コラムなタイム
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アイちゃんがいた居酒屋(下)

アイちゃんがいた居酒屋(下)

(9)

 道江と来島愛がアイちゃんのいる施設を訪ねてから二ヶ月程が過ぎた。二人は施設の玄関前で立ちすくんでいた。中のロビーの明かりが消されていて、外の玄関口は薄暗かった。
 ガラス戸には白い紙が貼られていた。赤い線の囲いの中には、こうあった。
「当施設におきましては、流行している新型コロナウイルス感染症の予防対策の一環として、当面の間、施設内におけるご利用者様への面会制限をお願いさせて頂いております。ご協力の程を宜しくお願い申し上げます。
 尚、ご不明な点がございましたら、下記にお問い合せ下さい。」
 欄外に電話番号が記されていたが、それだけが他の文字に比べて小さかった。できれば電話をかけるのも控えてほしいと言っているようであり、事態の深刻さを伝えているようでもあった。
「入れないみたいね」
 道江が溜め息まじりに言った。
「そのようですね」
 来島愛も残念そうに呟いた。
 道江はガラス戸に両手をついて「アイちゃん」と小さな声で呼んだ。もう二度と会えなくなるような悲しい響きがした。来島愛は、道江とアイちゃんの深い友情が感じられて胸の熱くなるのを感じた。ふいと涙が一筋落ちた。
「愛ちゃんったら…」
 道江が来島愛が自分以上に悲しんでいるように見えて、とっさにハンカチを手渡した。
「すいません」
「いいのよ、一緒に悲しんでくれてありがとう」
 それから二人は、アイちゃんに後ろ髪を引かれる想いを抱きながら施設を後にした。
 その日、来島愛は上京の準備を進めたいからと言って、先に来た大学方面行きのバスに乗って行った。
「女将さんも、お元気で」
 別れ際、来島愛がひと言そんなふうなことを言ってくれた。
 風が吹くようにみんなそれぞれの道へ枝分かれしてゆく。若い人生の旅立ちを前に、彼女の未来に一つの約束もできない誰でもない自分ならば、別れを惜しんだところで悲しむのも感傷のうち。道江は色のない風を追うように辺りを見まわしてから、帰りのバス停の時刻表に目をやった。

 その日の晩も、店にはそれまでのように常連客が揃うことはなかった。新型コロナウイルスの感染が全国的に広まり、その影響が北の小都市の夜の街にも襲い始めていた。
 カウンターに一人いたタロちゃんが寂しげな声で言った。
「何でこんなことになってしまったんだろうね。アイちゃんは来られなくなってしまうし……あんなに楽しくみんな揃って飲んでたのにさ」
 タロちゃんは、言葉の間にひとくちビールを煽って大きく溜め息をついた。道江が慰めるように声を掛けた。
「お仕事はどうなの? 新しく車を買われたとか?」
 わざと話題を変えた。湿っぽい話はウチの店には似合わない。そう思いながら、傍にいた政弘と目を合わせた。ほんとはタロちゃんが奥様とはどうしているのかを訊きたかったけれど、そこはお節介。道江は口をつぐんだ。
 しかし、その日のタロちゃんは少し違って、よく話した。
「ちゃんとした公認会計士でもないから、事務所では今も見習いみたいなもんです。でも気軽でいいですよ。目の前の数字だけ追っていればいいわけですから。新車はアクアです。ハイブリッドにして良かったなぁ」
 それから、タロちゃんは店にやって来ない常連客の仲間の分まで飲むんだと言ってひどく酔ってしまった。いつのまにか隣に政弘が腰掛けていたが、タロちゃんは問わず語りにとうとう自分から離婚話を漏らした。
「いいんですよ、別れたって。慰謝料の計算ならこっちのもんだい。ウチの事務所のお得意の事案ですよ。あいつったら、純愛不倫なんて訳の分からないこと言ってるんだよっ」
 そこで、いつになく乱暴な口を叩いたタロちゃんはひっくり返った。ドスンと音がして椅子からカウンターの下へ落ちた。政弘が抱き上げると、タロちゃんは大きな照れ笑いをしてまた転げた。
 ひと騒動が終えた後、初めて来店の三人連れがもも焼きを注文してから小一時間程して帰って行った。それに釣られるようにしてか、タロちゃんもタクシーを呼んで帰って行った。そして、その晩はそれきり客は訪れなかった。

 巷では新型コロナウイルス感染の蔓延が危ぶまれ始めていた。客足がぐんと減った。道江も政弘も、店内の寂しい沈んだ気配をひどく身に染みるようになっていた。入口の引き戸の曇ガラスに人待ち顔な暖簾が映っている。
「上がろうか」
 政弘が迷いを消すように言った。道江は従うしかないのは誰のせいでもない。いつまで客を待っていても、待ちくたびれた顔では愛想も振る舞えないだろう。疲れた気分が身体中に広がるのを感じていた。店を閉め、二人して二階に上がった。
 客足が鈍ってから、ただでさえ口数の少ない政弘は布団に入ると黙ったまま、いつしか寝息を立てるようになった。夫婦の夜の営みは当然のようになくなっていき、その時を止めたような感覚は低い白波が幾重にも寄せる海の景色に似ていた。
 次の晩、いつか来たサラリーマン二人が来て、その次の晩も同様の一人客が互い違いに三人続けて入った。不思議とその間に常連客はなかった。そんな日が続くのは開店以来初めてのことだった。新型コロナウイルス感染が人出にも影響して、思わぬ客を招いたかのようだった。
 そんな中、全国的に居酒屋が感染元の矢面に立たされる事態が持ち上がっていた。感染力の弱まる冬場こそ書き入れ時だ。冬を越せるかどうかが思案された。
 そうは言っても店は閉められない。開けて来る客を我慢強く待つしかない。月ノ川の暖簾も空っ風に吹かれていた。

 やがて、一斉に揃うことはなくても常連客が久しぶりにやって来る日もあった。
 始めに商店主が一人で現れた。コロナウイルスの感染が広まって客足が鈍くて商売にも張り合いがなくなりそうだ、としきりに話した。
 ところが、マスクを外して酒が進むとすっかり舌の根が溶けた。
「今日さぁ、元警察官の彼を誘おうと電話したら、奥さんが出て言うんだよ。ウチの人、壊れましたって。何から何まで怒ってばかりいるってさ。出世できなかった腹いせかもね。警察の中の階級闘争に負けて、その仕返しを奥さんに当たってるんだよ! 家の中を取調室と思ってるみたいって言ってたよ。上手いこと言うよね、奥さん」
 道江の気配が険しくなった。
「お友達の悪口はよくないわ。やめましょう。あなたのお店だって大変なんでしょ」
 商店主は、焼魚のホッケを突きながら「そりゃあ、そうだけどさ」と呟いて、その後も何事かブツブツと独りごちた。皿の周りに魚の食べかすが散らかっていた。
 その後、印刷屋の営業マンが得意先の男を連れて現れ、じき商談が整ったのか、酔い潰れた商店主を置いて先に帰った。
 閉店近く、携帯の鳴る音がした。商店主が家路の雲行きをためらうように引き上げて行った。

 それから幾日かして、常連客で久しぶりに顔を出したのが天下り先の理事長と事務長のコンビだった。二人は決まって升酒を飲み同じ肴を注文した。その晩は準備した土地の名物いも煮を出した。
「コロナのこんなご時世になって河原の芋煮会もできない。食べるなら月ノ川ってわけで、今日はやっと来たんだ」
「ありがとうございます」
 理事長の勿体をつけた物言いにも、道江は来てくれたことが嬉しかった。奥にいた政弘も声は出さなかったが低く頭を下げた。
 酒の進みは早かった。理事長と事務長はすっかり芋煮会気分らしく、いも煮をお代わりした。
「事務長、先日の出張はどうだったの?」
「仕事は相変わらずですよ。どこへ行ってもコロナで客足は今一つって感じでしたけど」
「それでも事務長は一軒で我慢できない」
「アハハ、お見通しですね。入った店で次の店を紹介してもらうんですよ。今から3000円のお客さんがそっちへ行くってね」
「そうやって何軒くらい歩くの?」
「大体三、四軒かなぁ」
「おいおい、経費使いすぎないでくれよ」
 事務長は、外したマスクをずっと摘んだままでいた手を大きく振って応えた。
「コロナのちょっと前までの話ですよ。理事長だって、出張あるじゃないですか」
「俺は女の名の付いた店探して入るのよ。まち子とか、みち子とかさ、女房の名前だけは避けるけどさっ」
 二人は大笑いしながら升酒を煽った。道江も政弘も呆れ顔を作って応えた。客の少ない頃合い、久しくなかった笑いが起こった。
 そこへ、珍しくアイちゃんのタクシー運転手が店に顔を出した。私服の彼が現れたのは初めてのことで、マスクを外したその顔を道江は思っていたよりも若かったことに驚いた。さてはタロちゃんの第一号は彼なのかもしれない。まさか助手席にアイちゃんを乗せて片腕を絡ませていたとか? 道江は一人笑いして彼を迎えた。
「いらっしゃい。お酒のお客さんでは初めてね。ありがとうございます。そこ、アイちゃんの席ですよ、どうぞ」
 道江は祝福するように柔らかな口調で言った。
 と、そこへ事務長が、
「あぁ恋しやアイちゃん、アイちゃん」
と、升酒を手に席替えして来た。
「初めまして」
 運転手は慌てて挨拶をした。
「水臭いなぁ。いつもあんたの顔は見てましたよ。アイちゃん御用達の車でしょ?」
「そう言っていただけるなんて光栄です」
「でさぁ、ほんとにアイちゃんって一人暮らし? いつも送り迎えしてるから分かるんじゃないの?」
 運転手は少し困った顔をした。
「それは僕にも分かりません。いつも通りの場所からクラクションを鳴らしてお待ちしていますから…」
「送って行った時は?」
 事務長はなおも食い下がった。
「それも、家の前の通りで降りられますから…」
「でさぁ、アイちゃんちってどこいら辺なのさ?」
 そこで案の定、女将の道江の一喝が入った。
「事務長、女性の私生活を詮索するのは止しなさい。紳士の言うことじゃないでしょ!」
「ハイ、私は紳士でございます。ありがとさん」
「何が、ありがとさんです、事務長。お世辞ですよ」
「ハイ、ごもっともでございます。えへへ」
「酔うとだらしないんだから、もう…」
 道江はすっかり呆れた。
 すると、カウンターの端から理事長が事務長を呼んだ。
「おいっ、事務長。焼けたぞ、もも焼き」
「アイちゃんは太郎の嫁になるーってかぁ」
 事務長は、ヨレヨレとカウンターを伝いながら向いに理事長のいる元の席に戻った。
 運転手が一人きりになったので、道江はアイちゃんの送り迎えをしていた彼の労をねぎらった。
「いつもご苦労様ね。アイちゃんに代わって言います。でも、コロナで施設に会いに行っても中には入れなくて会えませんでした」
 道江は、アイちゃんへの不安を見せまいと言葉尻を飲み込んだ。
「記憶力の方はどうなの?」
 運転手が人差し指を自分のこめかみ辺りに当てながら言った。
 道江は訊かれたくなかったけれど、誰よりも早く気づいていたはずの運転手に、そんなことはないとは応えられなかった。
「そーねぇ、少し進んでるかもしれません」
「じゃぁ、もう…」
「でも、まったく体が動かないわけじゃないですから…」
「このコロナのご時世ではね。ちょっと具合悪いだけでも、いろんなこと控える気になっちゃいますよね」
「そうねぇ、不要不急ってね。この商売だってどうなるか分からない」
「会社も運転中はマスクが義務付けされたし…」
 道江は他人事ではない気がした。
 神妙な空気が漂った。運転手はそれきりアイちゃんのことには触れず、空になったジョッキーを黙ってカウンターの棚に乗せてお替わりをした。道江は新しいジョッキーを差し出しながら、それとなく微笑んで見せた。政弘は理事長と事務長の方に体を向けて話を聞いているふうだった。
 ほどなくして話題も尽きると、客たちはそれぞれ盃を傾けては静けさに身を委ねていた。そうして誰が溜め息をついた訳でもなく、それぞれが「じゃぁ」と短い接ぎ穂を残して帰って行った。

 道江は食器の水洗いと調理場の片付けを始めた。政弘は客席の整理を終えて、外へ出て外した暖簾を手にしたまま軒先に立っていた。道江は政弘の後ろ姿を寂しい思いで眺めた。それは初めて抱いた感じがした。
 開け放ったままの戸口から夜の微かな冷気が吹き込んだ。
「寒い」
 道江の呟きが聞こえたのか、政弘が振り返り引き戸を閉めた。しかし、政弘は黙ってそのまま一人で二階へ上がって行ってしまった。いつもなら店を閉めた後は二人で売上を計算するはずだった。
 道江は、このところのコロナウイルス感染による夜の街の不景気に政弘が機嫌を損ねているのに気づいていた。客の一人もない日もあったりした。政弘の恨めしく思う気持ちは道江とて同じだった。彼女も耐えるしかないと思った。
 そんな寂しい夜、道江は抱かれたかった。でも、政弘は隣で背を向けたままだった。抱けない抱かれないこんな夜、誰がした。そんな想いが道江の胸を焦がしていた。

 

(10)

 木枯らしが吹き始める頃、道江のもとに来島愛からの手紙が届いた。住所は東京の世田谷区だった。五枚の便箋の片隅には大学の徽章が薄く印刷されていて、そこに来島愛の丁寧な麗しいペン字が縦書きされていた。

 

 女将さん、お元気ですか。ご主人の「名人もも焼」が懐かしいです。今、私は東京の大学院に在籍しています。しかしコロナの感染予防のため、勉強はほとんど自宅でのリモートです。生活の方は家庭教師を二つ掛け持って何とか凌いでいます。孤独な日が多いのですが、孤独には昔から慣れているので、むしろ落ち着いて勉強ができています。そう考えるようにしています。時折、女将さんを始めご主人やお店のご常連さんたちからとても親切にしていただいたことを思い出しては頑張ろうと気持ちを奮い立たせています。

 思い出すといえば、どうしても忘れられないのが施設にいるアイちゃんです。お会いした時の手の温もりと薄く潤んだような瞳の輝きを時々思い出します。手を強く握り返してきた瞬間は心が震えました。同時に、瞳の奥から「愛ちゃん」と呼ばれたような気がしたことも鮮明に覚えています。初めてあったのにあんなに熱い気持ちで迎えられたのがとても不思議でした。きっとアイちゃんは私を誰かの代わりにして何か大切な想いを届けたかったのかもしれません。そんなふうに想像したら、アイちゃんは私の心にとって大きな存在となっていました。悲しみが心の沈んだ時の冷えた気持ちばかりでなく、こんな温かいものであることも初めて知りました。今では、この悲しみを支えにして前を向いて歩いて行けそうです。だから、私はもう一度アイちゃんにお会いして感謝を伝えたいのです。コロナ禍でもあるので直ぐにというわけにはいきませんが、いつかまたお会いできると信じています。どうか女将さん、もう一度アイちゃんの所へ私を連れて行って下さい。

 前にもお話しさせていただいたことがありますが、私の心にはアイちゃんとは別に忘れてはならない人がいます。それは津波で亡くした福島の育ての両親です。きっと二人は手を取り合って一緒に波に呑まれて行ったのだと思います。最後に私の名前を呼んでくれていたと思います。私はそう信じています。

 その二人を幼かった私はなかなか「お父さん、お母さん」と呼ぶことができませんでした。初めて呼んだのは小学校に入ってからのことでした。自分にも親がいることを認めたかったからです。分からない算数を教えてもらおうとした時でした。漁業組合で経理を担当していた母はとても頭のいい女性で、喜んで教えてくれました。それ以来、私は算数はもちろん中学の数学も好きな科目の一つになりました。お父さんは科学図鑑やシャーロックホームズの推理小説をよく買って来てくれました。私は自然に勉強も読書も好きになりました。たくさんの小さな達成感が何度も私を勇気づけてくれました。だからここまで成長できたのだと思っています。

 自分のことばかり書いて、ごめんなさい。お店は今、コロナでご苦労されていると思います。女将さんがご主人とは幼馴染みで、ご一緒にお店を持たれるまでのお話をされた時のことを思うと胸が熱くなります。多くの苦難を乗り越えて来られたお二人のことです、きっとまたいい日が来ると信じお働きのことと思います。私もいつかそちらへ伺った時には、あの正直で底抜けに明るいご常連さんたちにもお会いしたいと思います。そして何よりもアイちゃんに会いたいです。女将さん、どうぞまた連れてって下さい。同じことの繰り返しになりそうなので、この辺で筆を置きます。

                かしこ

  十一月十二日

               来島 愛

 今田道江様

 

 

