安土城の築城に命を掛けた大工の話。

一見してその他の城とは明らかに違う安土城。その城主は言わずとしれた織田信長。
当然、それまでの築城とは全く違う意匠が取り入れられる。
それはつまり大工にしてみれば難題。
が、無理とは言えない。
そこに工夫が産まれる。


この信長と棟梁である岡部又左衛門のやり取りで私は信長に故ジョブズ氏を重ねました。
常人とは違う発想を突きつけ、大工は
如何にそれを形にするか試行錯誤する。
出来ないとは言えない。
どうしたら出来るかを言う。

戸建一つ建てるのに胃がせり上がる思いをしていた私から見ればそのやりとりはまさしく命のやりとりでしかありません。

昨今の建築はものによりけりだけれども、「安易」と言う言葉がよく似合う。一見、悪口の様だがそうではない。
昔は惜しんでいられなかった部分を機械化やシステム化が進んで行くことによって昔よりも技術が進歩してきたということに他ならない。

ただ、ある技術を開発した人間と扱う人間の温度が著しく隔たりがある事が問題なのだと思う。

その温度をまとめるのが本来は棟梁であり、建築家であるはずです。

しかし、歴史は深まり、進歩のスピードは速まり、人は変わらぬままそれらを吸収していかなければならない。

ならば、そのスピードに追いつけさえすれば建築の世界は良い方向に向かうのかと言えばそうではない。

物理的なスピードを超えるものを身につけるしかない。
それは結局、持って生まれた才能でも何でもなく一つ一つの自身の生き様を如何に徹底していくかということではないでしょうか?

岡部又左衛門と息子のやりとりを見ていると子供の育て方に正解はなくとも筋道だけは持たないといけないのかもしれないと思いました。

決して子供を褒めない。
良い仕事も認めない。
反抗的になる息子。
それを同じ土俵で抑え込む父。

けれど、息子は気が付く。気付かされる。自発的であったり、他人から言われたりしながら、己の未熟さを目の当たりにする。
けれど、蓄積された不満はそれで収まらない。
その繰り返しが精神に粘りを生むことになる。

親である覚悟とはかくあるべしかと肌が泡立ちました。

勿論、時代が変われば育て方も変わるでしょうが、芯のある人間の生き様というのは心に響くものがあります。


安土城と言えば有名も有名で、その結末もご存知の方が殆どかも知れません。

けれど、もし、知らない人がいたらWikipediaなどで表面をなぞるのではなく、この小説から立ち上ってくる安土城を想像してみるのも楽しいかもしれません。














iPhoneからの投稿火天の城 (文春文庫)/山本 兼一

¥620
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四人姉妹を中心に描かれる家族模様とでも言えば良いのでしょうか。

もともと、ドラマの脚本だけあって、この姉妹がしゃべるしゃべる。笑。

脚本を小説に直すと言うのは大変な作業でしょう。それが、向田邦子で、大人気ドラマともなればプレッシャーもひとしおだったのではと思います。
それを行った中野玲子氏に敬意を評しつつ思いついた事を。

場面が変わる箇所では読みにくさを感じるものの、そこはかなりドラマのスピード感を大切にされていたからでしょう。
兄弟喧嘩してたかと思えば、次の場面では旦那の浮気にやきもきしたり、また場面が変わり全く違う話になっていたりと、姉妹の起きゃべりのように、慌ただしく物語は展開して行きます。

人間臭いといってしまうと悪く無さそうなんですけど、これ、登場人物で歪な人がいないんですよね。

でも、そこに嫌悪感を抱くのかと言うとそうじゃない。
むしろ、親近感を感じる。
家族=ファミリーと言う響きにはどことなく温かいイメージがつきまといます。
でも、実際周りを見渡すとそんな暖かなだけの家族なんてどこにもなくて、きっとどこの家族も暖かなものだけでなく、目を伏せたくなるような現実に突き当たったり、こんな家族、家族じゃない。と感じたりしてるのではないかと思います。

そこを描いてしまった向田邦子という作家はなんとも挑戦的な作家だったのだと衝撃を受けました。

家族のあり方に決まりごとはない。
だから、歪だし、大変なんだという事を伝えたかったのかも知れません。

人間のそれ程深くない部分に、阿修羅はいる。その阿修羅ってのは激しく徹底的に残酷だったりもするけれど、
あの姿を見るとそれだけじゃないのかなと。姿形は違えども、とどのつまり人間なのかなと。

