すっぴんマスター -14ページ目

すっぴんマスター

(※注:ゲーム攻略サイトではありません)書店員。読んだ小説などについて書いています。基本ネタバレしてますので注意。気になる点ありましたらコメントなどで指摘していただけるとうれしいです。

クリスマスイブからインフルエンザでぶっ倒れていた。当初は発熱がなかったために微妙に病院いくのが遅くなり、まだずるずる具合悪い。年末のまとめ記事もこうしてギリギリになってしまった。まあ、インフルエンザになっていなくてもいつもこのくらいなのだが…



とりあえず映画。というか映画館。去年よりディズニーリゾート通いが始まっているため、あまり映画館には行けなかったようにおもう。正確かどうか自信はないが、Xをみる限り5回だな。5回か…。去年が12回。やっぱり最低月1ペースは守りたいかも。マーベルもなかったしなあ。


1月25日に『アクアマン/失われた王国』。DCもひとなみにチェックしてはいる。ティム・バートンのバットマンで育ったみたいなところはあるし、ノーランのバットマンも大好き。マンオブスティールからのスーパーマンも追ってる。ワンダーウーマンだけは、いつか見なきゃってなりながら機会を逸している。フラッシュはこないだ見た。ハーレイクインも大好き。しかし、あまりにも酷評ばかり耳に入るので、こわくて『ジャスティス・リーグ』は見れていない。そんなレベル。DCは、よくもわるくも『ダークナイト』の呪いが大きいんじゃないかとおもう。MCUが成功させたユニバース戦略、ゴジラやシャマラン映画にも見られ、かなり一般的な方法になってきているとおもうが、それをやるときに必ず生じる、人物の軽量化みたいなことが、DCのストーリーやキャラクターにあんまりなじまない感じがするのだ。

アクアマンはとりわけ評判がよく、たぶんバットマンの次に好きだし、ジェイソン・モモアはローマン・レインズみたいでカッコいいし、見ようと決めていた。ブラックパンサーの続編と雰囲気が似ていて思い出そうとすると混乱してしまう感じだが、まあ期待を裏切らないおもしろさだった。

DCユニバースは、MCUのガーディアンズ・オブ・ギャラクシー監督のジェームズ・ガン主導で、2025年のスーパーマンを皮切りに仕切り直すようである。役者も変わってしまうのだとすると、ちょっともったいないなあと感じてしまう。





4月15日、ディズニー/ピクサー『ソウルフル・ワールド』。コロナ禍で公開されなかったディズニー映画がまとめて上映される機会があり、とっくにディズニープラスで鑑賞済みだったが、観てきた。

ぼくでは、同じくピクサーの『リメンバー・ミー』と対になっている。どちらも映画として高く評価すべき作品だが、ぼくはどうしても個人的にみてしまう。なぜなら、ぼくも、ひとりでこそこそ、独学でピアノ(厳密にはシンセ)の練習をしていた少年だったからだ。ミュージシャンを夢見、ひとり熱心に、独自の方法で、しかしそうとうなギターの腕前を身につける『リメンバーミー』のミゲル、しかし家族に否定され、自作のギターを叩き壊されるミゲル、あれは、まちがいなくあのころのぼくだった。ぼくは、ディズニー映画をこういうふうに鑑賞できたことはいちどもなかったようにおもう。初めて「オレの映画だ」と感じることができたのが『リメンバーミー』だったのだ。

そしてそれと対になる『ソウルフルワールド』。ミゲルが「かつていたかもしれないぼく」なら、ソウルフルワールドのジョーは「今後いたかもしれないぼく」だ。中年に至りながらミュージシャンを目指しつつも音楽教師で満足のいかない日々を送るジョーは、ピアニストでもあるのだ。あの、「こんなはずはないのに」という感覚、「これさえなんとかなれば」という歯がゆい感覚、涙が出るほどよくわかる。これは音楽に限らずパーソナルな表現を志したものであれば必ずわかる感覚だと思う。セットでおすすめです。





5月30日『おいしい給食 Road to イカメシ』。めったに見ない邦画だ。テレビ神奈川やMXで放送されていたドラマをなにかのときにたまたま見て、基本的に日本のドラマを見ることはないのに、気づいたら最後まで見ていて、「あれ?いまの、すごいおもしろかったのでは…?」と見るようになった。サブスクで見れたり見れなかったり、ぼくはまだ走破していないが、映画も素晴らしかった。甘利田先生をみてると、ぼくなんかまだまだぜんぜん本気で生きてないな、となる。