 手紙は便箋の五枚目の半分を残して終わっていた。道江はじっとその余白に目を落とし、すぐに返事を出さなければと思った。

 伝えなければならないことがあった。手紙のあったことは運命の導きかもしれない。道江は店を終えたら返事を書こうと心に決めた。

 その晩も、やはりコロナウイルス流行の兆しで客は少なかった。常連の理事長が一人でやって来た。

「今日はお一人なのね」

 道江は挨拶がわりに言った。

「こんな状況だからね。事務長も気軽に誘えなくなってしまったなぁ」

 理事長は無念をこらえるように呟いた。

「たまには、いいんじゃないですか、こんなご時世には」

 そう道江は言いながら、理事長の前にいつもの枡酒を置いた。

「そうか、一人も悪くないか」

 ひと口飲んで自分を慰めるように理事長が応えた。

 そこへ、政弘がカウンターの中から出て来て理事長の隣に腰掛けた。

「珍しいこと」

 道江は、思いがけない政弘の行為を褒めそやして、理事長と同じ枡酒を政弘の前に置いた。

 しかし、政弘は理事長に話し掛けるでもなく、時折溜め息を紛らわすように酒を口にするばかりであった。

 理事長も、そんな武骨な政弘を知り尽くしていて格別な素振りは見せない。二人は並んで座りながらも黙ったままだった。

 しばらくして、理事長が独り言のように言った。

「わしゃぁ、もうこの春にはお役御免なんだぁ」

 その捨て鉢な言い方に一瞬、政弘が気を止めて真顔になった。道江は、政弘が次に何を言い出すのか不安になり、反射的に声を掛けていた。

「お役御免だなんて、よかったじゃないの。もう十分お働きになられましたでしょ」

 そう理事長に労をねぎらい、ついでに夫の政弘にもおべっかいをした。

「アンタもさぁ、隣に座ったんだから何か話してさしあげたらどうなの」

 こんな時、政弘は女房に滅法かなわない。政弘は枡酒を持った肘を上げてひとこと言った。

「おめでとう」

「何ぁんか、つれないわねぇ、アンタ」

 そんな夫婦の馴れ合いに恐縮したのか、理事長が照れながらも意外なことを言った。

「いいんですよ。どうせ人生、後が少ないんだから。女房もとっくにいないし…」

 道江は驚いた。初めて聞いたことだった。気の毒な気がして声を落として詫びた。

「今まで気がつかなくてごめんなさいね。アンタ、一緒に謝りましょ」

 政弘は立ち上がって道江に倣った。同時に理事長も立ち上がって頭を下げて苦笑いした。

 それから理事長は、前の会社で部長に昇格した年に一人娘を嫁に出し、その後定年退職した翌年に妻を乳がんで亡くしていたことを話した。終始、淡々と枡酒をちびりちびりと舐めながら落ち着いた口調だった。

 理事長はきっと悲しみをじっと堪えてきたに違いない。それは道江にも政弘にも初めて理事長に感じた男気のある気風を思わせた。

 政弘が黙って理事長の肩に腕を載せて同情を隠さず鼻をすすり上げた。道江も後ろを向いてひとしきり潤んだ瞳を拭った。

「さぁ、もう少し飲んで気持ちを取り戻しましょ」

 そう道江が張りのある声をこしらえて言いながら、カウンターの二人に一升瓶の酒をそれぞれの枡に注いだ。

 程なくして、理事長が酔いを飛ばすように声を上げて言った。

「アイちゃんに会いてぇなぁ」

 政弘も真似るように叫んだ。

「会いてぇなぁ」

 それから道江も交えて「愛ちゃんは太郎の嫁になぁる~」と声をそろえて歌った。しかし、すぐに止めて笑い合った。

 そして、理事長がシャンと立ち上がり深々と礼をして言った。

「今日は私めの勝手な話を聞いていただき、誠にありがとうございました。では」

 そう言ってお愛想をし、しっかりした足取りで引き戸に向かい、パンッと暖簾を弾いて帰って行った。

 外の寒気が吹き込んで、道江と政弘は店の締めにかかった。そして深夜、道江は一人カウンターに腰掛け来島愛への返事をしたためた。

 

拝啓

 愛ちゃん、お手紙ありがとう。実は悲しいお知らせがあります。アイちゃんは十月三十一日の朝、急に病院で亡くなられました。施設の当直の女性の方が、アイちゃんが運び込まれた病院から電話をしてきました。

「今田道江さんのお宅でございますか」

 女性は初めに施設の名前を名乗ってから、震える声でこちらを確認する問い合わせをして来ました。私は少し訝しげに「そうですが……」と応えていました。あとは思いもしなかった知らせで、携帯電話を握った手が凍えるようでなりませんでした。

 アイちゃんは、目を覚ましてすぐにベッドの非常ベルでコールサインして来たということでした。当直の女性が部屋へ駆けつけた時には、アイちゃんは喉を詰まらせて苦しんでいました。女性は一緒にいた係員とともに救急車を呼んだり、病院へ向かう準備にとりかかったりしていました。

 病名は誤嚥性肺炎で、もともと心臓病を患っていたアイちゃんのこと、重病は耐えられるものではありませんでした。私たちが病院にたどり着いた時にはもう病室ではなく、アイちゃんは霊安室にいました。

 私たちは駆けつけた病室の前の暗い廊下で呆然としていました。人の命が軽く扱われたように思いました。霊安室に案内されると、制帽を被った男の人が立っていました。まさか事件であるはずもないのに警察官のように見えてしまい、そんなことを打ち消すのに暫く私はやるせない気がしてしまいました。

 霊安室に入ると、コンクリートに囲まれた四角い暗室の真ん中にアイちゃんは仰向けに寝かされていました。薄緑色したビニールに覆われ、顔には白い布が被されていました。私は政弘さんに支えられながらアイちゃんに近づきました。そこでもまた、私は妙な感じに陥ってしまったのです。アイちゃんの胸の盛り上がり方が小さく尖っていて、不思議にリアルに感じられてしまったのです。私は一瞬、嘆きとも違う何か生理的な呻き声を漏らしていました。それは失神の瞬間のようでもありました。足もとから力が抜け、その場に崩れ倒れそうになりました。しかしすぐに、政弘さんが私の両脇に腕を入れて起こしてくれました。

 そして、政弘さんは私の震えが収まるのを待ってから、アイちゃんの顔に掛かった白い布をゆっくりと引き上げました。

 アイちゃんの顔は美しかった。いくつも若返ったように白い綺麗な顔をしていました。私は不思議と冷静になっていました。おばあちゃんだったけれど、誰からも羨ましがられた若い頃の美貌を湛えた面差しは、静かに最期の死を受け入れて安心しきっているように見えました。霊安室という陰湿さを吹き払って、狭い薄暗い部屋を安らかな空気で満たしてくれていました。いつも優しかったアイちゃん。私は自然と話しかけるように呟いていました。

「アイちゃん、ゆっくり休んでね。もう寂しくも辛くもないから。新しいお友達を作って、今度こそ普通に幸せになりましょ。その時はもっと早く出会いましょうね。そしてまたいっぱいお話ししましょう。そう、ずっと後のことでしょうけど、あの同じ名前の女子大生の来島愛ちゃんも一緒に……。アイちゃん、これまで本当にありがとうございました。さよなら、アイちゃん」

 隣で政弘さんが、「さよなら、アイちゃん」と同じようにそこだけを繰り返していました。私は政弘さんの手を強く握り、アイちゃんの死をようやく受け入れることができたように思いました。しばしそのまま立ち尽くしてから、アイちゃんに深く礼をし霊安室を後にしました。

 遺体は翌日荼毘にふされました。そしてその二日後、アイちゃん馴染みの旧花街に近いお寺で葬儀が執り行われました。始めは私たち夫婦の他は、施設長さんと町内会町さんの四人だけの予定でした。

 ところが、驚いたことが起こりました。お店の常連さんたちが揃って葬儀の参列にやって来てくれたのです。タロちゃんを始め、かの理事長と事務長、商店主と元警察官、印刷屋の営業マン、そしてアイリスのママの総勢七人が、誰が示し合わせたのか黒い喪服を着て、それまで見たこともない神妙な面持ちで現れました。こちらまで緊張感が伝わって、お互い他人行儀な挨拶の仕方をしていました。アイちゃん一人が骨壷の中で笑っていたかもしれませんね。

 読経の最中のことでした。常連さんの内の誰かが「アイちゃ~ん」と、語尾を伸ばした感極まった声を張り上げました。それは明らかに泣き出しそうな響きがしていました。唐突でしたが、その場にいるすべての人の悲しみを代表した叫びに聞こえました。お堂の中は、一瞬空気が止まったようになりました。

 そして、型通りに参列者の席へ焼香台が回されました。喪主をかって出た私たち夫婦から始まり順に回されました。少人数なのですぐに焼香台が戻って来るかと思いましたが、なかなか回って来ませんでした。後ろを振り向くと困ったことになっていました。タロちゃんの席で焼香台が転がってしまい、彼の周囲が灰だらけになっていたのです。隣にいたアイリスのママがハンカチで灰を寄せ集めていました。タロちゃんは恥ずかしさの余りすっかり固まってしまっていました。

 そんないつにない緊張感に包まれた中で、やがて葬儀は終わりました。アイちゃんの遺骨は永代供養の共同墓地に納められ、ほどなく私たちはそれぞれ無言のままお堂を後にしました。

 その晩、お店でアイちゃんを偲ぶ直会を行いました。アイリスのママさんがお店を休んで若いホステスさんを二人連れて来てくれました。お一人は新人さんということで初めて会う男性もいて、さっそくママさんが彼女を紹介がてら営業したりしていました。会は思いのほか華やいで、アイちゃんもあなたもひょっこり現れるんじゃないかと思ったくらいでした。

 みんなアイちゃんを忘れたわけではないけれど、あまりアイちゃんのことを話題にしてはいませんでした。きっと思い出せば寂しい気持ちになってしまうし、せっかく集まったのだからできるだけ楽しい会にしたかったのだと思います。偲ぶ会とはいえ湿った雰囲気では、天国のアイちゃんが喜ぶはずもありませんしね。私たち夫婦も心置きなく楽しむようにして、皆さんをおもてなしすることにしていました。

 ただ、タロちゃんだけがさすがいつもの元気がありませんでした。自分から話すこともなく、年上の常連さんたちの話をおとなしく聞いていました。ときおり話しかけられても、終始相槌を打っているだけでした。

 でも最後に、そのタロちゃんがみんなにあなたの名前がアイちゃんと同じだったことを改めて告げると、みんなも一斉にあなたを思い出したようでした。

「アイちゃんの若い頃って、あの女子大生の愛ちゃんのように綺麗だったんだろうなぁ」

 そんな話題が聞こえていました。タロちゃんも少し元気を見せて、皆ホッとしたようすでした。

 アイちゃんを偲ぶ会の締めはみんなで拍手をして散会となりました。その後、それぞれが都合をつけてアイちゃんの共同墓地へお参りすることになり、私たち夫婦もタロちゃんを誘ってお参りしました。

 タロちゃんは墓前で自分のコップも用意してきて「カンパーイッ」と小声で言ってから、しばらくそこに胡座をかいて座っていました。アイちゃんとお酒を汲み合わしている気でいたのだろうと思います。私たち夫婦は、そんなタロちゃんを墓前に残して山門の所で彼を待っていました。

 思ったより長い時間だったのですが、心配しかけたところへタロちゃんが戻って来ました。見た目にもすぐ分かる腫れぼったい顔をしていました。きっと墓前で一人ひとしきり泣いていたのだと思います。

「お待たせしちゃったみたいですね」

 タロちゃんは照れたように言って、向かいのバス停へ駆け寄って行きました。

 こうして私たちはアイちゃんを見送りました。もっとたくさんお伝えしなければならないことがあるのですが、長くなりましたのでこのくらいにしておきます。ぜひ、いつかアイちゃんの墓前へ手を合わせに来てください。東京はコロナで大変でしょう。こちらも油断できない状況が迫っていますが、必ず感染は止まって終息するはずです。その機会が来ましたらご連絡ください。お待ちしています。どうぞご健勝でお勉強に励まれ、希望の道をしっかり歩まれますよう願っています。                今田道江

 来島愛 様

 

 夜はすっかり更けていた。外の気配も深く沈んでいた。道江は、店のカウンターでようやく来島愛への手紙を書き終えた。

 少し長すぎたかと思ったが、書き慣れないはずが思いなしか心のままに筆を運ばせた。来島愛は読んでどんな感想を抱くだろう。気にはなったが、気丈な道江らしく一度読み直しただけで書き直すこともなく封をした。

 翌日の朝、道江はその手紙をアイちゃんの墓前に報告してから、通りに古くからある赤い丸いポストに投函した。

 遠回りして帰った。街並みは見る見る変わっていた。目抜き通りの商店街はシャッターが降りたままの商店が増えたように見えた。たった一つ残っていた老舗デパートも、横たわった巨大な象のように息絶えてしまっていた。

 道すがら同業の店も閉じたところが幾つか目に着いた。とりわけコロナウイルスの感染が全国的に広まってからの飲食店に対する規制は徐々に地方都市にも厳しさを増しつつあった。ガラスの割れた看板が傾いて立っていたり、ドアに閉店を告げる白い紙が貼ってあったりしていた。道江は、それらを見つけるにつけ胸が締め付けられた。

 思えば、月ノ川もひと頃より客足がめっきり減ってきた。道江はそう気づくと、早く店に着いて街の印象を政弘に話して聞かせたかった。

 店に帰ったのは昼をだいぶ過ぎた時刻であった。政弘が店の戸口で煙草を燻らせながら道江の帰りを待っていた。

「これを見ろ」

 出し抜けに政弘が言った。差し出されたのは、役所から届いた店の営業時間を制限する通達だった。道江はそれを見て、いよいよコロナウイルスの感染が足もとまで来たという怖れにも近い気がした。しかし、それは今すぐにはどうすることもできないこと。それよりも、道江は来島愛へ手紙を出したことを政弘に伝えたかった。

「それは良かった。また手紙の来るのが楽しみだね」

 政弘は、無関心を装うように抑揚のない口調で言った。道江は、そんな誠意のない政弘の気持ちが測りかねた。しばしお互いの間に気まずさが漂った。

 しかし、コロナでお客が来られなくなるという予感は避けられないだろう。道江は、店がこれ以上思うようにならなくなるのが目に見えてきた気がして、寂しさが胸を突くのを感じた。沈黙は気まずさを帯びそうだった。

「いっそ店、閉じちまうか」

 政弘の短気な悪い癖が出た。道江は沈んだ気分を押し開くような口調で言い返した。

「やめるやめないなんて言ってもアンタ、この店は私たちの家よ。どこの知り合いの店にも行けやしないじゃないですか」

 政弘は両腕を組んでダンマリを決め込んだ。

「そうやって投げ槍になるのよね。いつからかしら、そんなアンタになったのは?」

 気まずさは濃くなった。道江は悲しかった。

「コロナのせいよ。私たちのせいじゃないんだから……」

 夜の深くふけていく気配が店の中にまで忍び込んでいた。何を言い出せばいいのかも見つからない暗闇の底のようだった。

 やがて、沈黙の扉を開いたのは政弘の方だった。

「そうだな、わが家だったな」

 政弘が謝るように静かに語気を柔らげて言った。そして、何を言って応えていいのか分からないでいる道江の気持ちを押しはかるように続けて言った。

「久しぶりに一緒に風呂にでも入るか」

 背後から道江の両肩に手を載せながら言った。

 道江は赤い顔をして政弘の脇腹へ片肘を小突いて小さく微笑んだ。涙が浮かんでいた。

 

11・最終回)

 夕暮れ前、小雨のような雪が降った。

「こういうのを細雪って言うのかしら」

 暖簾を掛けに出た軒先で、道江がそう独り言を呟いた。

 傍を知り合いの店の年老いた板前が通り過ぎて行った。道江は何気ない会釈に心が温んだ。いつもどおりの「アンタぁ」と呼んで政弘と店を始める合図にも弾みが付いた。

 このところコロナ感染予防のために、店の準備にはカウンターや膳を始め店内の所々を消毒液を使って拭いて回らなければならなかった。いずれは客席の食卓の上に透明の仕切り板を置いたり、営業時間の制限もしたりと、それまでには考えられなかった予防対策が強いられると噂されていた。

 何もかも初めてなことが始まる。道江も政弘も覚悟はしていた。幸い初老に差し掛かろうとする年代でもあり、このあたりで中休みのつもりで焦らず店を続けていこうと考えていた。

 それでも時折、気づいたように消毒液にむせって天井を仰ぐこともあった。

「仕方ないか」

 そう道江が呟けば、カウンターの中で骨付きもも肉の下拵えをしている政弘が気を吐く。

「負けてらんねぇさ」

 この人の向こうっ気はあんまり当てにはならないけど、不思議と間違えもなくやって来られたのが幸い。道江は布巾を手にした腕の袖をまくって精を出した。

 

 そんな晩のことだった。来島愛からの電話があった。懐かしい声がした。

「女将さん、お手紙ありがとうございます。アイちゃんが亡くなられたこと、とても悲しいです。私、何もできなくて…」

 来島愛はそこで声を詰まらせた。思い詰めたものが感じられて、道江は来島愛の優しさを愛おしく思った。

「いいのよ、あなたは東京だもの。コロナでますます大変なことになりそうだし、気をつけてちょうだい。お店はだいぶ暇になってしまったけど、うちの人は相変わらずよ。愛ちゃん、声が聞けて嬉しいわ」

「私もです。お手紙を頂いてお返事書こうと思ったんですが、お声を聞きたくてやっと電話ができました」

「そう、ありがとう」

「はい。それで私、年内にコロナが済んだら、そちらへアイちゃんのお墓のお参りに行きたいと思っています」

「ほんと?それはとてもいいことだわ」

 道江は今までにも何度か思ったことがあった。愛ちゃんはアイちゃんの子だったりして……。二人がどこか似た美貌の女性であることや、施設で会った時にもお互い深く通じ合うような笑顔を交わしていたことなどが思い出された。しかし、電話口でもそんな確証のないことを言うわけにはいかない。自分の空想だ。道江は瞬時にそう思い、言葉尻を呑み込んだ。

 すると、来島愛は道江の心の裡に気づいたかのように、しばし電話口で押し黙った。

「……」

 道江は、大人の自分が先に話し掛けなければと思った。

「愛ちゃん、待ってるわ。楽しみができて嬉しいわ。ありがとう」

 ほんの息をつく間の沈黙があった。来島愛はゆっくり気を取り直すように話し出した。

 「決まったら、またお電話します。女将さん、それまでお店、ご主人と仲良く頑張ってください。それと、ご常連の皆さんにもよろしくお伝えください。愛は元気にいますと」

 道江は、来島愛が初めて自分を名乗ったように思った。彼女の成長が感じられ、熱い気持ちがした。

「そうね、みんなも喜ぶわ。寒くなるけど愛ちゃん、あなたも体には充分気をつけてね」

「男の人にもですね。よく女将さんがこっそり言ってくれたこと」

「そうよ。女の子は一番に気をつけることね。お勉強、頑張ってね」

「はい。……じゃぁ、女将さん」

「お休みなさい」

 来島愛も同じように繰り返して、電話は終わった。

 道江はじっと受話器を握っていた。そこに来島愛の熱い息が籠っているように感じられた。心の中で受話器に向けて、今いちど名前を呼んでみた。すると死んだアイちゃんも思い出されて不思議な気がした。二人はどこかで繋がっている。道江は、そんなふうに思えた。

