小説 あした天気になぁれ(上)
あした天気になぁれ(上)
岩城 真紀夫
1
「透くん、ちょっと――」
そう僕を呼ぶ女の人の声がした。広告局はほとんど社員が出払ってしまっていたので、その声がだだっ広い局内によく通って聞こえた。少し頓狂に聞こえないでもない軽やかな響きがして、むしろ好ましい感じがした。
僕は掲載紙の新聞の山積みの谷間で、予備校の英訳をひねくり回していた。ちょうど分かりかけたところだったので、すぐには返事ができないでいた。
すると、向かいのあいていたデスクで外回りに一息入れている代理店の野中さんが、僕のノートを突ついて急かした。僕はノートを抱え込むようにして押さえて、とにかくピリオドまで書き上げた。と同時に、僕のノートは野中さんにつまみ上げられてしまった。
「よお、お呼びだぞ、彼女」
野中さんが意外らしく冷やかすように声を細めて言った。
僕は立ち上がって彼女の方へ目をやった。
彼女――倉沢由美子さんは、あるミッションスクールの四年生大学を出てからQ新聞社広告局書籍広告課に勤務して三年目になる独身OLだ。社内では美女の誉れ高く、誰でもが憧れるタイプの女性だろうと思う。だから僕が社内の各局へ回覧を持って回ると、必ずどこの局でも倉沢由美子さんのことを訊かれる。僕のようなアルバイトに訊くのが、いちばん都合がいいのかもしれない。そんなとき、僕は彼女の毎日違った服装の色を言って、それらしく退散して来ることにしている。それほど人気があっても、彼女はケロリとしていて明るく、同姓たちからも好かれるとても素敵な女性なのだ。
その日、倉沢由美子さんは白地に黄色い水玉模様のワンピースを着ていた。
僕は毎日そうするようにガラス窓の外の方を眺めた。彼女の着ている色とその日の空模様がしっくり合うと、何となく彼女がよりいっそう生き生きとして見えてくるのだ。
外は朝からずっと夏らしい快晴にめぐまれていて、隣の同じくらい高さのビルの屋上に白いモコモコとした雲が盛り上がっていた。倉沢由美子さんが僕を呼んでくれたのはきっといい話に違いない。とても確信に満ちた気分が僕を浮き浮きとさせた。
「どこを見てるんだ透くん、お呼びなんだぞ」
そう言って、野中さんが苛立たしそうに念を押した。
「いやっ、いい天気だね」
僕は外の方を顎でしゃくってとぼけてやった。
野中さんがデスクから窓へ向かって振り返った。その拍子に、僕は書籍課の方へ歩んだ。
倉沢由美子さんは背中に僕の足音を聞きつけると、伝票の手を休めて椅子ごとクルッとこちら向きになった。近づいて行く僕の全身を腕組みしてしげしげと見つめた。
僕は思わず見つめられている自分を感じて、もうあと一メートルぐらいのところで立ち止まった。
「うーん」
倉沢由美子さんがかすかなため息の声をもらして、細い脚を組んで何やら難しい顔をした。
その彼女の脚の組み方が僕をひどく驚かせた。組んだ脚が一方のふくらはぎへ絡みつくように巻き込んでいるのだ。僕は不思議なものでも見るような思いに駆られて、彼女の下半身をじっと見下ろしてしまった。
「なあに、その目は」
ジロッと僕をにらんで彼女が言った。
「すみません」
「やっぱり、誤るのね」
僕は決してやましくはなかったのだが、倉沢由美子さんの怒って冴えた澄んだ瞳の顔を見て、たちまちそんな不思議な気がしてしまったのだ。
「そんなに頭なんか掻いていないで、もっとこっちへ来て、さあっ」
そう言いながら、彼女はいきなり立ち上がって両腕を僕の目の前に差し出す格好をした。
僕はまた変な気がした。倉沢由美子さんは僕よりもいくつも年上だけれども、赤ん坊を抱き招くような真似をされてしまうのには弱ってしまった。
「ねえ、透くんはバストいくつ。私は八十六よ」
とてつもない単語が、彼女のいささか大きめの口から発せられた。バストとは胸囲のことだ、そう僕は胸の中で言ってみてから、ともかく目の前の八十六センチのあたりをチラッと見た。そこはこんもりと盛り上がっていて、とても柔らかそうだった。僕はさっき見た入道雲や、最近買ったばかりの枕を思い出したりした。
「僕も、そのくらいだと思います」
「そうよね、男の人って計ってみると意外とスゴイのよね」
倉沢由美子さんは感心したように言うと、僕の両肩に手を置いて、ちょっと小首を傾げた。
僕は全身が火照るのを覚えた。火照って頭にのぼらないうちに、彼女の手が放れてくれた。
「大丈夫みたい」
「はい」
何がハイなのか、僕はそんなふうに答えていた。
倉沢由美子さんは大丈夫を二度三度独り言のようにつぶやきながら、机の下へかがんで深い抽出しを開けた。中の物を取り出して再び立ち上がると、その紙袋から真っ赤なセーターをつまみ出した。彼女の白い端正な顔が思いなしか赤っぽく染まるほどだった。
僕はその倉沢由美子さんの顔と赤いセーターを交互に見比べて、目がくらむような感じを覚えた。
「どうかしら、似合うかしら」
語尾に優しい期待感を響かせて、彼女がその赤いセーターを僕の両肩に当てるように掲げた。
僕は、どうぞとばかりに胸を張って見せたりした。彼女のために良いモデル役に立てるのかと思ったのだ。とてもスタイルに自信のない僕にとって、そんなことは生まれてはじめてのことだった。うれしくなって、つい余計なことを訊ねていた。
「どこで買ったんですか」
「ロンドン」
倉沢由美子さんはセーターの裄加減を確かめながら、弾んだ声でその外国の首都を言って答えた。
僕はあの竜の落とし子が逆立ちしたような形を思い浮かべて、あぁイギリスだな、と考えた。その次にビートルズを考えた。そして彼女に彼らが好きかどうかを訊いてみようかと思って、何となくよした。
「あらっ、透くん、腕時計もしていないの」
ちょっぴり叱るような口調で倉沢由美子さんが言った。その拍子に赤いセーターがスルリと僕の胸から足下へ滑り落ちてしまった。慌てて僕はそれを拾い上げた。
「すいません」
僕はとんでもないことをしてしまった気がして、その舶来品をパタパタとはたいた。
「いいのよ、そんなにしなくても」
僕の取り乱し様に、倉沢由美子さんは苦笑いして手を振った。その手に、僕は上手くたためなくて丸めた赤いセーターを突き出して、ペコリと頭を下げた。と、僕の頭の上でグイッと押し戻す力がした。
「いいんだってば、透くん」
重ねて、倉沢由美子さんが言い聞かすような力のこもった強い調子で言った。
「だって……」
僕はそれだけで口ごもった。何かを言わなければという焦りが顔中に出ていたのかもしれない。それは少しばかり大げさなのかもしれなかった。しかし、僕はしぜん大げさになってしまうような、どこか懐かしい激情に振り回されていた。まっすぐと出る素直さが、いささか演出たっぷり振る舞ってしまう、あの忘れかけていた感情の泉へ一つ小さな石ころが徒らに投げ込まれてしまったのだ。
ゴクリと唾を呑み込みながら深呼吸して、何とか僕は気を取り戻した。
「だって、これ舶来品です」
「そう」
と短く言ってから、倉沢由美子さんは急に恥ずかしそうに周囲をはばかるような顔になって、頬をすり寄せなければ聞こえないくらいの小さな声で、こう言ったのだった。
「それ、透くんにあげるの。だから持って来といたのよ。父がヨーロッパへ行って弟に買ってきたんだけど、少しきついんですって。それで……」
そこで彼女は言葉を切ると、キッと唇を噛みしめた。目を伏せて何かを考え込んでいるようだった。それから納得したように僕を見上げて、囁くように言葉を続けた。
「それで透くんなら、ちょうどいいんじゃないかしらと思って。でもすぐには渡しにくくて、課の人たちがいないときと思ってたの」
そこでひと呼吸して、悪戯っぽい目をして付け加えた。
「このこと、秘密だから」
たいそう急いでもとの紙袋の中へしまい込むと、僕に押しつけるように手渡した。
「ねぇ、早く受け取って向こうへ行ってちょうだい!」
倉沢由美子さんは、僕の狐につつまれたような顔をよそ目にあらぬ方へ向いて、かすれた声でひどく迷惑そうな口調をこしらえた。
それには訳があった。僕の背後を長尾課長が会議から戻ってきて傍らを通り過ぎたのだ。
「お安くないなぁ」
と、恰幅の良い体躯を肘掛け付きの椅子で支えながら、長尾課長がゆっくりと腰掛けしなに冷やかした。
長尾課長はもう定年に手の届きそうな年輩で、根っからそれ以上の昇格も望んでいないという噂だった。いつか課長が誰かと冗談を言い合っている会話の端に、俺は戦争に行き損なった身だからさ、と自嘲気味に放言したことがあった。そんな光景を、僕は自分の席から眺めてよく覚えていた。ビールっ腹を突き出してそう言った長尾課長を僕はその後、倉沢由美子さんを見ると同じくらいなぜか心が騒いだ。人生を諦めている――そんなことが無性に僕を捉えて放さなかった。それに、戦争を知らない僕にとって、人間を殺す義務を負わされる恐ろしい時代を生きた人が身近にいること――。僕の父は戦争へは行かなかった。僕はしきりと、長尾課長の放言を父に言わせる空想をした。
長尾課長はゴホンと一つ咳払いをして、机の上のものに手をつけた。
倉沢由美子さんの方は、いかにも忙しそうに伝票の数字をそろばんに入れはじめた。パチンパチンと鳴らす手つきがいささか乱暴すぎて、すぐ隣の玉がはじけていた。
「どうもありがとう」
僕は彼女の背中へそっと囁くように言って、その場を離れて行った。
デスクに戻ると、野中さんはネクタイの先で眼鏡を拭いていた。
「野中さん、さっきのノート返して下さい」
すぐには返答がなかった。何だかやたら拗ねてしまっているように見えた。
「野中さん!」
元気づけるように、僕は言ってやった。
「透くん」
そう僕の名前を言って顔を上げた。野中さんは近眼のために眼鏡を外すと目の回りに隈ができていて、まるで泣きはらしたような顔だった。
ところが彼はあわてて眼鏡をかけると、急に偉ぶったようにわりと落ち着いた口調になって、僕のノートの間違えを指摘したのだった。
「透くん、食後のデザートのスペルが違ってるんじゃないのか」
チョコンともう一つ鼻があるみたいな眼鏡の載せ方が、自称コピーライターもまんざらでもないように見えてしまった。僕は紙袋のことも一瞬忘れて、前に出されたノートを引き寄せた。なるほど、それは動詞にもなるdesertだった。僕は辞書を引いて、その次のページをめくってやっと分かった。dessertが正しかった。