人間って、一言で言い表せないし誰もが他人からみた意外性みたいなものがあると思うんです。
そういう、ちぐはぐな部分をつなぎ合わせて出来たのが阿修羅なんじゃないでしょうか。

パッチワークのごとくじゃ様にならない。
でも、言いたい事は同じで、継ぎ接ぎだらけで彩られた一枚のタペストリーは不思議と魅力がある。
その魅力って誰もが知らないうちに作り上げていて、自然と個々の魅力になっている。
その部分をとても丁寧に描かれているから読む人に、人間愛みたいなすごく優しいテーマがある事を知らずに気づかせてしまうのではないでしょうか。

彼女達を取り巻く現実はそれこそドラマの様に目まぐるしく変わって行き、決して幸せな終わり方をするわけでもありませんが、読み終えた時の様々な感情が入り混じった安堵感は他に類を見ないのではないでしょうか。

調べて見ると、近年?映画化されていたみたいですね。
ドラマも観ていないですが、こちらも観てみたいです。

恐らく、演じられた阿修羅のごとくの方がイメージとしては鮮明に残るでしょう。
けれど、もしも、小説もドラマもまだだという方がいらっしゃったら私は迷わずこの小説からと勧めるでしょう。

それは私が考える俳優さん達への挑戦状でもあります。笑。





iPhoneからの投稿
欲張り過ぎ感はあるもののお見事!とそっと本を閉じました。

現在である取調室と当時を往き来し、次第に現代での登場人物が賑わってくる。つまり、盛り上がってくる。

不良高校生が真剣に考えた「ルパン作戦」、そして、当時時効を迎えた「三億円事件」、そして、タレコミがあったものの時効まじかの「女教師殺人事件」。

もしかすると、この著者は物凄く人物の登場に気を使っているのかもしれない。
あまりにも鮮やかに、適材適所と言った具合で姿を表し、事実が明るみになっていく。

そこに目を向けてしまうと鼻に付くかもしれないが、そんな事を考えるよりも早く続きが知りたくなる。

要所要所に散りばめられた、鈍感な読者でも気になる様な伏線の張り方には鈍感だからこそ、お見事と!膝を打つ事になる。

感の鋭い人ならば、すぐに気がつく様な事かもしれないけれど、その部分に差し掛かった時の興奮を考えると鈍感で良かったと思う。

今の所、ハズレが無いと言える作家の一人。どちらかと言うと短編集が多いような気がするけれど、一つの物語にもっと長く触れていたいと思うあまりなかなか短編集に手を出すのは躊躇してしまっています。

一度「動機」を読みましたが、はっきり言ってそんな心配は無用。ドラマの深さは決してページ数には関係無いのだと思い知らされました。

けど、短編集は今ある長編を納めた後にしようかと思います。







iPhoneからの投稿ルパンの消息 (光文社文庫)/横山 秀夫

¥740
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物語はさておき、
読んでいるのか、観ているのかわからないほど、
鮮明に情景が立ちあがってくる。

これが小説家の実力かと思い知らされた作品。

テーマとして、興味が惹かれるものではないし、
徐々に鮮明になっていく登場人物の背景も
私にとってはどうでもよかった。

美しい景色でもなければ、
心躍る話でもない。
車窓からの景色を眺めているのではなくて、
その場に押さえつけられているかのような印象を受けた。

観たくもないし、観なくてもいいけれど、
観る事を強要されている。

興味がなければ忘れてしまえばいいのに、
頭から離れない。

小説家がテーマと文章の対立を狙い、
自身の力量との対決なんじゃないかと思っている。

だから、この本では内容はある意味どうでもいい。
読まされてしまった読者は好き嫌い以前に
著者に力負けしてしまったという事なんだろう。

この著者のもう一冊も楽しみだ。


にしても、今日読んだ『ルパンの消息』は一気よみだったなぁ。



私の男 (文春文庫)/桜庭 一樹

¥680
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バラエティ番組で知った箱男。
その企画の元となった小説。

特別観ていたわけではないので、企画の趣旨も内容もそれ程覚えてはいませんが、人間が箱の中に入って人と交流していく様は衝撃的でした。

その衝撃をもっとしっかりと受け止めてみるか、という事で読んでみると正直面白くは無かった。

面白くないから読む必要がないと言うとそうじゃない。
読んだ方が良いし、その結果時間の無駄だと思ったとしても、日本文学のある種の最先端に触れたというのはそれだけで意味があることだと思います。

