本との気持ち112
「眩暈」(めまい)笠原淳
(福武書店、1985年)
ある程度の年齢になると病院に行くことが多くなる。待合室での人間模様を静かに眺めては長い時間をそこで過ごす。その静けさには濃密な空気が澱んでいる。病人である以上、そこにはふつうの健康な人間とは隔絶されたような世界がある。
小説はそんな病院の待合室の場面から始まる。ある日、主人公の島浩介は肺機能の診察を受けるために市立病院の待合室にいた。シートでじっとしていると、エレベーターの前にファッションモデルのような美女の姿があり、浩介は彼女を〈ホタル〉と名付け「隠微な妄想」に耽る。ところが、〈ホタル〉は同じ病院に入院している、浩介が一緒に仕事をしているKという放送局のプロデューサーの妻であった。
この関係が物語の始まりだが、露骨な三角関係にはならない。また定期的に通うプール教室に来る少女の肢体にも興味を寄せ、そこでも彼女を〈サキ〉と名付けて薄い交際を始める。どちらも一方的な好意なのだから妻への罪の意識はない。家にいる病床の老獪な父の介護も夫婦で何とかこなしている。
そんなだから日常に特別な不満はない。ただ自分の体の調子が心配なだけである。したがってストーリーが興味深い展開を見せるということはない。しかし主人公浩介は、他人である二人の女性に懐かしい性欲の気配を嗅いだり、Kに対する阿るような友情や完成しないシナリオの構想に執着したり、妻と親に対する噛み合わない交情に諦めを感じては一人よがりな幸福感にすり替えたりして自分を凌いでいる。心の裡はいつも生きることと、やがて訪れる死を怖れている。それでいて、時にはそんな悩みから救われようと、主人公は生まれ育った土地を訪ねる。しかし懐かしく思うのは自分を慰めているだけなのだろうか。孤独は癒されないままグラデーションに包まれてゆく。
作家笠原淳は1936年生まれの芥川賞作家である。文章は純文学でありながら簡明かつ的確だ。地図を辿るような情景描写、自然でいて印象的な言葉の選び方。行間は滑らかな小川のようだ。一章一章の繋ぎもその広い空白から作者の息づかいさえ聞こえるようだ。小説を読む愉しみを教えてもらえる一冊だった。
それにしても、主人公が父の老いに悩んだように私も近年老いゆく兄達が忍びなく思われてならない。幾つも違わないだけに目の前に迫った覚悟を自分に強いたりもする。性的な興味の方は薄れたとはいえ今しばらく持ち堪えるだろう。そう、「眩暈」しながらも…。
本との気持ち111
『深く目覚めよ』
岡松和夫(講談社、昭和52年)
学生運動を扱った小説は少なくない。多くは反権力や反戦の活動に挫折し同志の分裂と共に青春期における性と死への憧れがテーマとされているように思う。このブログでも前に真継伸彦の『わが薄明の時』や李恢成の『伽耶子のために』を取り上げた。団塊世代としては柴田翔の『されどわれらが日々ー』や三田誠広の『僕って何』などがベストセラーとして懐かしいところでもある。
さて、本書の岡松和夫の『深く目覚めよ』も、そうしたテーマを扱った一冊である。
占領下の学生運動から離れ大学院を中退して、横浜で国語教師をしながら小説家を目指している海部淳は、裁判所の審議を傍聴するのが趣味であった。
ある日、密輸の罪を裁く裁判があった。偶然にも、その被告は淳が担当するクラブ活動の指導員の女性奈良原康子の弟であった。彼は有罪判決が下された後、バイクで自爆死した。病死の父、疎遠になった兄、そして精神まで病んだ母。家庭崩壊の中でも気丈だったはずが激しい感情の気配を見せてくる康子と、学生運動の敗北感に苛まれながら性愛への渇望に揺れる淳との二人のめぐり合いは、果たしてどう生きる方向を見つけるのか。
思想と性、まさしく対極をなすこれらに対する闘争は人類の歴史そのものとも言えるだろう。そして個人の心と体の格闘とも等しく、世界が宿命的に背負う命題である。
他に短編二篇が収められている。老練なクリスチャン教師の死を同僚教師がその謎を探る『冬の陽』と、罪人の母を持った子供の心境に迫った『楠』。本編を含め、いずれも内面に油断のない硬派なストーリーだが、文章は鮮明な把握と端正な構成で読みやすい。純文学に少し分かりやすく親しみたいという読者に勧めたい一冊だ。 (1978年1月31日・再読)
本との気持ち110
「わが薄明の時」真継伸彦
(昭和48年、新潮社)
第二次世界大戦の敗北で途方に暮れた昭和一桁生まれの青年達を描いた長編小説。
主人公の青山輝夫は東京の大学を出て京都へ帰って高校教師をしている。その出勤途中、朝の散歩道の墓地で凄惨な自殺死体を発見した時のことを思い出す。そこから学生時代の友人達の自殺の意味を探る回想となる。
当時の多くの血気盛んな若者は、スターリン批判に揺れる中、共産主義運動が盛り上がる傾向に無関心ではいられなかった。登場する青年達は、講和条約による再軍備に反対するため共産党に入党するか・しないかで闘いへの主体性を問う議論に終始する。
やがて、議論が自己目的化する恐れに日常と恋愛が交錯、死への憧れが首をもたげる。しかし諦念が敗北を意味するのだと冷静な思考が掠める。それでも人は感情の動物である。一度高揚した事態の前では脆い。迷い懊悩し破滅しまいと少しでも違う場面で己を凌ごうとする。それは新興宗教への傾倒や芸術的表現での転向だったり、はたまた酒や色欲への欲望だったりする。青春は闘いだ。政治と時代の前に青春は勝てるのか。最大のテーマがこれだ。
哲学科に籍を置く青山輝夫も革命を渇望していた。いずれは入党するつもりであった。自分を犠牲にして「もっといい社会をつくるために」と高い理想を掲げていた。青春の掲げるスローガンは夢であってはならない。勝って未来を実現する闘いでなければならない。仲間達も「占領下に平和はない、民族解放闘争が必要だ。党の指揮が出たら共に闘おう」という考えにまとまってゆく。
しかし、その場にいた8人の仲間の内、文学科でギリシャ数学に興味を寄せる読書家の杉本克己だけは違っていた。鷲の前であがくだけの鳩に喩えた即興詩を口ずさみ、「僕はやらない」と明言した。当然のように杉本に自己批判を迫る仲間達。杉本の小説『劉禅』をめぐり主体性議論が交わされ、それが一つの事件を引き起こしてゆく。反体制運動は泥沼化、主人公に孤独が襲い、悩みは夢まで襲ってゆく。
若者による政治運動は、果たして世界を変えられるのだろうか。しかし彼らの青春は勝利よりも熱く死に憧れてしまうことがある。それは儚く甘い誘惑のように深く心を満たしてゆく。そこに恋愛が絡み、闘いを純化させようとする。しかし性愛に及んで新たな自己との闘いの始まりに気づく。世界が生やさしいものでないことを教えられ、敗北を抱き、破滅が覗く…。
読んでいて暗い気持ちになるというより、高揚しながらも時を測るようにその暗く重いページの扉を一枚一枚剥ぎ取りながら読み進んだ。薄明は明けるのだろうか。