「ところで、透くん」
「ハイ」
僕は即座に起立して、生徒が先生に呼ばれたときのように歯切れの良い返事をした。
「なんだったんだ、彼女のお呼びは」
「ハイ」
「ハイだけじゃ分からない、その後を言えよ」
「ハイ」
「透くん、俺をからかってるのか」
「ハイ」
僕はどうにかしてしまった。英語のスペルを間違った不勉強の上に、倉沢由美子さんのことを訊かれて気が動転してしまったのだった。僕はノートの方よりも、すかさず紙袋の方を胸に掻き抱いた。そして、倉沢由美子さんが言った秘密という言葉が頭の中で遠のくような声音となって反響した。
野中さんは呆れたように大きな版下を抱えて、デスクを立って行った。
それから、しばらくして夕刊の初版を取りに行かなければいけない時刻が来た。
なかば習慣のように立ち上がって、九階から地下二階の発送まで台車をエレベーターに載せたり転がしたりして行った。
「きみ、それは編集のだよ」
薄暗い倉庫の出入り口で、発送の人に注意された。
およそ米俵一つぐらいの重さになる新聞の束を台車に載せる。一度そこでズボンの尻を破いてひどく困ったことがある。
それから僕は、また台車を押して局のある階へ上がって来た。
「透くん、遅いよーっ」
ある大手の広告代理店の運送員の人が僕の席へ来ていて、軍手を手ぐすねして待っていた。
「あぁ、すいませんっ」
僕はそう言って謝りながら、またいつもの自分を取り戻していった。
2
広告局の社員の人たちがみな口を揃えて僕を「透くん」と呼ぶのには、押しも押されもせぬ圧倒的な出来事があったからだった。ふつうの僕のようなアルバイト学生を新聞社では「ボーヤ」と言って、頭の方にアクセントをつけていくぶん長めに発音して呼ぶのだ。しかし僕はそう呼ばれずに、名指しの「くん」呼びになった。
その日は、僕がアルバイトに来てちょうどひと月ほど経つ、新しい月を迎える日だった。
局は衣替えで一斉に華やいだ空気が満ちあふれていた。薄い色調のスーツを着込んで来る社員がだいぶ増えて、何よりも女子社員が花開いたように明るいファッションに身を包んで出勤して来た。僕は前日までのカーデガンを脱ぎ捨てるだけで良かった。
その日も、局の泊まりの社員が電気カミソリの音を唸らせているところへ、僕は出勤した。いつも七時四十分までに地階の発送へ行って、各紙を含めた朝刊の山を運んで来ることになっている。僕は台車を局の室へ運び入れながら、髭を剃っている宿直だった社員の人に朝の挨拶の声を掛けた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう」
彼は後ろ向きのまま、気合いを入れるような調子で応えてくれた。僕は清々しい朝の気配が感じ取れたようで、やっと欠伸が出た。
局にはまだ二人きりで、昼間の慌ただしい人の出入りを想像すると、よく僕は前にほんの短い間放送スタジオで同じ様なアルバイトをしていたときのような錯覚を覚えた。
僕は台車を畳んでからひと息入れることにしている。そんなときは覚えたばかりの煙草がとてもおいしかった。
やがてゾロゾロと出勤の社員が現われ、にわかに活気がみなぎってきた。僕は局の出入り口になるすぐそばの机の席にいて、朝のひと仕事に精を出しながら、彼らの威勢の良い挨拶に応えていた。そうして広告代理店ごとにロッカーの棚へ掲載紙を区分けしていると、いつもは三々五々かなりいい加減に出没する代理店の人たちが次々と僕の机の周りを取り囲んでしまうほど早々と現われたのだった。
「第一さん、それはちょっとひどいよ」
「そんなことないよ、サンアンさんだって同じことさ」
「やれやれ、朝っぱらから相変わらずだね」
第一さんとサンアンさんの間に、ずっと年輩の極小代理店の石川さんが割り込んだ。若い二人の同業者は、彼を見るなり眉をひそめて口をつぐんでしまった。
この石川さんの正体については、雲をつかむように不明で不思議と誰一人として知る者がなかった。整理部長までが詳しくは知らなかった。ただ、もう十年も前に個人の名で三行広告を載せて以来、いつからともなく達者な取次業になり手広くこなしているらしかった。いわばベテランブローカーというところで、いつも赤い顔して局へやって来るのだ。そうして彼が現われると、誰もが迷惑そうに煙たがるのだった。
二人に逃げられた石川さんは、第一さんがもみ消していった灰皿の吸い殻を器用な手つきでのばしてから口にくわえた。そんな吸い殻が彼にはひどく似合った。彼が真新しい長い煙草を吸っていると、それは決まって他人から失敬してきたものだった。
仕方なさそうに石川さんは僕のところへやってきた。
「なぁんだ、へっぴり腰め!」
と、僕の尻をビタンとはたいた。僕はせっかく持ち上げた新聞の束もろとも、ロッカーの低い棚の奥へのめり込んだしまった。
「あぁ、悪い悪い。怪我はないか、と言ってグッと抱き寄せる」
講談師の台詞めかして石川さんが、僕の頭の上に押しつけながら言った。僕は彼の腕を解きほぐそうともがいたが、彼は大袈裟になるばかりだった。
「敵はもういない。勝ったぞ!」
石川さんが勝利したように拳固を振りかざした。そうしてかと思うと、
「エイッ!」
という声とともに、僕の体は地から浮き上がり抱き上げられてしまった。
その後のことだ。僕はどんなふうに石川さんの腕から落ちて無傷だったのか、不思議でならなかった。それは落ちたというより放り投げられて、物理的に落下の頂点を過ぎたのは、ずっと離れた距離にあったからなのだろう。弧を描いた分、僕は空中で身の危険を感じることができてかろうじて着地した。きっとそうだ。
思えば僕は、中学時代に走り高跳びで賞を取ったことがある。したがって、僕は猫と同じくらい天才的な落下術を持ち合わせており、じじつ無傷だったわけだ。柔道の受け身のように一回転してから肩膝を立て忍者さながら行く手を差して探りを入れている。目は、スチールデスクの地平線はるか彼方を見越して輝きを放っている。しかし、そこになぜか石川さんの姿がなかった。僕が見たものは、人だかりの後ろ姿がズラリと……。
「では、朝礼を始めたいと思います。おはようございます!」
と、号令をかける声がした。それに合わせて一同が礼をして、黒い人だかりが波のように揺れた。僕は呆気にとられて、その方を眺めた。
月に一度の朝礼なのだった。僕にとって局での初めての朝礼だった。そして、その日の朝礼で新たに媒体の紹介が行われることになっていた。それで媒体と称される代理店の人達が朝からゾロゾロと揃って現れたのだった。僕が集合の中へ割り込んで覗いた時には、すでに彼らは正面で横に列をなして、並んでいた。いつものよりとても頼りがいのある男達に見えて、その時の僕には彼らがよそよそしく思われた。
石川さんは、さすが最年長者でいちばん端に立って、ひどく緊張しているようすだった。
野中さんは、ずっと左の方で同じ代理店の新顔の人と一緒だった。
およそ十五人の一人ひとりの紹介が済んで、ちょうど石川さんが局次長の目顔の合図を受けて代表の挨拶を始めるところだった。
「ええ、代表の石川です。私どもはこちら様があっての商売でありまして、もしも見捨てられますようなことになっては、みな揃って路頭に迷わねばなりません。妻子のある者、これから結婚しようとする者、いろいろでありますが、まあ今後とも精一杯頑張りますので、どうぞ宜しくお願い致します」
意外と短い挨拶だったことが、僕を少しばかり失望させた。
石川さんは軽い咳ばらいをしてから、それだけを穏やかな口調で喋った。型通りでいて、切実な想いが込められたそんな石川さんの人間味は、結局は局での信頼を支えているのだろう、と僕は思った。
硬く浅い礼をして仲間の列にさがると、次に局長の挨拶が告げられた。
さすが貫禄というものだった。僕は驚きとともに、なぜか妙に力づけられるような気がして、よく見えるところまで社員の列の間をかいくぐって行った。
局長の苗字を僕は知らなかった。大変なしくじりをしたものだ、と焦りにも似た気持ちが僕の身を固くさせた。まさしく大物だ、と僕は声に出しそうになった。その巨大な体格が僕を威圧していた。
渋い曼陀羅模様のネクタイに、ひと目して仕立ての良さそうな濃紺のスーツに身をまとい、多少白いものが見える髪を短めに整えている。人を射る眼をしている。言葉の一語一語を逃さずにこの人の言っていることに耳を傾けたならば、その深く暗い大海原を彷彿とさせる目許にさまざまな喜怒哀楽の表情が浮かび上がって、人はたちどころに心の起伏を波立たされ己を垣間見ないではいられないのに違いない。
僕は、そんな局長のゴルフ焼けした黒い顔立ちを見つめて、顔はその人の履歴書だとかいった言葉を思い出した。
局長の人を虜にする野太い声が、局の室にしばし響き渡った。
「――したがって現下の高度経済成長期の過程にあって、情報はまさしく堰を切った氾濫を呈している。この最も高揚した資本主義国家日本は、決して楽観できない経済危機をはらんでいることが、すでに外交上の基本的な諸問題の端緒に次第に現れてきている。もうすでに情報は整理されなければならない。つまり、情報は逆流の渦中にあると言っても過言ではない。たとえばミニコミという小さな情報網を挙げるとすれば、それは企業化された情報社会に対する下からのプロテストとしての逆流のなんだと考えなければならない。あおり立てて洗脳する情報よりも、手づくりの情報の方が新鮮なだけに人の心に直接打つものがあるのは理の当然である。こうした出現について、さらに高度経済のあとにやって来る危機的状況について、みんながこれからいろいろと考えるときにまず思い出してほしいことである。――」
そこで局長は両手を腰へ回して言葉を切った。
隣りにいる局次長が、有り難いことでも拝聴したかのように慇懃に頭を下げた。自分が全社員に代わってしたつもりなのだろう。僕の眼には、そんな甲斐甲斐しさがなんとも頼りないつまらない人間に見えた。
