数ヶ月後・・・
この爆弾については
「マッチ箱の爆弾」と呼ばれ
公然の秘密として
世間に、その存在が囁かれるようになる
(No.ym-039)
本ブログのメインコンテンツの4コマ単位マンガは昭和20年の物語を描く「ヨシノとミコト編」を公開しています。
今回は第2部第二幕「優しき軍神」の4回めです。
<ここまでのお話のまとめページ>
★第一部★
第一幕「あの人との出会い」
第二幕「運命へのプロセス」
第三幕「動員学徒の日常」
★第二部★
<解説>
(1)学徒出陣に関する時系列
「優しき軍神」の一幕は、実はキッチリと時期を設定しているわけではありませんが、歴史的な背景を鑑みて1943(昭和18)年の年の瀬の頃とお考えください。
1943年10月頭、高等教育機関(大学、旧制高校等)の(原則として)文系学部に在籍する学生に対して徴兵猶予が撤廃されます。
1943年の10月21日に有名な映像も残っている学徒出陣壮行会が東京の明治神宮外苑競技場にて開催されました。
この壮行会に参加した学生は12月に入営。
その一年後に戦地に赴いたとのことです。
これが最初の学徒出陣です。
学徒出陣で徴兵された学生は12万人以上と言われていますが正確な人数はわかっていないそうです。
この人数は、とても多く感じられますが当時の高等教育機関への進学率を鑑みれば出征兵士の総数(※)に対しては決して多くを占めるとは言えないと考えます。
ヨシノの家って実はインテリというか文化人の家族です。
※調査不足で申し訳ありませんが、非常にざっくり言うと昭和20年時点での旧日本軍の兵員数は960万人くらいという認識でおります(ネット上の情報より)。
(2)日本における原子爆弾の開発
※この解説の多くはWikipediaをはじめとするネット上の情報から書き起こしています。その信頼性にはご留意ください。
言うまでもなく「骨壷に入る爆弾」とか「マッチ箱の爆弾」とは後に原子爆弾として実現してしまう物です。
「骨壷に入る爆弾」と言うのは僕の創作です。
東京で勉強してたお兄ちゃんなら、世間よりひと足早く噂を聞いたかもしれないという想像です。
日本でも原子爆弾の開発は行われていて、理化学研究所の仁科芳雄博士の頭文字を取って「ニ号研究」と呼ばれていました。
二号研究はアメリカのマンハッタン計画の7ヶ月後の1943年5月に開始されていますが、仁科博士らは1940年には原子物理学の兵器への応用について進言していました。
1944年の春頃には世間でも「マッチ箱の爆弾」というフレーズが囁かれるようになったようであり、1944年の12月には新聞の記事にもなったようです。
<余談1>
割りとイケメンなパパと、割りとかわいいママ、どっちの良いところも遺伝しなかったお兄ちゃんでした(^^;)。
ヨシノとお兄ちゃんと弟(絵だけですが出てます)は、一応はこの両親の要素を組み合わせてデザインしてます(正しくはヨシノから両親のデザインを起こしています)。
<余談2>
この三連休で執筆がかなり進んでしまいました。
二回連続でマンガ記事をアップできるなんて何年ぶりでしょう!?(^^;)
これは今までにない事態です。
原稿ができてないよりは遥かに良い事態のはずですが、どういうテンポで開示していけば良いのか、非常に迷っています。
と言うのは・・・マンガ記事には「いいね」を多くつけていただいていることから、ご評価頂いていると察している一方、おそらくコメントしずらい記事でありましょうから、マンガ記事へのコメントは極端に少ないのです。
これは実はコメントが欲しい僕としては迷うところです(笑)。
一応、方針は固めています。
次回は「優しき軍神」の前半部分の「まとめ記事」をアップします。
その後、後半をテンポよくアップしていけると良いかな?と考えています。
ホントは、読みやすさを考慮すればテンポよく公開できた方が良いんです。
それができそうなのでやってみようと思います。
更新頻度はできれば2日おきで考えています。
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