コラムなタイム -8ページ目

2020/04/18

本との気持ち98

「ノルウェイの森」村上春樹

(講談社文庫)

 

 懐かしい彼女に会ったような甘い香りがしたかと思えば、射精なんてまで飛び出すリアル感にはホトホトまいってしまった。しかもラストは飛んだ中年女との性愛を、恋人を失った「葬式」にしてしまうというのだから古希の身には少々堪えてしまった。思えば30年も前に読んで当時はその衝撃を我が身に置き換えて欣喜雀躍したというのに。あぁ青春とは何と純真無垢で勇気に満ちたものであったのだろう。

 それにしても退屈紛れの無駄に近い時間を費やしたことになったのだが、それはそれで流れるような分かり易い文体の優しさにも導かれていたわけで、この小説らしい世界に浸っていたということにもなるのだろう。もしかしたら心のどこかでストーリーに呆れながらも羨望と懐旧の念に暮れていたなんてことだったのかも知れない。

 事実は微熱がそのまま魔力となって文庫を手放せなくなっていた。ぬるま湯のような憑依状態が続き下巻を手にした時にはもはや上巻と同じ新鮮な感触に歓喜し、まるで新しい恋人に出逢ったような歳甲斐もない自分がそこにいた

 

 本書は1986年、イタリアの島々を巡りローマで書き上げたというから、このことからしても常識的な日常からかけ離れた時空の天地で物語が出来上がったことになる。ストーリーは作家の気のままに進んでいき、恋人や友人との死別の原因にさしたる事件が語られるわけでもなく、ひとり主人公ワタナベ君は光源氏か世之介の如くデートとセックスに明け暮れている。何度やればクライマックスが訪れるのやら持続可能的にストーリは引き継がれてゆく。

 しかし、本書はノーベル文学賞候補者の名作だ。不満の原因は読者側にあると考えなければならないだろう。ならば何故ベストセラーか。普遍性、肯定性、評価はいろいろ語られている。

 

 もっともテーマは冒頭にある。「僕」のワタナベ君はドイツのハンブルクへの飛行機から北海の暗い雲の光景を目にして、人生で失ったものは二度と取り戻せないと混乱した心境になる。「僕」は雲間から覗く草原の景色の中に失った恋人直子を探している、17歳の遠く甘い記憶とともに。でももう直子はいない。景色は背景に貼りつき人影すらない。「君を忘れない」と誓いながら井戸のありかを二人して探しに行った思い出がよみがえった。「僕」は直子の記憶を書き残そうとした。しかし文章は書けば書くほど遠ざかってゆく不完全なものだ。記憶は薄らいでゆくに従い訴えかけてくるものがある。それは直子が話した井戸のように深みを恐れれば恐れるほど心に迫ってくるものがあるように。

 人はどこまで分かり合えるのだろうか。信じるも信じないも心の奥底にはもう一人の自分がいて、現実の体験がそのもう一人に許されなければそこに死があり別れがあり、逃げるためのセックスがある。それは誰でもない現実の自分がもう一人の自分を裏切ったわけで、行き場のない悩みを抱えることになる。だから人は悲しい存在なのだ。文学はその救いの手段に過ぎないだろう。読み終わってもなお問い続けることになり、この春樹のセンチメンタリズムにしばしつき合おうと思う。

 超えられない世界はない。

 

 

 

 

 

 

本との気持ち97

「子規の音」森まゆみ

(新潮文庫)

 

 

 くれなゐの二尺伸びたる薔薇の芽の針やはらかに春雨のふる

 

 これは、なんと著者が小学生の時に暗記してよく口ずさんだという正岡子規の歌だが、この歌に十代の始めで語感の強弱を感じ取ったというのだから著者の森まゆみさんの文学的素養も素晴らしい。本書では、その音をめぐる子規の歌の人生をたどっている。子規は三十代で肺結核から脊椎カリエスの病に苦しみながら伏す日々の中、漱石や虚子など青春来の友に囲まれながら多くの歌を詠んだ。病苦は子規の感性を鋭く研ぎ澄まさせ、音はいよいよ彼の写生に風韻を醸すこととなってゆく。

 

 宵闇や薄(すすき)に月のいづる音

 

 これは一高予科生の子規が故郷の伊予松山への帰省の途中に京都見物をした折の句だが、「闇の中にのっと月が出た」ときの音とはどんな音と想像したのだろう。子規はこの旅のときはまだ楽しかった。月を見つけた瞬間に音を聞くという遊び心があった。しかし、その翌年の明治二十一年夏鎌倉江ノ島で二度喀血し、更に翌年九月にも喀血した。喀血は子規の創作欲を刺激し、

 

 卯の花の散るまで鳴くか子規(ほととぎす)

 

と、時鳥(ほととぎす)がしきりに鳴く様を我が身に擬えて詠っている。その激しい鳴き声はそのまま彼の心のうちの泣き声でもあり、子規は彼の一生の号となる。

 時鳥の歌は続く。明治二十四年、子規は東大文科へ進むも、学問よりも旅を好んだ。木曽路では、

 

 うたゝねの本落としけり時鳥

 目にちらり木曽の谷間(はざま)の子規

 

など多くの句に時鳥を詠んだ。よっぽど鳴き声が子規の心に響いたのだろう。それは旅に出てもいつとも知れない喀血に対する不安であったにちがいない。

 その年の暮れ近く、子規は向島の下宿から本郷の「立派な家」へ転居、悲恋小説「月の都」を書き上げる。その後、根岸の陸羯南の隣宅に落ち着き「獺祭書屋主人」と気取って漱石を始め高浜虚子や河東碧梧桐らと共に句会や論談に興じる。その間、陸の世話による新聞社での執筆が子規の病を助け生計を支えてゆく。

