なんて気持ちの良い小説なんだろう。

きっと走る事に純粋だからだろう。

主人公の座右の銘、「一つ一つ」。
焦りたい気持ちはある。次を考えて8割程度で抑える作戦もある。
けれど、彼は一つ一つを全力で走れるよう練習に励み、結果、試合での一本一本を走る度に飛躍的に成長して行く。

本作ではそういった地道とも言える積み重ねの上にリレーがある。

個人種目でも白熱するが、リレーには勝らない。
終盤の試合では、主人公の目線と自分とが一つになる。

心拍数は上がり、視野が狭くなる、隣のレーンからくる圧力を感じ、やがて、白線を越える。

今まで、小説として読んでいた物語が、自身と重なる。
勿論、最初から主人公を自分に重ねる人もいるだろうが、仮にこの終盤で主人公と読者の一体化を意図的に行っていたとしたら、鳥肌ものだ。

推理小説でも犯人がわかってしまうよりもわからない方が面白い。どんでん返しが鮮明であればあるほど、それまでの気持ちがリセットされた上で、構築し直し、驚きを新たにする。

これは推理小説ではないけれど、染み込んできた文章と情景が、より鮮明な色彩を帯びて、風を伴った小説体験として露わになる。

その風があまりにも心地よかったから、気持ちの良い小説だと思ったわけではない。むしろ、それは主人公の生き様にある。

ただし、ここではあまり言葉を費やすのは辞めておこう。

最後に思うのは、
果たして、この題名、誰の為なのか?

読者に向けられている言葉だとしたら…と考えるのは穿ち過ぎだろうか?笑。







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スポーツの事はよくわからないが、徒競走は最も原始的なスポーツだと思っている。

競技以外でもこれほど日常に結びついているスポーツは他に見当たらない。

私で言えば会社に遅刻しそうな時、朝寝坊した時、ヨガのクラスに遅れそうな時、または失恋した時だ。

実際、失恋しても走る事はない。ただ、無性に走りたくなる衝動が沸き起こる。
ひたすらとことん走る。
けれど、膝にきたり、体力がなかったり、コンビニがあったり、綺麗な女性を見かけたりすると途端に走る事の呪縛からは開放される。

振り返れば、たかだか500メートル。
見慣れた景色は見慣れたままで、自分だけが息も切れ切れにいつもと違う。

衝動をありのままに放出した結果は冴えた頭と覚めた思考で衝動を振り切ったのかわからないまま力尽きる。

その後は缶コーヒーでも飲んで、タバコを吸って、苦笑いでもしながら彼女の事を考えるのかもしれない。

けれど、きっとこの本に出てくる登場人物たちは違う。

きっと、走り切る。それで衝動が消えるかはわからないが、遅刻は免れるだろう。

走る姿はただそれだけで絵になる。

そうじゃない。まだまだだ、と彼らは言うかもしれない。
しかし、そこには、型と自由が混在したスタイルがある。

そこに見るのは美しさだろう。
単純な早さに目を奪われ、タイムに一喜一憂し、瞬発的なドラマが繰り広げられる。
私が走ったところで案山子が風に揺られている程度の感想しか抱かないだろうが、彼らは違う。

何が違うのか。
命を賭けていると言うとこの物語とはかけ離れてしまうように思える。

では、何かと言われれば、

汗と食事と恋とライバルと事件と…まぁ、要するに青春そのもの。



1.2巻を読んで、サブタイトル通りに、
「イチニツイテ」
「ヨーイ」
と準備は出来た。

そして、読み手は物語のレースさながらに空砲を待つ。
スタートを切るのは果たして物語の続きか熱に浮かされた読者か。

とにかく私はフライング気味に耳を澄ませる。








一瞬の風になれ 第一部 -イチニツイテ- (講談社文庫)/佐藤 多佳子

¥520
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一瞬の風になれ 第二部 -ヨウイ- (講談社文庫)/佐藤 多佳子

