コラムなタイム -9ページ目

本との気持ち96

「完本 文語文」山本夏彦

(文春文庫)

 

 冒頭、著者は「私は文語文を国語の遺産、柱石だと思っている。」と書いている。祖国といったような意味で文語文は日本語の故郷だということを、この本はしきりと文脈に込めて書いている。そして文語文が消え失せたのはなぜだろうと、自らの読書体験をたどりながら解き明かそうと筆を運んでいる。その語調は、哀惜とともにどこか止むに止まれぬ怒りを抑えながらも凛とした響きをたたえている。

 大正生まれの著者が文語文に親しんだのは彼の父が残した明治30年から40年代の膨大な本や新聞、日記であった。日がな夢中になって読んだ小学6年生の頃、当時は全てが文語文であったが、総ルビだから旧漢字を自然に覚えることができた。読んでいる自分はまるで同じ空気を吸っているかのようにその時代を書き手とともに生きていた。そうして少年は文語文とともに育った。しかもその文語文の多くを「十読は一写に如かない」と書き写した。特に樋口一葉が半井桃水との恋を綴った日記を書き写していた時は次第に自分が一葉になるのだった。「なにごとも語るとなしに玉くしげ 二人いる夜は物も思はず」などか。それは平安以来千年の伝統が後押しして書かせたのだと、少年時代を振り返る。

 

 では、なぜこうも漢文を読み下した文語文に拘るのか。それは古き良き時代を偲びたいが故だろうし、文語文が普通にあった時代がその後の時代に比べて人の息吹が脈々と伝わると信じたからだろう。明治大正の時代にはまだ文語は生きていた。しかし昭和になって戦時のどさくさの中、その息遣いは鳴りを潜めていった。それでも軍隊と法曹界は昭和20年まで片カナまじりの文語文であったが、歴史的仮名遣いは新仮名遣いに、旧漢字は新漢字に変わった。

 また、漢字と古文まじりの文語文には口語文を凌ぐ魅力があったようだ。萩原朔太郎は詩集「愛憐詩篇」の初期の頃は文語調であったが、有名な「月に吠える」では斬新な口語文であった。しかし、彼にも古き日本語で育った自身の素養の発露には文語文への回帰がおとずれ、晩年「永島」ではその絶叫を全き漢文調で書くほかなかった。朔太郎は言う。「すべての詩篇は『朗吟』であり(略)読者は声に出して読むべきであり、決して黙読すべきではない」と。その意味するところは、何度も声を出して読み込んでいるうちに身体に染み込み記憶力を増強し、そうした読書法にはもはや体験化させる妙力があるということだろう。

 

  いかなる星の下に生れけむ我や世にも心弱き者なるかな

  月の夕、雨のあした、われハイネを抱きて共に泣きしこと幾たびか

 

 この二首は、本書に取り上げている高山樗牛の名文句だ。明治大正生まれの人はこうした詩句や名言をよく覚え口ずさむことができた。それはひとえに文語文だからで、口語文に訳しては味気なく瓏々と謳い上げることができない。「文学は風流韻事」なのであった。だからそれが死んだ人のものであればあるほどその風韻は冴え渡り、まさか死んだ人のものとは思えないほどに身に染み込んでくる。「本を読むということは死んだ人と話をすることなのだ」と、著者は言う。

 また、明治の漢文くずしで「山月記」を書いた中島敦の「李陵」では、著者は「読んでほとんど恍惚とした」と言っている。「日本語が失ったリズムと力がここには躍動している。(中略)知らなくても文はリズムがあれば分かるのである。」とも追記しながら。

 校歌や寮歌、文部省唱歌が昭和に入っても文語調だったのは、ナショナリズムによってことさら祖国を我が身とする風潮があったからではないだろうか。著者は「祖国とは国語だ」と一章を設けて語っている。口語には文語のような美がないとなれば歌は芸術でもある以上、美がないといけない。歌うとは、まさしく朗誦と同じ詠嘆が込められてこそ人の心に届く。となれば、歌も文語で歌われて然りであろう。

 

 大正6、7年芥川龍之介は多く文語調の弔辞を書いた。永井荷風も小説を「口語のふりをして」文語調に書いた。しかし、昭和に入ると学校で諳誦することは少なくなり、文語は教材から消え失せていった。かくして読書は黙読するものとなり、間違えて読んでいても聞こえないから誰も教えてはくれなくなった。そこにきて時代は核家族化し祖父母から世代を超えた文言を学ぶ機会が失われていった。国語力の低下であり、死語なる言葉まで生まれた。

 著者は言う。

「私は文語に返れと言いたいのではない。そんなことは出来やしない。ただ文語にあって口語にない「美」は何々ぞと、なおしばらくさがしたいのである。それは口語の美をすこし増しはしないかとわずかに思うからである。」

 ほとんどこれは本書のテーマであろう。まさしく「文字は言葉の影法師」なのだ。

 

 

本との気持ち95

「マチネの終わりに」平野啓一郎

(文春文庫・本体850円)

 

