コラムなタイム -2ページ目

本との気持ち115

「メディアの興亡」メモ

杉山隆男(文藝春秋、1986年)

 

 日本語には約7万字もの漢字がある。それに平仮名やカタカナなどが加わって文章化される。しかし英語はたったの26文字である。本書は、新聞社がその違いと日本独特な割付をコンピューターで克服して新聞をつくろうというプロジェクトを立ち上げ、アメリカのITメーカーIBMと取り組んでゆくドキュメンタリーである。

 話は1970年11月25日、作家三島由紀夫の割腹事件のあった日、日本の新聞社のプロジェクトに対してソフト開発元である日米のIBMが査問会議を開く場面から始まる。

 この日、ニューヨークの日本IBM営業担当の伊藤正亮は、国連本部向かいにあるIBM本社に呼び出された。するとそこで案の定、幹部の一人から三島事件の感想をきかれた。伊藤はオスカーワイルドと同じ文学的な「美意識の問題」とこたえた。すると、IBMの極東総支配人で副社長のジョゼフ・ベアードが「ほう」と短く溜息をついて、おもむろに当初の「本題」を語りはじめた。

 それは「日本の新聞社が日本IBMに依頼しているプロジェクトは本当に続けるのかそれとも中止するのか、どうなのか」というものだった。腹の探り合いのような議論の末、伊藤は「もしIBMがプロジェクトを放棄すれば日本の世論をリードする朝日新聞と日経という有力紙を逃すことになる」とこたえた。ベアードは、その時も一言「わかった」としかこたえなかった。実際、IBM本社側には財務的な懸念があり、メゾンルージュ社長は日本側プロジェクト続行に「ノー」を出していた。伊藤は挫けるような思いでその年を越す。

 しかし、諦めない気持ちこそビジネスの最大の強みであった。それを証明するかのように2月に入ってIBMからトップマネージメントによる「開発続行」のGOサインが伊藤のもとに届いた。夢と重積が拮抗する闘いのスタートであった。

 東洋の文字、漢字を使った日本の新聞をコンピューターでつくる。それは月へ行くくらい難しいことかもしれない。そうアメリカ人には思えた。ところが、日の丸プロジェクトは世界のIBMと同じ夢を見ようと大いなる冒険を仕掛け続けてゆくのだった。活字を大組みして印刷する活版という方式から、活字を電算化してモニター上で割付するというコンピューター化へ、日本の新聞各社はそこへ果敢に挑んだ。

 そんな中、ベトナムや中東などでの戦争やオイルショックによる世界を巻き込んだ経済危機があり、新聞社も紙やインクなど原料調達が難しくなった。販売部数や広告収入の減退なども余儀なくされ、多くの新聞社が厳しい経営改善を迫られた。当然のようにコンピューター化への一大技術革新を前に経営者と労働者の抗争は長期にわたり論戦の激しさを増してゆくことになった。

 その後日本の新聞界からは活字が消えてゆくことになるのだが、ストーリーはポストを競う人脈合戦を展開。新聞社同士が隠然と影響力を持つ政治家やOBを呼び出し合ったり、新聞社と日米IBMのトップらが三つ巴の往来を展開させたり、多くの場面で大物が動く裏面工作が繰り広げられる。その登場人物の応戦を活写する文章力は形容を排しながらも冴え渡り、ノンフィクションならではの硬質でいて躍動感に満ちた読書の醍醐味を満喫させる。

 しかし、読者にしてみれば日々読む新聞が活字でつくられようがコンピューターでつくられようが手許に届いた新聞にその違いは見えない。変化を遂げようとする時代の大きな動きには壮絶なドラマがあるように、新聞社の世界にも死活を賭けたドラマがあった。それを描こうとしたことが本書の最大の狙いであったろう。

 この本、670ページもの弁当箱ほどの厚みのある上製本で35年間長らく本箱の隅にデンと置かれたままであった。今回、身辺整理の棚卸し再読のため久しぶりに手にした。無聊を託つ身ながら読み切るのに1ヶ月を要した。それでも充実した読後感を得ることができた。あの時代からほんの後の景色を見たという懐かしさが原動力となっていたのだろうと思う。今は遠い夢を見たような気分でいる。

 


本との気持ち114

「古寺巡礼」和辻哲郎

(岩波文庫)

 