あらすじの部分にも書かれているようにこの本は実験的小説らしいんですね。

あらすじを読む限りは、箱男という特殊な存在とそれに関わる人々のドラマかと思っていたのですが、全く違います。

これを読んでいる最中、ジョンケージや一柳慧の音楽を思い出しました。
音楽自体は不可解な部分があるのですが、その音楽の作り方を知ると不思議な感銘を受け、その上で聴くと違った印象を抱かざるを得ない。

ジョンケージで言えば、有名な4分33秒。
これについて説明するつもりはないのですが、「言葉で語りうる音楽」とでも言いましょうか、良く切れる刀は切られた事に気付かないと言われる事に似ています。

私は不幸?にも思想を知ってからそれに触れたので想像していた以上の感情を抱きはしなかったのですが、それでも、脳内で想像するといつでも常に新鮮な状態で情景が浮かびます。

ここまで読まれて、全く何を言っているか分からない方もいらっしゃるでしょうが、箱男もまたしかりで、切られている事に気付かない種の芸術作品だと思います。

この作品の解釈と言うのは様々でしょうし、私は面白くないと思った以上に「なんだこれは!」と足下が揺らぐ様な感覚にとらわれています。

箱男と言う存在が、街角に積まれたダンボールの様に無個性な状態でありながらも、他者はそれを許せない。
他者は人間に対しては個性を無意識ながらも要求しています。

箱男が望む箱男としての存在を他者は望まず、箱男の唯一の個性は箱の中に入った瞬間から観るものすべてが覗くと言う行為に変換される事にあると思います。

他者もそれを分かるからこそ、箱の中から見える箱男の目に、ただ単に歩いているだけなのに覗かれていると言う受け身になってしまう。

というのはあくまでもさわりの解釈でしかありません。
恐らく、そこに、書き手と読み手、主人公と登場人物の関係が曖昧になっていき、そこに産まれる解釈出来ない空白を明瞭にしていっているような気がします。

ただ、明瞭と言っても一面に落書きされた画用紙の様に「他に比べれば」という程度でしかありません。

だから、白黒はっきりとした物語ではないし、読んで面白いとは言えません。
けれど、後ろ髪を引かれる。

何だったんだろう?
どういう意味なんだろう?

疑問は疑問としてそのままの形で残る。
その形こそがこの小説の完成なのではないかと今のところは思っています。

つまり、読むという行為に要求している読者の欲求は物語を理解するという形では解消されない。
読者の存在意義と言うものを尊重するのではなく、むしろ否定する事で読書というものの持つ可能性を大幅に拡げた本ではないでしょうか。