 男と女が恋に落ちて、嫉妬した小娘がほんの悪戯をしてストーリーが急変する。タイトルもそうだけど、ギタリストの芸術家と戦地ジャーナリストという男女の設定からしてシャれた恋愛小説なのである。ストーリーの内容は個性的なキャストと巧みな場面設定でよく出来ているので、そこは検索サイトに譲ることにする。ただラストはそれこそフランス映画の〝fin〟のイタリックの文字が目に浮かぶ心地よい幕切れだ。物足りないと言えばそれが余韻なのかもしれないが、その余韻を今すこし味わうためにも、印象的な場面の引用をもとに、この小説のテーマを探ってみたい。

 

蒔野聡史のギターコンサートの後に行ったスペイン料理店で、小峰洋子は「イラクのバグダッドへ発つ前に何か美しいものに触れておきたかった」と蒔野に話す。蒔野はベートーベンの日記にある『夕べにすべてを見とどけること』という謎めいた一文を取り上げて、次のように語る。

 

「花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない。音楽は、未来に向かって一直線に前進するだけじゃなくて、絶えずこんなふうに、過去に向かっても広がっていく。そういうことが理解できれば、フーガなんて形式の面白さは、さっぱりわからないですから。」「人は、変えられるのは未来だけだと思い込んでる。だけど、実際は、未来は常に過去を変えてるんです。変えられるとも言えるし、変わってしまうとも言える。過去は、それくらい繊細で、感じやすいものじゃないですか」。

 

いかにも芸術家が語る言葉だ。優しくてさりげない押しもある。芸術家は口を開いても表現者なのだろうか。それにしても「未来は常に過去を変えてるんです。」の一言は、この長編小説のテーマだろうと思う。嫉妬から蒔野の携帯電話で過ちを犯した三谷早苗も、洋子の映画監督の父イェルコ・ソリッチも、その父と別れて被爆体験のある母も、戦地でスパイと間違われ逃亡してきたジェリーラも、テロの眼差しにPTSDに陥る洋子も、そして自らの音楽人生に活路を拓こうと悩み続ける蒔野も、誰もが過去に苛まれながら未来を手に入れようとした。しかし、未来を夢見るしか過去は変えられない。だから夢は今思ってる以上に大きく描くことができる。夢見た未来が微笑むまで過去の苦しみは付いて来るだろうけど、未来は過去ほど遠くないと信じれば、未来が過去を変えて花を開かせるだろう。作家平野啓一郎はそんな挑戦をこの作品の中でしたかったのだろうと思う。

そして、二人は物語に帰ってくる。それが過去から未来へのアプローチだ。

 

「洋子は、今はもう、自分の心に忠実に従いたいと強く思った。人に決断を促すのは、明るい未来への積極的な夢であるより、遥かにむしろ、何もしないで現に留まり続けることの不安だった。後悔の訪れはまだ先であるはずなのに、既にして彼女の足許は、その冷たい潮に浸され始めていた。そこでただ、目を瞑ってじっとしていることは出来なかった。蒔野が言った言葉を、洋子は自分自身の言葉として、幾度となく語り直した。彼を愛さなかった小峰洋子という人間もまた、もうどこにも存在しない非現実なのだと。」

 

そして、洋子は揺れる気持ちのまま「何かしら新しい定義に触れているような感じ」を抱く。二人は求め合い、男は幸福感に酔った。

 

 「世界に意味が満ちるためには、事物がただ、自分のためだけに存在するのでは不十分なのだ。洋子との関係は、一つの発見だった。憤懣や悲哀の対象でさえ、愛に供される媒介の資格を与えられていた。そして彼は、彼女と向かい合っている時だけは、その苦悩の源である喧騒から忘れることが出来た。」

 

恋は盲目と言われようが一度恋に落ちてしまうと、人はこうも世界を発見するものなのだろうか。不安でいながら夢が勝った心地のまま新しい定義に触れていくなんて、それこそ未来が過去を変えていくことで、そんな隔絶した感が迫る迫力こそ芸術の力と、この小説は語っていると思う。

 

そして、未来が過去を変えてやってくる。それがラストだ。

 ニューヨークでのコンサートの会場に洋子がいることに気づいていた蒔野は、ラストステージのアンコールに洋子の父の映画のテーマ曲《幸福の硬貨》を演奏し、挨拶で終了後にはセントラルパークを散歩したいと語る。

 

 「どこか遠くのパトカーのサイレンが、彼方の空に轟いて消えた。  

 蒔野は、太陽の光の移ろいを感じて、少し足を早めた。先ほどから、彼は、リルケの《ドゥイノの悲歌》のあの《幸福の硬貨》の一節を、断片的に思い返していた。

『……天使よ!  私たちには、まだ知られていない広場が、どこかにあるのではないでしょうか?  そこでは、この世界では遂に、愛という曲芸に成功することのなかった二人が、……彼らは、きっともう失敗しないでしょう、……再び静けさを取り戻した敷物の上に立って、今や真の微笑みを浮かべる、その恋人たち……』」

 

