現在米原万里と並行して読んでいるのがこれ。

読み始めたのは後なのに残すところ数ページ。
ページをめくるのが惜しい。そんな一冊。

その惜しいという感情を噛み砕けば、
小さな頃の夕日が告げるその日の終わりに似ている気がする。

まだまだ遊びは尽きない。
次に何をしようか。
でも、暗くなってきたね。
僕は帰るね。
あたしはもう少し。
俺もまだ遊ぶ。

夕暮れの薄明かりが午後の光を隅に追いやる。

周りの景色も
歩く人も
音も変わって

それでも遊びたいけれど、
今日はバイバイ
また明日。



彼が見つめるのは自分の好きなもの。
好きだからこそ柔らかく語ることができる。

神社の賽銭箱に書かれた文字に惹かれ、
仙厓の洒脱な書と画にほころび、
自身が拾ってきた石に彫られた『土』の文字を優しく見つめる。

私自身、莫山先生のことは昔見たテレビCMでしか知らなかったが、
爆発したような髪型に、歯の抜けた口で大きく笑う。
その酒はさもうまかろうと思わずにはいられなかった。

先ほどWikipediaで調べてみたところ、
どうやら酒は一滴も飲めなかったらしい。

なんとも肩すかしなCMだったが、
それでも、あのCMの莫山先生は大酒飲みだろう。笑。

彼は上手い下手ではなくて、
その人自身がにじみ出ているような書が好きらしい。
ツルッとした玉のような文字ではなくて、
百姓が苦労して書いた直訴状、
野口英世の母が書いた息子への手紙、
ありとあらゆる文字にその都度何らかの印象を受けている。

そう考えてみると、
文字の優劣なんて書の世界を除けば、
読みやすい位しか考えたことはないし、
自身の軟弱な文字は『汚い』『雑』という程度でしか見たことはない。

けれど、こんな私の文字でももしかしたら、
私が抱く以上のものを感じ取ってくれるのかもしれない。

と妄想する。

続けると、

『豪快だけど抜けてる所が良い』とか

『全くもって日本語とは想像もつかなかったけれど、
まるで海外の言葉を理解できたみたいで清々しい』とか

『まるで価値は見いだせないけれど私は好き』とか。

最後の文はどうだろう?
私は自分の字が好きだろうか?
上手に書かれた自分の字が好きだろうか?

そうでもないような気がする。

ここで話は『音痴』へ。

私は『音痴』が好きだと公言している。
自分自身は?と聞かれれば『普通』
おだて混じりにほめられることもある。

けれど、上手く歌える事が楽しいのではなくて、
気持ちよく歌えることが楽しいだけ。

音痴の人は恥ずかしがって歌を歌わない。
けれど、私はなまじっか歌手の真似した歌を聴きたいわけでもないし、
歌手の歌が聴きたいわけでもない。

その人が歌う歌を聴きたいだけなのだ。
そこに音痴もセンスも何もない。
ただ、気持ちよさが漂うだけ。

先日見つけたYouTubeではラジオのレポーターが
音痴で有名らしくひとつのコーナーとして歌を歌っていた。

音を外すたびにパーソナリティやゲストは笑うが、
本来は笑うのではなくて微笑むべきことなのにと思ってしまう。

逆に言えば素人のうまい歌なんてそこそこしか上手くない。
だから、音痴と言われる人の歌には人まねでは到達できない
純然たる個性があると私は思っている。


が、ここで自分の文字に戻るとそうも言えない。
何かの代筆を頼まれても下手だからと辞退する。
サインも綺麗にかけないものだからアルファベットでごまかしたりする。

人の音痴に自信を持ってなどと言える立場でないことが
ようやく分かった。

しかし、私は音痴と言われる人の歌がやはり好きだ。
ならば、私も文字を晒そう。

下手くそと言われるだろうけれど、
その時は、
人の思いも寄らない表現でまるで素晴らしいかのような錯覚を抱かせてみよう。




最後に
本書には『花柳有洸』という名の舞踏家が取り上げられる。
彼女が踊る姿の背景に莫山先生の書が舞う。
私はこの見事な写真を見るためにこの本に出会ったと言っても良いほど
見るこちらの心が気持ちのいいステップを踏んだ。




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