¥580
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2011年締めを飾った一作。

良くも悪くも目に付く感想に力があったので、
面白そうだと思って読んでみた。


ストーリを追うことで全体が見渡せるようになってくるのが
小説のひとつの魅力であることは言うまでもない。

この作品にあるのはそれだけだと言ってもいいかもしれない。

目を覆いたくなるほど凄惨な場面が脳裏に焼き付き、
その空気が作品全体に充満している。

息子の失踪から始まるこの物語ではからりと乾いた太陽の匂いはしない。

それで嫌な気持ちになる人も多いだろう。

けれど、嫌な気持ちになってしまうにはこの小説は惜しい。

物語が面白いのではなくて、
物語を紡いでいるその方法そのものが面白いのだと思う。

と言っても、別に難しい読み方を期待されているのではなくて、
ただ読んでいるうちになぜだか引き込まれていく。

内容に心痛める場面が出てきたとしても、
それはスパイスでしかない。

そこに狡猾な著者の罠がある気がする。

解説にも書かれているが、
最後のシーンの解釈だけは私は同意ができなかった。

その部分での解釈をどうするか、
それこそがこの著者が問いかけたかった部分なのかもしれない。

パラパラとめくっていて思ったのが、
この本の表紙。
古い?ダサい?
いや、違う。
多分・・・・・。


そう思うと、すごいなっておもう。



九月が永遠に続けば (新潮文庫)/沼田 まほかる

¥660
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送られてきた一枚の写真。

夜釣りの成果。

一面の黒に写真のフラッシュが反射して光る銀色。

そこに食材の鮮度なのか、
生命の輝きなのか、
純度の高いエネルギーを感じる。

だが、しかし、銀は金属を連想し、金属は生命の極北を連想させる。

陸上の生物で銀色の生物は
私が知る限り、
「ルリマダラ」の蛹だけだ。

銀色といったが、正確には鏡面。
擬態が周りの風景に溶け込むというのなら、
鏡面は周りの景色を反射することで同化する。

捕食者が近づけば、
その曲面に突然現れたゆがんだ自身の姿に驚くこともあるかもしれない。

一種の理想的な擬態だと思うが、
周りを見渡してみても主要な擬態方法とは言えないらしい。

つまりは陸上ではほぼ例外的なものとして生物の銀色は
存在している。


身近な動物、犬や猫、雀やカラスが銀色だったとしたら、
その姿に強烈な違和感を感じる事だろう。

けれど、魚には感じない。
金属らしさの片鱗すら。

その写真を見る限り、
その銀色は金属的な表現を拒絶している。

日本刀的な美しさで表現しようとすれば、鋭過ぎ、
光の加減で表現しようとすれば、生命力が薄まる。

陸上で見かける銀色と海の生物だと認識した銀色とでは
同じ言葉で表現しているけれど、
表現しようとしているものが違うのだ。

なんのことはない。
この写真を見て、『銀色』と表現してしまった事が
一人表現方法の迷路に迷い込んでしまった一番の原因だ。

しかし、ではそもそも
生命力を感じたこの写真はただの『思い込み』なのだろうか?

カメラ付き携帯のメールというリアルタイムなツール。
そこから発信されたが故の鮮度を、
被写体の生命力と捉えたのだろうか?

良く目を見れば、
スーパーで売られている魚とは全く違うことがわかる。

暗闇との対比からか
光の反射がよりニシンの姿に活きの良さを与えたのだろうか。

そもそも、私が言う活きの良さ、鮮度、生命力というのは
なんだろう?

それを知っている前提でここまで書いてきたが、
それらを感じることはそれらを知っていると言える。

しかし、それらを知覚している器官がどこなのかは
判然としない。

見てそうだと思うということは、
脳が知っている事になる。
けれど、その時私は写真にある背景を
触覚で気温を、目で形を、耳で波の音を、感じているのではないだろうか。