8月22日、ディズニー/ピクサー『インサイドヘッド2』。これもものすごく楽しみにしていた。あのピアノのテーマを聴いただけでうるっときちゃうくらいには好きである。ちょっと疲れてきたので詳細は省くが、初見、数えることのできるいくつかの区域に感情をわけてとらえる、というのがいかにも西洋的な感じがしてしまうかもしれないが、その感情じたいにもわりとアバウトにさまざまな感情があるので、そうした無批判さもしだいにどうでもよくなってくる。




そしていちばん最近。12月16日『スピーク・ノー・イーブル』。マカヴォイがまたなんか正気じゃないひとの役やってる!という予告情報だけでダッシュしたが、『胸騒ぎ』という映画のリメイクらしい。なんかおかしい、どっかおかしい知人に、少しずつプライベートを侵食されていく、非常にストレスのたまる胸くそ映画で、最高だった。あとで、オリジナルの『胸騒ぎ』は『ファニーゲーム』の強い影響下で作られたと聞き、とても納得してしまった。マカヴォイは、スプリットのあれの経験もあってか、あるいは舞台仕込みのやや大袈裟な芝居がいいのか、こういうのほんとうまい。たまたま撮影時についていたという筋肉も、スプリットのビースト以上のバルクで、正常なコミュニケーションを無効にする男性性みたいのがよく出ていた。あと目が、白目がいいんだよねこのひとは…。


以上です。




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第35話/恋人繋ぎ



ジャックのジャーマン・スープレックス3連発、都合5連発によりダウンしたピクル。ジャックはみずから手をあげ勝ち名乗りをするのだった。

観客や実況は、光成の判定を待たずにジャックが勝ち名乗りをしたことをやたらと気にしている。光成が試合を止めることはよくあるが、それはあくまで、攻撃が度を過ぎていたり、必要以上のことが起きたりというときに限られていたようにおもう。審判もいない、というのが地下闘技場なのだし。だが、その肝心の光成は、花山とともに、思わせぶりに会場から消えている。光成が判定を下すというより、勝ち名乗りであれなんであれ、勝敗が決したと思われるところでいちおう光成がきまりをつける、というのが正しく、その彼がいまいないなら、観客たちもざわつく状況になってしまっている、といったところだろう。


前の時ほど露骨ではないが、今回もジャックは歓声を堪能しているようである。バキはまだ会場にいるが、やはり思わせぶりにうつむいている。刃牙や花山、光成になにか違和感のようなものを感じさせる行動が、一連のジャックのもののなかにあったようだ。


ピクルが立ち上がっている。ぜんぜん元気っぽいので、やっぱり光成がいたら続行させてたのかな…などともおもうが、肝心のピクルが戦意喪失しているようだ。


顔の半分を失いながらピクルが笑う。優しい笑いだ。そして、手四つの位置関係でゆるやかに右手を差し出す。一種の握手である。ジャックはそのうち両手でこれを握ってしまう。ピクルへのトラウマ的大敗の記憶がジャックを強くしたぶぶんはあったろう。おもうところはかなりあるにちがいない。

そのジャックに、ピクルは「ジャック 勝ち」と告げる。しゃべったことにジャックとしてはまず驚きなのだが、これはピクルがジャックの勝ちを認めたということであり、ピクルは「勝ち」の意味を理解しているようだ。

そうして、なにかを預けるように、どこか満ち足りた雰囲気のピクルが試合場をあとにするのだった。



つづく



これは、ピクルはもう引退かもしれないなあ。

かつてのピクルは、相手を倒すたび、もしくは相手の唯一無二性を理解して“親友”であることを確信するたび、涙していた。強者は友である。しかも得難い友である。しかし、それが強者であることを理解するという状況は、すでに闘争が始まっていることを意味する。そしてあの時代、闘争はどちらかの死に帰結した。それが食糧でもある以上、その運命からは免れない。だから泣く。しだいにその描写はなくなっていったが、そのことはあまり重要ではない。ピクルは現代にきて毎日たくさんの刺激を受けている。ただの生理現象でもあり、泣かなくなったとしても不自然ということはない。問題はファイトへの意識である。これは、ピクルの強さを育んだ環境と直結しているから、実質彼が強い理由そのものだったのだ。今回のピクルには、敗北しながらも、じぶんを食わせようとしたり、食われる恐怖におびえたりというところがないのである。それはどういうことなのか。