この本が様々な国で翻訳され、今もまだ版を重ねると言う事から考えてみても、この本がこの種の始まりなのかも知れません。













iPhoneからの投稿箱男 (新潮文庫)/安部 公房

¥460
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BGMはアリスのチャンピオンではない。

そんなに耳触りの良い話ではない。
濃縮されたボクサーの汗の一滴。
それを舐めるかのような小説。

多少読みにくい部分、鼻に付く文章だが、そこに著者の企みを感じるのは私だけではないだろう。

そこを超えたら後はテレビを観ているように気楽に、試合を観ているかのように臨場感を味わう事になる。


一つ、騙された!!と思ったのは、本の構成。
題名の長編と中編が二作入っている。

つまり、残りのページ数から推測し得る部分までは語られない。

そういう話ではないから、物足りなさは感じない。
けれど、念の為、この長編が何ページあたりで終わるのかは事前に知って置いた方が良いだろう。

この勢いで、この著者の残りの作品をこなせるか?
ちょっと挑戦してみよう。





iPhoneからの投稿汝ふたたび故郷へ帰れず (小学館文庫)/飯嶋 和一

¥620
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この著者を知ったのは亡くなってからだった。

彼女の著作を読むたびにその豪快さと繊細さと軽妙な語り口に
魅了されてきた。

ロシアという全く知識のない国の思いもよらない事を
ぐっと身近に感じさせてくれる。

通訳という仕事を通して、見えてくる世界。
その世界は思って以上に広大で膨大だ。

私にしてみればほぼ五里霧中状態。
日常会話程度の通訳ならばまだ分かる。

けれど、これが専門家の集まる会議であったり、
政治家同士の会談であったりすると話が違ってくる。

専門用語に、心理戦、ただ通訳するだけならまだしも、
他国のユーモアのニュアンスを自国のニュアンスに直さなければならない。

私はその様を読んでいて、『瞬発力の戦争』だと思った。

通訳とはその一言一言に命を削っているかのようにすら思える。


けれど、私のそんな心配をよそに、面白可笑しい体験談や逸話を
惜しげもなく披露してくれる。

何となく選んだ通訳と言う職業が好きでたまらない。戦々恐々とする事も多々あるにしろ、やはり、何であろうと好きなものには限らない。
そんな愛に裏打ちされたエピソードだからこそ読者は、他人事の様に一喜一憂する事ができる。

この人だから自分の感情を預けてしまって構わない安心感。
女性である著者を称して「巨人」というのは些か気が引けるが、その懐の深さと見識の深さを目の当たりにすると、そう思わざるをえない。

それにしても彼女の言う三大鳥肉料理の一つ、グルジアのタバカ焼きなるものは本当に美味しそう。

仮にロシア周辺諸国を旅する際には携帯したい本の一つである。
他は?と問われて出てくる本は今のところない。


ロシアは今日も荒れ模様 (講談社文庫)/米原 万里

¥520
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現在米原万里と並行して読んでいるのがこれ。

読み始めたのは後なのに残すところ数ページ。
ページをめくるのが惜しい。そんな一冊。

その惜しいという感情を噛み砕けば、
小さな頃の夕日が告げるその日の終わりに似ている気がする。

まだまだ遊びは尽きない。
次に何をしようか。
でも、暗くなってきたね。
僕は帰るね。
あたしはもう少し。
俺もまだ遊ぶ。

夕暮れの薄明かりが午後の光を隅に追いやる。

周りの景色も
歩く人も
音も変わって

それでも遊びたいけれど、
今日はバイバイ
また明日。



彼が見つめるのは自分の好きなもの。
好きだからこそ柔らかく語ることができる。

神社の賽銭箱に書かれた文字に惹かれ、
仙厓の洒脱な書と画にほころび、
自身が拾ってきた石に彫られた『土』の文字を優しく見つめる。

私自身、莫山先生のことは昔見たテレビCMでしか知らなかったが、
爆発したような髪型に、歯の抜けた口で大きく笑う。
その酒はさもうまかろうと思わずにはいられなかった。

先ほどWikipediaで調べてみたところ、
どうやら酒は一滴も飲めなかったらしい。

なんとも肩すかしなCMだったが、
それでも、あのCMの莫山先生は大酒飲みだろう。笑。

彼は上手い下手ではなくて、
その人自身がにじみ出ているような書が好きらしい。
ツルッとした玉のような文字ではなくて、
百姓が苦労して書いた直訴状、
野口英世の母が書いた息子への手紙、
ありとあらゆる文字にその都度何らかの印象を受けている。

そう考えてみると、
文字の優劣なんて書の世界を除けば、
読みやすい位しか考えたことはないし、
自身の軟弱な文字は『汚い』『雑』という程度でしか見たことはない。

けれど、こんな私の文字でももしかしたら、
私が抱く以上のものを感じ取ってくれるのかもしれない。

と妄想する。

続けると、

『豪快だけど抜けてる所が良い』とか

『全くもって日本語とは想像もつかなかったけれど、
まるで海外の言葉を理解できたみたいで清々しい』とか

『まるで価値は見いだせないけれど私は好き』とか。

最後の文はどうだろう?
私は自分の字が好きだろうか?
上手に書かれた自分の字が好きだろうか?