 これが和辻哲郎、二十代の時に書いたものというから驚きだ。思えば、亀井勝一郎が『大和古寺風物誌』を書いたのは三十代の時。どちらも若き血潮の漲る年代の作品だけに刺激的で新鮮な感動を与えてくれる。

 本書は、友人宅でアジャンタの壁画の複写を見る場面から始まる。わが国の仏教美術がギリシャやインド、朝鮮など広い世界を源流とし、一人固有な存在として誕生したのではないということを再確認する。若い著者は、「自分の心を洗い富まそう」と太古に憧れ、京都から奈良へと旅に出る。大正7年5月のことだった。

 著者が仏像や建造物に接するたびに感じたことは、仏教美術には写実を超えたところにこそ人の心に届く力が隠されているということだった。仏像は人の形を借りて真実を伝えようとしている。古刹は人の叡智で美しいまでの調和に造り上げられている。

 著者の学びは深い。奈良の薬師寺金堂の薬師本尊を見て、豊満な肉づきと衣の襞の流れを「想念の結晶」と見る。そして自らに問う。信仰のつぶやきが聞こえたか。その声を我々祖先の声と聞いたか、と。

 唐招提寺金堂の屋根を見上げては、屋根の美しさに破綻もまた調和であるとばかりに、精緻な建造の隠れた表現力を感じ取った。それは、かのギリシャにもローマにもない「静かな落ちつき」があると、動揺しない心の在りかを探った。

 そして圧巻は、法隆寺金堂壁画の脇侍であった。インドのアジャンター壁画をモデルにしたという。その遠大な時の流れに想いを馳せると、悩めるときも信仰のごとく救いとなるように思えた。仏像や寺院など古いものを見て、その古びた奥に潜むものに気づくと、心は何と静まり優しむのだろう。著者はそう思い、旅を終えたにちがいない。

 私の今は遠い旅はかなわないが、身近にも同じように感じられるだろう仏教遺産はたくさんある。あらためて訪ねてみたいと思う。得るものはなくとも、じき彼岸の人となるゆえ。

(初版単行本『古寺巡禮』は1919年5月、岩波書店刊)

 

本との気持ち113

「赤い眼」丸山健二
(文藝春秋、1974年)

 本棚にずっと眠っていた本を老後の今、整理がてらに再読する”わが棚卸し読書”。今回も芥川賞作家の長編小説である。限界集落のような山の家に住む家族と近在のわずかな村人達が織りなす人間模様を通して、一人の女性が自らの再生を賭けて見つめてゆく物語。タイトルの「赤い眼」は、貧しさゆえの死や憎悪がもたらす悲劇を見た眼のことだろうか。怖いのは何よりも誰よりも自分だということを教えている。そして、この世には身内が死んでも心の底からは悲しめない不幸というものがあり、それはおそらく疎外された極貧の身には閉鎖的な事態をより深刻なものにするだろう。
 物語の主人公の女性「私」は小鳥屋の仕事をしながら何とか家族の生活を支えていた。しかし春のある日、酒呑みの父が死んでくれて「私」は解放されたような気がした。母はすでに心を病んで家族を顧みない。妹は自由なあまりに悲劇に見舞われ、挙句の果てには「私」の男を奪い取り、たちまち「私」を家出に追い込んだ。しかしそのことは「私」にも自由をもたらしてくれた。「私」はそれまでの山の家から視界の広がる海の家(アパート)へ脱出でき、そこで一人の少年を性愛の玩具にして過ごした。もちろんそんな奔放な生活が自立であるはずがなく、「私」はまたしても家出をする。そうして女の果てしない旅は続いて行く…。
 「私」という女性の一人称の文体は告白のようでもあり懺悔のようでもあり、油断すればたちまち読者を行間の谷間に落とし込む。魔術にかかったような緊張感が漲っているのだ。仕方なく読むのはここまでにしておこうと表紙を閉じる時、力づくでパターンと音を立ててしまっていた。本から目を離すと、その先には時計の針を強引に巻き戻したような現実があるだけ。諦めがかすめる。しかし「乱されてなるものか」と、そう心の中で叫んでいる自分がいた。
 おそらく40年以上前に読んだのだろう。最後の10ページ程が引き千切られていた。思いつくままの赤面級の書き込みが踊っていたのだろうか。あるいは、小説とは関係のない当時の明かせない身の程知らずなことが綴られていたのかもしれない。この本、歳降る身には少々つらい読書であったが、人間百様、己も百様、丸山文学はそれ以上の様をみせてくれていた。