局長はちっともそちらの方への気遣いはなく、部下たちを厳しい眼差しで見渡していた。そしてひと通り見渡すと、小刻みなうなづき方をして納得のいったように顔をほころばせた。思わず社員たちの中からも、緊張が緩んでかすかなどよめきが波立った。
局長が語調を和らげて続けた。
「まぁ固い話はこれくらいにしておこう。あとはそれぞれのセクションのキャップから話があるだろう。そこでだ、先月いっぱいで終わった本紙のマンガの主人公が広告局のアルバイトにやって来たという噂を聞いたが、その彼を私に紹介してほしいんだが……」
僕ははじめ自分がその彼だとは気づかなかった。そんな白羽の矢の彼とは一体誰なのだろうかと、あたりをキョロキョロして探した。ところが皆僕の方を見つめていて、アルバイトの奴ってあれだろ、とか言って、まるで物を指さすみたいな冷笑的な声があった。局のアルバイト学生とは、この僕一人ではないか。僕は吃驚した。真木透、透、トール君。僕はその四コママンガの主人公、太っちょでチンチクリンの大学予備校生トール君を思い出した。
トール君のマンガは、新聞の連載にしてはいささか短か過ぎる半年間の命だった。
秋も深い十一月に一枚の枯れ葉の散る庭木をみて憂愁に耽ったのがとんだ間違えだったのだ。それからというものトール君は自分が惨めに思えて、世の中までが嫌になった。予備校へ通う着膨れの満員電車の中で、こんなに体をギュウギュウ寄せ合っているのに何んでみんな仲良くできないのだろう、そんなことを考えて気を失いそうになったこともたびたびだった。受験勉強なんて手に着かなかった。そしてやがて、また予備校通いが新たに始まり、予備校にも五月病があるんだな、なんてことを代々木公園の芝生の上で思ったりした。そんな感じで何んとなく終わってしまったマンガ、トール君――。
そのトール君こと、真木透、僕なのだった。紹介されるのだから、自分から名乗り出るのもおかしかった。僕を局長の前に押し出したのは、局次長でも社員の人でもなかった。僕は、石川さんや野中さんの代理店の人たちの手で局長の前に押し出された。
僕は何かを言わなければと思って、蚊の泣くようなかすれた声で自分の名前を言った。
「なるほど、君か」
と、局長の重々しい声が僕の脳天に落ちてきた。ハイ、と答えたつもりがとても声にならなかった。傍から代理店の人たちが僕の替わりに、そうです、と声をそろえて言って応えてくれた。当の僕はモジモジするばかりだった。
それで局長が僕に、どこの予備校に行っているんだとか、やっぱり絵を描いたりもしているのかとか、家族のことまで、僕とマンガのトール君とをいろいろに比較して訊ねた。ところが僕はジットリと冷や汗をかいてしまって、根を下ろしたように動けず、声が出なくなってしまっていた。隣で石川さんが皆一つ一つ答えてくれた。ときおり野中さんの方へ確認を取り付けながら、ひときわ大声で言ったりした。
「透くんは、やっぱり詩なんかも書くそうです。ええっ」
まるで僕の保護者替わりの気分らしかった。
「うーん、それじゃほんとうにマンガのトール君とそっくりじゃないか」
局長が僕の両肩に手を乗せて感心したように言った。
僕は、なぜかものすごく褒められたような気がして照れた。目の前に局長のネクタイピンがのぞいた。とても小っちゃくてかわいいのをしているんだな、と思って何となくホッとした気になった。と、ポンと僕の両肩を叩いてから、局長が宣言するように叫んだのだった。
「今日からこの彼をマンガと同じようにトール君と呼ぶことにしよう!さぁ、みんなで、トール君、と呼んでみよう!」
それは、まさしく圧倒的な出来事だった。
局長の音頭で全社員と代理店の人たちも含めて、広告局のすべての人が大声で僕の名を呼んだのだった。広い局の室いっぱいに反響するほどで、思わず僕も、ハーイ!と元気よく応えた。そして一同爆笑の末、その日の朝礼は異常なざわめきの内に散会となった。
このことが、新聞社では〝坊や〟と呼ぶ習慣なのに、僕に限って名指しのトール君になった決定的な所以だ。そのことを僕ははがゆく思いながら、心のどこかで名誉に感じていなかったと言えば嘘になるだろう。むしろ誰からも呼ばれるにしろ、僕は自分の名を聞くにつけ、ある快感を覚えないではいられなかったのだ。
そうしてその日から、僕のデスクへやって来る誰もが、トール君トール君、と呼んだ。ところが、そんななかば観念しているところへ、倉沢由美子さんが僕のデスクへやって来たのだった。
「トール君」
そう僕の名を呼んだ。優しくくすぐるような響きだった。僕は目をしばたたきながら彼女の顔を見上げた。うれしくて、あらためて「あぁ美しいきれいな人だな」なんて思ったりして、花火のような感激で胸が詰まった。
「あっ、ハイ」
僕はそんな心の内を覗かせまいと、いかにも忙しげに机の上の業務日誌をペラペラとめくったりした。すると、倉沢由美子さんはお世辞だったのだろうけど、
「先日の朝礼、おめでとう」
と、言ってくれた。
それから彼女は少し仕事の顔になって、
「大阪の版が必要なの。お願いね」
と言って、伝票を置くと小さく手を振って僕のデスクから離れて行った。僕は彼女の後ろ姿に、誰にも分からないように手のひらを立てるだけの合図をして応えた。
そしてそんな小さなやり取りだったけど、僕の中で倉沢由美子さんが特別な存在になるような、新しいもう一人の僕が生まれた。
3
僕の退社時間は午後四時四十分だった。代理店の人たちへの窓口を四時過ぎに閉じて、あとはゆっくり業務日誌をつけて、それを庶務へ廻して局を出て来る。帰りは階段を使った。女子社員よりも早いので、エレベーターでは気が引けた。九階から降りて来てロビーの外へ出ると、山あいの谷底に降り立ったかのような錯覚をいつも感じる。あたりは大手町の櫛比するビル、またビルである。もう西の陽の傾きがいくぶん低くなって、ガラス張りのビルが真っ赤に染まっていた。
ビルの下へ来て、それから行くはずの予備校のことを考えた。夜の部なので、授業は一クラスしかなかった。行っても教室には十人ほどで閑散としていた。先生は生徒のいびきにかまわず、とにかく一時限を終わらせようとテキストを読み上げるだけだった。ほとんど黒板に書くことはなかった。ある時、チョークを手放して振り返ったら生徒が半分になっていたことがあった。そんなことを恐れてかどうか、ともかく沈んだ雰囲気のまま、外も見る見る暗くなってゆくのだった。
僕は、その日も代々木駅の改札口を出て予備校へ行こうかどうか迷っていた。夕方の混雑の中、僕の決意は徐々に薄れていった。スカートがめくれてモンローのような真似をした知らないアイドルの大きなポスターの前で立ちつくしていると、どこかの大学生だとか言っていた本名の分からない悪い友達が現われた。彼に会えば行き先は決まっていた。ジャズ喫茶だ。しかし、僕にとってジャズ喫茶が悪いのでなかった。悪いのは、彼が僕と違って受験にはもう用がない大学生らしく遊ぶことばかり考えていることだった。
「よう、おもしろいとこ、見つけたんだ。行かないか」
彼は長髪をたなびかせながら、いつもそんなことを言って声を掛けて来る。一度、そのおもしろいとこへ付き合った。しかし、その店の存在を僕には理解できなかった。彼はロリコンだった。でもジャズのことについては詳しかった。そんなアンバランスなところに、僕はどうしたわけか彼がかわいそうでならなかった。予備校生の自分の方がずっとかわいそうなのに。
「またですか。僕はどっちかって言うと年上のほうが好きなんです。そういうとこ、教えて下さい」
言いながら、僕はどうして同位歳の彼に敬語を使うんだろうと、考えたりする。それは、きっと彼が僕のあこがれの大学生だから。そして少しだけ大人っぽいから。あるいは、初めから彼の言うことには遠慮しておきたいから。どれでもいいけれど、ほんとは僕はもっと受験勉強中のはずなのだ。
「あっ、やっぱし学校へ行きます、僕」
とは、言ってみる。しかし、僕の肩や背中や、二の腕や、時には股間のあたりに触れてくる彼の手を僕は払い切れないでいる。何なのだろう。実は、僕には彼しか友達がなかった。受験に失敗して横浜の家も出て、それまでの友達とは会いにくくなってしまっていた。だから、彼しか僕には友達らしい友達がなかった。彼を失いたくなかった。いつか思い出せる僕の青春に彼がいてほしかった。そう思って眠れない夜もあった。そんな夜は詩が書けた。この一夜が僕の人生を変えるかもしれないなんて世界が舞い降りてきて、おかしな錯覚にひとしきり言葉が走った。
「うそだろ、学校なんて。俺たち会ったら、決まってんじゃん。行こっ」
そんなふうに言う彼の拗ねてみせる顔つきを眺めながら、僕は一行も思い出せない詩のことで少し気持ちが萎えていた。まるで夢をゴミ箱に捨てて来てしまったみたいなのだった。彼にも僕にも仕方ないみたいな、砂時計を見つめて息を殺してるような沈黙があって、改札口の喧噪が途絶えたところで僕が切り出したのは、いつもの店の名前だった。
「それじゃあ、ナルに行きませんか」
「ナルねぇ。前もそう言わなかったかなぁ」
何度もそう言って誘いをかわしてきてる。彼に会うのは週に一、二度。僕に会わない彼は何をしているのだろう。そんなこと考えて街をさまよったことがある。彼を探していたのかもしれない。見つかるはずもないのに、彼が何をしているのか分からないように僕も何をしているのか分からなかった。
「まぁ、いいかっ。ジャズ聞くか」
諦めたように、彼が誰にでもなく人混みの方に目をやって言った。ジャズが僕たちの合言葉だった。
ジャズ喫茶ナルは、代々木駅から新宿駅の方へ山手線沿いに少し行ったビルの地下にあった。店内は暗く、テーブル席が深い藍色に沈んだアルテックに向かって並んでいる。その左側に一段高くなってカウンター席がある。そこはいつも僕たちよりもずっと不良の先輩たちが陣取っていた。時々曲に合わせて叫び声が飛び交ってくる。悪い友達は、先輩たちに合わせて声を張り上げ、彼らの反応に酔いしれていた。そんな時の彼はとてもご機嫌だった。大人の仲間入りができたみたいな気分だったに違いない。
