ヤッコ画人 服部二柳の鶴岡を歩く4
(筆者所有)
日本画史と服部二柳(その1)
服部二柳は知られざる日本画家である。さて、ここで日本の水墨画の流れを振り返えりながら、彼がどのような存在だったかを探っておきたい。
日本画の形式は中国から伝わった。8世紀前半、唐の時代(中期)に自然を墨で描く山水画が盛んとなり、11世紀の宋の時代には北宋や南宋へと独自な広がりを見せた。その後の中国における水墨画は、線と墨の濃淡を自在に駆使するなど革新的な歩みを遂げた。
やがて13世紀半ばの鎌倉時代後半、中国の水墨画が禅文化とともに日本へ流入、室町時代には水墨画は禅僧の余技として描かれるようになった。
日本では、水墨画は山水画が詩文を添えた軸物として好まれた。多くの禅僧がサロン的に集っては禅寺の襖絵や屏風絵を描いて鑑賞を楽しんだ。その中心的な存在だったのが京都の相国寺であった。相国寺からは雪舟が、また智積院からは長谷川等伯や俵屋宗達らを輩出した。
そして江戸時代後期になって、平賀源内や司馬江漢らによって西洋科学の目が開かれると、芸術一般にも新しい自由度が見出されるようになる。その影響は、絵画の画法にも取り入れられる傾向をもたらした。当然のように、日本画にも同じ自由を重んじる気風が生まれた。それは絵画の中でも、より自由度の高い水墨画に適していたのだろう。
南画は南宗画ともいわれた。一方の線描を主体的な筆法とした北宗画に対し、南宗画は墨の濃淡を表現主体とした。そこには北宗画にはない気韻生動が宿り、漢詩を好んだ文人精神の発露が見て取れる。文人の理想郷としての山河を色彩を使わず直截的かつ自由に表現できたことが大きかった。同じ傾向を範とした狩野派に対しても、谷文晁や渡辺崋山らによって江戸後期の一大流派として広く在野の表現主義的な文人らをも巻き込む隆盛をみせてゆく。
(つづく)
ヤッコ画人 服部二柳の鶴岡を歩く3
鶴岡のニ柳
鶴岡にやって来た二柳は、父五老の従兄弟にあたる書道家の松平穆堂(1884~1962)らの援助を得ながら絵を描き続ける。かつての京都画壇と父五老の威光を受けて、当初は二柳の画会が開かれるなど周囲の賞賛を浴びていた。
ところが、二柳はまたしても父五老に似て遊興に溺れるなど放蕩に明け暮れてしまう。金の無心が絶えない二柳に母末井は叱責、二柳は家を出て描いた絵の代わりに食べ物を求めて一人鶴岡の町を徘徊するようになる。そうしているうちに乞食画家「ヤッコの二柳」に身を奴していってしまう。
1954年(昭和29年)母が病死し、二柳はさらに孤立を深めてゆく。そんな50盛りの義理の甥に見かねた書家の松平穆堂は自宅(書道館)の一隅を与え、何とか絵を描かせようとした。だが、二柳の一度病んだ精神はすっかり蝕まれ、奇行が周囲を悩ませることとなってゆく。
せっかくの穆堂の庇護も3年程して尽き果ててしまう。二柳は鶴岡市立荘内病院に精神障害者として強制入院させられ、翌年には市内湯野浜の老人ホーム思恩園に入園させられる。そして1968年(昭和43年)1月1日、二柳は療養所の金峰園(後の山形県立鶴岡病院)で血液中の酸素不足によるチアノーゼで病死、遺体は無縁仏として市内陽光町にある総穏寺の万霊塔に葬られることになる。享年63歳であった。
(つづく)
ヤッコ画人 服部二柳の鶴岡を歩く2
京都から鶴岡へ
日本画家服部二柳は1904年(明治37年)3月10日、南画家服部五老(1869-1930)の次男として京都二条柳馬場に生まれた。その地名の2字を取ったのが画家二柳(双柳)の名前で、本名の名は辰雄であった。
父五老の曾祖父で服部家の始祖とされる大山庄輔恒斎(北李)は荘内藩士で、江戸期の浮世絵師葛飾北斎の門人でもあった。そんな高祖父を持つ二柳は、京都南画界の重鎮であった田野村直入の門人でもあった父五老から水墨画の手ほどきを受けて育った。
しかし、両親の離婚後、京都府立一中を退学、父と同じく京都南画会で竹内栖鳳と並んで南画界の大家の一人と称された橋本関雪の門を叩き、画家への自立をめざした。中学を中退して臨んだ1917年(大正6年 )13歳の頃には、五老の弟子白倉二峰や楠瓊州らとともに切磋琢磨した。
やがて、二柳は20代初めの1925年(昭和14年)と翌年に、それぞれ第4回と第5回の日本南画院展で2年連続して入選するなど華々しいデビューを果たした。(作品については後述する。)
だが、二柳26歳の1930年(昭和5年)に父五老が他界、兄もその前に24歳で、続いて姉も35歳で他界した。二柳は生きる寄る辺を失い画業も生活も乱れていった。特に女性関係が直接の原因だったと、後に二柳自身も語っている(『服部二柳伝説』147ページ)。
そんなことが元で師事していた橋本関雪に破門されてしまう。すでに32歳になっていた。二柳は仕方なく母末井のいる山形県鶴岡市へ逃れた。当時、京都上がりの二柳は糊の効いた羽織袴で鶴岡の町を颯爽と闊歩、「モンツキさん」とはやし立てられていたとか。
その鶴岡で、二柳は父五老の従兄弟にあたる書道家の松平穆堂(1884~1962)らの援助を得ながら絵を描き続ける。かつての京都画壇と父五老の威光を受けて、当初は二柳の画会が開かれるなど周囲の賞賛を浴びていた。
ところが、二柳はまたしても父五老に似て遊興に溺れるなど放蕩に明け暮れてしまう。金の無心が絶えない二柳に母は叱責、二柳は家を出て描いた絵の代わりに食べ物を求めて一人鶴岡の町を徘徊するようになる。そうしているうちに乞食画家「ヤッコの二柳」に身を奴していってしまう。
1954年(昭和29年)母が病死し、二柳はさらに孤立を深めてゆく。そんな50盛りの義理の甥に見かねた書家の松平穆堂は自宅の一隅を与え、何とか絵を描かせようとした。だが、二柳の一度病んだ精神はすっかり蝕まれ、奇行が周囲を悩ませることとなってゆく。
せっかくの穆堂の庇護も3年程して尽き果ててしまう。二柳は鶴岡市立荘内病院に精神障害者として強制入院させられ、翌年には市内湯野浜の老人ホーム思恩園に入園させられる。そして1968年(昭和43年)1月1日、二柳は療養所の金峰園(後の山形県立鶴岡病院)で血液中の酸素不足によるチアノーゼで病死、遺体は無縁仏として市内陽光町にある総穏寺の万霊塔に葬られることになる。享年63歳であった。
(つづく)