その記憶が幼少期にさかのぼるのか、
はてさて、
プラトンが説いたイデアなるものなのか。

それともたまたま自分が描いたそういった生命感と
この写真が一致したのか。

だが、この話、要は美しさの定義は人それぞれという
あの落としどころに収まるべき話なのかもしれない。


どんな食材だろうと
一番初めに口にした人間を尊敬する。

彼が食べ、抱いた感想がDNAとして、
連綿と受け継がれているというのも
考えてみると面白そうだ。

けれど、彼が食べたその一口を今の私が想像することは
それほど容易なことではないような気がする。

しかし、想像は止まらない。

今、私の中のニシンは
表面の皮が弾け、飛び散った油が火元に落ちた。
ヒレは適度な焦げを通り越して炭化し始めて、
火の勢いが強くなる。

片手にはビールか日本酒。

さて、思い込みだろうが、なんだろうが、
今からの一口に舌鼓を打たないはずはない。



終-アーキテクツのブログ-ニシン
QEDシリーズのスピンオフ作品。
主人公はタイトルそのまま、毒草師。

なんだかファンタジーを読んでいるようで、自分としてはイマイチ。

このシリーズの良さがまだわかっていないのでしょう。
と言うのも、歴史話が少なく、おお!と思う事もあまりないんです。

推理小説の体裁ですが、その謎解きも首をひねらざるを得ません。

千利休の話、毒の話、興味深いテーマであるものの、主人公が寡黙過ぎるためか、ワトソン役のキャラクターが脇役っぽすぎるのか、乗りどころが見つけにくい。


やはり、聞き慣れない言葉や知らない単語を調べた時に造語なのかもと思ってしまうと、感想が180度変わってしまいますね。

もう少し調べて見て、面白い事実が見つかったら追記でもします。

今年もあとわずか。
何冊読めるかな。


毒草師 白蛇の洗礼 (講談社ノベルス)/高田 崇史

¥924
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積読本崩し。

デザインに関して広くて浅いエッセイ。

こんなのもあったんだ。とさらりと知識の隙間を埋めて行くような読感。

鼻に付くのは、日本のデザインが世界に与えた影響を述べる部分だ。

事実を超えて、研究者を超えて、一個人の意見にまで霧散しているかのように思えた。

勿論、そうでないところもある。
だから余計に、統一感のなさに著者の色を感じることができなかった。

面白い、面白くないで言えば、面白くない。でも、わかりやすい。でも、浅い。

デザインの概略の概略を一掴みして、そこからさらに枝葉を伸ばして行くような読み方に適しているように思える。

けれど、
デザインの世界で生きている人間が知識から入るとは考えにくい。
ましてや、学生なら尚更だ。

ただし、この程度は一般教養として持っておくのは決して損ではないだろう。





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人は知らないことがあると何をするか?
…検索する。

インターネットが完全に情報の主流になり、知りたい事はすぐに調べられる。
調べた結果についての信憑性については何とも言えない。
嘘ばかりとは思えないし、本当の事だけとも限らない。
そこを見極める方法はさらに検索していくしかない。
けれど、行き詰まる。

それは資料がないだけかもしれないし、ネット上にないだけかもしれない。さらに言えば、その検索ワード自体が虚構である可能性もある。

それはネットだけに言える事ではないけれど、その傾向が顕著である事は間違いないだろう。

主人公は自問する。勇気はあるか?と。
検索から監視された世界の外側をのぞく事は隠されているが故にリスクがある。そのリスクは想像もつかない。
真っ暗闇の中で歩き出す勇気はあるのか?と。

そして、踏み込んだ先にある事実と認められるものを手に入れる。

しかし…。

と物語は進む。

前作「魔王」を読んでいなくても、充分楽しめる作品だけど、読んでいればもう少し楽しめるといった程度。

たまたまかもしれないが、オーファーザーに続いてこの作品でも女性の影が色濃い。
主人公を食うほどに個性的だ。
その個性の出し方に最も伊坂幸太郎らしさを感じたのは私だけではないはずだ。

ふと、思い出した。
昔、人は言語でコミュニケーションを取れていると勘違いしていると思いついた時期があった。
私がAと言ったはずの言葉はBと介錯され、相手からのBは私にはAと聞こえる。
つまり、永遠に理解しあえないまま、会話はなりたち、違和感を覚える事もない。そこからはみ出そうとすることは私は私である事をやめなければならない。

事実とか現実と言われるものは、安易に使えるほどに自由度の高い単語ではないはずなのに、吐き捨てるくらい簡単に使われる。
本当にそれが事実なのか、現実なのか、そこから先に行こうとする人は稀だ。

今、こうして、書いている文章ももしかしたらノーベル賞ものの名文と思う人がいるかもしれない。
けれど、ほかの誰かには神経を逆なでする誹謗中傷かもしれない。

だから、こうして、文章を放る事,言葉として外側に出す事には覚悟がいる。

外側に出した時点から言葉は無形化する。その不安定な状態、誤解されうる意味を時には端的に、時には外堀を埋めるように焦点を絞っていかなければならない。

伝わらない、分からないと相手に言わせる事はコミュニケーションに於いて怠惰と言わざるを得ない。

つまり、それが慣習にしろ、誤解にしろ、今が成り立っていると言うのは殆ど奇跡だと言って良いのではないだろうか?

大きく、派手な物事はわかりやすく単純だ。
けれど、自己の内側が裏返るくらい内部から外へと向かう力は繊細で頼りない。
そして、その繊細さを繊細さたらしめているのは外部からの情報によるところが大きい。

今はまだ、選択する自由はある。
あるのだと思う。
情報を見極めるにはより多くの情報を取り込まなければならない。しかし、取り込んでいる間に横道に逸れるかもしれない。

横道にそれれば、信じてきた事が瓦解する出来事に出会うかもしれないし、出会わないかもしれない。
だからといって、情報を遮断することは容易ではない。

だから、調べる際には勇気がいる。
選択するには勇気がいる。
言葉にするにも勇気がいる。
…はずだ。

その為には信じるしかない。
何を?
自分を。
伴侶を。

そして、この物語にはヒントはないにしろ、最小の集合である家族を信じる事が一貫して描かれている。

不安定な世の中になった際、頼りになるのは国でも、政治家でも、会社でもない。
家族だ。

だから、解説とは解釈が変わるが私にとっての物語はやはり「魔王」で描かれた無防備な家族の繋がりであるのではないかと思う。







モダンタイムス(上) (講談社文庫)/伊坂 幸太郎

¥590
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モダンタイムス(下) (講談社文庫)/伊坂 幸太郎