その晩、僕たちが店内に入るとかかっていた曲は、誰がリクエストしたのか、アーチーシェップだった。サックスが息もつけないような不連続なメロディーラインを攻撃的に仕掛けてくる前衛だ。悪い友達も僕もどちらかというとビーバップなブルーノートが好きだった。だから嫌いな曲がかかると、トイレに立ち上がったり、近くのテーブルの女の子に話し掛けたりした。悪い友達は、相変わらずしつこく女の子に迫っていた。僕はトイレから出て、カウンターのマスターにホーレス・シルバーの「ブローイン・ザ・ブルース・アウェイ」の原盤のジャケットだけを借りて、解説の英文和訳に取りかかっていた。そうすることで予備校をさぼった自分を埋めているつもりだった。
英文和訳に苦労している間に、女の子が簡単に彼に応じ、二人して店を出て行ってしまった。女の子が出て行く時、きれいな瞳を暗い照明の下で一瞬輝かせたように見えた。
「こん次は、あんた」なんて顔をしていたのかもしれない。僕はどんな顔をしたのだろう。
やがて、僕は夜の新宿駅西口の原っぱをぶらついて、駅舎の方へ向かって歩いていた。建てかけの高いビルの鉄骨がネオンの明かりを背にして、まるで良くない夢でも見ているような巨大な昆虫のように、奇妙な角度のシルエットの形をして建っていた。
僕は逃げるように駅舎に飛び込んだのかもしれない。目の前に赤い公衆電話があった。見えない向こう側に何かが潜んでいるような、こちらへ目を凝らしてうずくまっている小動物のようにも見えた。それで、さっきまで長電話をしていたらしい人の掌の跡が体温のように伝わってくる受話器をつかんで、自分でもなぜなのか分からなかったけど、受験に失敗した夜から久しい横浜の家の電話番号をまわしていた。
受話器の中の声は父だった。長いコールサインが途絶えて出た父の声音は、受話器の向こうで幾分息をせき切っているように重い弾みが感じられた。
それにしても父の声は懐かしかった。ひと月に三日といない多忙な父は、ときおり海外へ飛ぶことも含めて日本中を駆けまわっている旅が仕事みたいな人である。父の肩書は木工コンサルタントで、まったくの一匹狼に等しかった。その他に国立大学の講師をしたり、業界紙や雑誌にたびたび文章を書いたりしている。編集者が父の消息を訊ねる電話がひっきりなしにあって家族をひどく困らせるのだった。
しかし、その夜は勝手が違った。
「あっ、父さん」
そう叫んで、思わず僕は口ごもった。今は父が家にいて、僕が家を出てしまっているのだ。しかし、父は穏やかな調子で、短かく僕の名を呼んでくれた。
「そうだ、父さんだ。透か」
僕は、父のグローブのような大きな手で頭をなでられた時のような、あのくすぐったさをふと感じて、頭に手をやり徒らに髪を掻きむしった。母よりも父の前での方が、自分がいつまでも子供のように思えた。
「すいません。勝手なことをしてしまって」
すぐに、家出のことを父に詫びた。
「まぁな。母さん、なんだかガミガミ言ったよ。父さん、参った」
「ほんとうにすいません。仕方なかったんです」
すいませんは、受験に失敗したこと。仕方なかったのもそうだけど、家出するしか仕方なかったのは、ただ飛び出したかった、それだけだった。
父は決まって怒らず参ったよと、いつもそうした寛容な一般論に終始していた。それはきっといつも家にいないからだろうし、兄弟の皆もそうなんだと分かっていたように思う。母は、それが歯がゆかったのだろうと思う。でも、それでみんな幸せそうだし、いままでにも僕はかなり助かってきたのだ。
それから、父は出張先だった遠い北欧について語った。コートを忘れて行って困ったことをさんざんに言ったり、外国の家具のディストレッシングは素晴らしいなんて僕には関係ないくらい分からないことを言ったりした。
あと十円玉一つしかないからと断わると、父は途中でコサックの帽子を買ったから今度見に来い、と言った。僕はフルシチョフを思い浮かべながら、ゆっくり受話器を置いた。
しばらく僕はその場で迷った。横浜の家へ行ってみよう、そんな気になったのだった。どこかいつもと違った殊勝な心持ちが、わなわなと体までふるわせた。とても耐えられなく思って、その日は狼狽ばかりしている自分が情けなかった。それで真っ直ぐ下宿へ帰ろうということにした。迷うとすぐマイナス方向になるのだった。僕の足は薄いオレンジ色した電車を待つホームに向かっていた。
それからのある晩、僕は薄暗いカウンターの止まり木で思いがけない人と並んでグラスを傾けていた。店内には緩やかなマル・ウォルドロンのピアノソロが流れていた。
僕と倉沢由美子さんは、東京駅の同じプラットフォームの上で偶然に出会った。彼女も一人だった。僕はすれ違ったみたいに上眼使いに小さく目礼して、足早にその場を立ち去ろうとした。ところが倉沢由美子さんは僕を追い掛けて来て、
「透くんって、水くさいんだ」
と、男の子のような口調で僕をなじったのだった。
それでお茶でも飲んで帰ろうということになった。
「ねぇ、透くんの指定するお店に行きたいわ」
僕は夢でも見ているような気持ちだった。見つからないように掌の中をつねってみると、やっぱりチクリと痛かった。
店は、渋谷の道玄坂の途中を右に折れた小路にあった。いつか大学生の悪い友達に連れて来られた所だ。
そこは割りと古くからあるジャズ喫茶で、地階がカウンターバーになっていた。あの彼がいないことを確認してカウンターの前まで入って来ると、僕は倉沢由美子さんをとんでもなく不道徳な場所に誘って来てしまったようで、ちょっぴり後悔した。
それでも僕は地階の方を選んだ。ゆっくりとくつろげるような気がしたからだった。
しかし止まり木に腰掛けて、僕も倉沢由美子さんもしばし変に口を閉ざした。お茶でなくてお酒になってしまったことが彼女を騙したようで、僕はいきなり彼女が帰ると言い出すのではないかと、不安だった。
僕は思い止まらせようと、妙にあらたまった口調で言い出した。
「あぁ、あのときのセーター、どうもありがとうございました」
「いいえ、どういたしまして」
倉沢由美子さんは注文のグラスを一つ、僕の方へ押しやりながら、明るく応えてくれた。
僕は、吹っ切れた気分でカチンとグラスを合わせた手に思わず力がこもった。彼女がククッと鳩の鳴くような声で小さく笑った。自分を取り繕うように僕は大人っぽい気分をして聞いた。
「お酒を飲みになんか出たことあるんですか」
「うーん、ほとんどないわ。でもこれが二度目よ」
「一度目は」
「お友達の結婚式の帰りに、二次会みたいに学生時代の仲間と」
懐かしそうに倉沢由美子さんは、カウンターの中の棚を見上げた。
学生時代と聞いて、僕は何となく胸をなでおろした。倉沢由美子さんは女子大を出ているんだ。華やかな彼女の振袖姿が想像できて、僕はひと目見たいな、と独り言のように流し込んだ気持ち良い口の中で言ってみた。
倉沢由美子さんは見上げていた棚の方から顔を伏せて、何やら思い出し笑いをした。笑いをこらえようとして肩をすぼめながら、くぐもるような声で、
「私って笑い上戸なの」
と、小さな告白をした。まだ飲み始めたばかりだったので、それがいっそう僕を楽しませた。
「そうらしいですね」
僕は少しばかり呆れるような間延びた口調をして応えた。とてもおどけてみたい気がして、そんな言い方をした。
倉沢由美子さんは、いじわるっ、と口をとがらせてみたりした。そして、その口許へ唇を濡らす程度にグラスを寄せた。
それからしばらく新聞社のとりとめのない話をしてから、グラスのお代わりの合間に倉沢由美子さんの方から話題を変えてきた。
「今日は、夜の予備校はお休みなのね」
「えぇ、まぁ…」
「透くん、まだ未成年なのに、お酒なんていいのかしら。付き合った私もいけないけど」
僕は膝に置いた予備校のテキストを押さえて言った。どこか言い分けがましい自分がやり切れなかった。
「そんな飲み方しないこと」
お代わりしたばかりがひと息に飲み干されて手元が軽くなってみると、気持ちまでがそうなって、僕は思わず大きなため息をついた。
「なぁんだ、ジャズが好きなんだ、透くん」
倉沢由美子さんが腕組みした体をカウンターに乗り出すようにして、意外そうに言った。
「うん、昔から…」
「へぇ、昔から」
と言って、倉沢由美子さんは目の前のガラス棚に映った自分を見遣りながら髪に手をやった。
僕は局のみんなの噂通り、あぁきれいな仕種だなと思った。あらためてそう思うと、目の前にいて自分だけが見ることができたことに嬉しくなった。
「はい、ずっと昔から。横浜の進駐軍の基地のそばで育ったから。小さい時からけっこう生でも聞くチャンスがありました」
「へぇ、生演奏で」
それから僕は饒舌になった。悪い友達のことは伏せて、昔の話を夢中に話した。
僕の育った町は、米軍の駐屯地のすぐそばにあった。海兵隊が基地の野球場の真ん中でよくクインテットを組んで演奏の練習らしきことをしていた。彼らは決まってみな黒人兵でアップテンポの曲でも体を微塵も動かさないで演奏しているのが不思議だった。その光景を僕は数人の友達と基地の中へ忍び込んでよく眺めて遊んだ。手に手に板で作った楽器のようなおもちゃを持って真似て遊んだ。聞こえてくる音に合わせて口ずさんだ。手にした楽器ごとに、それぞれのパートのフレーズを覚えた。しかし、覚えることができたのは二、三曲。それもテンポのいい曲。当然のこと何の曲なのかなんてことまでは分からなかった。
小学四年生ぐらいまでの時のこと。中学生になったらすっかり忘れていた。そして、悪い友達に連れて行かれるジャズ喫茶で時折、あの時の曲が何だったのかが分かったりした。それらはナルでジャケットの英文を訳している曲。何度も聴くうちに思い出して口ずさめるようになると、ナルのジャズ好きの先輩達に褒められたりした。
そんなことを話したら、倉沢由美子さんが言った。
「じゃあ、そのうちの一曲、リクエストしてみない?」
せっかく楽しそうになってもらえたのだからと、僕は少し得意になってマスターに声をかけた。
「あの、ブロウィン・ザ・ブルース・アウェイ、お願いします」
「あぁ、それですか?うちはバラードしか流さないんですよ」
マスターが申し訳なさそうに、そう言った。
店にはレフト・アローンが流れていた。倉沢由美子さんは、僕を慰めるように、
「これも素敵な曲ね。こういうの好きよ」