 谷中から根岸の辺りには乞食坂や芋坂など坂道が多い。当時の東京はどこからも見晴らしがよかったようだ。鉄道敷設のために造られた新坂からは両国の花火が見えた。

 

 鵙(もず)啼くや一番高き木のさきに

 星一ツ飛んで音あり露の原

 

 この二句を、著者は「構えの大きな子規らしい句、そして音の聞こえそうな句」と評している。根岸の宅に母八重と妹律を迎え、子規は束の間の団欒を得た。しかし小説は幸田露伴の悪評を得て挫折、大学もやめ、心の燻りは癒えず、表現の場を芭蕉が西行に求めたように、子規は芭蕉を求めて北へ向かう旅に出る。旅は「はて知らずの記」としてまとめられた。明治二十五年夏のことであった。

 福島飯坂温泉でははらはらと雨の降る中、湯あみに出かけ、

 

 夕立や人声こもる温泉の煙

 

と詠っている。

 しかし宮城から山形へ入って、子規は芭蕉が「閑さや岩にしみ入る蝉の声」と詠った山寺には行かなかった。著者は、子規の病をおした旅に「己の体力を知っていたから」と、芭蕉が耳にした蝉の音を聴けなかったことに短い言葉で慰めている。かわりに子規は最上川のせせらぎに耳を澄ます。

 

 蚊の声にらんぷの暗きはたごかな

 ずんずんと夏を流すや最上川

 

 月山も体力が許さなかったのだろう、子規は船に揺られるままに酒田で下船。鳥海山を仰ぎ見ながら芭蕉が松島を偲んだ象潟にたどり着く。子規は「八郎潟を果として帰る」といい、やがて一と月を要した旅を終えた。

 日清戦争で旅順へ従軍記者として渡る。しかし帰国途上の船上で喀血、子規は病院や保養院の入退院を繰り返す。明治二十八年夏、松山の漱石宅に同居、道後温泉に遊んだりした後、秋には東京へ帰る。その帰途の奈良で詠ったのが、かの有名な一句

 

 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 

である。法隆寺の茶店で柿を食べていたら東大寺の鐘の音が聞こえたという句だが、著者は「カ行を三つ重ねた強さと、後半の柔らかさ。」と評価。詠む者にも鐘の音を聞かせる妙技をさり気なく指摘している。

 同年晩秋、東京根岸に戻った子規は旅の疲れで病いが嵩じ足を引きずって歩くようになり、虚子との散歩にもヘルメット帽を被って出かけた。そしてすっかり母八重と過ごすことが多くなってゆく。そんな日常の中、近所から聴こえてくる様々な音を心の拠所のようにして詠う。

 

 冬こもり世間の音を聞いて居る

 琴の音の聞こえてゆかし冬籠

 音もせず親子二人冬こもり

 

 根岸の家からは上野の丘が見渡せた。伏せるばかりの朝、ニワトリが朝のトキを告げて感慨にふけると、

 

 寝んとすれば鶏鳴いて年新なり

 

と詠い、尚も

 

 寝て聞けば上野の花の騒ぎ哉

 行く秋の鐘つき料を取りに来る

 両国の花火見て居る上野哉

 

 上野山夕こえ来れは森暗みけだもの吠ゆるけだものゝ園

 月照す上野の森を見つゝあれば家ゆるがして汽車行き返る

 

と上野の賑わいや寛永寺の鐘の音、動物園の獣声など周辺から届く様々な音へ想いをはせる。翌明治二十九年、子規はすでによわい三十を数えていた。

 度重なる喀血と手術に喘ぎながらも病臥する子規のもとには伊藤左千夫や長塚節らが歌会常連となり訪れた。子規自身も勇気づけられるように「歌よみに与ふる書」や「墨汁一滴」を出版。しかし励めば励む程に病状は悪化、自殺まで考える。

 明治三十三年一月同じ根岸に住む画家浅井忠がパリへ、五月には漱石がロンドンへ、そして翌六月には病臥の子規を描いた中村不折がヨーロッパへと次々に外国へ旅たつ。無念を深くする子規は、明治三十四年漱石へ「僕ハモーダメニナッテシマッタ」と書き送る。そして、とうとうこう詠う。

 

 五月雨や上野の山も見あきたり

 いもうとの帰り遅さよ五日月

 

 巷間のざわめきは呻吟号泣にかき消え、妹律に激しくあたるばかりであった。著者は、子規が律の気配に視線をやりながらも彼女の婚期が気掛かりであったろうと終章前の文末を結んでいる。

 そして終章、子規の最期が来る。その年明治三十五年五月、

 

 わが病める枕辺近く咲く梅に鶯鳴かばうれしけむかも

 

と絶望的な病状にありながらも春の訪れを喜び、「病狀六尺」を息ついえる前日まで「日本」に掲載した。しかし九月十八日、子規は「高浜を呼びにおやりや」と言い、駆けつけた虚子、碧梧桐、陸らに見守られながら絶筆三句を唐紙に記し息耐えた。

 

 糸瓜咲て痰のつまりし仏かな

 痰一斗糸瓜の水も間にあわず

 をとゝひのへちまの水も取らざりき

 

 すでに子規に音は聞こえていない。

 著者森まゆみさんは、「あとがき」に「子規の句や歌を読むと、東京の町の音が聞こえてくる。」と子規の気持ちのまま同じ東京の音に耳を澄ましながら筆を置く。