都会での経験といくつものファイトを経て、まずピクルでは闘争と食事がイコールではなくなっていったのだろう。倒したら食べなければならないということはないし、闘争と呼べるような内容にならなくても食べていい。両者は独立したのだ。そしてこの独立、つまり差異化というのが、他ならぬ言語の機能なのである。ピクルにとって闘争と食事は、別のものとして認識する必要がなかった。エスキモーはあまりにもありふれたものであるために「雪」そのものを指す単語を持たないというが、それは、なんらかの現象、たとえば雪景色から、わざわざ雪を抽出する必要がないということだ。ピクルにとっても、闘争と食事は一体のものであるから、どちらかを指示する必然性を彼はもたなかった。だが、都会での生活は彼に闘争なしでの食事を強いたし、また同時に、優れたファイターとのたたかいは、闘争に食事が添えられる必然性を削いでしまった。そうして、彼のなかでふたつは分かれていった。言葉を獲得するとは、なだらかな曲面のうえに網目を落とし込み、価値の違いにおいて事物を差異化して受け取るということなのである。


流れからすると、言葉を獲得したからそうした差異化ができるようになったことになりそうだが、こうして書いてみると逆にもおもえる。闘争と食事が分離したから、彼において言葉を得る準備が完了したのである。ここまでの言語理論はソシュールのものだが、別の目でいえば、フロイトは、他者の獲得を同じように考えている。乳児のみる世界は海のように連続した一体のものだ。これが、ある不快(仮説的には乳房の不在)を経て、快感原則と現実原則を手に入れ、世界に最初の分節をほどこすことになる。不快なもの、おもいどおりにいかないものを弾き出し、直面することで、世界は初めて連続体ではなくなるのだ。この最初の一撃、最初の分節に近い衝撃が、ピクルでは闘争と食事の分離で起こったのだ。そしてその強い衝撃が、彼に言葉を使用する準備を整えさせた。彼がしゃべったという事実は、原因ではなく結果なのかもしれない。


ともあれ、彼のフィジカルも、また非エエカッコしいともいえる無慈悲なまでの野性も、環境が育んだ必然的なものではあった。その環境に対応する原理が、その、闘争と食事の一体性だった。これは戦国育ちの武蔵が強いのと同じしくみだ。しかし、環境は失われ、それに対応するためにあった彼のスタイルも解体したとなれば、この結果は予測もできたろう。ゴミから流れる液体を燃料にする野性である。たぶん、肉体的にはそこまで弱くなってはいない。なまってはいるかもしれないが、もとの強さを考えたら無視できるものだろう。ただ、彼はもう以前のファイトができなくなっている。忘れてしまっているのだ。ピクルの晴れやかな笑顔含め、「引退」という語が浮かんでしまったのは、それが実力云々ではない根本的な変化によるものだからだったのだろう。いずれにせよ、しばらくそっとしてあげてほしい。












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第113審/曖昧の判断④




沖縄にて、施術中に股間を押し当てられた薬師前が、九条とともにマッサージ師と話し合い中。九条が依頼を受け、顧問になるかというはなしにもなっていた比嘉がこの男のおじで、同席している。


感情的になった甥について謝る比嘉。あれは感情的という次元ではなかったが、薬師前は、大きな声に小さな声がかき消されると、日々の実感を表現する。かつて酔っ払ったおじにからだを触られたとき、人間関係がギクシャクするからと、父や母にさえなあなあにされたことがあったそうだ。父もまた「大きな声」の持ち主だろうが、現在の薬師前にさえその気持ちを「わからなくもない」とさせる世間体的なもの、またその圧力が、ここではもっとも大きな声を出すものだろう。


はなしを聞きつつも、比嘉は食い下がる。証拠はないわけだから、裁判をしても長引くだろう。ここは示談にしないかと。

だがここで九条があっさりと、いや、裁判したら有罪になるけど?みたいに入ってくる。まずSNSでふつうに調べられる範囲で被害に遭っている女性を多数観測できる。それらの投稿主に連絡をとり、はなしを聞く。やるのは以前登場した探偵の片桐らしい。それから会社の女性からのタレコミもあるそうだ。