「はい」
僕は少ししょげて応えた。それから短い沈黙があって、曲が終わった。
「私、酔ったかな。もう限界」
横で彼女も弱々しく言って額のあたりを押さえた。僕は三杯目のお代わりをして、これだけはゆっくり飲もうと心に決めた。
短い時間、コルトレーンのバラードに耳を傾け、僕と倉沢由美子さんは沈黙し合っていた。その沈黙の余白の中で、僕はそうして彼女とカウンターバーに腰掛けていることが、改めて不思議なことのように思われてきた。同時に彼女の顔の方を見ることがひどく気恥ずかしかった。
そんな時、店内を流れていたレコードが変わった。クィンテットのユニゾンの出だしが聴く者の心をゆっくり波立たせるようで、じっとしているのが不自然なことのように感じられてくる。
倉沢由美子さんが髪をかき上げながら顔を上げた。そして、大きく深呼吸をした。
僕は視界の端に、かなりはっきりと彼女の胸のふくよかな稜線を捉らえた。と、そんな僕の注意を逸らすように彼女が言ったのだった。
「透くん、あのセーター着てみたのかしら」
そう訊かれて、僕は突然忘れ物でもしていた気に襲われた。お礼は幾度となく言っていたのだ。しかし、ちゃっかり戴いただけでその赤い毛糸のセーターには一度も袖を通さないでいた。僕は気後れがちに頭を横に振った。
「私、あの真っ赤なセーターを着た透くんが見たいな」
真っ赤な、と言うところに力を込めて、倉沢由美子さんが少女のような声をして言った。
僕にはちょっと人ごとのように聞こえた。なぜなら、赤い色のものなんて生まれてこのかた一度も身につけたことがなかったからだ。僕はきっと気絶してしまうにちがいない。
「ねぇ、透くんの着たところ見せて」
と、彼女が目を輝かせた。
それで僕は、観念したように苦笑いしてオーケイすることにした。オーケイしたからには、そのあとの倉沢由美子さんの要求を全面的に受け入れないわけにはいかなくなった。まさか赤いセーターを着て新聞社には出られないので、いつか日曜日にデートしようということに意外にもスムースに決まったのだった。
「海が見たいな」
そんなことを歌をうたうように、彼女が言った。
僕は残ったひと口程度のグラスを下唇にすり寄せて、「青い海と赤いセーターと僕」なんてデートの日のサブタイトルの気で呟いた。
それから、鎌倉のお寺なんかの話を少しして店を出ると、渋谷駅の構内で握手して、その夜僕と倉沢由美子さんは別れた。彼女は、とてもしっかりとした足取りで東横線のホームの方へと歩んで行った。
(下巻へ、続く)
小説 初恋談義(下)
初恋談義(下)
岩城 真紀夫
4
「可愛くてきれいな、お話ね。素敵な初恋だわ」
と、うっとりした表情で千代が言った。
カウンターだけの店内には、客はもうすでに洋一と千代の二人だけであった。
「そんなこともないさ。千代さんの初恋の話には花屋さんがあったじゃないですか」
洋一は、慰めるように言った。すると、千代が甘えるように肩を寄せてきた。
「蛍、いちばん最後に見たの、いつだったかなぁ」
洋一の二の腕に千代の髪が滑り落ちた。
「ほっ、ほっ、ほーたる来い。蛍が恋をしたのかしら、きっと初恋ね」
「どうしたんですか。酔いがまわりましたか」
「初恋は、やっぱり結ばれないものなのよ。そう神様が決めたんだ、いじわるね」
千代は、すっかり自分だけの世界に浸っているようだった。自分の初恋ももちろんその通りだったけど、もし結ばれていたら幸せになれたかもしれない。千代は想像するだけで満足だった。だって、いくら結ばれたことがあっても幸せにはなれなかったもの。
「ねぇってば、橋倉さん。どうして、どうして初恋は結ばれないんですか」
初恋の次の恋からはどんどん女になっていくだけだった。そして、こんな世界の女になった。初恋だけがほんとの恋だったのに。
「橋倉さんの初恋の女の子は、いまでも幸せですか」
そんな質問を投げかけてきた。洋一は、果たしてどう答えてよいものか、分からなかった。
「さぁ、千代さん。もう、帰りましょう。これ以上、遅くなると……」
「遅くなると、遅くなると、さぁ、どうなっちゃうの」
「ふざけないで、千代さん」
洋一は、半分あきれ気味に子供をさとすように言った。しかし、千代は洋一をからかうのを楽しんでいるふうだった。
「もう、ふざけてもいい時間です。橋倉洋一、あなたもふざけなさい」
そう高らかに言ったかと思うと、止まり木から下りようとした瞬間、千代はなよなよっと上体を傾けた。洋一は、咄嗟に千代の体を抱き止めた。
マスターから千代のハンドバッグを手渡され、店を出た。
街は、すっかり深いとばりの中にあった。深夜営業の店がまばらにネオンを輝かせている。
洋一は、千代を片腕で抱きかかえるようにして暗い小路を歩いた。千代は相変わらず「初恋は結ばれないものなのです」と、独り言を呟いていた。
ようやく車の行き交う通りに出た。
洋一は、千代を街路樹に支えるように寄りかからせたままタクシーを拾おうと、ほどいたネクタイを通りに向かって頭の上で振った。空車が二、三台通り過ぎた後、歩道に車線を寄せてくる一台があった。洋一は、街路樹の根元に千代をつかまらせておいて、近づいてくるタクシーの前に立ちはだかった。
ふたたび抱きかかえて千代をタクシーに乗せると、千代は洋一の上着をつかんで放そうとしない。しかたなく洋一も車の中に乗り込んだ。
千代の自宅のマンションは山手線をまたいだ先の街にあることは、前に店で聞いて知っていた。しかし、詳しくは分からない。地図を書いてもらったわけでも、何かそんな用事があったわけでもなかったので、洋一は行き先の方向しか運転手に告げられないでいた。
「千代さん、マンションはどちらですか」
洋一は、千代の体を揺すって聞いた。
「あっち」
「あっちって、マンションの名前を言ってください」
千代は今にも眠り込みそうな気配だった。首がすわっていない。洋一は、千代の髪の上から彼女の襟首あたりに掌を当てて支えるように抱き寄せた。
「お客さん、困っちゃうんだよな、そういうの。いっそホテルでいいんじゃないですか。チャンスってもんですよ、お客さん」
運転手がバックミラーの中で含み笑いをして品の良くないそんなことを言った。
「そんなんじゃないよ」
思わず少し声を荒げて言ったものの、心のどこかで変に納得してしまいそうな気にさせられた。洋一はもう一度、千代の体を揺すった。
「千代さん、マンションの……」
そう言いかけると、千代の片腕が伸びて自分の髪を払った。洋一の掌が直に千代の襟首と耳朶のあたりに触れた。熱い地肌がこもっていた。
そのまま車はあてもなく西の方向に走った。暗い車窓に照るどぎついネオンの色が洋一の気持ちまで染めて揺らめかせようとしていた。千代の寝息が沈んでいる。掌を放せない。
洋一は千代の体をソファーにゆっくりと横たわらせた。そして、そこから背を向け、忍び足で千代の部屋を後にしようとした。
と、その時だ。
「待って」と、千代の声がした。
マンションの薄暗いリビングには夜のしじまを吸ったまま息をひそめた気配が漂っていた。千代の声は、闇の中で見えない体温を含んで聞こえた。洋一は足を止めた。
振り向こうとしない洋一に、千代は歩を進めた。洋一は、その千代の歩みを止めるように背を向けたまま言った。
「今夜はこれで……」
低い声で言った。
「もう少し、もう少しだけ」
おぼつかない足取りに等しく語尾が震えて途絶えた。千代は一時立ち止まったかと思うと、たたらを踏むように進み出て、洋一の背中にすがった。
暗いリビングにどこからともなくスポットライトのような明かりが差し込んだ。何か言わなければ、洋一は天井を仰いだ。
そうして沈黙よりも深い淵を二人はさまよった。
千代は、洋一の背中に額だけを押しつけて震えていた。
洋一が後ろ手に千代の片手を取った。押し殺した涙がしみているようだった。掌同士がもどかしげにまさぐり合った。
やがて、ひとしきりの涙を拭うように、千代が洋一の背中から心なしか体を離した。
すると、千代がようやく我に返ったように、
「ごめんなさい」と、小さく呟いた。
「いいんだよ」
洋一はそう言って振り返り、千代の手をほどいた。
「帰るんだ」
「あゝ」
洋一は小さな決意をのぞかせるように嘆息の声を漏らした。
そんな洋一を引き留めるように千代が言った。
「答えを聞いてないけど」
「えっ、僕の初恋は話したけど」
「いえ、私の独り言」
「あゝ、あれね」
「えぇ、あれ」
〈初恋は結ばれない〉
「うん、僕達のことだよ」
今夜の僕達は〈大人の初恋〉をした。そんなことを洋一は言いたかった。
「あぁ、うまいな、橋倉さん、逃げるの」
「ずるいかなぁ」
「ずるい」
逃げるつもりじゃないけれど、いつまでも越えられない壁を押しつけ合っていてもしかたない。
「ほんとにごめん」
「そうやって謝るんだ」
千代は自分にも言いきかせるような抑揚のない調子で言った。
「じゃあ、これで」
「うん。いいよ、もう」
洋一の挨拶めいた言い方に観念したように、千代は口惜しさをこらえて言った。
その夜はそうして短い言葉を繰り返し合って別れた。夜がしんしんと一つずつ時を刻む音を忍ばせていた。
洋一の家は郊外都市の新興住宅街の一角にあった。
振り返れば思った寄りも高台にあることが、喧噪の只中へ毎日勤めに出る者達を慰めるのかもしれなかった。洋一も休日には眼下を一望して何くれとなく過ごすことがある。
いま洋一は、いつになく遅い夜の坂道をゆっくりと上りつめている。
不思議と洋一の心は澄んでいた。
千代とのさっきまでのことは、胸にしまい込んでしまえば、忘れはしないでも思い出すことはないだろう。この坂道と同じで、振り返っても誰もいやしないし、声がするわけでもない。
暗い家路を街頭だけが照らしていた。
家々の輪郭が我が家をたどり始め、洋一はようやく玄関前に立った。一息ついてドアを開け中に入った。奥のダイニングの薄暗い明かりが見えた。眠りについた妻の代わりに花瓶の花に向かって「ただいま」と声にして、洋一はこの日の長い夜を締めくくった。
5
「あなた、これ」
「何だ、これは」
「たまごっち」
「こんなものもらっても困るよ」
洋一は小さな卵の形をしたプラスチックの玩具のようなものを妻の敬子から突然手渡らされて、不思議なかわいらしさに困惑した。