 

 その晩は、とうとう一人の客もなかった。年の瀬が迫って書き入れ時だというのに、世間を悲惨に追い込んだコロナウイルス感染の広がりは容赦なく地方都市にも押し寄せてきていた。殊に居酒屋など飲食業への締め付けは、ひとり的にされたような厳しさがあった。その日も、仲間の店がこっそりと店を閉じた。

 閑散とした店の中で、しぜん道江も政弘も口数が少なかった。大きな溜め息混じりに政弘が一言、

「地獄だな」

と、捨て台詞を吐いた。

 もう道江も返す言葉がなかった。涙が出た。

 外は、いつからともなく雨のように細く降っていた雪が小粒の粉雪に変わって、雪の粒が複雑な舞い方をしていた。夜風の音が恨めしい。突然、政弘がカウンターを出て引き戸を開け放った。

「アンタ、何するのよ。寒いじゃないの」

 道江は肩をすぼめて叫んだ。

 と、政弘が外に向かって怒鳴るように一節歌った。

「愛ちゃんは太郎の嫁になる~ってか」

 道江は、歌など歌うような人でない政弘が可笑しかったが、自分も心の中で歌っていたことが何となく嬉しく、小さくほくそ笑んだ。

 それからしばらく、二人はカウンターに並んで腰掛けたまま、来るかどうかわからない客を待つでもなく、引き戸から吹き込む隙間風を背中に浴びていた。

 

 小一時間して、二人は寒空の夜道へ散歩に出た。店のある袋小路の飲み屋街から旧花街の廓が並んでいた石畳の通りに出た。かつて大門のあった所には高いアーチが建っている。しかし街の名をあしらったネオンはとうの前から消えたままだ。

 そこを抜けると一方通行の通りになる。客待ちのタクシーや代行車が幾台もの列を作っていた。人影はない。夜のしじまが凍りついている。まるで闇を切り取ったかのように、もの寂しい夜の街がそこにあった。

 繁華街の大通りにつながる街角までは、依然として道路の拡幅工事が進行中だ。車線と歩道を仕切る三角コーンが並んだ先までは緩い上り坂になっている。

 街角は様子を大きく変えていた。つい何日か前まであったはずの花屋がなくなっていた。

 道江は気づいてハッとした。政弘をおいて一人小走りして見上げた。ちょうど花屋のあった所から先には、別世界のように明るく照らされた繁華街の大通りが見える。道江は凝視した。大通りの明かりを背に、影絵のように小さな人影が立っているのが見えた。

 それは、店に来た花売り娘であった。しかし、その手に花束はなかった。じっと微塵も動かずに立ったまま花屋のあった方を見つめていた。

 歩みを進めると、花売り娘の瞼のあたりが光って見えたような気がした。花屋をなくした少女の胸の痛みが伝わった。

 道江は振り返って政弘を呼んだ。政弘が駆け寄ると、見返した先の人影は消えていた。

「ほんとにあの子だったんだから」

「そうか、そうか。おまえがそう見えたのだから、そうだろうよ」

「お花が売れなくなって可哀想。どうするんでしょうね」

「大丈夫さ。昔のおまえのように芯の強そうな子だったじゃないか」

「あら、そんなおべっかい言って、もうっ」

 政弘はさっさと前を歩いていた。

「ねぇアンタぁ、東京の愛ちゃんがコロナが済んだらアイちゃんのお墓参りに来るってよ」

「どっちも名前がおんなしだ。おもしれぇなぁ、道江」

 オイとかヨーとか、そんなふうにしか呼んでもらえないのに、初めて名前で呼ばれたようで道江は嬉しかった。体が寒さまで溶けそうに感じて、思わず胸を押し付けるように政弘の腕にしがみついた。政弘の片腕が道江の肩を抱いた。

 そうしたまま、二人は大通りの明かりの方へ歩んだ。ビルとビルの谷間を再び小雪が風に舞っていた。通りへ出ると、人気のない夜の商店街にクリスマスを呼ぶジングルベルの曲が聞こえた。街路樹の青白いイルミネーションの連なりに誘われるように、二人は歩いてゆく。

 道江はふと歩みを止め、心の中で「アイちゃん」と呼んだ。白い短い息が膨らんで消えた。その時、不思議に霞んだ月が厚い雲間から顔をのぞかせた。見上げた二人は再びゆっくりと夜を歩み始めた。 

(全・おわり)

アイちゃんがいた居酒屋(中)

アイちゃんがいた居酒屋(中)

(5)

 アイちゃんは一人暮らしを整理して養護老人ホームに入っていた。施設はそれまで住んでいた町から川を遡った遥か山里にあった。そこまでバスで二十分ほどかかった。県都の喧騒を離れた静かなその場所は老人にとって淋しさが募るばかりではないかと、道江は建物に入ってから何となく入所している老人たちを見て思った。

 アイちゃんは、施設でも〝アイちゃん〟と呼ばれていた。入所した時、出迎えた施設の一人が第一声にそう呼んだからだった。アイちゃんはやっぱりここでも〝アイちゃん〟だった。 

 面会ができる談話室には、吹き抜けの大きなガラス窓から昼過ぎの明るい日差しがたっぷりと注いでいた。アイちゃんは白地の介護パジャマの上に薄い紫色のカーディガンを着て、両脚をかたく揃えてテーブル席に腰掛けていた。月ノ川の店ではきまって着物姿だったせいか、初めて見るラフな洋服姿のアイちゃんはひどく小さくなったように見えた。道江が近づくと、少しびっくりしたような表情をして見上げた。

 道江はアイちゃんが哀れに思えた。

「アイちゃん、月ノ川の道江ですよ」

「……」

 アイちゃんは少し驚いたような目をした。思い出せないと泣き出してしまいそうでもあった。道江はゆっくり膝を折ってアイちゃんの手を取った。

「アイちゃん、こんにちは」

「はい、こんにちは」

 微かな笑みをしてアイちゃんが言った。自分の名前が分かっていたのかどうか、道江はもう自分が誰であってもいいと思った。降り注ぐ恵みのような日差しと同じ優しい気持ちだけでいようと心に決めた。

 

「ここは素敵なところね」

 天井まで届いた大きなガラス窓の向こうには、新緑の山なみが迫るように聳えていた。

 二人はしばし外に視線を向けていた。

「ス・テ・キ」

 吐く息に乗せるようにアイちゃんが呟いた。それは自分のいる場所を自慢したい気持ちだったのかもしれない。仰ぎ見た眼差しが柔らいでまたわずかに笑みが浮かんだ。

 しかし視線を戻すと表情は再び沈んだ。わずかに怯えているようにも淋しがっているようにも見えた。落ち着かないというほどではないが、きっと自分をどうしていいのか分からないでいるのだろうか。道江にはアイちゃんがすっかり違う世界を生きている、そんなふうに思えた。

「きょう朝ね、卵焼き食べたの。美味しかったな」

 道江はアイちゃんの気持ちを迷わせたくなかった。それで訳もなく自分のことを話した。どうして卵焼きだったのか、言葉にしながら自分が可笑しかった。

 そんな道江を見上げて、好きな遊びを見つけて喜んだ時の子供のようにアイちゃんはまた小さく笑った。笑いながら身を乗り出すように両手でテーブルの上をしきりとさすった。いつまでもさすっていそうだったので道江がその手を押さえると、アイちゃんは突然突っ伏してすすり泣き始めた。

 道江は驚いた。さすっていたのを止めたからだと後悔した。

「ごめんなさい、アイちゃん」

「……」

 声をかけると、顔を上げてまた胡乱な眼差しをして道江を見つめた。道江はつかんだ手に少しだけ力を込めた。すると、アイちゃんは言葉にならない思いを届けようとしているように唇を震わせ、とうとう瞳を潤ませた。

 道江は、きっとアイちゃんは自分の心のありかを忘れてしまって悲しんでいるのだろうと思った。それがどんな心境なのか、アイちゃんの涙に触れてみた。すると、今度はアイちゃんが道江のその手をつかんだ。涙が道江の手の甲に流れ落ちた。冷たい涙だった。

 

 広い談話室には四組のテーブルが並んでいた。そこには道江とアイちゃんの二人だけだ。アイちゃんは痩せた背を丸めて俯いたまま。道江はほんの短い溜め息をついてから外の景色へ視線を向けた。

 もう何も話さなくてもいいと思った。道江はアイちゃんの悲しみをゆっくり解きほぐすように結んでいた手を離した。そうしてる間に、アイちゃんは疲れたらしく優しい寝息を立てた。

 しばらくして昼下りが傾き始めた。入居者の昼寝の時間なのかもしれない。道江はアイちゃんを部屋へ戻してあげなければと思った。困って周囲を見まわしていると、広い談話室の仕切りのガラス戸の向こうから青いエプロンをした介護士の若い男性が歩み寄ってくるのが見えた。

「アイちゃん、部屋へ戻りましょ」

 離した手をアイちゃんの手の甲に載せて道江が声を掛けると、アイちゃんが小さく唸った。ため息をついて道江がどうしたものかと思ったところ、ちょうど介護士がテーブルのそばに立っていた。

「ありがとうございます。あとは私が連れて行きますから」

 介護士の男性は道江に丁寧な挨拶をしながら腰をかがめると、実に慣れた動作といったぐあいに俯いたアイちゃんの両脇の下に腕を差し込んで、そのままゆっくりとアイちゃんを立ち上がらせた。

「ありがとね」

 アイちゃんは不思議と急に目覚めて、潤んだ目をして男性に体を持たせかけた。

「さぁ、行きましょう」

 二人はそのまま背を向け一歩一歩踏みしめるように談話室を出て行った。

 道江は取り残されたようにその場に立ちすくんだ。静か過ぎるほど自然に幕を閉じたかのような一幕だった。道江は再びため息をついた。

 

 道江は、しばらくそこにいたかった。今度はさっきまでアイちゃんが座っていた椅子の方にまわって腰掛けた。

 すでに遠のいた二人の後ろ姿も消えて、空っぽになったような心の中でふと浮かんだ。

 あぁ、アイちゃんらしいな。

 アイちゃんはお店でもそうだったように、若い男性がそばに来ると、どちらからともなく不自然でなく寄り添える蠱惑的な磁力を醸し出す持ち主だった。すでに八十を数え磁力のほども衰えてきているはずなのに、記憶の妖しさも手伝って微かなほとぼりを灯すのだった。

 なるほど、介護士の男性も心なしか嬉しそうであった。彼もやはりアイちゃんのタロちゃんになったのかもしれない。

 そう思ってお店のことが気になり始めて立ち上がろうとした時、向かいのテーブルに古い顔があった。

 

 その顔は忘れることにしていたはずだった。道江はその場をやり過ごそうかと思ったが、目が合って何か尋ねないわけにいかなかった。相手も何かを言いたげであった。

「失礼します。もしかしたら……」

 道江は徐ろにきいた。

 男は腰掛けようと中腰になったところで腰を上げ、虚な目を道江に向けた。大柄で強面なその目は不似合いに恥ずかしげだった。

 道江は言いかけたままでは失礼かと思い、ふと浮かんだ名前を告げてみた。

「橋詰様ではございませんか?今田です」

 相手が自分の旦那の友人だったことに多少の遠慮を含ませながら、苗字だけを名乗った。

「……あぁ、みっちゃんか」

 その言い方はひどく年寄りじみて、声も嗄れていた。そこで道江は初めて橋詰の手に杖のあることに気づいた。

 気の毒な気がして頷くだけになった。小さな驚きが喉を突いた。かと思うと、道江は橋詰のテーブルに二、三歩歩み寄っていた。

 人は変われば変わるものだ。なんと哀れなものだろう。アイちゃんは子供のように変わり、この橋詰は小動物のように変わってしまった。道江は、改めて今自分が来ている場所が現実とは遠くかけ離れた世界のように感じた。

「はい、今田道江です。思い出して頂けましたか」

「あぁ、やっぱりみっちゃんだぁ」

 政弘の古い友人とは言っても自分とは幼馴染ではない。店を持つ時に世話になっただけだ。しかし、道江に叔父から嫁ぎ先について話があった時、橋詰が自分にだけいいように仕向けた悪事だけは、道江は忘れいていない。

 それにしても、いま目の前にいる橋詰には、あの後どんな手管を使ったか知らないが、村の議員にまでなったというあの遠慮のない図々しさは微塵もなく消え失せていた。

「叔父さんは……」

 そう、道江は言いかけて止した。訊いたところで政弘に報告しても、また政弘は腐って文句を言うだけだろう。俺達を足蹴にして成り上がりやがって、と。

 よく見ると、グレーのパジャマの上に羽織ったカーディガンの裾には白い名札が縫い付けられていた。と、突然、橋詰はにやけた表情をしてフラつきながら道江ににじり寄った。

「やぁ、みっちゃん。相変わらずいい女っぷりじゃないか」

 本性だけは呆けないのだろうか。その表情は初めの哀れに見えた印象とは裏腹に恐れを感じさせた。道江に不安が襲った。これ以上昔の記憶を思い出されていいことはないだろう。道江はすぐに深く頭を下げて後退りしながらその場を立ち去った。

 廊下の影で深く深呼吸した。橋詰が追いかけて来ないか不安がよぎったが、杖の音はしなかった。道江は施設の玄関に向かった。

 

 なぜ橋詰がアイちゃんと同じ施設にいたのか、そんなことはどうでもよかった。またここへアイちゃんに会いに来ても橋詰とは顔を合わせないようにしよう。そして橋詰と会ったことも忘れようと決心した。

 せっかくアイちゃんに会えたというのに。道江はアイちゃんの変わり果てた姿に淋しい想いをしたのと、会いたくもなかった橋詰に会ってしまった後悔の念で、心が掻きむしられてならなかった。早く政弘に会いたいと思った。

 施設を出てきてすぐ前の通りのバス停に立った。道江はじっと待っているのが耐えられなかった。足早に通りを歩いた。悲しいのと悔しいのとが混じった苦い涙が溢れた。

 それでも時折、気を取り直そうと顔を上げた。じき道の先に川の土手が見えた。ここを真っ直ぐ行けば必ず帰り着く。道江は足取りを早めた。気がつくと涙は川風に吹き払われていた。

 

(6)

 揃い踏みの常連客が店を満たしていた。

「それで、アイちゃんの様子はどうなのさ」

「変わらないわ、あの時のまま」

「あれ以上ボケが進んでないってことかい」

「まぁ…」

「まぁじゃ分からないよ」

 客たちが道江に詰め寄った。道江は観念して、

「もうお店には来られないと思う。あっちもだいぶ進んだし、泣いてばかりいた」

 と、それだけをやっと言った。

 一つため息をついてから、道江は目の前に並んだ小松菜の小鉢に順に削り節を散らした。それを政弘が盆に載せて、小上がりの方の客へ運んだ。

 カウンターの常連客たちはすっかり落胆してしまい黙り込んでいた。アイちゃんはもうこの店にはやって来ない。例のタロちゃんは半ベソをかいている。元警察官と商店主は肩を組んで慰め合っている。理事長と事務長はそれぞれに枡酒に目を落としたきりだ。印刷屋は天井を仰いでいる。

 店の中は小上がりの方からサラリーマンたちの陽気な話し声が聞こえているだけで、まるで天と地が一緒に同居しているかのようになった。

 かと思うとしばらくして、小上がりの方までが神妙な話題になったらしく囁き声だけになった。もちろん上司の悪口か女子社員の噂話に違いなかった。聞き耳を立てるほどでもないとばかりに、政弘は顔をしかめて呆れている。そんな時、道江は反対に店の雰囲気が沈んではいけないと振る舞う。客の目の前の肴に一切れ足して回るのだった。

 気をよくした商店主が叫ぶように言った。

「今年も花見しようぜ。ね、女将」

 商店主は、女房とまだ嫁の来ない息子に店を任せっきりで遊ぶことしか考えていないようだが、外では気を効かすことは忘れていないようだ。だいぶ禿げ上がった頭を平手でパシンと叩いてみせた。

 女将の道江は「ご自由に」と、小さく微笑んで応えた。

「そうだそうだ、花見だ。夜の花見ってのもいいんじゃないの」

 こちらは元警察官。そのくせ女のことしか頭にないスケベー親父で、挨拶もひどく芝居染みて大袈裟であった。

 どういうわけか、偶然にもそこへ夜の花見の女神が現れた。スナックアイリスのママだ。

 突然の登場にすかさず元警察官が立ち上がって片手を上げ最敬礼した。すると、カウンターの仲間たちがクスクスと薄笑いした。

「あーらっ事務長、またここにいるのぉ」

 変わり身の早いママが目ざとく見つけた。事務長はカウンターの下に隠れる大袈裟な素振りをしてはにかんだ。

「事務長、スーパーで会っても、あんなふうに私を呼ばないでよぉ」

 ママがいきなりそう叫んだ。事務長はほんとにカウンターに隠れてしまった。

 その事の成り行きは、こうだ。

 

 平日のある日、ママは店に出る前にお通しの仕込みのためにスーパーマーケットに立ち寄った。紺青のワンピースの上に薄いピンク色のハーフジャケットを羽織っていた。当然他の買い物客の女性たちとは違って、彼女は誰が見ても水商売の女性らしく美しかった。