お互いに面倒だから、ということで示談をすすめていた比嘉だが、わすがにでも冤罪の可能性を考えていたのかもしれない。しかしこれでもうそれもなくなった。まだわめく甥を比嘉が黙らせる。裁判するならする、塀のなかで反省しろ、薬師前の気が済むまでやってくれと、非を認める。薬師前は静かに涙を流すのだった。


ふたりと離れ、九条と歩きながら、晴れやかな表情で、示談に応じることを薬師前はいう。当事者になることで明日からまた犯罪者支援をがんばれる。九条や比嘉が味方になって怒ってくれたのがうれしかったと。


別の日、こうなることを見越していただろうと烏丸がいう。薬師前はもちろんだが、比嘉まで、九条の仕事ぶりを見直し、顧問の件をすすめているらしい。利益相反を乗り越えたわけである。



薬師前の件はこれで終わりだよな、場面は壬生と宇治、あとふたりの親友で師匠みたいな帽子の男にうつる。

白州次郎みたいな彼が病院経営のはなしを振ってくれたので、白栖病院がしっかり壬生のものになったことがはっきりわかった。また似たようなことをしようともしているらしい。しかし、いま気づいたが、これじゃ白州と白栖で名前かぶっちゃうな。まあ、白州次郎はまったくなんにも関係ないのでいいんだけど、はやく名前明らかにならないかなこのひと…。顔、うすい感じかね?それとも凛々しい太眉か。


宇治は浮かない顔をしている。壬生といるところを組のものに見られたらまずいというのは当然ある。だがそれ以外に気がかりがある。京極がいなくなったかわりに、出雲雅巳という厄介な男が出所してきたのだ。


車の解体場かなんらかの現場みたいなところで、男が重機の四本爪で処刑されている。廃棄物ごと握り潰す感じだ。これは、久我の知り合いらしく、久我に助けを求めているが、久我は正座して震え上がっている。留守の京極宅に泥棒に入ったらしい。どうなったのかわからないが、引き抜かれた彼はからだが引き裂かれて内臓が垂れ下がっている。これを指揮しているのが出雲なのであった。



つづく



あまりなかったタイプのキャラクターが登場した。柄崎とか梶尾がこういうタイプの顔だけど、ここまで強キャラ感のある新キャラは珍しいかもしれない。なにか先生に新しい出会いがあったのかも。

久我はさあ…。かわいそすぎない?泥棒に直接関わってなくても、いらない疑いをかけられて伏見組に居にくくなるし、そうでなくてもぶちぶちうるさいよね。壬生は早くなんとかしてあげてよ…。



比嘉と薬師前の件では、裁判以前、実務以前の段階で利益相反を克服する九条の腕前をみることができた。

タイトルの「曖昧の判断」はさまざまなことをあらわしうる。ひとつには、当然薬師前の実感だろう。触れたのか触れていないのか、訴え出るべきなのか否か、すべて、はっきりしたこたえは出ない。しかし、本来「触れたか触れてないか」というのは明らかなはずである。そこに女性への社会的抑圧があるから、迷いや疑いが生じるのである。もちろん、触れた気はするけどじっさい違った、という状況はありうる。だがほんらいであれば、訴え出があった上で、違ったという証拠があがり、謝罪、という流れがあれば済むはなしだ。もちろんこれは女性だけの問題ではない。冤罪で社会的致死に至る男性の問題でもある。すべて、これらのことを引き起こすのが、社会なのである。訴えと謝罪がもっと自然に、セットになって行われる社会なら、女性の迷いも男性の冤罪もないのだから。まあ、そんな誠実な社会ならこういう事件もないだろうというはなしだが。


そしてもうひとつ、法的な曖昧さの状況もここにはあった。今回のこの話し合いは弁護士のありかたとしてはかなりグレー、利益相反状況だった。しかしそれも、手続きが開始したらというはなしだ。この、なんとも形容し難い、法的前段階みたいなところで暗躍する手腕を、今回九条は見せたわけである。さすがに比嘉が見直して顧問の件続行まで見通してはいなかったとおもうが、もめないギリギリのところに着地させようとはしていたはずだ。弁護士の仕事は、いつもすでに始まっているのである。


