境である。


結局、具体的な普遍的な部分での詩の定義やルールは見つけられなかったのだが、自由といっても、それらのセオリーが存在する事は確かな事なのだ。

自由だからと適当に書くとそれは詩ではなくなって作文になってしまった子が何人もいたと言う例からも、詩が詩である為の何らかのセオリーは存在していなくては全ての辻褄が合わないのだ。

誰かが適当に書いたブログの中にも、詩的な表現をたくさん見つける事が出来る。

この時点でも、詩たりえるには何か括りがあると言う事の証明になる。

混乱承知で更に言うならば、「詞」、つまりは歌詞の中にも詩的な表現と感じるものが存在する

いろいろな文体と明らかに違うセオリーを持っているからこそ、どの文体の中に潜り込もうと、その詩の欠片は詩として発見されてしまうのだ


歌詞と詩の違いは、まず、詞は音楽パーツであると言う事

音楽パーツであり、常にメロディーを伴う以上、字脚を揃えるなんて事は当たり前の事であるが、これが、詩との大きな違いでもある。

(字脚とは何かと言う話はこちら→『曲に詞を乗せると言う事』)

 

◇曲に詞を乗せると言う事


そして、曲全体の構成にもしっかりと、はめ込む必要がある。

例えば、Aメロ、Bメロ、サビと言う構成の曲があったとして、詞の場合、この構成に必ず合致していなくてはならない。

一番言いたい事を、分かりやすい言葉でサビに持ってくる作りの曲は多いが、これは偶然でなく、意識してそう作られているのである。

ところが、詩の場合、言いたい事をどこに持って来ようがそんな事はまさに作者の自由である。

そして、歌詞の場合、言葉がBメロに収まりきれなかったので、サビの途中までまたいで語られるなんて事はまずない。

しかし、そんな構成による縛りがない詩の場合は、何行になろうとも、言いたい事を使いたい言葉で目一杯長い文章で表現する事もアリだし、また、敢えて、言わずに短くしてしまう事だって自由だ。

そして詞の場合、実際の話言葉のメロディーの跳躍とも大きな関わりがあって、それを無視した歌詞を書くと全く何を言ってるのか伝わらなくなる事も多い。

詩の場合も言うまでもなく、そこは気にしなくても、本来言葉が持つ響きを大切にするだけでいい。

そして、歌詞の場合、メロディーの上り下がりに従って、効果的に言葉を入れ替えるなんて手法は初歩の初歩で、つまりは、歌詞だけ読むと文法的なものは無茶苦茶になっていても問題はないし、基本的に文法は無視でいいのである。

体言止めを歌詞で多用していている場合、歌詞だけ読むと、昔の西部劇のインディアン(ネイティブアメリカン)やターザンの日本語吹き替えの喋りを彷彿とさせる様な文章になっている事も多い。

これでは、詩としては鑑賞に堪え難いものがあるが、メロディーに乗せると、不思議な事に、この無茶苦茶な文法の詞が急に映えてくるものなのだ。

結局、詞を書くのに、詩の様に読んでも鑑賞に耐え得る作品を書こうとすると、詞としても詩としても、問題が出て来る事が多く、詩を書くのに詞としても使える作品をなんて場合も同じ結果を生む場合が多い。

早い話が「詞」と「詩」は、全くの別物と言う事なのだ。


しかし、僕がいつも思うのは、音楽と常に一体である「詞(し)」の場合のその意味と別の読みは「詞(ことば)」であり、音楽とほぼ無縁の「詩(し)」の場合「詩(うた)」と言うのが、何とも皮肉で面白いと思ってしまいます。

これはやはり、メロディーがあってやっと命が吹き込まれる「詞」だからこそ、メロディーのない単体では単なる「ことば」であり、メロディーを必要としていない「詩」だからこそ、それ単体でリズムや言葉の響きを十分楽しめる「うた」として作られていると言う事なのだろうか?

そして、それに起因してこの字があてられているのかな?と想像しています。

結局、初心者や外国人にも理解出来る、詩の初歩のルールやセオリー

自由律の自由ってどこまで自由でいいのかと言う、その範囲。

そう言った事は、何一つ分からないままでしたが、調べた事をシェアして閉めたいと思います。

お粗末でしたが、以上です。

 

 

追記)

 

この記事を更に追究した続編にあたる記事を書きました。是非お読み下さい。(2018.3.3)

 

◇詩の定義、詩の欠片、詩的表現を更に追究してみた



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