 野菜売り場のコーナーでのこと、ママが大きなブロッコリーを一つ手にした時だ。彼女は背後に人の気配を感じた。

「ママーっ」

 肩先で男の低い呼び声がしたのだ。甘えるような響きがして顔を見るより先に店の客と分かった。緊張して思わず身を離した。

 客の男は急に気まずそうに苦笑いをして小さく頭を下げた。

「こんな所でママだなんて呼ばないでよ。相変わらず気が効かないのね」

 小声で少し高飛車に言ってやった。

「近く店に行くからさ…」

 男は手の平を胸の前に立てて謝る振りをしながら頼りなげな声を漏らした。

「お待ちしてます」

 今度はわざとらしく、少し周りにも聞こえるように声高に言ってやった。

 男は周りの気配を伺いながら何もなかったかのようにその場を立ち去って行った。

 ママは息を殺してその行き先を見つめた。

 男は娘と見紛うほどの若い女性と一緒だった。その二人の間に五歳くらいのかわいい男の子がまとわりついていた。

 と、その子が初めての発見に驚いたようなかわいい声を上げた。

「ママ、いまパパがよその綺麗な女の人をママって呼んでたよ」

 男の子はこちらを振り向いて天使のような笑みを送ってくれた。あまりにも可愛いので、こちらからも小さく手を振り笑みを返した。

 近くに居合わせた女性客たちから羨望の眼差しが降り注がれた。アイリスのママは嬉しくなって周囲にも笑みを振りまいた。

 しかし、そんなスーパーマーケットのできごとのあった日から、男つまり事務長はほんとにご無沙汰が続いてしまったのだった。

 

 カウンターの陰に隠れていた事務長が身を起こして謝るように言った。

「ここ済んだらすぐ行くよ、必ず」

 誘われるハメになる隣の理事長は困惑した表情だ。

「お二人揃って、どうぞ」

 スナックアイリスのママは、それからすぐにいつものように道江から醤油入れの小瓶を受け取ると、せわしそうに自分の店へと戻って行った。

 カウンターに溜息が広がった。それぞれが改めて酒を汲み交わすと、しばし沈黙したまま静かになった。予定を決めるはずの花見の話題も、誰も継ぎ穂を足す気配がなかった。

 花見をしてくれれば二次会は例年通り月ノ川に決まってる。道江は期待しつつも微かな溜息を漏らした。

 政弘は小上がりの注文の鶏の骨付きもも焼きを焼いていた。道江はお盆を手に政弘のそばに歩み寄った。

「私が運ぶ」

 言わなくたって気心の知れた手筈。政弘は黙って道江のお盆にもも焼きの皿を載せた。彼女が小上がりへ運ぶと、客たちは待ってましたとばかりに香ばしい匂いに興奮して一斉に歓声を上げた。

 そのざわめきがすぐにカウンターに伝染して、若いタロちゃんが急に悲し気な声を上げた。

「アイちゃんに会いたいなぁ」

 すると、印刷会社の中年営業マンがタロちゃんの肩を抱きこむようにして、子供を茶化すような甘えた声をして真似た。

「アイちゃんに会いたいなぁ」

 続いて「会いたいなぁ」と元警察官もおどけた声を漏らすと、理事長も事務長も同じように「会いたいなぁ」と声を上げた。すると、たちまちカウンターの常連客たちが「会いたいなぁ」と歌の輪唱のように繰り返した。

 そこへ、小上がりから戻った道江が呆れたようにカウンターの彼らに声を掛けた。

「何しみったれてるのよ。パーッとやりなさいよ。あなたたちらしくないわよ」

 道江は、アイちゃんがもう二度と店には来られないだろうと覚悟していた。でも、そんなこと、目の前のか弱き男たちに自分と同じように覚悟しろとは言えない。だから、ここはパーッとやるしかないじゃない。ねぇ、お客さん。

 そう道江は心の中で言いながら、順に彼らの目の前の酒を注いでまわってやった。

 ひと通り客の機嫌も直って外の気配を伺うと、窓ガラスにタクシーが通り過ぎて行く灯りが見えた。一番引き戸に近いカウンターの元警察官がその気配を勘違いして急に立ち上がって言った。

「アイちゃんかと思っちゃったよ」

 そう頭をかきながら周りに照れて見せると、またよろこけるように腰掛けた。それを見たカウンターの皆は一斉に身をすぼめるようにほくそ笑んだ。

 

 それから小一時間の間に小上がりの客たちが帰り、カウンターの常連客も三々五々それぞれ賑やかに梯子先へ向かった。当然、事務長はスナックアイリスへ。理事長も仕方なさそうに誘われて行った。

 その軍団をひとしきり見送って、道江が暖簾を下げようと軒先へ出た時、向かいの陰に若い女性が静かに立っていた。彼女は店に入ろうとしていたところだった。道江は通りの方に体を向けて、「どうぞ」と優しく声をかけた。

 その声に従うように女性が歩み寄ってきた。灯りの下に浮かんだのは、前にもきたあの女子大生だった。

 道江に導かれて店に入った女子大生は、花柄のワンピースにカジュアルなカーキ色のジャケットを羽織っていた。白い顔が、ずっと昔にきて懐かしむかのようにゆっくりと店内を見渡した。

 道江と政弘は、カウンターの端から見惚れるように立ちすくんだ。道江は、若いってそれだけで美しいと思った。そばにいた政弘の息を詰めた様子が分かった。

 女子大生が現れて、店内は一瞬にしてそれまでのざわめきで濁った空気が一掃されて澄んで見えた。道江はカウンターの上の箸置きを端へ寄せながら女子大生の席をこしらえた。ふっと足下に目をやると紐付きのスニーカーだった。あぁ若者なんだぁと、道江は思った。

「お酒、ください」

「温燗でしたね」

「覚えてくれてたんですか。ありがとうございます」

 たちまち和んだ雰囲気が生まれた。初めの一口だけ、道江がカウンター越しからお銚子を差し向けて女子大生の猪口にお酒をゆっくりと注いだ。それを受けながら女子大生が、

「この地酒、月光川というんでしたね。それで、お店の名前が月ノ川」

 と、歌うように言った。

「はい、私たちの故郷の川よ。日本海に流れ出る川」

 道江も心なしか歌うように言った。

「おいしい」

 女子大生が猪口を口元から戻しながら独り言のように呟いた。

 道江は、それに応えるように突出しのサワラの煮付けを出した。

「サワラって魚へんに春って書くんですよね」

 ショウガの載った皮の切り込みに箸を入れながら、女子大生が言った。

 道江は初めて知って驚いた。それで、冬は何という魚になるのだろうと思った。すると、女子大生が道江の心の中まで見透かしたように言った。

「夏はワカシ、秋はカジカ、冬はコノシロ」

 道江は目を瞬いて訊いた。

「コノシロってお寿司のコハダよね。じゃぁ、ワカシっていうのは…」

「ブリの稚魚です。ブリは魚へんに教師の師」

 女子大生はちょっと得意げに言った。道江はもし自分に娘がいたら、こんなふうに歌うように話す賢い子なのだろうなと思った。

「夜は食べたのかしら。何か作ってもいいのよ」

「いえ、大丈夫です」

 女子大生は急に恐縮そうになって言った。

 いつのまにか、政弘は外へ出ていた。道江はきっとアイリスだろうと思った。海苔むすび二皿を手に、道江はカウンターの方へ出て女子大生と並んで腰掛けた。

「一つずつ頂きましょ。どうぞ」

 そう言って、二つ載った皿を少し女子大生の方に寄せた。そして続けて訊ねた。

「私、今田道江って言うの。もしよかったら、あなたのお名前教えて」

「来島愛です」

 道江は偶然ってあるんだなぁと驚いた。今座っている席はいつもアイちゃんが座る席。そして名前まで似ている。アイちゃんは佐藤愛子だし…。

「じゃぁ、愛ちゃんね」

「はい」

 来島愛は海苔むすびを口許にかざしながら嬉しそうに応えた。二人の間に親しみが通い、しぜんとお酒も進んだ。道江はいつになく心地よい酔いを覚えた。

「愛ちゃん」

「はい」

「久しぶりよ、こんなゆっくりできたの。愛ちゃん、今日は来てくれてありがとう」

「ご無沙汰して、すいません」

「ううん、いいのよ。それより、もう四年生よね。卒業後はどうするの」

 道江は、もう少し彼女のことを知りたかった。

「何も決めてないんです。就活もしていないし…」

 来島愛は沈んだ声で言った。

 道江は、かってに来島愛の人生に何か悲しい何かがあるように思った。それは立ち入ってはいけない事情なのかもしれない。

「ごめんなさい、余計なこと訊いたりして」

「何がですか。私、大丈夫ですから」

 来島愛は小さな緊張を振り払うように言った。そして続けて言った。

「ほんとはここの土地にいたいんです。見る見るきれいに街が新しくなっていくし、希望があふれてるじゃないですか」

 どこか無理をしているようだけれど、元気を取り戻した気配に道江は少し胸をなで下ろした。

「いい所でしょ。あっ、もしかしたら愛ちゃん、こっちに好きな人でもいるんじゃないの」

「やめて下さい。そんな人、いません」

 来島愛は大袈裟に手を横に振りながら言った。その様子に道江も歳の差を忘れて笑った。店はすっかり二人だけの世界だった。

 

 そうして外の気配も忘れていた時だった。カウンター奥の電話が鳴った。

 電話はアイちゃんのいる施設からだった。介護士らしい女性が、道江が身許引受人であることを確認した上で、アイちゃんが大学医学部の附属病院に運ばれたことを告げた。

 道江は、その場ですぐにタクシーを呼んだ。店の簡単な始末をしながら、来島愛に一緒に病院へ付き合ってほしいと頼んだ。

「はい。私と同じお名前なんですよね。お力になります」

 来島愛は快く引き受けてくれた。二人は慌ただしく病院へ駆けつけた。

「急いで、運転手さん」

 道江は、運転席のシートにしがみついて前方を見たまま不安に駆られていた。来島愛も揺れるシートの上で身を硬くしていた。

 暗い夜道、小雨がフロントガラスを濡らしてワイパーが雨粒を飛ばしてゆく。タクシーは国道を二十分ほど走って大きな大学病院の夜間窓口の前に着いた。

 病室に入ると、女性の看護師と施設の男性がベッドの脇に立っていた。アイちゃんのベッドは六つあるベッドの病室のすぐ入口を入った一番手前の所にあった。そこは仕切りのカーテンが閉められたままで、わずかな部屋の明かりに遮られてひどく薄暗かった。

「応急処置を終えて、このまま朝までお眠りです。軽い心臓発作を起こされたようです」

 看護師が施設の男性に確認の同意を求めながら事務的な報告をした。男性は小さく頷くだけであった。

 看護師が病室を出て行くと同時に、男性も出口へ向かおうとした。すかさず道江はその腕を取って引き止め、病室の他のベッドの患者に気遣いながら興奮を抑えた小声で言った。

「もう少し詳しく教えて頂戴。主治医から何か聞いてるんでしょ。施設でもどうでしたの」

 男性は慌てた様子で応えた。

「部屋からのベルがあったんですよ。蒼白な顔して息絶えだえでしたから、すぐ119番して呼んだんです」

 それだけを言うと、男性が深くため息をつこうとした。そこを、道江は畳み掛けるようににじり寄って肝心な病状について詰め寄った。

 男性は三十歳くらいで気の弱そうなタイプであった。視線を泳がせ、今度は声を細めて言った。

「急な心配はいらない。軽い心臓発作です。お歳ですから、四、五日様子を見て大丈夫なら施設に帰れるでしょう。先生がそう言いましたよ」

 主治医を真似たような口調が可笑く、道江は少し怒りを覚えた。来島愛が身を寄せて道江を気遣った。

 男性は、「時間なので施設に戻らなければならない」と急を装った感じで病室を出て行った。道江は仕方なく溜め息をついた。来島愛と二人で手を取り合い、アイちゃんのベッドの方に歩み寄った。

 

 アイちゃんは安らかな寝息を立てていた。色白の顔色は幾分艶が失われているものの、話し掛ければ目を覚まして微かな微笑みを浮かべるかもしれない。

 しかし寝ているアイちゃんを見下ろしていると、彼女がもうお店には来られなくなるように思えて道江は悲しくなった。来島愛も隣で身を硬くして佇んでいた。

 夜のしじまが病室にも染み込んでいるようだった。しばらくして道江と来島愛は静かに病室を後にした。二人の控えめな足音が静まった廊下に響いていた。

 病院の外に出ると、闇夜にポツンと一台だけタクシーの灯りが見えた。再び道江と来島愛はタクシーに乗り込んだ。夜道をしばらく走ると、大学の近くの通りの街頭の下で一度タクシーは停まった。そこで来島愛だけがタクシーを降りた。

「アパートはすぐそこなんです。明日朝、また病院前で」

 そう約束して、来島愛は小さく頭を下げてからゆっくりとした足取りで夜道を帰って行った。

 タクシーが走り出すと、道江は窓の外を過ぎてゆく街の灯りを眺めた。店にいた時のアイちゃんを思い出していた。それはいつものタロちゃんの片腕に自分の腕を絡ませて身を寄せている姿だった。

 店にたどり着き二階のわが家に帰ると、政弘も帰っていた。

「ただいま」

「どこへ行ってたんだよ。心配したぜ」

「大学病院。アンタが店を出た後、施設の人から電話があったの。アイちゃんが担ぎ込まれたのよ」

「それで」

「うん、ちょっとした心臓発作だって。四、五日、私、施設と病院を行ったり来たりするけど」

「あぁ、そうしてやるといい」

 政弘は、夜遊びしてきた酔を振り払うように覇気のある声で言った。道江はようやく気持ちが和むのを感じた。

 

(7)

 翌朝、道江は施設でアイちゃんの着替えを預かって、すぐに病院へ向かった。

 バスは通勤通学の時間で混み合っていた。大きな荷物を持っていたためか親切な学生に席を譲られて、いつになくはにかんだ気がした。

 バスが病院に着いた時には、乗客は道江の他に三人だけだった。彼らは病院に勤める職員らしく先に急ぐように降りて行った。道江は荷物を持ったままドアの取っ手をつかみながらゆっくりとバスを降りた。

 来島愛は先に来ていた。玄関口のガラス越しに見えた彼女の白いセーターのジーパン姿が清々しかった。

「早かったのね。ありがとう」

 道江は息を弾ませながら言った。肘に掛けていた荷物を片方の腕へ持ち替えようとすると、来島愛が笑みを浮かべながらそれを引き取って、自分から先にロビーの方へ歩き出した。道江は来島愛の心遣いが嬉しかった。ひと息ついて足早に彼女を追った。

 病室へ向かう廊下には看護師達が忙しく往き来していた。病室に入ると、アイちゃんは三列並んだ真ん中のベッドにいた。カーテンが半開きのままだった。ちょうど看護師が朝の検温などの見回りを終えたところだった。

 看護師は、ベッドの脇に立っている道江と来島愛に、「ご心配はいりません」とだけ言って隣の患者の方へ移って行った。

 二人は心配顔をほころばせながらベッドのアイちゃんを見下ろした。すると、アイちゃんが小さく微笑んだ。初対面の来島愛は両手を前に揃えて深々と頭を下げた。

「綺麗なお嬢さんね。お名前は」

 アイちゃんが細い声で尋ねた。

「来島愛です。ありがとうございます」

「まぁ、愛ちゃんね。私と同じ」

 道江は、その時アイちゃんの瞳の光が一瞬だけ潤んだように見えた。

「名前、偶然ね。お店の新しいお客さんで、ここの附属病院と同じ大学の女子大生さん」

 道江はそう来島愛を紹介しながら、着替えの荷物をベッドのサイドテーブルの上に載せた。

「ありがとう、みっちゃん」

 アイちゃんの優しい声がした。

「よかった元気で、アイちゃん」

 道江は、アイちゃんが思ったより容態がよかったことにひと安心した。来島愛もずっと微笑をたたえた笑顔で見守っていた。

 しばらく月ノ川の様子を話題に過ごした。あの常連客は来ているか、アイリスのママは繁盛しているか、骨付きもも焼きは売れているか、アイちゃんは自分よりも店を心配していた。その話題のたびに道江は恐縮するばかりだった。

 そんな他愛のない話題が尽きて、薄暗いベッドに沈黙が通うと、アイちゃんは心が安らいだのか自然とまどろみ始めた。

 そこへ、再び看護師が病室へやって来た。主治医の回診が始まることを告げて行った。

 道江と来島愛は、眠っていたアイちゃんに「明日も来るから」と声を掛けて帰ることにした。気づいたアイちゃんが小声で「ありがと」と短く言った。道江はアイちゃんが寂しそうにしたのが可哀想だった。着替えを手に、来島愛と静かに病室を後にした。

 

 長く奥まった廊下に出ると、白衣の一団が現れた。先頭の主治医の教授が十数人の研修医たちを引き連れていた。まるで映画の撮影に出くわしたような一瞬だった。道江と来島愛は廊下の壁に背中をピッタリと付けてその一団を見送った。走り回っていた看護師達はその場に立ち止まってうやうやしく頭を下げていた。

 道江と来島愛は、広いロビーを抜けて病室の玄関まで出て来ると、揃って大きく深呼吸をした。

「あぁ、驚いた」

「凄かったですね。ほんとに白い巨塔ね」

「そうそう、それよ」

「あんなに大勢では初めての患者さんは驚くでしょうね」

 道江は大きく頷いてほくそ笑んだ。

「愛ちゃん、これから時間はあるの」

「はい。今日は授業は午後に一つだけ。ゼミの先生から卒論の指導があるんです」

「大変ね、いいのかしら。じゃぁ、大学通りのどこか喫茶店に行きましょ」

 来島愛がにこやかに頷いた。

 

 病院のある医学部と他の学部のあるキャンパスとは遠く離れていた。二人を乗せたバスは県庁に近い街なかに入って来た。大学はその官庁街の外れにあった。二人は正門前のバス停で降りて、そこからほんの近くの小さな喫茶店に入った。

 こじんまりとした店内は夜にはショットバーになるらしく薄暗かった。道江と来島愛は窓際のテーブル席に着いた。そこだけが外の陽が差してほのかに明るかった。

 向かい合って座った二人は、どちらからともなく笑顔がこぼれた。前の晩から忙しく動いていたことと、何よりもアイちゃんの病状にひとまず胸を撫で下ろした思いが頬を緩めた。道江は大きく深呼吸しながら言った。