そして、このこと、弁護士の仕事は常にすでに始まっているということは、九条の生活スタイルに直結したものだ。オン/オフのない彼の生活は、職場の屋上に住み、好むと好まざるとにかかわらず家族を締め出してしまう彼の毎日にそのままあらわれている。九条は、常に弁護士として呼吸するのだ。そんな九条だから、こうした「曖昧の状況」にも対応できる。訴え以前示談以前、なんなら利益相反の準規定違反状況であっても、わたしたちがスクランブル交差点をひとに激突せずに渡りきるように、うまく解決することができるのである。利益相反状況は、そもそもそういうことである。原理のレベルで弁護士業が成立していないということなのだ。だが、「対応」のひとである九条にとってはあまり差がない、というわけである。




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第34話/いつもどこでも


3度目のジャーマン・スープレックスからなにかをたくらむジャック・ハンマー。ピクルはしたたかにあたまを打って脳震盪っぽい感じになっている。

いままでよくわかっていなかったが、ジャックのジャーマンはすごい低空らしい。停止してみるとその低さがわかる。ブリッジというとからだが曲線を描くものだが、ピクルを打ちつけた直後のジャックは、直線に近いかたちになっている。低い、低いということは、より遠くまで運ぶということなのだ。

ジャックがそのフィニッシュ・ポジションから足をハネ上げてもとの体勢に戻る。なにをする、って、ジャーマン・スープレックスである。2連発、4度目だ。とまらない、さらにからだをハネ上げて3連発。ピクルのあたまが柵に縦方向に衝突。これも2度目だ。ジャーマンは5回になる。

ダメージはそれなりにあるとしても、あのピクルである、この程度で動けなくなるとも思えないが、じっさい眠るように動かない。腕の出血もあるのかもしれない。
見下ろしたジャックが手を使ってあることを表現する。あちこちで手を握るパフォーマンスで、いつでも、好きなところを噛むことができる、ということを表現するエア噛みつきだ。生殺与奪の権は我が手にあるというわけである。
そうして左手を高くあげて、ジャックが勝利宣言するのだった。



つづく


終わっちゃったよ。びっくりした…。

前回、この勝負がある種の反復で成り立っていることを書いたが、今回さらにジャーマンがくりかえされることにより、この見立てがそれほど間違っていなかったらしいことがわかった。ジャックにとって、くりかえされるジャーマンのどこに、なんの意図があるのかはわからない。だが、それがピクルには効果があったらしいことは明らかである。たしかに、出血はひどいだろう。ジャックの打撃や投げもすさまじいだろう。しかしそれが、恐竜たちの攻撃や克巳のあの当てないマッハ、頭蓋骨を砕きかねない烈の肘と膝のはさみうちなどをはるかに凌駕するのかというと、首をかしげてしまうわけである。

ポイントとして、ピクルが言葉を覚えつつあることが示した都会化が、彼を鈍らせていた可能性はかなりある。だいたい、食糧がカラスやなんかでは足りないだろうし、たたかって食べるというかつてのスタイルから考えたらセンスも鈍りそうだ。
そしてその結果得た「言葉」は、世界を分節化する道具にほかならない。わたしとあなたを截然と区別するためのツール、それが言葉である。もともとピクルは、長い滞在とファイトを通じた経験により、備わってい非常に高い知能もあって、おそろしい速度で現代を吸収していた。彼我の分節など、言葉を用いるまでもなく、動物的な感覚でもある程度は果たされていただろう。しかしここで決定的なことは、たんに事物を区別することが可能になったことではなく、それを、それがない場所でも区別して把握することができるようになったということだ。動物的感覚による彼我の分節や、言葉のごく初期段階にある差異による物事の把握は、言ってみれば無時間的なものだ。その瞬間、目の前に広がっている景色を説明するための、またそれで十分役目を果たす道具にすぎない。しかし、言葉はやがて貨幣のように、実物をともなわずとも、価値をはらんで流通するようになる。それが、抽象思考を育み、時間の流れのなかで使用可能になる。