 やがて、そのマチネの終わりに二人はセントラルパークの池のほとりで見つめ合いゆっくりと歩み合い巡り逢う。ロマンスたっぷりな終わり方にはどこかあっけなさを感じてしまうのは欲だろうか。それとも年甲斐もなく感動を持て余していることに自ら照れているからなのだろうか。それにしても「未来は常に過去を変えてる」なんて気づいていなかったようで、人はいつもそうしたくて生きているのかもしれない。そうしていないと人は生きられない生きものなんだ。その力になるものが愛なんだと、この小説は言いたかったのだと、僕は思う。

fin


本との気持ち94

「遠い幻影」吉村昭(文春文庫)

 

 人生には宿命だったり試練だったりすることもあるけれど、そんなことのすべてを肯定的に受け入れることも人生ではないだろうかと問い掛ける内容の短編集。すぐには解決できなくても、対立することなく、諦めるでもなく、緩やかな時の流れに身を任せることの方を選んで救われることもあるのではないか。過去は消えない。幻影となって遠くにある。淡々とした文体で読む者の心をすくい取っていくような不思議な魅力のある12篇である。

 以下、感想を一編ずつ簡単に記す。

・「梅の蕾」

 待ちに待った医師がやって来た山村の話。そこに暮らす人々と医師夫婦の交流には普通に生きる優しい心が通い合い、読む側にその温かさが真っ直ぐ届いて来る。当たり前な感動を素直に受け入れられるかどうかを試されたような読後感が熱く心に沁みた。

・「青い星」

 戦死した兄にはミルクホールで働く女がいて娘もいた。その娘の行方を追う。しかし「過ぎ去ったことは過ぎ去ったことであり、それはそのままにしておく方がよいのだ」と、たとえめぐり合えても日常がそこにあれば、離れた所から同じ空気に触れただけで良しとするのも人生ではないだろうかと考える。見えた星も見えない星も手には届かない遠いところにあるのだから…。

・「ジングルベル」

 受刑者と刑務官の自分とのそれぞれ立場を軸にした夫婦の心の通い合いが物語で、それは何びとも侵すことのできない尊い世界だということをあらためて教えてくれる掌編であった。

・「アルバム」

 ボクサーの過去の栄光を報じた記事を貼ったアルバムをもとに、そのボクサーがどうしてボクシングをやめたのか、そして今どうしているのかを確かめに行く。そこで主人公が自らの心の闇に陥る。他人の心の闇に寄り添おうとする時、人はどうして立ち止まってしまうのだろうか。見苦しいのは自分の方ではないのかと…。

・「光る藻」

 蛙を食べて生きる友人など戦時下を生きる人々の姿を少年の目を通して描いた作で、一幅の小さな暗い絵を見たような読書体験であった。

・「父親の旅」

 離婚して帰って来た娘の人生を「これでいいのだ」と、父親は静かな決意を抱く。たとえ傷ついてもゆっくり平穏なうちに癒されればそれでいい。そう自らにも言い聞かせるラストが切ない。悩める父親の心の旅か。

・「尾行」

 妻の不倫の尾行をその夫から頼まれた大学生の動揺と意外な結末に、これはアルバイトなのだ、大した意味もないことなのだと自らに言い聞かせるラスト。尾行のサスペンスを味わえたのが救いだった。

・「夾竹桃」 

 実の父に捨てられた娘を引き取った主人公は、娘が大人になっても父を恨み続けるのでは彼女は大人になっても救われないだろうと思うところで終わる。何ともやりきれない読後感であった。

・「桜まつり」

 不倫して死んだ兄と女との間にできた息子の所へ兄の遺産相続について相談に出掛ける桜まつりの日。当然、相続の分割を要求されるだろうと堅い覚悟を持って訪ねたが、息子は事業に成功しているらしく向こうから権利を放棄してきた。意外な展開に敗北感を味わったり、不倫の子が父や他の兄弟にも似ているのに気づいて氷るような思いをさせられたりしてしまう。スリリングな心境を味わわせる筆致の巧みさは、ドキュメンタリーな長編作家でもある筆者の真骨頂だろう。 

・「クルージング」

 船上ディナーからの岸辺の夜景と戦時中の空襲の焼夷弾のあかりを心象風景としながら、出会いの時空を超えて「感謝」の機会が訪れるという物語。揺れるままに進むクルージングが悩める心を癒してくれたかのように…。

・「眼」

 明日の知れないホームレスが公園の隅からこちらへ不安げな眼を向ける。その眼差しに気づきながらも日常をやり過ごし彼の生死を見逃す自分の眼に罪の意識はないのだろうか。平和な町に潜む不気味な気配に人は気づいていながらどうしようもできないまま生きている。

・「遠い幻影」

 終戦直前に起こり闇に隠された急行列車の惨劇の真実を追うストーリーだが、自分はどうして直接関係もないことを追求していたのだろうか。この世に隠された真実はたくさんある。その淵を埋めたところで何になるのか。成果のない結果に他愛ない達成感を感じているだけではないのか。しかし、すべからく人はそうして生きている。そう思うしか今を生きられない。その連続が人生だ。幻影は断ち切れない。