敬子はそんな洋一にはお構いなく、とにかく洋一をウォーキングに連れ出すことに夢中だった。
「少し運動しないと、いずれ困るのはあなたなんだから、一緒に痩せましょ」
そう言いながら敬子は自分と同じようにトレーナーの腰に着けるよう、腰をくねらす真似をした。形よいラインが申し分なかった。すっかりウォーキングの成果が現れているようだった。それで洋一はようやくそれが単なるたまごっちでなく、歩数計であることに気づいた。
「いつも、これを着けて走ってるんだ」
「そうよ。今日からあなたもそれを着けて頑張るのよ。でないと、死んじゃうわよ」
ウォーキングをしないと死んでしまう。洋一は最近太り気味が気になっている。しかし、敬子の大げさな言い方が愉快だった。洋一は「死ぬもんか」と言おうとしたが、たちまち敬子に尻を叩かれて玄関口に促された。
もちろんこの朝、洋一は何時間も寝ていない。朝帰りに近い時間だったことは間違いない。しかし、妻の寝顔を見て、ウォーキングの約束を思い出すと同時に深い眠りに落ちた。そしていつのまにか熟睡したらしく、朝の目覚めもさして苦痛ではなかった。何よりもいつもの妻の敬子の明るい声と笑顔が目の前にあった。
「何よ、そんなに離れて。もっと、こっちに寄って歩いたら」
洋一は、ほとんど車道を歩いていた。妻の敬子に誘われるまま外に出たのだが、どうしても気恥ずかしくて彼女から徐々に離れてしまっていた。
知る人もいない町に住んでいても、早朝にすれ違う人はハイキングの山道よろしく声をかけ合い挨拶してすれ違うので、ウォーキングにまだ慣れないでいる洋一には会釈するタイミングが合わせられなくて面倒な気がした。
それに、自分と違って大股に腕を水平まで上げて、しかも口許をすぼめるような呼吸法も取り入れながら歩く妻の横では、どうしても釣り合いが取りにくかった。
「もっとこっち。ねぇ、こっちってばぁ」
こちらを向くでもなく、行く手を見上げたまま敬子は洋一に声をかける。洋一は仕方なく歩道へ入る白線をまたいだ。妻のはつらつとした妖気めいた空気が少しおかしかった。
でも洋一は何となくやる気が増して、彼女と同じように腕を振った。
「そう、その調子よ。もう少しで中継点だから」
その声は懐かしいくらい若々しかった。
広い公園にやって来た。高台の最も高い位置にあるらしく、視界はほとんど空だった。広場の真ん中で立ち止まって揃って大きく両腕を開いて深呼吸をした。見上げた空が手に届きそうなくらいすぐそこにあるようで、二人で風船になりそうだった。
しばらくひと休みかと思ったら、敬子は再びウォーキングを始め広場の円周をまわり始めた。
「怠けると、太るわよ」
そんな馬鹿な、ちょっと休んだくらいで太るものか、と思いきや、それは洋一のことではなく、歩数計のキャラクターのことであった。
ベンチに腰掛けていると、敬子は洋一の目の前にやってきてひたすら足踏みをしながら、
「太って病気になるの。放っぽとくと手紙を置いて家出しちゃうんだから」
ますます訳のわからないことを言い出した。それで聞いてみた。
「天使が家出する? 天使はさっき天国から来たばかりじゃないか」
「そう。でも、反論しても怠けるあなたは地獄行き」
そんな川柳を読み上げるみたいな言いぐさを残して、敬子はプイッとばかりにまた円周の方に歩き出して行った。
太って病気になって死んで地獄行きでは、家出の手紙は遺書じゃないか。洋一は腰に着けた自分の歩数計を見下げて愚痴るように独りごちた。そしてベンチから立ち上がり、妻の敬子の後ろを追い掛けた。
洋一がウォーキングを再びスタートさせると、敬子は勇んだように体をそびやかして公園の出口の方に急いだ。洋一はあと残りの道は下りだけだと思うと、足どりがいくぶん軽やかになるのを感じながら、敬子の横に追いついた。
眼下の町並みに朝陽が差して穏やかな休日の始まりを告げていた。
洋一は、通勤の満員電車に揺られていた。
吊革の目の前の車窓の景色と壁の広告を交互に眺めていた。始めはそうしているだけで身も心も走る電車に任せて、何を考えるわけでもなく至福な白痴のような心地でいた。
でも時折、あのたまごっちの天使のことが頭の中でちらついた。彼とは週末の2日間の朝には会うことになっている。その彼は洋一が働いている平日は毎日眠っていることになっている。のんきな奴だ。たいしたわけでもないのに腹が立つのはこっちものんき過ぎるせいかもしれない。妻の敬子への点数稼ぎと思ってゆるすしかないだろう。
車窓の景色は天気の違いだけで毎日同じなのは当たり前だし、広告も乗る車両や位置で違ったりするけれど、ほとんど見慣れたものばかり。確実に毎日違うのは目の前のシートに腰掛けた人間だ。そんな得心する思いつきに内心ほくそ笑んでいると、洋一は目の前の人間を見下ろしてそれが一瞬千代ではないかと思った。
彼女はうつむき加減に手提げ袋を胸に抱きしめていた。手や肩の丸み、髪型と前髪の下の鼻梁など、その角度だけならまさしく瓜二つであった。
洋一は胸の高鳴るのを覚えて、どうしても少し違う角度から彼女を見ようと体の移動を試みたが、わずかな一定の動きしかできない。しかたなく次の駅の乗り降りで乗客が動き出す時に体の移動を試みることにした。しかし、電車は快速で次の停車まではしばらくありそうだ。吊革の手が汗ばみ始めた。
と、その時だ。いつものよりも電車が大きく揺れた。汗ばんでいた吊革の手が外れて、たちまち混雑した割れ目の部分に洋一は倒れ込んだ。数メートルも離れたところへ押しやられてしまい、とうとう身動きもできないすし詰めの状態の中に埋もれ立つことになった。
洋一はあきらめた。さっきの彼女が千代だったらどうするつもりだったのだろう。声を掛けて笑顔を交わして、挨拶だけはひどくよそよそしくて、「じゃぁ、今夜行くから」なんて言うつもりだったのだろうか。
やがて、電車は終点の駅に着いた。堰を切ったように乗客達がホームに吐き出された。もちろんあの彼女の姿はわからずじまいだ。
その日、洋一は仕事中でも千代のことをときおり思い出した。千代は初恋を始めのうちは嬉しそうに話していた。でも、だんだん悲しげに話した。だから〈初恋は結ばれない〉と。
洋一は、通勤帰りの電車の中で外を流れる夜の明かりの景色に目をやりながら、こんどは自分の初恋の続きを思い出していた。
あれから小学校を卒業すると、女の子の家はどこかへ引っ越して行った。
その日、女の子のお母さんとお父さんが別々のトラックに荷物を積んだ。先にお父さんのトラックが消えて、しばらくして、もう一台のトラックがお母さんと女の子を乗せて走り去って行った。
男の子は狐に摘まれたように砂埃の道ばたに立ちすくんでいた。大人だけが挨拶を交わした儀式のようなあっけない引っ越しだった。
女の子は六年生になった時から学校をよく欠席していた。隣の家の子なのに姿もほとんど見ることがなかった。ときおり顔を合わせても、女の子は逃げるように自分の家の中へ飛び込んでしまった。
引っ越しのわけが両親の離婚だということは、男の子はずっと後になって知った。そんな事情は大人の世界のことで、少年の心にいつまでもあるはずがなかった。
男の子は、やがてテニスクラブに夢中になり始めていた。そして女の子のことは少しずつ忘れていった。
そこまで思い出したところで、電車は洋一の降りる駅に着いた。改札へ向かう階段を上っていると、後ろから背中を合図するように叩かれた。振り向くと、同じ町内の同位歳くらいのサラリーマンだった。
「見ましたよ」と、彼が言った。
「ほんとですか」
洋一はすぐに分かった。まさかとは思っていたけど、やっぱり……。
「仲むつまじくていいですね」
ウォーキングの腕を振る真似をして、彼が言った。
「土日だけですよ」
洋一は反論しない代わりに挨拶を手短かにしたかった。
それを察知したのか、サラリーマンはそのままウォーキングの腰振りを見せて目の前を足速に歩いて行った。その姿がどこか卑猥な意味合いを示しているようで、洋一は内心舌打ちした。
そんな小さな失望を抱きながら暗い坂道を登っていると、明日がもう土曜日だということに気づいた。すると、洋一はさっきのサラリーマンに似たウォーキングの真似をして家路を急いでいるのだった。
6
尾形千代のマンションを尋ねたあの晩から二月ほどがたった。
洋一は千代の店に向かっていた。ひどく久しぶりな気がした。
このところ仕事が忙しかった。接待で飲むことはあっても、神経が立っていて仕事のことから頭を切り換えられずにいた。
今夜はようやく開放された気分だ。同僚との打ち上げのあと二次会にも付き合って、充分これからの鋭気を分かち合った。
店の外でとぐろを巻いている同僚達からはぐれて、洋一は千代の店の方向へとタクシーを走らせた。
あれから千代はどんな気持ちでいるだろうか。そんな思いが心にのぼった。
今はママでなく千代と呼んで思い出している。夜の街の灯があの夜と重なって、思いもよらず胸のつまるような気持ちがした。洋一は酔ったせいでそんな気分になっていると思い込もうとかぶりを振った。
タクシーは小路の入口で停まった。そこから店まではほんの十数メートル。千代の店の看板が待ちわびたように傾いて見えた。
店はにぎわっていた。カラオケがないから、ドアを開けてからでないと中の様子は分からない。十人も座れば満席になるカウンターだけの店。ドアのすぐそばの一席だけが空いていた。洋一は、目の前の客に会釈して腰を下ろした。
そこへ、見慣れないホステスがおしぼりを差し出しながら、
「ごめんなさい。今、ママ出かけてるのよ。ちょっとだいじな人に会ってくるとか言って」
と、面倒くさそうな口調で言った。それは、店が忙しくなってママの遅い帰りをなじっているようでもあった。
「いや構いませんから。僕はひと息つきに来ただけですから。あぁ、ママ、すぐに来ますよ、きっと」
と、洋一はその初対面のホステスをねぎらいながら、ママを千代さんと言い出しそうになって口をつぐんだ。
頭を掻いていると、隣の客人が「よろしく」といった感じでグラスの片手を上げてこくりと会釈した。