「愛ちゃん、ありがとうね。勉強で忙しいのに、ごめんなさいね」

「いいえ、女将さんの方こそ、ご苦労様です」

 来島愛が両手を膝に乗せて丁寧にお辞儀をした。

 そこへ、バンダナをした中年の男の店主が少し気だるそうな素振りで注文を取りに来た。テーブルにあるメニューを見ると、昼間のドリンク類はいくつもなかった。仕方なく道江は「ブレンド」と言うと、来島愛も「同じで」と控えめに応えた。店主が下がって行くと、二人は何となくその場に慣れるまで窓の外を眺めていた。

 通りには大学キャンパスの低い煉瓦塀があり、その少し先に石造りの正門が見えた。バス停から二十人ほどの学生たちが正門に向かって歩いて行く。不思議と話を交わしている学生の姿がなかった。

 道江は、そのわけを目の前にいる同じ大学生の来島愛に聞いてみようかと思ったが何となくやめた。他愛のない話をするよりも、聞いてみたいことが道江にはあった。

「愛ちゃん、福島だったわね。ご両親は」

 しかし言ってしまってから、特に理由のないことを話した自分が差し出がましく思われた。道江は言い出した言葉を飲み込むように口をつぐんだ。

 窓のすぐそばをバスが通り過ぎて行った。彼女は遠のくバスを見送るように視線を送っていた。その様子には何か思い詰めた緊張が漂っていた。それきり、二人はしばし沈黙の中にいた。

 そこへ、店主が来て注文したブレンドコーヒーを置いて行った。ブレンドの香りが漂った。沈黙が解けて、来島愛が決めかねていたことを決心するように徐ろに話し始めた。

「両親は津波で亡くしました。でもほんとの親ではありません、二人とも。私を産んだ母親を私は知らないんです。ずっと知らないで生きてきました。私は貰いっ子なんです。でも津波で死んだ両親は私をとても愛してくれました。だから今、私は天涯孤独の身…なんです」

「もういいのよ、それ以上言わなくて、愛ちゃん」

 思いの丈を止めなければと、道江は思った。ひと思いに言った来島愛は、もう何でも聞いてくださいとでも言いそうな固い表情を向けた。堪えていた気持ちを押し殺しているようだった。

 道江はひどく悲しかった。

「ごめんなさい、愛ちゃん。余計なこと聞いてしまって。許して…」

 声がつまった。道江は手を拝むようにして謝った。来島愛はゆっくり気持ちを落ち着かせようと呼吸を整えながら言った。

「みんなほんとのことですから。いつか誰かに言って、知ってほしかったんです」

 それから、来島愛は問わず語りに少しずつ自分を語り始めた。

 

 来島愛が小学六年生の時だった。六時限目の授業中に大きな地震が起こった。校内放送が全員校庭から裏山の高台へ走るよう告げた。前の年にも少し大きめな地震があった。それで一度校内で大掛かりな避難訓練をした。その甲斐あって全校生徒が自主的に動いた。高台に登り着いた頃には大津波の警報が町中に鳴り響いていた。

 来島愛ばかりではない。誰もが恐怖におののき家族の安否を気遣い泣き出していた。先生たちは気丈に生徒を励まし、その後の行動を話し合っていた。

 やがて大津波が来た。生徒の目に触れないよう先生たちは生徒を木立の下に集めていた。鳴き声は止まない。走り出そうとする男の子もいた。「お母さん、お父さん」と叫ぶ声があちらこちらでしていた。先生たちもとうとう屈みながら、呆然と子供たちを何人もの抱えるようにして身を震わせていた。

 そして夕闇が来た。津波の音はまだしていた。小雪が舞う中、生徒たちは先生に引率されて指定された避難所へ向かった。皆そこで一週間を過ごした。親が迎えに来た者、来ない者、迷子のように避難所の中をさまよう者。小さな体が寒さに凍えながらうごめいていた。

 そして二週間が過ぎた。生徒のうち迎えのなかった数人が避難所に取り残された。来島愛もその一人だった。

 来島愛の待っていた里親はとうとう帰らなかった。父は魚市場で、母は漁協組合でそれぞれ働いていたが、どうしたわけか二人とも津波にさらわれ遺体も見つからなかった。皆が帰るはずの家も流されてしまった。

 二人は来島愛を児童養護施設から貰い受けた。子のなかった二人にとって自分たちとは似ても似つかない九歳の美貌の少女は自慢の子だった。小学校でも勉強の良くできる健康な子だった。しかし二人は彼女をそこまでしか知らないで亡くなってしまった。

 来島愛は、その後再び児童養護施設に引き取られ中学校と高校に通った。養子の話もあったが、二度も親を失った彼女にとってそれは耐えられることではなかった。独立心を身につけた彼女は奨学金を得て東北の小都市にある国立大学に入学した。自分を忘れられる理系が好きだった。物理学を選んだのは頭を使うだけでなく現実を学べるからだった。

 幼くして見舞われた地震の惨禍は津波だけではなかった。原発事故も起きた。放射性物質の放出による汚染区域が拡大し人々は住んでいた土地から避難、いくつかの町や村では帰還できない状態が続いた。

 来島愛はその当事者でもあった。卒論のテーマに震災を触れないわけにいかなかった。その卒論の仕上げが近づいていた。

 

 道江は、来島愛が自分の生きてきた歩みを気丈に語るのを聞いて不憫に思えてならなかった。慰めるような言葉が思い浮かばなかった。何を言っても、それで彼女が救われるわけではないし。でも、しっかりした頭のいい子だもの大丈夫。そう、道江は思うことにした。

 そんな道江の心の裡は的中した。突然来島愛が自分の決心していたことを告げた。

「私、卒業したら外国で働くんです」

 来島愛は詳しくは語らなかったが、「平和な世界になるように世の中のために働きたい」とだけ控えめに語った。

 未知数はたくさんある。けれど、それはそのまま大きな夢なのだ。道江は驚きを沈めるように静かに心にとめた。

 来島愛ははにかむような笑みを浮かべた。道江も同じようにして頷いた。そうして、二人はほんの短い瞬間お互いに通う心持ちを噛み締め合っていた。

 そんな沈黙のひと時が続くと、すっかりブレンドコーヒーが冷めてしまっていた。道江は代わりを注文するためにマスターを呼ぼうと、視線を店の奥の方へ向けた。

 しかし、すでに大学のゼミが始まる時刻が迫っていた。来島愛は腕時計を見ながら申し訳なさそうに声をすぼめて言った。

「すいません。もうゼミに向かわなければなりません。またお店の方にお邪魔します」

「そうだったわね。お勉強、頑張って。さぁ行きなさい。またね」

 気づいた道江が言うと、来島愛は別れを惜しむように深々と頭を下げて店を出て行った。

 道江は窓の向こうを見た。来島愛が信号を渡って正門へ入って行くところだった。夏を呼ぶ空の下、彼女の姿はジーパンの軽装ながら華やかな輝きを放って見えた。

 しかし、その華やかさの陰に二人の親を失った来島愛の悲しみが思い起こされてならなかった。道江はしばらく外を眺めていた。小一時間もそうしていただろうか。バスがやって来た。道江はゆっくり腰を上げ喫茶店を出た。

 

(8)

 道江は街のメインストリートでバスを降り、店のある旧花街の飲み屋街へ向けて歩いていた。道路の拡幅工事が思った以上に進んでいた。いずれ人の流れが変わって繁華街と分断されてしまうのではないかと、道江は不安に思えてならなかった。信号待ちしていて思わずため息が漏れた。

 渡った先の歩道から店に通じる小路へ入った。車が一台ようやく通れるほどの狭い通りだ。気の早い店のネオンが二つ三つ灯り始めていた。

 店の前にたどり着くと、引き戸が開いていて、すぐそこに暖簾を手にした政弘が立っていた。

「おおっ、お帰り」

 野太い声がした。道江は政弘の両肩に抱きついた。

「どうしたんだ。外だぞ、人に見られたら恥をかくだろうが」

 政弘は道江を抱き上げて、そのまま二人して引き戸の陰に隠れた。しばし、暖簾も道江のハンドバッグも二人の足元に落ちたままになった。

 道江にとって今日はいろんなことがあり過ぎた。施設のアイちゃんがひと回り小さくなって見えたこと。そして来島愛がまったく独りぼっちだったことなど、道江は政弘の腕の中でそれまでのことを思い出していた。

 

 店はその晩も常連客で賑わった。しかし、もうそこにアイちゃんはいない。タロちゃんは寂しそうだ。印刷屋の営業マンが代わりに腕を絡ませて慰めていた。みんないつになくしんみりとしていた。

 そんなところへ、スナックアイリスのママが若いホステスを連れてやって来た。

「今夜は店の改装で壁紙が乾かないからお休みにしたのよ。遊ばせて」

 そう言いながら、二人はカウンターの常連客に並んで腰掛けた。

 にわかに盛り上がった。席が入り乱れ、二人はそれぞれ男たちに挟まれることに。ホステスの女性がタロちゃんの隣になった。そんな偶然に、タロちゃんは照れたふうに小さく会釈をした。

 いつも座を仕切る年輩の理事長がビールを片手に立ち上がり、さっそく音頭をとった。

「さぁ、乾杯だ。アイちゃんがいないのが残念ですが、酒はやっぱり賑やかに飲みたい。今夜はアイリスの新装祝いとママのご登場に感謝して大いにやりましょう。カンパーイっ」

 小上がりのカップルまでがグラスを向けて声を上げた。

 道江は、お店にいる人たちが楽しければそれでいい、そう思った。政弘も喜んでいる。ここは居酒屋、アイちゃんがいなくても居酒屋。しみったれたら、アイちゃんに叱られる。「商売よ」って。

 その晩、事務長はひと一倍ご機嫌だった。いつの間にかタロちゃんは若いホステスの隣を奪われていた。その特等席には赤い顔をした事務長が陣取って、しきりと彼女に言い寄っている。

 たまり兼ねたアイリスのママが言った。

「事務長、お店でもさぁ、はじめ威張ってるうちは俺俺って言ってるけど、口説きに入ると僕ぅ僕ぅってなるのよ。サッちゃん、気をつけなさい」

 ホステスの女性はサッちゃんと言うらしい。彼女は苦笑いして事務長に手を取られていた。そこをママがピシャリとはたいた。皆、肩を縮こませた。

「おおっ、こわっ」

 誰ともなく声がした。

「すいません。許してください。もう二度と致しませんから」

 事務長がわざとらしく謝ってみせると、叩かれた手を押さえながらカウンターの一番端へ退散した。仲間は揃ってククッと笑った。

 そんな芝居っ気たっぷりな常連客のなり振りに、さすがママはすぐに気を取り直してやり過ごした。両手にお銚子とビール瓶を持って注いでまわっていた。

 酒が進んで、皆はそれぞれに隣り合わせた者同士で話し込んでいた。理事長と商店主は日頃のことを話題にしていた。テーマは、寄る年波でやはり健康維持であった。何枚もの診察カードを見せ合いながら、目や耳、肩こりや腰痛、さらにハゲや痔までボケない代わりに万病のオンパレードであった。

 ところが、とんだ話へ外れてしまった。

「あっちはもうラストランだ。かぁちゃんも、もういいって言うしさ」

「おんなしだ。腰も痛いし、最近なんだか眠れないんだよなぁ」

「不眠症かぁ」

「肩書きだけで、お膳立てみたいなデスクに一日中我慢して座ってるだけの仕事ってのも、つらいぜぇっ」

「そりゃぁ、ボケるぞ」

「だから、こっそり数独やってるよ」

 理事長がそう言いかけたところへ、元警察官が割り込んだ。

「不眠症ですかぁ。いい方法があるんですよぉ」

 赤い顔がニヤけている。

「あのですねぇ、羊の代わりにですねぇ数えるのをですねぇ、へへッ、やったことのある女を思い出しながら一人ずつ指折り数えるんですよ。それっ一人二人三人四人五人、こっちの手にも六人七人八人九人十人ってね」

 理事長がしょげて言う。

「そんなにたくさんいないよ」

「俺は女房一筋よ」

 こちらは商店主だが、顔が嘘を言っている。

「そんなに女を思い出してたら、眠れねぇじゃねぇか」

「最初に思い出すのが、つい最近のか一番よかったのか、どっちかだろうが」

 話が落ちたところで、とうとう道江が忠告の声を上げた。

「結婚前の若い女性がいるのよ。いい年寄りがそんな下品な話はやめなさい。自分たちにだって娘さんがいたんでしょ」

 理事長は丸い額を叩いて観念した。商店主も元警察官も顔を見合わせて苦笑いした。それで、たちまちその話はやめになった。誰からか、小さな溜め息が漏れた。

 いつのまにか席を奪還できたタロちゃんは、若いサッちゃんと気の合った話に夢中なようだ。アイリスのママは小上がりの席に乗り込み、初めての客のサラリーマンたちに愛想を振りまいていた。

 

 いつもの常連客らの哄笑が店内に湧き上がる冗談話も尽きかけたところへ、引き戸が軽やか音をたてて開いた。姿を見せたのは、昼間会った来島愛だった。

「あらっ、愛ちゃん」

 一番に気づいた道江がその名を呼んだ。

「えっ、アイちゃん?」

 タロちゃんが立ち上がって叫んだ。隣の若いホステスが来島愛に手を振っている。

「偶然ですね。先輩お元気なようで」

「サッちゃん、お久しぶりね」

 二人のやりとりに誰もが目を白黒させた。道江も驚いた。

「お二人、お知り合いなのね。さぁさぁ、愛ちゃんお隣に腰掛けて」

 タロちゃんが席を立って来島愛に席を譲った。気を使ったタロちゃんのために常連客たちが席を一つずつずらすと、タロちゃんが頭を掻きながら明るい恥じらいを見せた。

 皆の思いやりのお陰でカウンターに若い女性が二人揃って並んだ。そんな珍しい光景に、店内は不似合いなくらい明るく華やいだ。

 来島愛とアイリスのホステスサッちゃんは、同じ大学の学部生で、しかも同じナイトクラブでアルバイトをしていたことがあった。高級クラブの客層にはエリートが多いので安全に働けるということらしく、大学もさほど問題視していなかった。ときおり教授が客でやって来ることもあった。

 クラブでは来島愛とサッちゃんが顔を合わせることはホステスたちのシフト違いでほとんどなかった。二人はそれぞれ卒業後には海外で身を立てたいと考えていたので、クラブのバイトはそのための資金稼ぎでもあった。

 彼女たちには夢がはっきりしている分、深い恋愛の経験もなかった。お客に言い寄られても難解な高等数学のクイズで相手を観念させたりした。すると決まって、お客は代わりに店のママの方に甘えた。クラブでの社会勉強は二人を気丈に育んだ。

「で、来島さんはやっぱりシカゴへ行くんですか」

「そのつもりでいるんだけど、はっきりしたらメールする。サッちゃんはどうするの?」

「私は卒業まであと一年あるから、もう少し考えてから行き先を決めようかと思ってます」

「希望はどこなの?」

「タイとかマレーシアとか、アジアがいい」

 耳をダンボにした常連客たちの頭の中では地球儀がぐるぐると回っているのかもしれなかった。道江もすっかり驚いてしまった。

 小上がりから戻ってきたアイリスのママが誇らしげに言った。

「ウチの店だってあのクラブほどじゃないけど、ほんとはミニクラブってことになってるのよ。だから来てくれたのよねぇ、サッちゃん」

 同意を求められ、サッちゃんはちょっとためらいがちに応えた。

「はい、お店を変えたことは大学には報告しました。何とも言わなかったし…」

「先日の教授、サッちゃんたちの大学の先生だったわね。確か前もサッちゃんに二度もダンスをねだったことあったじゃない。カラオケでバラードを歌った青年に財布ごとお金をあげたりして、あの教授ったら。でもあの時のステップ、素敵だったわ、サッちゃん」

「いい練習させてもらいました」

 サッちゃんは少し赤い顔をして言った。と、タロちゃんが口を挟んだ。

「その青年、僕だったんです」

 照れながらも、自信が滲んだ口振りだった。

「そういえばあの時、どこかで見たような気がしたのよ。ウチのお客さんだったなんて、今日始めにご挨拶もしないで御免なさいね」

 アイリスのママは、タロちゃんの方へ身を乗り出して謝った。

「素敵な歌だったわ。確か〝傷心〟という歌」

「うん、浜省の」

 サッちゃんが思い出して歌の題名を言ったのを、タロちゃんが内緒話を打ち明けるような小声で応えた。

「いくら貰ったんだい」

 元警察官が割り込んだ。道江がまた忠告した。

「取調べじゃないんだから、そんなことよけいなこと訊くんじゃないの。それに、あなたの歌は音痴か訛ってるかで下手なんだから」

 元警察官は敬礼して謝った。そこでワッと笑いが起こり、それきりタロちゃんのカラオケ話は自然消滅した。

 ほんの束の間のような沈黙の中、突然アイリスのママの携帯が鳴った。この辺りでは有名な老舗寿司屋にいるお得意さんからの誘いということで、そそくさとママはサッちゃんを連れて月ノ川を出て行った。

「愛ちゃん、お元気でね。メール待ってる」

 サッちゃんは少し残念そうに来島愛に別れを告げた。来島愛は元気を約束するように胸元で拳をふるって応えた。

 それを潮に、常連客たちも三々五々月ノ川を後にしていった。

 

 店に最後に残った来島愛が言った。

「女将さん、今度またあの人の施設へ一緒に連れて行ってもらえますか?」

「えっ、あの人って、アイちゃんのこと?」

「えぇ、私と同じ…」

 はにかむような笑みをして来島愛が応えた。

 道江は、来島愛がアイちゃんを忘れないで「また会いたい」と言ってくれたことが嬉しかった。

「そうね、卒論が落ち着いたらでしょ? 連絡ちょうだい」

 そう言うと、来島愛は自分に納得したように頷いてから薄手のジャケットを羽って、引き戸を静かに閉めて帰った。

 道江は店の後片付けをしていて、ふと思った。どうして来島愛は初めて会ったばかりのアイちゃんを「あの人」と呼び、「また会いたい」と言ったのだろう。道江は政弘に話してみようかと思った。 

 しかしそれは女同士のこと、男の政弘に話すことは面倒な気がした。政弘は奥の小上がりに腰掛け、うまそうに煙草をくゆらせていた。

(つづく)