¥690
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『モダンタイムス』手に入れたついでに前作に当たる『魔王』を読み返してみる事に。

一番と言うほどではないにしても、
大好きな作品の一つです。

ただこの作品、完全に娯楽として楽しんでいます。

小難しい事は考えないで、
読後感にも惑わされずに振り返れば、
時間が『いつのまにか』過ぎてしまっている。

その点で私はこの作品が大好きです。

そして、続く『呼吸』
『魔王』にて窒息しそうな息苦しさを覚えたあとに
肺に目一杯空気を取り込むそんな作品です。

比べるべくもなく、
そして、この二編を経ての『モダンタイムス』に自然と
胸が高鳴ります。

この作品に宮沢賢二の詩が出てくるのですが、
その使い方が素晴らしくて私の気持ちもぐらぐらきてしまいました。



さて、今年も残り僅か。
少しだけ貯め込んでしまった読書感想を
出来るだけ新鮮なうちに放出していきたいと思います。

寒さが身にしみてくるようになりました。
でも、この鋭い寒さの中深呼吸する事はとても気持ちが良いものです。

昨日のヨガで体がピキピキと音を立てるかのよう。
いつの間にか一年以上続けている事実に我ながら驚きを隠せません。

今年を一言で言うのはまだ早いかもしれませんが、
『円形脱毛症』の年だったという感想は恐らく変わらない事でしょう。笑。





魔王 (講談社文庫)/伊坂 幸太郎

¥650
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そして、漫画版の魔王。
これはこれで面白い。色んな伊坂作品がミックスされていて、
結構好きです。



魔王 1―JUVENILE REMIX (少年サンデーコミックス)/伊坂 幸太郎

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pana関係の人の話を聞くと、松下幸之助に対しての崇拝を感じ、
余り聞く事のなくなった愛社精神というものを見せつけられる気がする。

それはとても良い事だし、別段宗教じみているわけでもないから
一体どういった仕組みでそういう人物を育てるのだろうと疑問だった。

さて、この半生記を読めばそれもわかるかもしれないと、
手に取ってみたけれど、読み飛ばし、読み飛ばし、そして、読むのをやめた。

面白くないわけではなくて、知っている話ばかりだったからだ。

大小問わずそのエピソードの全てがどこかで引用され、
変質させられたものばかり。

つまり、定番すぎる。

物語ではなくてノンフィクションだからこそ、
面白いと思えるような内容だが、
小説でも使われてしまっている事、
そして、
その『作り話』は知ってるよという現実の彼方へ置いてきてしまったことを
いまさら、ノンフィクションとして読んだとしても得られる事は過去の小説をなぞっているだけにすぎない。

それは100パーセント私の読書経験が、人生経験が浅いせいだろう。

例えば、この本に星5つ中いくつ付けるかと問われれば、
おそらく、一つ。

けれど、この星は参考にしてはいけない。

なぜならば、偶然私が出会ってきたもっともらしい創作は
他の誰とも同じではないのだから。

それでも何度か鳥肌が立った。持続はしなかった。

しかし、それこそが経営の本質なのかもしれないと
夢想する。

今はそれしかできない。


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私の行き方考え方―わが半生の記録 (PHP文庫 マ 5-5)/松下 幸之助

¥590
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この手の小説はどうしようもない。

社会の闇の部分はいつだってそうだ。
重なっているにも拘らず決して認識出来ない。

ここで語られる現実は私も目の当たりにして来たし、嫌な話も良く聞いた。

結局、何が出来るかに尽きる。

何も出来ないと、目を閉じて、重りの様な現実を心に沈めて、受けとめたという事で終わりにしてしまう。

なら、何が出来るだろう。

不毛な論争になってしまうが、それこそ、子供達を買う人間の方がその部分に関して経済活動に参加している分まだましなのだろうか?

もちろんそんな事はないけれど、そのシステムを容認してしまっている世界こそが既に、悪である。

生活の潤いを物質に求めるなとは言えないが、これらの闇に対しての声明をあげない事は、認めている事に他ならない。

だからこそ、何かをしなければならない。
その何かは人それぞれだろう。

明日から変わる目標もあるだろうし、一年先に焦点を定める事もあるだろうし、百年先も無駄ではない。

それでも、きっと、
世界は変わらない。

だから、変えるんだ。



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