洋一は、頭にあった手を止めて同じようにこくりと礼を返しながら、今夜は千代を間違えないようにママと呼ぼうと自分に言い聞かせた。
そんな思案が届いたのかどうか、すぐ脇のドアが開いて千代が現れた。水色の着物を着て髪を結い上げていた。何度か見たことはあった。しかし、その夜は顔色にほのかに紅が差しひどく艶っぽく見えた。それは、店に入った時にホステスが言った「だいじな人」という言葉が気になっていたからだろう。
洋一は、すぐに声が出なかった。
千代は、ちょっと驚いた様子で洋一を見ると、うなじの後れ毛に手をやりながら小さく頭を下げた。
洋一も真似るように小さく頭を下げ、誰でもないママの客の一人を装った。
千代は腰掛けている洋一の背中にかすかに指先を触れさせたかと思うと、カウンターの奥へ進み出た。
千代の姿を認めたホステスがこちらにも目配せしながら、
「あらっ、ママ、今言ってたばかりなのよ、お客さんと。お客さん、大当たり。ほんとにすぐに来たわね、ママ」
と、素っ頓狂な声を上げた。そのはしゃいだ喜び様にカウンターの男たちが意味もなくいっせいに高笑いをした。
その夜、店は大いに盛り上がった。新しいホステスが客たちの卑猥な話題でからかわれ通しだった。千代は洋一のところに水割りをこしらえに来るぐらいで、いつになく笑いの場に付き合って明るく振る舞っていた。
しばらくして誰が言い出したのか偶然にも初恋に話題が変わっていた。
「おい、ミカ、おまえの初恋はいつだった」
「えぇと、私の初恋は高校かな」
「遅いなぁ。それはバージンを失った時と違うんじゃないのか」
「あ~らぁ、いやだぁ、そうだったわぁ」
相変わらず下ネタに走った。洋一はお客が千代に初恋のことを訊きはしないかと内心不安だった。
しかし、それはなかった。千代は一度だけこちらに視線をよこしたきり、ミカというホステスと客たちの話に相づちを打つだけの短い返事をしていた。
洋一は、あの夜千代が何度も繰り返し言っていた〈初恋は結ばれないもの〉という言葉を思い出していた。
それから小一時間程して洋一が帰ろうとすると、千代があわててカウンターから出てきて洋一の袖をつかんだ。千代は首だけをカウンターの方に向けてホステスに目配せをしてから、一緒にドアの外に出るようにと洋一を見上げた。
洋一は千代に促されるままドアの外に出た。千鳥足の男が好奇な目を向けて二人の横を通り過ぎて行った。
そんな酔人にかまわず千代が洋一の袖の手を放すと、身をただすように着物の襟先を摘んであらたまった声をして言い出した。
「ごめんなさい。急に引っ張り出したりなんかして。お伝えしておかないといけないことがあるんです、でも今は。それで、近くお昼にお時間を頂ければと思って」
話さなければならない事情とは、何だろう。洋一は訝しく思いながらも、落ち着いて答えた。
「どのようなお話か分かりませんが、千代さんの言うとおりに時間を作ります。都合が決まったら、会社でいいですから、お電話下さい」
言葉の裏に、あの夜のことと関係がないかどうかが思い出されて、そうは言い出せない戸惑いが隠されていた。あれだけのこととはいえ、千代を傷つけてしまっていないだろうか。洋一は、自分でひどく言葉が固くなるのを感じた。
しかし、千代には緊張がほぐれる笑みがのぞいた。
「ありがとうございます。じゃぁ……」
と千代が言い出したところへ、後ろのドアが開いて店の酔客が、
「ママはみんなのもの、みんなはママのもの」
と叫んで飛び出してきた。
千代が押されて洋一に歩み寄った。その拍子に千代が洋一の耳元にささやくように、
「お電話します」
とだけ言って、後から出てきた酔客たちを見送ることとなった。
洋一は、返事の代わりに千代の手に触れて「待ってる」とだけ告げて、その場を後にした。
背後の騒ぎが静かになって振り返ると、小路の奥に千代が立っているのが分かった。夜風のまだ甘い夜だった。
7
あれから朝のウォーキングをする週末を終えて、週が変わった月曜日、洋一の会社のデスクに千代から電話が入った。
受話器の向こうに駅の構内放送が流れていた。千代の声は、ざわめきの中で息を切らせていた。
「千代です、今、東京駅。橋倉さん、ごめんなさい、お店、もうやめたの。今から夕方の汽車に乗らなければいけないの」
洋一は腕時計を見た。午後四時半。急を告げられているようだった。わけは、とにかく会えばわかるだろう。
「今すぐ出るよ。東京駅のどこですか」
千代は、東北新幹線の改札口を知らせてきた。
洋一は、なぜ東北新幹線なのだろうかと、千代の口から初めて聞く東北が不思議だった。しかし、それも会えばわかることであった。洋一は残務を部下に命じて、足早に東京駅に向かった。
東北新幹線の改札口前は、お盆の始まりとあって帰省客でごった返していた。
その人混みの中から聞き覚えのある声がした。
「橋倉さん」
千代は手を振って、洋一の苗字を呼んでいた。
洋一が駆け寄ると、千代はいつになく華やいだ微笑を浮かべていた。
「よかったぁ、すぐに見つけてくれて」
千代は珍しくジーパン姿だった。いかにも旅に出る姿で、手には大きめのショルダーバッグがあった。腕時計を垣間見ながら、人混みの中に誰かを探している様子だった。
「一人じゃないのだったら、立ち話でいい。君が話したかったことを聞くよ」
洋一には、ミカというホステスが「大切な人」と言った言葉が気になっていた。千代の探しているのはきっとその「大切な人」なのだろうし、話もその人のことなのだろう。洋一は小さな覚悟を決めた。
しかし、ひとしきり目を配り終えると、
「いいのよ、もう」
と、待ち合わせたはずの「大切な人」が見たらなかったらしく、落胆を押し殺した硬い口調で千代は言った。そして、突然人混みを掻き分けるようにして八重洲口の方へと一人歩き出した。
「大切な人」は現れなかったのだ。
千代は八重洲口の改札を出ると、人波に逆らう流れの中をスタスタと洋一の先を歩いて行った。そしてショッピング街の外れにあるコーヒーショップに入った。
洋一はセルフサービスのカウンターからコーヒーカップを二つ載せたトレーを手に、千代が座った席の横に腰掛けた。
そこは、店内からはみ出たテラスというよりも店の従業員の通路のような場所で、客席用にベンチシートに小さなテーブルと腰掛けがいくつか並んでいるだけの付け足しのようなコーナーだった。
異様な人種がたむろしていた。まわりは七十歳代くらいの男女がほとんどであった。彼らは誰もが小さなテーブルを挟んで額をこすり付けんばかりに身を乗り出して話し込んでいる。
聞こえてくるのは株の話。とてつもなく高額な金額がささやかれ、聞く方も驚くでもなく頷いている。どうやら個人投資家たちのたまり場のようであった。
洋一は場違いな気がした。
「席、変えましょうか」
「いえ、かまいません」
短く答えた千代の声には、あきらめのような響きがあった。約束を破った「大切な人」への恨みがこもっている。洋一は勝手に、そう思った。
でも、それは違った。千代は柔らかな視線を向けて言った。
「いつか、こういう日が来ると思っていたのよ、ずっと」
その意外な言葉に、洋一は思いのほか気が軽くなるのを覚えた。
事情は、どうせ男と女のもつれ合い、そんなところだろう。店を閉めて裏切れば手が切れると、男の身勝手な化けの皮がはがれただけのことだろう。ここは詮索するようなことは聞くまい。これからの千代のことの方が大事だ。
「で、これからどうするつもりなんだ」
千代はコーヒーカップを一口すすると手元に視線を落としたまま、拗ねた声で言った。
「誰もいない山奥の温泉町へ行くの」
それは、計画が変わってほかに決意する言葉が見つからないほんのつかの間に思いついた言葉のようで、決断をこちらにゆだねているようであった。
「そう、きっと新しい人生が開けるよ」
洋一は、それ以外の言葉が浮かばなかった。慰めでも曖昧な気持ちでもなく、しぜんに口をついて出た言葉だった。
千代は「ありがとう」と、後のことは大丈夫とばかりに少し大げさな頷き方をした。あの「大切な人」が現れて手に手を取ってどこかへ逃亡するかのように旅立つはずの事情を、洋一にだけ告げておきたかったのかもしれない。
洋一は言った。
「あの晩は初恋みたかったよ」
つかの間、二人の記憶だけが結ばれた。
「でも、初恋は結ばれないものですものね」
「……」
千代の言葉に洋一はためらった。頷くように小さく礼をした。何を謝るのだろう。それは、何よりも今こうして何もしてあげられない不甲斐なさの何ものでもない。
元気でとか、体に気をつけてとか、また連絡してとか、いつかまた会おうとか、そのどれでもよかったのに、どちらからもどの言葉もなく、世界にこんな別れ方があっていいものかと思いながら、かみしめるような沈黙が流れた。
そして、どちらからともなく「さよなら」と、もどかしげな言葉が行き交った。
千代が先に席を立った。座ったままの洋一のいくぶん離れたところから深々と頭を下げて見せ、踵を返した。
洋一は、腰掛けたまま千代の姿が人混みにまぎれていくのを眺めるしかなかった。
目の前には信じられないもののように、千代の飲みかけのコーヒーカップがあった。冷たくなったコーヒーカップを手にすると、その感触が雑踏のざわめきと老人たちの話し声を、忘れていた遠い過去のようによみがえらせてきた。
洋一はトレーの上に二つのコーヒーカップを並べて載せ、ふたたびコーヒーショップのレジカウンターへ向かった。
新興都市の駅舎を出ると、夕暮れに染まる商店街には祭り囃子の音楽が流れていた。
洋一はようやく気分の切り替えられるのを感じていた。電車の中では別れてきた千代の行く末がずっと案じられてならなかった。
黄昏の空に白い月がしっかとした輪郭を見せて浮いている。洋一は仰ぎ見ながら「千代さん、さようなら」と、心の中で呟いた。
そして、帰宅を告げようと思い、ロータリーの端にある電話ボックスに入った。ダイヤルを回すと、受話器の向こうから妻の敬子のいつになくはしゃいだ声が返ってきた。
「ねぇねぇ、聞いて。驚かないで。あのフジオちゃんから会社を作ったという知らせの葉書が届いているの、スゴいわね。早く帰ってきて」
洋一は「フジオちゃん」がすぐには思い出せなかった。