アイちゃんがいた居酒屋(上)

アイちゃんがいた居酒屋(上)

1

 店の引き戸の向こうで車のドアの閉まる音がした。同時に曇りガラスに真っ赤な人影が映った。入ってきたのは大きな角巻を羽織った老女、アイちゃんであった。

「よろしくお願いします」

 介添えしたタクシーの運転手が制帽のツバをつかみながらカウンターの方へ愛想たっぷりな会釈を送った。

「いつもご苦労様」

 居酒屋月ノ川の女将今田道江の張りのある応えが返った。すると、七人ほどが座れるカウンターにいる四人の客達が「ご苦労様」と下の句だけを唱和した。

 アイちゃんは勝手知ったる所というぐあいにカウンターの一番手前の陰に杖を立て掛けて、そこから客の背中を伝って空いた席に着いた。

 すぐさま客の一人が立って赤い角巻を隅のテーブルの上で丁寧に折りたたんだ。

「アイちゃん、ここに置いとくからね」

「ありがと」

 アイちゃんが店に現れると店の中が和んだ。それまでの侃侃諤諤の議論も上司の悪口も卑猥な鬱憤払しもしばし鳴りを潜めるのだった。

「お元気ですね。いつまでも綺麗だね」

「今日も寒いね、雪が散らつき始めた。冷えないようにしなくちゃ」

「あの真っ赤なの、お似合いですね。かわいい」

 などなど、心配したり褒めたりすると、アイちゃんは目を輝かせて嬉しそうな丸い笑顔を向ける。

 アイちゃんはもう八十に近い。最近、杖を持つようになったが、店にはほぼ毎晩一人でやって来る。必ずタクシーで乗りつける。時間は一定していない。遅いことはないが早くもない。そのはっきりしない理由は誰もわからない。独り暮らしというから、体調のぐあいをみて出かけて来るのに違いない。皆、そう思っている。

「あっ、この人が噂のアイちゃんですか。今日は光栄だなぁ」

 隣の席になった新参の若いサラリーマンが感激した声を上げた。

 その声に応えるように、すぐさまアイちゃんが彼の二の腕にしがみついた。それは、その夜のタロちゃんが決まった瞬間だ。

 

 

「愛ちゃんは太郎の嫁になる」ように、アイちゃんはタロちゃんの一夜の嫁になる。とは言っても席が隣同士というだけで、いつからともなくそうなった。誰が最初のタロちゃんだったかはアイちゃんに聞いても、「もう忘れた」。女将に聞いても、「あんただったかもしれない」。男客は皆、照れて頭を掻く。

 アイちゃんにたまたま隣り合わせてしがみつかれても嫌がる客は皆無だ。それは、しがみつかれた者ならば誰でも気づいている。

〝女神の肌〟〝天使の肌〟〝夢見肌〟など、タロちゃんになったことのある客は揃ってそんな例えを感嘆まじりに言う。おばあちゃんとは思えない白く微かな湿りを含んだ匂い立つ肌は「赤ちゃんみたい」と道江を驚かせたほどの美肌だ。

 というのも、アイちゃんはこの元花街の芸者だったということだけは何となく皆が知っている。しかしその前後のことは誰もほとんど知らない。だからアイちゃんがいないと、客たちは女将の道江からアイちゃんの過去のことを聞き出そうとする。

「アイちゃんの旦那って、どんな男だったのかなぁ。すごい金持ちだったりして」

「いや、怖い世界の奴だったりして。アイちゃん可哀想だなぁ」

「子供いるのかなぁ。俺と同い歳ぐらいだったりして」

 決まってアイちゃんの男の話題になった。

 道江はアイちゃんが店にいない時に客たちがアイちゃんの悪い噂をすると、女博徒の啖呵宜しく調理台を叩いて怒った。その音の大きさに一同驚いて、一瞬店内は時間が止まったように静まり返えった。気まずい空気が伝染して箸も盃の手も止まって、客は揃ってうつむく。

 

 道江の女将を張った説教が始まった。どういう訳か江戸弁になった。

「大体あんたらは揃いも揃って女房の尻に敷かれっぱなしの苦労知らず。会社ではひたすら上司や部下の顔色をうかがって仕事してるんだろ、情けないねぇ。女子社員には色目使って鼻の下のばしてるんだろうが。うちの店に部下の男の子や女の子を連れて来てくれたことが一度だってあるかい。昔は上司に金魚の糞のように連いて来て、あれだけ奢ってもらってたっていうのにさ」

「もう死んでいないですよ、あの人たち」

「何かい、生きてりゃぁ、また奢ってもらおうって魂胆かい。情けないにもほどがありはしないかい」

「ハイ、すいません」

 一番に応えたのは、定年までまだ後十年はありそうな印刷会社の営業マンで、彼は何かにつけ道江に叱られる。前にもアイちゃんのことを昔近所のピンクサロンにもいたのではないかと邪推して、

「そんなはずがあるわけないんだ、アイちゃんは。彼女のことは私がいちばんよく知ってるんだ、古い付き合いだからね。余計な戯言は言うもんじゃないよ。あぁそうかい、あんたはああいうとこでも遊んでるんだ。みんなに教えちゃおうか」

 そう道江は度突いて見せた。たちまち営業マンは一番高い刺身の盛り合わせを注文して謝った。

「いい心掛けだ。あんた出世するよ」

 道江は、そう心にもないお世辞を言うのだった。

 ところで、アイちゃんはお酒を温燗のお銚子一本しか飲まない。席に着けばしぜんと道江が口にこそ出さないが「姐さん」と呼んで最初の一杯だけを注ぐ。カウンターの中から袖を気にしながら銚子を傾けると、アイちゃんも小首を傾げながら猪口を差し出す。その所作にはどこか典雅な風情が見え隠れした。二人には人知れぬ友情が通っているようだ。

 道江は注ぎ終えるとお銚子をアイちゃんの目の前に置く。決まってアイちゃんは始めのひと口をタロちゃんに乾杯を促す。その夜のタロちゃんもお通しの煮物を口にしようとした箸をビールのコップに持ち替えて、すぐにアイちゃんの求めに応じた。

「カンパイ」

 アイちゃんは「ありがと」と短く呟き、猪口を寄せてすするようにお酒を口にした。

 新参の方はアイちゃんにしがみつかれた片腕をかばいながらコップをひと思いにあおった。噂のアイちゃんと並んで座れたことがよっぽど嬉しかったようだ。

 それはいつもの光景で、常連客は冷やかすでもなく微笑ましく見守っている。タロちゃにいつかの自分を見るようで、むしろ気恥ずかしいのであった。そんな彼らの目の前では、そろそろ湯豆腐の鍋の白い湯気が立ちのぼっていた。

 

 そこへ年配の男性客二人が入ってきた。すると、いつも奥の小部屋の上がり口に腰掛けてカウンターの方へ煙草をくゆらせながらめったに話さない道江の亭主政弘が急に立ち上がって、二人を自分に一番近いL字のカウンターの端の席へと手招きした。

「やぁ、いらっしゃい。寒い中、ありがとうございます」

「相変わらずお元気で。仲もいいし」

 背が高く体格の良さそうな方の一人が、よく通る太い声で店の夫婦の機嫌をとりながら道江の方へ強面を崩した顔を向けた。道江は二本のおしぼりの口を開けながら笑顔を返す。

 客はカウンターのアイちゃんに背中を軽く叩いて挨拶をしてゆく。アイちゃんは小首を向ける程度に頭を下げる。その日も、そうしていつものさりげない挨拶が交わされるのだった。

 中年の二人は、すっかりゴマ塩頭で体格の良い方が天下り先の理事長で、もう一人は同じ所の事務長とか。

「アイちゃん、いただきま~す」

 キープしている上等な地酒の白木の枡を掲げながら、理事長がアイちゃんの方へ目配せを送った。アイちゃんは驚いた小鳥のように小首を傾げて掌をヒラヒラと振って応えた。

 

 アイちゃんはタロちゃんの人生相談に乗っているところだった。それはだいぶ深刻な相談であった。

「嫁が最近、浮気してるみたいんです。どうしたらいいでしょうか」

「君の何がいけなかったと思うの」

「えっ、僕のですか。僕は何も悪いことなんかしてませんよ」

「それよ。それがいけないの、君は」

「どういうことですか」

「つまらないのね、きっと奥さん」

「何がつまらないんですか」

「君の、そういう甘さかな。優しさとは違う」

 そこで小さな沈黙が通った。カウンターの皆がいつからともなく耳を澄まして聞き入っていた。

 そんな静けさを埋めるように、道江がゆるりとビール瓶を持った腕を伸ばして若者のコップを満たしながら言った。

「口だけの優しさじゃ、女はダメなのよ」

 若者は怪訝な面差しを向けてコップに注がれる泡を見つめていた。その泡が途切れて手元にコップを置くと、壊れた縫いぐるみの首のようにうなだれた。

「男は黙って抱きしめるの。言葉はいらないの。男の優しさは行動力よ。何もしないのは優しさじゃないから」

 アイちゃんはいつの間にか饒舌になっていた。いよいよ他の客たちも思い当たる節を探るような顔つきをして聞き入り始めた。

「諦めなさい。女は遊びじゃ浮気できないの。責めたりしたら、どんどん悪い方にしかいかないんだから。君にとっては事故かもしれないけど、浮気はもう事件よ。もう仕方ないわね、別れておやりなさい」

 若者は髪を掻きむしりうなだれてしまった。

 そこで、アイちゃんは彼を慰めるようにからめた腕をグッと引き寄せた。たちまち彼に気恥ずかしそうな笑みが浮かんで、アイちゃんが言った。 

「味方してあげる」

 二人のそこだけが甘い香りに包まれたようで、じっと噛み締めるような雰囲気がほんの時間だけカウンター席を包んだ。

 

 と、店の引き戸がガラリと鳴った。アイリスのママだった。

「みっちゃ~ん」

 言わずもがな、用事は分かってる。「あいよっ」とばかりに醤油の入った小瓶が、カウンターを跨いで伸びた道江の手からママに手渡された。

 スナックアイリスは、月ノ川から小路沿いに百歩ほど離れた四つ路の二軒目にあった。社交界にも知れた名だたるスナックの一軒だ。もちろんママは細面の美人で若い時は銀座にもいたとか。この日も客が注文した出前の寿司のために、切れていた醤油を借りにきたのだった。

「ありがと。あらっ事務長さん、こんなところにいたの。ダメじゃないウチにもいらしていただかないとぉ。待ってますよ」

 ママはそう言ったきり、鼻先に片手をそば立ててみっちゃんに謝るような仕草をしながらピシャリと引き戸を閉めて自分の店へ帰って行った。

「おおっ事務長、今の美人ママと知り合いかぁ。見かけによらず豪勢な遊びしてるんじゃないか、結構なことだ。さあ、どんどん行こう」

 理事長は事務長に銚子を傾けた。降参した事務長は両手で溢れそうな升酒を受けていた。

 それから、どういうわけか風呂の話になった。それは後から入ってきた客の元警察官と商店主が話題にした話で、いささかアイちゃんを困らせた。

 というのは、居酒屋月ノ川には当時まだ二階に道江たち夫婦が間借りしていて、その一階の店の奥に風呂場があった。蒸し暑い夏ともなると、開店前に来た客がもらい湯をするのだった。

「いやぁ、上がった後にカウンターで飲むビールの美味かったことったらなかったよな」

 元警察官がしゃがれ声で言った。

「どこかでだいぶ飲んでいらっしゃったみたいね。でも、もうその話は止しなさい」

 道江が、その元警察官のいつもの言い訳でしかない放言を制した。アイちゃんが下唇を噛んでいる。道江は慰めるようにおしぼりを替えた。

 

 事件は三十年も前のことである。風呂場を覗いた者がいた。そこにはアイちゃんがいた。芸者を辞めた後のことで、細おもてのキレが溶けて裸の体の線もいくぶん豊満さに優しみが感じられた。もちろん、そんなことは誰も知らない。知ったのは店の客でもない覗いた中年助平だった。その助平を捕まえたのが、当時から常連客の元警察官だった。

 しかし、それは事件後に噂された飛んだ捕物帖であった。若き警察官は仕事中ではなかったのだ。つまり彼もチカンだった。たまたま、助平の方が先に覗いていたというわけ。皆の陰口はいよいよ現実味を帯び、若き警察官に詰め寄ったものだった。

「違うよ。俺は前々からそういうことが起こってはいけないと心配していたんだ。アイちゃんを守ろうとさぁ」

「前々からって初めてじゃなかったのかよ。しかも守るって、覗くのが守るってことかい。勤務中だとしても許されることじゃないぜ」

「だから、俺は覗くためにあそこにいたわけじゃないんだってばさ」

「いただけでもダメよ。あんたはさぁ、警察官になる資格なんてないんだ。あんたもアイツと同類よ。アイちゃんの前で土下座しろってんだい、畜生」

 最後の畜生が自分も覗いてみたかったと、店の誰にも分かった。その一言で皆の失笑を買ってしまい、ひとまずその話題は済んだかに見えた。

 しかし、そこへアイちゃんが店に現れてしまった。一度途切れた興奮は燻ったままだ。尚も悪いことに、アイちゃんはあの時に犯人を捕まえてくれた若き警察官の隣に腰掛けてしまった。

 アイちゃんはお人好し、空気が読めなかった。

「あの時はほんとにありがとう」

 当時、アイちゃんの中では事態はそうなっていたのだ。もちろん、他の客たちは真犯人とは別に当の警察官も覗こうとしていたなんて話はもうしない。道江からしっかり止められていたし、何よりもアイちゃんがかわいそうだからだ。

 思えば、タロちゃんの第一号はその若き警察官だったのかもしれない。それから第二号、第三号が誕生して、果たしてどういうわけか、今夜もその彼が商店主を連れて飲みにやって来た、という次第だ。

 事件は遥かな宵の出来事だ。いつの宵もひとしきり飲んで喋ってお愛想の時がきて、夜が酒を呑み込んでゆく。

 アイちゃんの潮時は女将の道江が決める。外のタクシーまで送るのはタロちゃんの役目と、これもとうから決まっている。月ノ川の閉店はアイちゃんの潮時だ。

 

 

 昼間の大雪がすっかり小路を埋め尽くしていた。店がそれぞれに雪を掻いてわずかばかりの入り口を作って客を待っていた。居酒屋月ノ川の軒先にも赤い提灯の灯りが雪を照らしていた。

 そんな暖簾を掛けたばかりのまだ客足のない夕刻、若い女性が一人で店に入って来た。

  「すごい雪でしたね」

 明るい初々しい声であった。

 雪は開店まぎわに止んでいて、その安堵した喜びがしぜんと挨拶代わりになっていた。

  「いらっしゃい」

 仕上げたお通し用の小鉢を一揃え調理台に並べていた女将の道江が、女性の素直な声に応えた。

 その道江の顔には珍しく若かりし頃を彷彿とさせる明るさが甦っていた。カウンターを拭いていた亭主の政弘は布巾の手を止めて、滅多にない機嫌のよさそうな面差しを道江に向けた。

  「何よ、私の顔に何か付いてるのかい」

 政弘は小さく吹き出して、逃げるように若い女性客の方に体を向けた。

  「足元の悪いところ、よおござった。さぁどうぞ」

 政弘はカウンターの縄編みの止まり木に腰掛けるよう席を勧めた。そんな滅多にないうら若き女性の客に、店の二人はいつにない優しい気持ちになるのを感じた。

 女性客は  「熱燗を」と、ちょっと恥ずかしげに小さな声で注文した。

  「寒かったでしょ、熱燗はゆっくり温まりますもんね。日本酒、お好きなんですか」

 女性は恥ずかしそうに小さく頷いた。

 道江がカウンターの端にいた政弘に 、 「ねぇあんた、熱燗一つ」と声を掛けた。

 政弘はガス台のスイッチをカチンと鳴らした。ついでに中腰になって煙草をガスの火で点けて、旨そうに一服してからゆっくりヤカンをガス台に載せた。そしてまた一服した。

 

 道江が女性客に訊いた。

  「大学生ですか」

  「はい、すぐそこの」

  「そう」

 道江はじっとその女子大生を見下ろした。

  「すぐそこの」といえば地元の国立大学で地味な学生が多かった。しかし彼女にはどこか垢抜けた雰囲気があった。きっと都会の子、大人しいようで何かスポーツもする才女。道江は綺麗な黒髪の下の澄んだ鼻梁を眺めてそう思った。

 女子大生は、出された海月とオクラの酢和えのお通しを片方の掌を添えて口にした。黒髪が肩から流れ落ちて胸元で揺れて、襟口から白い乳房の膨らみが覗いた。

 ほんの一瞬のことだった。道江は柔らかな張りと抜けるようなその肌の白さに、同じ女でありながら心奪われそうな驚きを感じた。思わず調理台に両手をついた。

  「お嬢さん、美人さんね。何年生なの」

  「ありがとうございます。三年生です」

 素直に自分の美貌を認めるのは誰からもそう思われて育ったのだろう。嘘でないだけに偽ってもかえって可笑しいし、何よりもそう生まれたことが嬉しかった。

 そんなふうなこと、昔アイちゃんも自分の若い頃を思い出しながら言っていた。今夜、アイちゃん来るのかしら。道江は、そう店内を見廻しながら思った。

 

 外は再び降り出した雪が吹雪いて、引き戸に映る暖簾がせわしく羽ばたいていた。道江は小さく吐息した。

  「そう三年生なの、もうすぐ四年生ね。ご出身は」

  「横浜です。ここもずっといたいくらいいい所です」

  「田舎もいいでしょ。自然がいっぱいあって、美味しいものもたくさんあるし」

 道江は優しくそう言った。女子大生の瞳が嬉しそうに輝いた。

 それから少しの沈黙があった。店内には外の激しい吹雪の音が聞こえていた。今日はもう誰も来ないかもしれない。そんなふうに思える気配がした。道江も政弘も女子大生も、聞くともなくじっと吹雪く外の風の音に耳を澄ませていた。