こういう進化が、おそらくピクルのなかにはあるものと想像される。これは彼に、帰納法ような推理を可能にさせるだろう。
ここでぼくがいう帰納法は、高校数学の証明でつかう数学的帰納法をイメージしている。大雑把にいうと、ある場合に成り立つと仮定して、その次の場合にも成り立つことが証明できれば、ドミノ倒し的にすべての場合成り立つことが証明できる、という技術である。昨日も今日も太陽が東から上がったから明日もそうなるはず、というのはたんなる経験的推理だが、東から太陽がのぼることを仮定し、そのことを前提に、その条件を使って明日もそうなることを示せば、数学的帰納法ということになる。
もちろんピクルのものは経験的推理にちがいないだろうが、ピクルの知性の飛躍的進化を表現する意味もこめてそのようにみようと思う。ピクルは、言葉を獲得することで、経験を通史的にみることができるようになった。5度のジャーマンはもはや別々に存在するものではない。記号となり、前後の同じ記号と響き合って、意味を確定させつつあるものだ。これが、彼にこの勝負から望みを失わせた。ややこしい書き方はせず、はっきり書こう。まず、最初の3回のジャーマンは、彼に「どんな局面でもこの相手はこの投げに持っていくことができる」という感覚をピクルに与えた。そして3回目から5回目のジャーマンは、「その投げは、やろうとすれば永遠に続けることができる」と伝えた。つまり、帰納法的に考えれば、もはやピクルに勝ちはないのである。

おそらくこういうことをピクルは理解した。で、どうするか。生物には無駄がないとペイン博士は言っていた。もうこのままあがいても、少なくともいまはどうしようもない。寝るか、死んだふりして相手が去るのを待つしかない。今回の、そこまで深刻にダメージがあるようでもないピクルが動かないのは、そういうことではないかと思われるのである。

ジャックのエア噛みつきはまた厄介な展開だ。なぜなら、あれはたしかに誰か他人に向けた「表現」であり、他人がどうおもうかを一顧だにしないジャックの非エエカッコしいスタイルと平仄があわないからである。「よし、噛める」と確認するだけならあたまのなかですればよい。そもそも、「やってみなければわからない」というひとたちが多い世界で、そもそもエア噛みつきが成り立つかもあやしい。ただ、これは本部に習ったものかもしれない。極端なはなし、「殺してみなければ殺せるかどうかわからない」ともいえるわけだが、縛り上げたジャックを前に本部は生殺与奪の権がじぶんにあるとして勝利した。いちおう、噛みつきを道にするジャックであるし、ピクルを殺すことが目的なのでもない。ピクルが戦意喪失しているのが明らかな状況で、生殺与奪の権のあるなしで勝敗を決めるのは合理的だろう。だいたい、真の勝敗は、じぶんがわかっていればよいことだ。
だがそうするといよいよこれがパフォーマンス的であることが引っかかる。まあ、ジャックはもともと観客の声がうれしいタイプだし、そのあたりは人柄とか、あるいは未熟さのあらわれなのかも。彼は非エエカッコしいを自認しているわけではない。まわりがそう言っているだけだ。ジャックからしたら噛みつきは別にカッコ悪い技ではないのだ。




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第112審/曖昧の判断③




沖縄で受けたマッサージで不同意わいせつの疑いがある行為をマッサージ師にされ、薬師前が九条に相談することにしたところだ。


九条は根掘り葉掘り、あらゆることを薬師前に訊ねる。それは、「股間が当たったときどんな気分だったか」というような、二次加害になりかねない内容で、横で電話を聞いていた市田がさすがにあいだに入る。だが、これは必要な問答らしい。薬師前以上に薬師前になるためだ。特にこの手の加害では、被害者が事態に複数の但し書きを無意識に付け加えてしまいがちである。たぶん九条はそういうことを言っている。弁護士は事件をトラウマ化しないのだ。


さて、その加害者のマッサージ師は、顧問になるかというはなしが出ていた、比嘉という地元の男の甥だった。要するに、顧問になろうとする弁護士なのだから訴えを取り下げてくれというはなしだ。

しかし依頼を受けた以上九条はベストを尽くす。事情をすべてはなし、あとは薬師前次第だと。ここは、わりとすっと通り過ぎるが、重要かもしれない。あとになって利益相反が判明しても、九条は進行をやめない。


烏丸とふたりになったところで九条が心境を語る。こういうことは時々あり、利益相反になるから、たいがいはどちらの弁護も断るのだという。弁護士を紹介するという手もある。

烏丸のいいかたではよくわからないが、示談に持ち込む代理人になりそうな流れらしい。


そして九条が薬師前に利益相反のはなしをする。だから、ということでもないが、相手は謝罪したいそうだから、示談にしないかという感じだ。

しかし薬師前は、正直会いたくないという。そりゃそうだ。だが、薬師前には別の考えがある。彼女は犯罪者支援のNPO団体をやっていて、よく非難される。じぶんでも迷いはあるのだろう。だから、加害者に向き合いたい、会うというのである。九条はそのサポートを約束する。