そうでもないような気がする。

ここで話は『音痴』へ。

私は『音痴』が好きだと公言している。
自分自身は?と聞かれれば『普通』
おだて混じりにほめられることもある。

けれど、上手く歌える事が楽しいのではなくて、
気持ちよく歌えることが楽しいだけ。

音痴の人は恥ずかしがって歌を歌わない。
けれど、私はなまじっか歌手の真似した歌を聴きたいわけでもないし、
歌手の歌が聴きたいわけでもない。

その人が歌う歌を聴きたいだけなのだ。
そこに音痴もセンスも何もない。
ただ、気持ちよさが漂うだけ。

先日見つけたYouTubeではラジオのレポーターが
音痴で有名らしくひとつのコーナーとして歌を歌っていた。

音を外すたびにパーソナリティやゲストは笑うが、
本来は笑うのではなくて微笑むべきことなのにと思ってしまう。

逆に言えば素人のうまい歌なんてそこそこしか上手くない。
だから、音痴と言われる人の歌には人まねでは到達できない
純然たる個性があると私は思っている。


が、ここで自分の文字に戻るとそうも言えない。
何かの代筆を頼まれても下手だからと辞退する。
サインも綺麗にかけないものだからアルファベットでごまかしたりする。

人の音痴に自信を持ってなどと言える立場でないことが
ようやく分かった。

しかし、私は音痴と言われる人の歌がやはり好きだ。
ならば、私も文字を晒そう。

下手くそと言われるだろうけれど、
その時は、
人の思いも寄らない表現でまるで素晴らしいかのような錯覚を抱かせてみよう。




最後に
本書には『花柳有洸』という名の舞踏家が取り上げられる。
彼女が踊る姿の背景に莫山先生の書が舞う。
私はこの見事な写真を見るためにこの本に出会ったと言っても良いほど
見るこちらの心が気持ちのいいステップを踏んだ。




莫山つれづれ (新潮文庫)/榊 莫山

¥420
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結論から言えば、水だろう。

前の日に食べたもので辛いものはなかったし、日にちの経っているものはなかった。

起き抜けに飲むことにしている炭酸水。

近頃は寒くて、一度で500mlを飲めないことも。

いつからそこにあったのかは定かではないが、
おそらくその気の抜けた炭酸水が私の腹に悪さをしたのだろう。


土曜日は近場のヨガ教室に行けなかったので、日曜日にやっているところを探す。
今回は無茶にも午前中の教室を探した。

たいてい遅刻するのでなるべく避けていたのだが、
森美術館で催されている『メタボリズム展』の最終日だったので、
午後を目一杯使って鑑賞するつもりだったからだ。

なんとなく探していたら、以前一度だけ外ヨガに参加させていただいた教室
でまだ空きがあるらしい。

ツイッターでたまたま目についた『空き 2』の文字。
限定品に弱い人間がいるように、残りの少なさに弱い人間もいる。

と言っても、だいたいいつもこの教室は満員だから
どんなもんかと興味もあった。

が、教室の内容を確認すると、
『ヨガ+瞑想』とある。

瞑想かぁ~と凝った肩を回しながら呟くもここ最近特にひどい。
少しでものびのびとヨガに触れたかったし、瞑想もちゃんとやったことはない。

これはこれで面白いだろうと。

さて、当日。

教室に着くと、
ぎりぎりというか始まっていて、

先生の話を中断させてしまって申し訳ないな~と思いながらも、
ポーズを重ねていく。

ズキンと音が鳴るように、
腹から衝撃が走る。

万が一このタイミングで、
『あっ、ここはもーすこし』とか
どこかの部位をぐっと押されたらと考えると恐ろしい。

その痛みもしばらくすると引いていく。

しかし、私は知っている。
この種の痛みは繰り返すと。

ポーズも終わり、
何度目かの腹痛も収まり、
さぁ、瞑想だ。

瞑想になれば胃腸に負担をかける心配もない。
安心だな。

と思ったものの、
動いていない分、痛み始まると逃す場所がない。

前方では先生が、
『音を・・・・、意識を・・・・呼吸を・・・』と
穏やかな口調で説明している。

この穏やかな雰囲気に自身の体を持っていこうとする。

『客観的に~』と先生は続けている。

そうか、客観的だ。

とわらにもすがる思いで、

痛みを客観的にみようとする。

あーいたいなー。でも、この痛みなんてただ痛いだけなんだ!!

・・・・・そ~~~~~なんだよ、痛いんだよ!!