 静けさは店に似合わない。いつだって常連が揃い踏みで押しかけて賑わってくれなければ店も困れば、客たちの明日の英気も養われない。そうだろアンタ。道江は相変わらず煙草を吹かしている政弘の方を見た。

 

 政弘は苦笑いして煙草を灰皿に揉み消すと、再びカウンターの方の客に声を掛けた。

  「お嬢さん、何を勉強してるんだい。人文かい、それとも教育…」

  「理学部の物理です」

 政弘は二の句が継げない顔をした。

  「リケジョなんだぁ、凄いっ」

 道江が頬を膨らませておかめのような顔をして驚いてみせた。

 珍しい若い女性の客に夫婦とも、いつもの親爺ばかりを相手にしている勝手と違って、妙に浮き足だっていた。

  「何かお作りしましょうか」

 お通しが残り少なくなっているのに気づいた道江が声を掛けた。

  「そこに品書きがありますから」

 そう政弘が横から口を挟んだ。

 すると、道江が今度は亭主をからかうように笑みを崩して付け加えた。

  「下手な字でしょ。読めますか、その字」

  「はい、大丈夫です。この〝名人もも焼〟って字、素敵ですね。とても渋くて、味わいがあります」

 女子大生は、カウンターの目の前にある葉書の倍ほどのプラスチックに挟まれた品書きを指差しながら澄んだ笑顔を向けた。

 道江がちょっと困った顔をした。

  「何のことないのよ、この人が書いたんですよ。ごめんなさいね」

  「いやいや、名人ってこのワシのことで」

 政弘が傍から声を浮わつかせて得意げに口を挟んだ。と、道江が反射的に付け加えた。

  「ごめんなさいね。名人たって自分で書いてそれしか作らないんですよ。あとは全部、私。後片付けの時にはもうお客とどこかへ行ってしまうんですよ。何が名人だか、もう」

 そこまで言って、道江は情けなくなるのを隠すように横を向いた。

 

 政弘は秘伝のタレをくぐらせた鶏の骨付きもも肉を焼き始めた。いつになくぎこちなさそうな手際に、「アンタ、ちょっと危ないわよ」と道江が手助けした。

 女子大生はそんな夫婦を見て、何となくそれまでの緊張感がほぐれる気がした。

  「あっ、こっちには〝名物もも焼〟ってありますけど」と、女子大生が見つけた喜びを弾ませた声で言った。

 小上がりの横の壁に、品書きと同じ手書きの文字の貼り紙があった。

  「そっちの〝名物〟が正しいのよ、うちのもも焼は」

 道江が話にオチをつけた。

 「名人」を格下げされた政弘は頭を掻きながら、もも焼の焦げ目の加減の仕上げに打ち込んだ。

 それから道江が問わず語りに居酒屋月ノ川の店の由来と自分たちの馴れ初めを語り始めた。

 女子大生は骨付きのもも焼に箸を突きながら、お銚子の熱燗を大事そうに少しずつお猪口に足しては口元に運び、道江の話を静かに聞いていた。

 

 道江と政弘夫婦は北国の農村の幼馴染みだった。三男坊の政弘は隣町へ出て闇商売から一杯飲み屋を始めた。

 月ノ川の名は、政弘の故郷の大きな川の名で地酒の銘柄でもあった。店を持つ時に居酒屋であれば酒は地酒をメインに置くと決めていた。蔵元が彼の古い友人だったこともあって、友人は多くの仲間を政弘の店の常連にしてくれた。

 またたく間に繁盛して人手が要るようになった。飲み屋であれば愛想のいい女手もほしかった。

 そして、開店して一年後のあの日、道江が親の勧める見合いを蹴って転がり込んできた。道江十九歳、政弘二十七歳の時であった。

  「マーちゃん、私をここに置いて」

 道江は両手に大きな風呂敷包みをぶら下げていた。赤く腫らした目をして息を弾ませ、じっと引き戸の敷居を一歩跨いだまま立ちすくんでいた。

 何があって来たかは、すでに身内から聞いて知っていた。政弘は道江に駆け寄り風呂敷包みを取り上げると、そのまま両腕で道江の肩を抱いた。風呂敷包みの重みが彼女の背中をきつく締め上げた。

 二人はその夜、夫婦になる誓いを確かめ合った。幼い頃からお互いを意識していたとはいえ、体はまた違う心のかよいを教えた。もう一人では生きられない。体が一つに重なるように心も二人で一つになった。そして滲む涙がまみえて溢れ滴った。

 

 季節は北の町に冬の気配を告げていた。雨が霙に変わる日が多くなった。店に訪れる客も出稼ぎに出てめっきりと減った。

 暖簾を掛けようと道江が軒先を出た時だった。肩先に人の手があった。振り返ると見覚えのある顔が見下ろしていた。

  「やはりみっちゃんだ。政はいるか」

 蔵元の橋詰吉右衛門だった。その胴間がかった声に道江は不吉な予感がした。

 案の定、橋詰の話は政弘と道江が黙って所帯を持ったために自分の立場が狂わされたというものだった。

 橋詰は年明けの村会議員選挙に初めて立候補する予定であった。その後援会長を二人の噂を聞くより前から道江の叔父に頼んであった。しかし、叔父は道江を決まった嫁ぎ先へやる予定だったのが叶わなかった。その嫁ぎ先こそ橋詰の有力者の親戚だったのだ。親戚に顔向けができなくなった橋詰は、何度となく道江を取り返すよう叔父に頼んでいたが、叔父はすでに後援会長を引き受けることも道江を取り戻すことも諦めてしまっていた。

 橋詰は政弘に道江と別れろと詰め寄った。もちろん政弘にその気はなかった。それよりも道江の一言が橋詰を観念させた。

  「私はもうこの人の女になりました。いまさら他所の見ず知らずな男の女になんかなれません」

 道江の切実な想いの前に、観念した橋詰は尻尾を巻いて逃げ帰った。しかし、事態はそれだけでは終わらなかった。二人の店が潰された。

 所詮、三男坊のタナゴ。村の名士にすれば割り箸より楊枝をへし折るようなもの。道江の身内を背いた噂は醜聞を帯び、やがてそう察した二人は夜逃げ同然に村を出た。乗った汽車は雪の峠を越えた。

 

 そこまで話して、女将の道江は目の前の蛇口で注いだコップを一口飲んで喉を潤した。かと思うと、しばし沈黙した。天井を仰いだまま目を瞬いていた。それが何を意味するのか、夫婦が歩んだ苦楽が思い出された。夫の政弘も吸ったタバコの手が止まったままであった。

 外の吹雪が止まない。心を掻きむしるように風音が鳴っていた。道江はとうとう背を向けてじっと店の棚を睨んでいる。女子大生は胸の高鳴るのを抑えようと下唇を結んでいた。

 暫くして、道江が沈黙を開いた。

  「お嬢さん、変な話ししてごめんなさいね。それにしても、どうしてそんなに…」と言って、小さく畳んだティッシュペーパーを差し出した。

  「いえ、特にわけはありません。お二人、大変だったんだなって感激しちゃったんです。でも素敵なお話ですね」

 ティッシュを目尻から頬に当てながら、控え気味に女子大生が言った。そして猪口をひと口傾けてから気を取り直すように今度は張りのある声で言った。

  「こちらにいらしてからは大丈夫だったんですか。あちらの方が怒ってお店にやってきたとかなかったんですか」

 彼女の心配とは裏腹に道江の顔には笑みが甦っていた。

  「それがね、運がよかったっていうのかしら、ねぇアンタ」

  「うん、そうなんだよ。まったく運がよかった。ここへは誰も来なかったさ」

 二人は揃って笑顔を見合わせ、当時のことを交互に話した。

 

 汽車は雪の峠を越え、道江と政弘の二人は同じ県内の県庁所在地の大きな駅に降り立った。時刻はすでに夕刻であった。外は雪がちらつき足早に家路へ急ぐ人々が駅周辺を行き来していた。

 二人は安宿を探して歩いた。幸い駅前で見つかり、その晩は泥のように眠った。

 宿には三日ほどいて、その間に政弘が前もって段取りした飲食店同業組合へ開業の相談に足を運んだ。

 政弘は始めは東京へ出て一旗揚げてからと考えていた。しかし街から米軍が引き揚げ、花街も戦前ほどでなくとも芸妓達も四十名を数え華やいでいた。当時、北の小都市には敗戦で荒れ果てた都会から糧を見つけに落ち延びた者や、捕虜のまま見捨てられ国許へ帰ることができなかった者たちで溢れかえっていた。その救済策として幾つかの街角にマーケットというバーや飯み屋が何十軒と軒を連ねた一画が市内の数カ所にでき上がった。

 しかし、それも新しい都市建設の環境整備が叫ばれるに及んで数年で順に撤去された。溢れた者たちは移転を余儀なくされ、旧花街の周辺の店舗を兼ねた建物に集約されたり、自前の粗末な店舗で新たに店を始めたり、中には他所の土地へ逃れたりした。こうして街にはバーやクラブ、居酒屋が新たに建ち、復興の兆しを見せ始めていった。

 やがて旧花街は、明治改革以来の官庁街や商店街にも近かったので、いよいよ夜を飾る県庁所在地の花形として享楽の市民を呑み込んでゆくこととなった。

 一週間もした頃、政弘の腕を見込んだ同業者が一箇所店舗が埋まらないからそこを使わないかと言ってきた。店はすでに組合側が手を入れ、明日からでも始められそうな按配であった。

 二人は早速開業の準備に取り掛かった。

 政弘の段取りは素晴らしかった。食材は毎日市場へ出る。その他のことは組合が紹介してくれた業者と決めていた。金銭のやり繰りは組合と信用金庫へ道江と出向きじっくりと計画を練った。

 道江は生来気丈夫なせいか損得を念頭におく頭の回転を持ち、店の経営には想像以上に頼りになりそうであった。政弘は自信が湧いた。道江も自分でも気づかなかった才能を見つけたようだった。そうして二人は怖いもの知らずな勇気が湧いてくるのだった。

 それから半年後の春、二人の故郷の村の議会選挙でなぜか蔵元の橋詰吉右衛門が当選した。それで落ち着いたせいか、身内が押し掛けて来るのではないかという心配が消えた。あの一度諦めた叔父が橋詰の意地の悪い手管で後援会長を引き受けさせられたのかどうかすら道江には伝わって来なかった。

 二人はそれ以上詮索する気もなかった。幸い店は村の時に較べ毎日が忙し過ぎた。

 当時、市内は戦後の復興から立ち直り近代化が著しかった。駅前にはバスターミナルができ、大通りには百貨店のビルが建って人と車が行き交うモータリゼーションと高度経済成長の時代に向け発展しつつあった。

  「東京みたいね」と道江が言えば、「行ったこともないのに」と政弘が笑った。

 二人に与えられた居酒屋月ノ川は、旧花街のメインストリートだった通りから枝分かれした細い小路の道端にあった。辺りは、旧花街らしくわずかに残った廓などが料理屋や居酒屋に変わっていた。二階の窓には肘掛けの縁側が付いていて、そこから酩酊加減の客が粋狂に顔を出していることもあった。

 月ノ川のある旧花街は、県庁と市役所のある官庁街に近く、夜の店は日夜役人やサラリーマンで賑わった。

 店は今こそ二階建てになったが、終戦からほぼ十年後に北の町からここ県庁所在地の繁華街に移った頃は平屋のあばら屋だった。

  「昔はお金持ちの旦那衆が芸者遊びする所だったんだってさ」

  「変なこともしてたの」

  「そういうのは別なほうにあったんじゃないかな。この辺は京都のような粋な遊びを楽しむ高級趣味の花街だったらしい。カガイとも言ってね」

  「カガイって」

  「別の花街と区別するためだろうけど、花街を音読みすれば…」

  「なんだ、なるほどね」

 こうして二人はとりあえず生きていくためのこじんまりとした店を開いた。ひとたび道行きが決まれば、元から生業の飲食業ならばと政弘も意気揚々とした。

 売りにした鶏のもも焼が期待した以上の人気を得た。当時、肉といえば鶏肉で、高価な牛肉を尻目に庶民の貴重なタンパク源として珍重された。ビールが広く普及し始めたことも後押しした。献立のメニューも山菜を中心に魚介など地元の食材を使って少しずつ増やした。

 店を買い取り住まいと店舗を兼ねた二階建てに改築して、二人はいよいよ新興著しい時代を乗り切って行った。やがてそれも遠い時代のことになった。

 

 外の吹雪が幾分柔んできた。廻り舞台のように、客の誰もが帰りの足もとの心配から開放されて、店内には元の和やかな雰囲気がよみがえってきた。

  「こんな調子でやってきたの私達。時代がよかったのかしらね」

 締めくくるように道江が言った。

 話したいことはもっとたくさんあった。でも目の前の女子大生は初めてのお客さん。今夜はもうアイちゃんは来ない。そう気づいてやめた。道江は引き戸の方を見やった。

 すると、女子大生が、「かたい絆で結ばれてる。…なんか憧れちゃいます」

 そう詩を読むような憂いを含んだ調子で言って、すぐに肩をすぼめ微笑んで見せた。

 残ったわずかな酒をすすると、女子大生はお愛想を置いて帰る身支度をした。白いハーフコートに真っ赤なマフラーを首に巻くと、その首筋に両手の甲を入れて長い黒髪を跳ね上げた。周りの空気までが揺れたかのように見えて、その後ろ姿のままゆっくり引き戸の向こうへ消えた。

 夫婦は揃って静かに頭を下げた。

  「今日は不思議と彼女だけだったわね。雪女みたかった」

  「こういう日もあるさ。雪が降ったからな」

 じき慣れた店じまいが済むと、

  「たまにはよその店に行ってみないか」と、亭主が言った。

 彼の珍しい誘いに道江は戸惑いを感じながらも、今夜はこの人に甘えておこうと心に決めた。

 そして外へ出ると、雪の夜の小路が銀河のように輝いて見えた。そこを「月ノ川」の二人は肩を寄せて歩いた。

 

(3)

 居酒屋月ノ川は午後四時に暖簾を出す。雪道の轍が消えて足もとが軽くなり始めた頃になると、暇を持て余した老人客が早くからやって来る。彼らは昼寝をしてから散歩に出て来ると、ちょうどそんな時間に繁華街にたどり着くのだ。

 助さん格さんがやって来て、そのすぐ後に白髭の黄門様がやって来る。三人は現役時代の仕事仲間で、いつからともなく早い時間にやって来るようになって、帰るのも早く小一時間で揃って帰ってゆく。

 早い時間から開いてるのを知った客がちらほら増えて、店には会社に戻らないで直行して来る客もいる。なかには煙草を買って来るとでも言って店を女房に任せきりにしてやって来る商店主もいる。

 

 そんな客たちの来店がひとしきり終えた束の間、道江と政弘は一息つくようにくつろぐ。二人とも何を話すでもない。道江はカウンターの中の椅子に腰掛けテレビを観る。決まって韓流ドラマの後半、面白いクライマックスがよかった。

 一方、政弘は店の扉の外に椅子を出して煙草をくゆらせている。夕暮れ前、飲屋街には酒屋やお絞り屋などが小路の陰を行き来している。時折、仕入れ帰りの店主の姿もある。誰と声を交わすでもなく、政弘は宙になびくタバコの煙を追うような素ぶりのままだ。

 

 その日、アイちゃんはいつもより遅くやって来た。タクシーの運転手が後で話したことには病院が長引いたということだった。口止めされていたらしく、どこの病院へ何のために行ったのかなどそれ以上は教えてもらえなかった。

 アイちゃんが来たその夜も、もちろん本人に聞くなど野暮な話はしなかった。古い付き合いのアイちゃんとはいえお客さんだ。そんなことぐらい、道江も政弘も心得ている。

 さて今宵のタロちゃんはといえば、あれからもう三ヶ月も過ぎたというのに女房に浮気され放しでいるのも忘れて、月ノ川に来れば相変わらずアイちゃんの隣の指定席にしぜんとおさまっているのだった。

 しかしある日のこと、アイちゃんの様子が少しおかしかった。

  「はい、アイちゃん」

 道江はいつものようにお猪口をアイちゃんの目の前に置いてお酌をしようとした。ところが、アイちゃんはお猪口を受け取らずに指だけでお酒を飲む手真似をした。

  「アイちゃんったら…」

 道江は、仕方なくお猪口をアイちゃんの目の前に置いて静かにお酒を注いだ。

 そこへ、先に店に来ていたタロちゃんがトイレから戻って来た。

 アイちゃんはタロちゃんをひどく懐かしそうに見上げた。そして誘われるように席に着いたタロちゃんの腕に自分の腕を絡ませると、そのままじっとお猪口を見つめた。

 タロちゃんが自分のお猪口を摘んで乾杯を促すと、アイちゃんは何を迷ったのか、道江の方を見上げ、初めて見るような胡乱な瞳を向けた。おかしく思った道江に一抹の不安がよぎった。

  「大好きなお酒よ。でも今日はひと口だけにしておきましょうね」

 道江が子供をあやすような優しい声音をこしらえて言った。

 すると、突然アイちゃんの瞳がみるみる潤んだ。

  「みっちゃん、私、私……」

 涙顔で訴えるように呟いた。とうとう隠しきれない涙が溢れ出た。

  「いいの、それ以上は言わなくていいのよ、アイちゃん」

 道江は直感で気づいた。アイちゃんは、この冬から少し体の加減が思うように動いていないように見えていた。

 ところが、傍からタロちゃんが甲斐甲斐しくティッシュを手渡すと、アイちゃんは両手で顔を覆うようにして思い切り鼻を嗅いだ。

 そんな大袈裟な素振りのアイちゃんを見るのは店の誰もが初めてであった。彼らは驚いて飲もうとしたジョッキーを宙に持ち上げたままだったり、食べようとした箸を止めたままだったり、一瞬皆が目を見張った。

 気がきかない客の一人が叫んだ。

  「どうしたんだい、アイちゃん!」

 とっさに道江が忠告の一撃を放った。

  「何でもないの、アイちゃんはちょっと調子が悪いだけ」

 たちまち客はペコリと首をたれた。

 すると、アイちゃんがそちらの方を見て突然「アハハ」とひと声笑った。他の客の幾人かも同じように復唱して笑いたてた。アイちゃんは恥じるふうもなく、突然泣いたのが嘘のように彼らの声援に笑顔で応えた。