だが、マッサージ師の言い分は、とても謝罪とはいえないものでなにしに来たかわからない感じだ。要するに悪気はなかった、誤解だということで、「謝らないといけない弱い立場だ」とまでして弱者ポジションを先取りしている。

その態度を受けてということだろう、薬師前は示談を拒否、法廷で弁明するようにいう。比嘉が嫁め娘もいてなどと食い下がるが、逆にその娘が同じ目にあったらどうなのかと薬師前はいう。

男はそこで逆上、怒鳴ってつかみかかり、自意識過剰のブスなどと暴言を放つ。自意識過剰もブスもこの事件に関係ないはないが、九条が冷静にとめて、知性や思考の深さに性差はないとして、彼の男性性を利用した恫喝を非難しつつ、話し合いにきたのだとする。


とはいえ、一触即発の現場だ。かわりに話すと九条はいうが、薬師前はむしろ闘志に火がついたというように、自分で話すと宣言するのだった。





つづく



いまどき言い訳するにもあんな言い方あるかなともおもうが、おじの比嘉もそんな感じだから、家風なのかもしれない。


九条は二次加害につながりかねないような質問をくりかえした。薬師前以上に薬師前になるためだ。ふつうの状況では、本人以上に本人になる、つまり本人の気持ちを理解する、ということは原理的にできない。そこにない感情を他人が見出したのだとしても、そこにはげんにその感情はないのであり、本人にはそれ以上の意味はないからだ。しかし、ある種のバイアスのもと、識閾下を探るということであればそれも可能だ。ここで九条がやろうとしていることは無意識下を刺激する精神分析の仕事なのである。

そして、そのことが逆に示すのが、こうしたわいせつ行為、また加害者が今回見せた恫喝のような、性差による社会的・肉体的非対称を利用した威圧がもたらす抑圧である。痴漢ひとつにも、被害者のあたまにはさまざまなおもいが渦巻く。それこそ、自意識過剰ではないか、あるいはそういわれないか、また、勘違いでないと言い切れるか、事実として、これから発生する性差別満載の手続きを想像して、仕事に遅刻してまで告発すべきか、等々、瞬時に複雑なおもいが不快や羞恥のなかに差し込まれる。こうした抑圧が、事実から目を背けさせる。記憶をトラウマ化するのである。わたしたちは、そのようにしてトラウマの入れものにしまった嫌な記憶になるべく直面しないよう、新たに人格を編み上げる。大なり小なり、ひとの人格とはそのようにできているのである。

薬師前も、当初は性被害をうまく認識できておらず、そんな気がする、というようなあいまいな言いかたをしていた。しかしトラウマの黒い箱に入ったままでは、法律でもどうしようもない。精神分析では、ある種のフィクションもこみでこうしたトラウマの内容を解明するが、九条も同じように、それを法律で取り扱うことのできるもの、つまり言葉にできるものとして、見えるところに引き出すのである。

誰の場合でもこのようにうまく聴き取りができるわけではない。これは、薬師前が、犯罪者支援という彼女の仕事の意義を知るために、加害者に直面しようとする意志を持っていたからこそ成り立つ聴き取りだった。彼女もほんとうをいえば加害者に会いたくはないし、加害を思い出したくはない。なんならそっとしておいてほしい。けれどもそれでは、つまりトラウマ状態では、法律であつかえないし、彼女の仕事の本来の原動力もわからないままだ。だから、薬師前は痛みを伴う直視を選んだのである。


今回は九条の依頼人の優先度みたいなことも少しわかった。「依頼人のために最善を尽くす」は、もちろん比嘉についてもいえることだ。だから利益相反は九条も避けたい。「最善」が衝突してしまうからだ。この件で彼がすべきことは、だから薬師前に状況を話すということ以外なかったのかもしれない。決断そのものは薬師前がしているのだということである。ただ、薬師前の最善をとるなら、やはり他の弁護士をすすめるべきのようにおもえる。無意識のはなしにもつながるが、九条は専門家、法律領域においては薬師前よりもものがよく見えるからだ。その説明をしっかりした上で薬師前が判断したと、今回はそういう流れだろう。


ただ、それ以外にも九条には動機がありそう。それは娘である。薬師前がそういうことを言っていたが、九条にも娘はいて、娘もやがてこの女性が生きにくい社会に自立することになる。弁護士としてそこに個人的見解がないということはないだろう。それが、彼をじゃっかん薬師前に傾かせているのかもしれない。




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