痛い痛い。

いや、痛さは我慢できる。

痛みだけなら耐えられる。

が、既に選択肢は二択に絞られた。

ひとつはトイレに行くか。

もう一つは漏らすかだ。


いやいや、その選択肢はないだろう!
さすがに初めて来た教室で、
遅刻して、
その上もらしましたじゃ、

笑ってもごまかせない。

成人した男性が衆人環視のなかで漏らすという行為を考えてみると、
やってはいけないことbest10の中に入ってくるほど非人道的なのではないだろうか。

仮に、と痛みが引いたところで考える。

先生の話が終わり、また、各々が静かな世界に没入にしていく。
この静けさの中では身動ぎする音すらセミの声に似ている。

仮にここで奇跡が起こり痛みが嘘みたいに引いたとしよう。
しかし、この痛みは繰り返す。
元凶となるべきものを出さなければ解決しない。
あと何分かはしらないが、
15分だとして、15分もったとしよう。
着替えて、なんやらかんやらで20分。

その間に他の人にトイレに駆け込まれたとしたらどうだろうか?
これが終わったらトイレに駆け込むことを考えている自分にとっては
想像するだけで恐ろしい。

緊張の糸が切れる。
つまり、漏らす。

よし。と覚悟を決めた。

他人の静寂を守ることよりも、
自身の腹の心配をしよう。

腹をさすり、顔を上げると、
先生と目があった。

すぐさまトイレの電気を着けていただき、
『ここは聖地か?』と安楽の境地にたどり着く。

さっぱりした様子で出て行くと既に瞑想は終わっていた。

こんな散々な瞑想にもならない瞑想だったが、
ひとつだけ、面白かった事がある。

腹をアイスピックで刺されるような痛みは
徐々に激しくなり、ピークへたどり着くと一気に引いていく。

この時、痛みがあったことで緊張していた部分が一気に脱力していくのだ。
自分でも意識していない細かい部分まで力が抜けていくのがわかる。
その痛みがなくなった状態では今まで痛みに意識が抜いていた分、
意識を向ける場所の喪失によって、浮遊する。
どこにあるとか何を感じているとか何を考えているかとかが数瞬
霧散していく。

あ~脱力してるね~。きもちいね~と思っている自分とは
違う部分で体全体意識全体を見渡しているといった感じだろうか。

けれど、霧散した状態は長くは続かない。
すぐに痛みによってそこに意識が集中することになる。

結果として得るべきものがあったが今日は常に腹痛に悩まされていたような気がする。


そういえば、
帰り際の会話で先生が、
私が以前参加したことのある教室の先生を知っていた。

面白い。

あっ、そういや、あの先生年末だかにネパール行ってきたとかいう
羨ましいブログ書いてたな。

いいなぁ。
あ~~旅して~~~~~。

詩歌の待ち伏せに会った著者の回顧録とでも言えば良いのでしょうか?

一体、どんな詩歌に待ち伏せされたのか?それから読者は何を読み取るのでしょうか?

静けさや…で始まる有名な句。あの蝉は果たして一匹なのか?それとも多数なのか?
言われてみると先生に教わった記憶がない。
まぁ、多々教わった記憶がないのですから、当時の担任に伝わったら何を言われるか分かりません。
しかし、こういった句と言うのは教わるより先に読んでしまうし、何処かで聞いていたりもします。

私の場合、多数派でした。
けれど、定説となりつつあるのは一匹らしい。
すると、いくら説明されたところで腑に落ちない。
腑に落ちなければ、記憶にはとどまらない。

と、言う事で記憶からすっぽり抜けているのかもしれません。

けれど、大事なのは、芭蕉の伝えたかった事を正確にトレースする事よりも、自身が描いた情景ではないでしょうか?

経験によっては一匹の蝉が懸命に鳴く音ことで背景の静寂が強調され、微動だにしない岩に蝉の声がしみていくという様を思い浮かべるかも知れないが、多数の蝉が鳴く事で、静寂を意識し…と同じ様に解釈できます。

受験では国語は論理力を試されているのでしょうが、経験から導き出された答えは他人にとっては全く論理的ではありません。
それが正解か不正解かと言われれば、少し今の国語の問題と言うのも偏りがある様な気がします。

ここに出てくる詩歌で知っているのはごくわずかでした。
けれど、著者の鮮やかな手腕によって次へ次へと読まされて行きます。

引用したい文章ばかりなので挙げれば切りがありませんが、一つだけ。この読後感は感情の名前では説明出来ないなと。それを切り取るからこその詩人なのか!と感嘆してしまいました。

一握の砂で有名な石川啄木より。

ある朝の
さみしき夢のさめぎはに
鼻に入り来し
味噌を煮る香よ




詩歌の待ち伏せ〈1〉 (文春文庫)/北村 薫

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