 道江も政弘も、そんなアイちゃんの変わりようが不思議におかしく、思わずお互いに目を見合わせた。

 その後、アイちゃんはどうしたのか、とうとう一滴も飲まないうちにうなだれたまま眠り込んでしまった。隣のタロちゃんがまるで女学生が自分の髪をいじくるみたいにアイちゃんの毛先をもてあそんでいた。

 

 外はすっかり夜の闇に包まれたようだった。そんな頃、天下りの理事長と事務長が例のごとくお揃いでやって来た。理事長が挨拶のつもりでアイちゃんの背中をさすりながら、とんでもない冗談を飛ばした。

  「なぁんだアイちゃん、死んだかぁ」

 アイちゃんは片肘を崩してカウンターに伏せってしまった。お銚子の酒がこぼれて着物の袖口が濡れた。咄嗟にタロちゃんが泣きそうな顔して、そのまわりをせっせと布巾で拭き始めた。

 アイちゃんは動かない。道江は理事長の冗談を一喝した。

  「理事長さん、アイちゃんは疲れてるの。何よ、その失礼な言葉。今日は高いよ」

  「おおっ怖。事務長、今夜は経費にしておこう!」

  「ダメですよ、理事長。さっき次の店は俺が持つって言ってたばかりじゃないですか、男らしくないですよ」

 事務長は自分の財布をヒラヒラとたなびかせながら言った。

  「事務長さんの言う通りね、理事長さん」

 道江が釘を刺した。理事長は観念した。アイちゃんは依然動かない。スヤスヤと寝入ったきりだ。

  「病院で疲れたんだろうよ」

 政弘がアイちゃんをねぎらうように言った。道江は夫の優しい言葉を久しぶりに聞いたような気がした。

 客たちは皆、アイちゃんに気をつかって静かになった。理事長もさっきまでの勢いが失せて魔の悪そうな視線を泳がせていた。

 そんなところへ新参の男女二組がきて、奥の小上がりを占領した。道江が注文を取りに走って愛嬌たっぷりと稼いだ。

  「あんた、もも焼を四本ね。それとそこのキリン二本も」

 政弘も勢いよく仕事にかかった。冷蔵ケースから瓶ビール二本を指に挟んでつまみ出すと、カウンター奥の腰高の羽扉を体ごと押し開けて小上がりへ。すぐに戻ると、冷蔵庫からもも肉を取り出し焼きに入った。

 道江は、調理台で大ぶりな刺身の盛り合わせをこしらえ舟桶を手に小上がりへ。そこには久しぶりに仲間を誘ってやって来た三人の中年女性たちがいた。口々に嬌声を交えた季節外れな花を咲かせていた。道江もしばし腰を据えて話に興じていた。

 じき冗談に見切りを付けて、道江がカウンターの調理台に戻ってきた。

  「どうしたんだい女将、盛り上がってたじゃないか」

 常連客の商店主がからかうように言った。

  「ないしょ」

  「旦那にも言えない話だったりして」

  「ばか言うんじゃないよ。理事長さんと同じに高く戴くよっ」

 いつだって万札の手持ちのない商店主は閉口してカウンターにちぢこまった。小上がりの方では相変わらず笑いが絶えることなく続いていた。

 アイちゃんは依然タロちゃんの腕に伏せたきりだった。客は皆それぞれに酒を楽しんでいて、店内はいつもの落ち着いた活気に包まれていた。

 

 そんな時、店の外で男の大きな声がした。酔っ払いに違いないが、人をからかっているタチのよくないだみ声であった。

  「それっ、しっかり歩け、お嬢ちゃん。おんぶしてやろうか」

 小さな悲鳴が聞こえた。

 出入り口に一番近いカウンター席の客が引き戸から外を覗こうとした。男が激しく舌打ちするのが聞こえた。その瞬間、慌てた女の子が店の中へ飛び込んで来た。男の逃げて行く足音がした。

 女の子は花売り娘だった。どうやら足が悪そうであった。上体を傾向かせた格好で、手には少し乱れた大きな花束を抱えていた。

  「お花、買ってください」

 消え入るような涙声であった。店に入れば何よりも先にそう言うように習わされたものの、思うように声が出ない様子であった。中学生ほどの可憐な女の子で、月ノ川では初めて見る花売り娘だった。

 夜の街に花売り娘が現れるのは珍しいことではなかったが、ひと頃よりはずっと少なくなっていた。客の方も昔のように歓迎することがなくなっていた。

  「ごめんなさいね」

 道江が客の怪訝な様子を見て、低い声でそう言った。

 花売り娘は涙目を伏せたまま下唇を震わせていた。それでも一本でも買ってほしいと、百合の花を手にした腕を真っ直ぐに前へ差し出した。

 すると、眠っていたはずのアイちゃんがゴロちゃんの腕を解いて徐ろに顔を上げた。

  「それ、みんな頂戴」

 帯の間から財布を抜き取って、何枚かの紙幣を花売り娘のポケットに差し込んだ。娘は驚くよりもたちまち笑顔を浮かべた。

 もとより値段が決まっているわけではない。お釣りは持ち合わせていないからそのままチップになるのが当座だ。

 女の子は喜びのあまり花束をアイちゃんに押し出すように手渡すと、即座に頭を下げその場を片脚を引きずりながら立ち去って行った。夢を見た一瞬のような光景が消え、店内に薄いため息が漏れた。

 花はそれから店にいる者たちに順に一本ずつ渡って、まるで居酒屋が思いがけず花園と化したかのようになった。

 そんな中、アイちゃんのお迎えのタクシーが来た。タロちゃんと運転手に支えられながらアイちゃんはタクシーに乗り込み帰った。車の音がブーンと鳴って夜道へ遠のいて行った。

  「困ったなぁ、こんな洒落たもの持たされちゃって」

  「次に行く店のママにでもプレゼントするかぁ」

 男たちが三々五々気恥ずかしげに手にして店を引き上げて行った。

 

 道江は花売り娘の女の子のことでふと思い出すことがあった。

  「ねぇアンタ、あの子いつも夕方になると、表通りの角の花屋の前で立っている子じゃないかしら」

  「なぁんだ、お前知らなかったのか。あの娘はアコーディオンで流してる多吾作の子よ。二度目の若い嫁に生ませたさぁ」

 政弘は、きっとどこか常連にしている店の仲間から聞いたのだろう。道江はそんなふうに思った。

 女の子は、夕方になって花屋の売れ残った花を恵んでもらって売り歩いていた。花屋は女の子を可哀想に思っているのだろう。花をあげると堪らなく可愛げな笑顔をこしらえる。そして何度も頭を下げながら角の小路へ脚を引きずりながら消えてゆく。

 食器の片づけをしていた道江は政弘の話した花売り娘の女の子のことを思い出していた。奥の小上がりの方から、「お前、暖簾入れたらどうだ」と呼ぶ夫のいつもの威張った声がした。

 

(4)

 店が忙しくても暇でも、政弘と道江は夜十時を過ぎれば店を閉めて二階に上がって夫婦団欒を過ごす。時々、政弘は客と飲みに出たりもした。それでも忙しかった晩は気分が乗るのか、政弘は道江を抱くのを好んだ。

 朝、政弘は市場へ出るか、昼近くまで寝ているかしている。道江は日課にしている散歩に出る。

 朝の川風は気持ちがいい。道江は土手の道を歩いていた。ふと遥か彼方に霞のかかる山波を仰いで深呼吸をした。すると、その吐く息に昨夜の残り香が感じられた。それはわれ知らずに政弘の太い腕をつかんだ時の自分を恥じた瞬間だった。

「馬鹿みたい」

 道江は上気した気分を晴らすように足もとの小石を蹴った。小石が音もなく土手に落ちて見えなくなったところで一息つくと再び歩き始めた。

 道江の足は橋を渡ってアイちゃんの家に向かっていた。店で様子が気になった翌朝は必ず立ち寄ることにしていた。殊に近頃のアイちゃんはおとなしくなったようだし、視線が定まっていないように見えて心配だった。もしかしたら少しボケてきたのかもしれないと思うこともあった。

 

 その朝、道江は橋を渡り切ると対岸の土手の道をいつになく急いて歩いていた。

 アイちゃんの家は、土手の内側のすぐ短い石段を降りた木立の中にうずくまるようにあった。家は古い洋風の木造平屋で、白いペンキが所々剥げ落ちそうになっている。樹木に覆われ、そこだけが小さな密林のようで、蜘蛛の巣の糸が朝の日差しで銀線のように輝いて見えた。

 道江は、表札のない玄関の扉の前に立った。訳ありなアイちゃんのこと、道江はドアを開けて中に入ることはしなかった。それは政弘の忠告があったからだった。

「彼女は旦那の遺産をたくさん家の中に仕舞い込んだままだって噂だ。だから彼女を訪ねても敷居は跨いじゃならねぇんだ。何かあったら泥棒に間違えられるとも限らねぇ。お前、時々行ってるようだが決して中に入っちゃぁならねぇぞ、いいな」

 くどいように言われた。威張ると江戸弁になる癖は自分も同じだが、普段は寡黙なダンナの言うことだ、生意気言っても聞いてやるのが女房の努めだろう、そう道江は思っている。だから、その朝も玄関の前から出窓のある庭の方へ忍び足で進んでガラス窓から部屋の中を覗いた

 いつもだと化粧台の鏡の端にベッドに横たわったアイちゃんの後頭部が見えた。しかしその朝は白い枕しかなかった。奥を覗くと、ベッドの上はきちんと厚い毛布が折り畳まれていた。

 心配になった道江は玄関の方に戻って扉の隙間からアイちゃんの名を二、三度呼んでみた。しかし、政弘の忠告が気になってそれ以上に声を大きく出したり奥深く気配を伺ったりすることはよした。しばし心を震わせながら立ち尽くしていたが、道江は後ずさるようにしてその場を離れた。

 

 土手の上に戻って来ると子供の声がした。

「おはようございます」

 登校中の少年三人連れが一斉に帽子を取って元気な声を合わせ、道江に朝の挨拶をした。道江はびっくりして振り返り、声もなく頭を下げた。

 背を伸ばすと、もう少年たちは目の前の先をランドセルを揺らしながら走り出していた。闊達な彼らに救われたような気がした。道江は帰路を急いだ。

 店に戻ると、政弘が調理台に立って市場で仕入れてきたものを整理していた。道江も黙ってそれを手伝う。そうしてひと段落したところで二階の奥の夫婦の部屋に入り朝食となる。それが終わって、二人はようやく話をするか、それぞれが必要なことを始める。

 その朝の茶話の時、道江がアイちゃんの家であったことを伝えた。

「騒ぎ立てないことだ。お前は口が軽いからな。しばらくは店でも喋るんじゃないぞ、いいな」

 どうしてこうも夫はアイちゃんのこととなると私を責め立てるのだろう。道江は心配を分かち合いたかっただけだし、自分だって店で話そうなんて気はなかったのに。少なからず政弘にはアイちゃんが芸者の出だったことを好ましく思っていない節が感じられた。

 それは店を始めて半年ほどたったある晩のことだ。芸者をやめたばかりの着物姿のアイちゃんが初めて居酒屋月ノ川に来た時、彼女はいかにも渡世風といった中年男性と一緒に現れた。ことの発端は政弘がその男性の注文を間違えたことにあった。

「塩だって言ったはずだぞ」

 カウンターにアイちゃんと並んで腰掛けていた男が、焼き鳥の炭消しに取り掛かった政弘の背中に向かってど突いた。焼き場のガラス窓に映る外のネオンが一瞬まばたいたかのようだった。

 振り向いた政弘はじっと耐えながら身を震わせていた。咄嗟に道江が政弘に歩み寄って揃って頭を下げた。その屈辱を政弘は忘れていなかったのだ。

 しばらくしてのこと、男はどこかで傷害事件を起こし逮捕された後、組替えされたかしてどこかへ消えた。それはもともとアイちゃんが芸者時代から身請けを乞われていたある公権に近い人物のおかげだったというもっぱらの噂であった。事実、アイちゃんはその後、それらしき人物と暮らしていた。

 しかし、アイちゃんの幸せは長くは続かなかった。程なくして、かの旦那は病いで亡くなった。

 

 その後、アイちゃんは長らく一人暮らしであった。一人になったアイちゃんが居酒屋月ノ川に再び現れたのは、それから何年か過ぎた頃の暑い夏のことで、ちょうどその日は街の夏祭りの宵であった。

 アイちゃんは水色地に薄い花柄のある浴衣姿であった。客の誰もがその清楚な艶やかさに息を呑む思いに駆られた。

「どうしたのよ、アンタってば」

 道江が、心ここにあらずといった面持ちの政弘を見て叱るようにささやいた。その拍子に、政弘は冷蔵庫に寄りかかっていた後ろ手を滑らせて小さくこけた。体勢を持ち直しながら不似合いな照れた顔を道江に返すと、そんな夫婦の気配を察したカウンターの客達が揃って苦笑した。たちまち店内の緊張が解かれた。

「どうぞ、こちらへ」

 そう言って客の一人が空いていた引戸に近いカウンターの止まり木へアイちゃんを誘った。彼は彼女の席から二つ空いた先で固まるように腰掛けている四人の男達の席の方へそそくさと戻った。

「おーっ、おまえ気がきくじゃねぇか」

 客の一人が皮肉と羨望のこもった声で迎えた。皆、戻った彼をはしゃぐように讃えた。

「ありがとうございます」

 アイちゃんが男達の席に向かって歌うような優しい声で言った。そしてゆっくりとしなるような身のこなしで譲られた席に腰掛けた。

 その様子に見とれた男達が全員そろって席を立ち、カウンター越しにそれぞれがバラバラな言葉で一斉に挨拶した。

「どういたしまして」「とんでもないです」「いやー、どうもどうも」「よろしくお願いします」「ごゆっくりして行って下さい」

 そんな彼らの大袈裟な対応に、アイちゃんは静かな笑みを返した。男達からは熱いため息がもれた。

 そんなふうに歓迎されたアイちゃんではあったが、中にはアイちゃんを酒代をおごらせるタカリのように陰口を言う客もいた。もちろん道江は黙っていない。一喝した。

「お勘定いらないから、とっととお帰り。二度とうちの敷居はまたがらせないからね!」

 驚いた客は決まって毒気を呑まされたかように退散した。そんなことのあったことは、アイちゃんは知らない。

 やがて、アイちゃんと道江はどちらかともなくよく話をするようになった。店に来るたびに少しずつアイちゃんのことが分かるにつれ、道江はアイちゃんを愛おしく思うようになった。

 その夜も、政弘は早くから客に誘われ外へ出ていた。

 

 客が引けたその夜、お互いについて先に話し始めたのは道江よりアイちゃんだった。

 アイちゃんは都会生まれで、二十代の頃は貧しい家庭を支えるために夜の店で働いていたという。ひとしきり当時のお店でのことを話してから小さな告白をし始めた。

「そこでね、今のこの土地の人に見染められたの。俺の田舎で働かないかと……」

 それが何を意味していたかは隠すように、アイちゃんは恥ずかしげに語尾をすぼめた。

 かの御仁は土地のいわば旦那衆であった。行きつけの料亭にアイちゃんを連れて歩き、アイちゃんを座敷の姐さんたちに紹介した。

 しかし、当時はもう花街は往年の華やいだ賑わいは失われつつあった。料理屋、待合茶屋、芸者置屋の三業と呼ばれた花街の形態も崩れ、芸者の数も極端に少なくなっていた。そんな中、アイちゃんは貴重な芸者のなり手の一人として迎えられた。

「十九では周りの芸者さんに比べて習い事を始めるのが遅かったのよ。それでお客さんの前ではいろんな嫌な思いをしたけど、仲間の皆さんがとても優しくしてくれた」

 アイちゃんは声を詰まらせ、少し涙ぐんだ。

 道江はこの花街に古くからいる同業の人たちから聞いて知っている。アイちゃんは新参者ではあったが、持ち前の美貌と器量の良さで人気の芸者だったことを。

「誰が見たって、ちょっとした所作にも匂い立つような魅力があったってみんな言ってたわよ。アイちゃんはみんなの希望だったんだ」

 道江は店の中をどことなく見上げながら称賛の声を上げた。アイちゃんが照れたように言った。

「ありがとう」

 その言葉には深い感謝の念がこもっていた。二人は見つめ合い、どちらからともなく吹き出すように笑い合った。笑い合いながら、道江はアイちゃんのかつてのいい人の亡くなったことまで聞くのは止そうと決めた。

 とにもかくにも、アイちゃんはやがてその人の資産の一部を得て後の人生を気ままに生きることができた。そこには苦労した分だけ、安堵できる余生があった。

 アイちゃんと道江の二人はしばし酒を注ぎ合い、閑散とした店内の空気に身をまかした。そこには、お互いの気配を感じ合うだけで安らぎがあった。

 

 やがて沈黙を開くように、道江も正弘とのことで一つだけ告白した。

「私たち幼馴染みだけど、実はあの人以外に私を好きになってくれた人がいたのよ。それで少し迷ったりもしたんだけど、結局ね…」

 道江が言い淀んでいると、

「あの人のものになっちゃった」

 と、アイちゃんが道江を代弁した。そんなアイちゃんのおどけたような言葉に、道江も弾けるように同調して笑った。

 夜のふける気配が二人の哀しい生涯を透かすように流れていた。沈んだ話に耐えられなくなって、ときおり二人は冗談を言い合い古い苦い想いを凌いだ。

 そんな二人だけの晩が幾日かあった。やがて、アイちゃんは懐かしい旧花街にある唯一旦那を偲ぶことができる居酒屋月ノ川に通うことを生きがいにするようになった。

 しかし、花売り娘の花を店の客たちに配って店が華やいだあの晩を最後に、アイちゃんは姿を見せなくなった。アイちゃんの老いた気配には、深い霞がかかり始めようとしていた。

(つづく)

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