電話ボックスを出ると、洋一のそばを小さな男の子と女の子が手をつないで通り過ぎて行った。その後ろ姿を見て立ちすくんだ。果たして「フジオちゃん」が思い出された。
もう三十年以上も昔のこと。こんな夜のとばりが落ちかける頃、「フジオちゃん」の家が焼けた。真っ赤に染まった背景の影絵の中に、さっき通り過ぎて行った小さな男の子と女の子に似た二人の影が重なった。
洋一は信号のある通りを渡ると、いつもより歩調を早めて歩いていた。週末のウォーキングのせいか、ひと頃よりも足取りがいくぶん軽やかに感じられた。もちろん、「フジオちゃん」の知らせがどんなものなのかと期待する気持ちも手伝っていたのだろう。
「お帰りなさい。これよ」
敬子は、洋一が靴を脱いで玄関に上がるなり、腰の後ろから隠していたものを差し出すみたいに、白く四角い葉書を洋一の目の前にかざした。その敬子の瞳はうれしそうに潤んでいるようにも、輝く光を放っているようにも見えて、きれいな瞳をしていた。洋一は一瞬、はるか遠い記憶の蛍の光の輝きが映った小さな瞳を思い出した。
しかし、敬子はそんな洋一に気づくはずもなく、早く読んでほしいとせがむように夫の背中を押した。
細い廊下の奥に明るいダイニング・ルームがある。敬子はスキップをして洋一の前に進み出ると、
「はい、ここに座って、それを読んでみて」
と、テーブルの椅子を引いて洋一を促した。
洋一は小学生のように机の上に両腕をまっすぐ伸ばして、手にした教科書を読み上げるような姿勢で、一語一語区切りながら声にした。
「拝啓
貴社ますますご盛栄のこととお喜び申し上げます。
平素はひとかたならぬご厚情をあずかり、厚くお礼申し上げます。
さて、このたび新会社を設立し、ようやく開業の運びとなり、代表取締役社長に就任いたしました。
今後皆様のご期待に沿いますよう、社員一同全力を挙げて社業に努める所存でございます。何とぞ、格別のご支援、お引き立てを賜りますようお願い申し上げます。
まずは、略儀ながら書中をもってごあいさつ申し上げます。
敬具 」
「偉いわね。あのフジオちゃんが社長さん、だなんて」
洋一が読み終わると、敬子が感心するように溜め息混じりに言った。
洋一にはフジオちゃんのことが、敬子が羨むほどの姿になっているとは想像できなかった。
届いた葉書の文面はほとんど事務的で、新会社の社名もカタカナ読みしただけで、どんな仕事をする会社なのか分からなかった。きっと同業者の関係に送った葉書の一枚なのだろう。
だから洋一には誰でもない、どこかの社長と較べて想像するしかなかった。しかし、敬子にはフジオちゃんが、さぞかし立派なサクセス・ストーリーを歩んでいる社長に映っているらしかった。
でも、それはきっと懐かしさが増幅して働いたイメージで、天真爛漫な彼女らしいと言えば彼女らしく、むしろその通りなのかもしれなかった。
「会ってみたいなぁ」
今一つ合点のいかない洋一の想像をよそに、敬子はテーブルの椅子から立ち上がって白い葉書を胸元に寄せ、ヒロインの台詞のような上気した声で呟いた。
洋一は思わず吹き出した。
「敬子、おまえ少しおかしいぞ。そんなにフジオに会いたいのか」
洋一はフジオと呼びつけしている自分もおかしいと思いながら、すぐに苦笑を押し殺した。
「ねぇ、一緒に行きましょ、東北へ。山形じゃなかったかしら」
そう言われて洋一は、住所を見ると確かに山形の文字があった。
そこが東北だと気づくと、洋一は別れて来たばかりの尾形千代のことが思い出された。今頃はもう夜汽車の中であろう。暗いガラス窓に映るあてのない旅を始めた悲しい自分の姿を、千代はどんな思いで見ていることだろう。やっぱり「初恋は結ばれないものなのです」と口ずさんでいるのだろうか。洋一は高鳴る鼓動を押さえた。
「ねぇ、あなたも何だかおかしいわ。どうなさったの」
「どうもしないさ。あんまり懐かしいものだから」
苦しい言い訳をした。
「そうね、懐かしいわね」
そう敬子が同意して何となく二人の心境が同じところに落ち着きそうなそんな時、意外な言葉が歌うように敬子の口からこぼれた。
「私の初恋の人、フジオちゃんなの。懐かしいな」
会いたいな、と次にまた続くはずだったのだろうか。洋一は、部屋のあかりを見上げた妻の恵子の表情に、ようやくフジオちゃんの輪郭がはっきりしてくるのを感じていた。
(おわり)
小説 初恋談義(上)
初恋談義(上)
岩城 真紀夫
1
〈あれが初恋だったのかな〉
橋倉洋一は、カウンターに肘をつき水割りのグラスを傾けながら、そんなことを思っていた。
そこへ、お店のママが声を掛けてきた。
「あら、今日は静かなのね。どうかしたのかしら。会社で嫌なことでもあったの」
優しい声をこしらえて、水割りのグラスをこちらへよこしてと言うように、白い手のひらを差し出してきた。もとよりママの心配はこちらの心の裡よりもグラスのほうに決まっている。しかし、拒む理由もなかった。
「じゃあ、あと一杯だけ」
洋一はそう言ってグラスを押し出した。
新しいグラスができあがったところで、同じカウンターの端にいた年輩のサラリーマンが席を立って帰って行った。
店は、ママの他にもう一人彼女と同じ位の歳のホステスがいるだけで、十人も座れば満席になるカウンターだけのスナックである。
洋一は、雨宿りに飛び込んだこの店に、いつからともなく顔を出すようになっていた。格別いい女がいたわけでも、いるわけでもない。四十歳になって、若いホステスに気をつかって飲むのに疲れていたのかもしれない。
強いて言えば、店のこじんまりとした庶民的な雰囲気とママの素人っぽさがよかったということぐらいのこと。あとはただ何となく足が向いていた。もう十年にもなるだろうか。
帰って行った客のボトルやグラスなどを片づけているママに、洋一はさきほど心にのぼった初恋のことを訊いてみた。
「ママの初恋はいつ頃だったの」
カウンターの中の小さな洗い場をホステスに任せて、ママがニコニコしながら、こちらへやってきて、どうかしちゃったんじゃないのと訊くようなおどけたようすで応えた。
「そんな昔のこと、忘れました。初恋を思い出す歳でもないでしょ、もうお互いに。センチメンタリストなのね、橋倉さんって」
「疲れてるとセンチになるのかな、俺って」
「そうみたいね」
こちらが考え込んでいたり、軽い弱音を吐いたりしてもやんわりと包み込むように短い一言で言ってくれる。これが女房とは違うところで、結局は世の男達はこうした店に通い詰めているのかもしれない。
洋一は、ママの初恋のことよりも、そんな思案のほうが気分を満たすのを感じた。
最後の一杯の水割りも残り少なくなった。時計はちょうど十二時を差している。ホステスが、お先に失礼しますと言って帰って行った。
店の中は洋一とママの二人だけになった。ママは奥の小さな厨房でなにやら後かたづけをしているらしい。
「じゃあ、ママ、俺も帰るよ」
そう奥にいるママに声を掛けると、玉暖簾の向こうにママの顔がのぞいた。化粧が違う。確かに口紅の色がさっきまでと較べると、濃くなっている。洋一はドキンとした。
お肌の曲がり角はとうの昔に過ぎて、四十代半ば。いつまでも素人っぽさが抜けなくて、化粧だけはお世辞にもうまいとは言えない。いつも粉っぽくて、口紅が小さな唇を少し大きめに引いていてはみ出している。
それは、この仕事に必死にがんばっている彼女のけなげな姿を象徴しているように、洋一には見えている。
元来、男は女の化粧を目の前で口にするべきではない。エチケットなのか、マナーなのか、分からないけれど、昔死んだ父親の口癖だった。
残り少なくなっていた水割りを飲み干して、もう一度声を掛けようとした。そこへ、玉暖簾のはじける音がしてママが現れた。
「お寿司でも、ご一緒してくださらないかしら」
口紅が濃くなると、声まで艶っぽくなるのだろうか。拒めない親しみがこもっている。
白い丸首のブラウスにモスグリーンのジャケット、手にはもうハンドバッグが握られていた。
「行きましょ、橋倉さん」
もう拒めない。明日は日曜日。でも早朝から女房の敬子とジョギングの約束をしている。
橋倉洋一は、少し酔った頭の中で敬子の怒った時の顔を思い出した。
あの時は朝方の午前四時の帰宅だった。しかし、もうだいぶ前のこと。一年以上も前だ。そう思うと、寿司くらいならいいだろうと考えた。少しお金はかかるものの、ここはもう気分が拒めないでいる。
それに十年以上も通っている店のママの初めての誘い。断わっては失礼かもしれない。こちらにも深い親しみがある。今さら断わる仲でもないだろう。
「それじゃあ、行きますか。ママ」
洋一は、そう言って止まり木をおりた。すると、ママが傍に来て洋一の肩にコートを掛けながら、背中のほうでこう言った。
「橋倉さん、これからの時間、私をママと呼ばないで。ちゃんと名前で呼んで下さい」
肩に掛けた手が止まって、少し体重を寄せてきた。洋一はそれをかわすように袖に手を通しながら、体を離した。
「尾形でいいですか」
「いえ、下の名前のほうが」
「そうですか。それじゃあ、千代さん」
「ええ……」
ママこと千代さんは、自分のその名前が古風であまり好きではない。
ある晩のこと。定年間際の客が「ウチの婆さんと同じ名前だ」と言ったことがある。ママの落胆は言うまでもない。
その時、洋一は彼女を慰めるつもりで、妻の敬子が「なんで私の名前は恵まれる恵子じゃなかったのかしら」と、テレビの女優と較べて言った時のことを話した。洋一は、ママの千代におかしな助け船を出したものだなと、あとになって気づいたことをよく覚えている。
ふたたび妻の敬子が思い出された。ついさっき決断して振り払ったつもりが、いざ妻以外の女性と深夜を過ごそうとすると、ひどく妻の輪郭がはっきりしてくる。
敬子は千代とほぼおない年ぐらいだろうか。でも千代よりはずっと美人。幼い時から「かわいい」「きれい」と周りからはやし立てられて育った。短大からOL時代の頃は、ミス・コンテストに引っ張りだこだった。美人を鼻にかけたところもなく、適当に社交的で、むしろほとんど自分では気づいていないきれいな仕種が目立った。
しかし、その敬子も四十に手の届く歳を迎えようとしている。今頃、独り床に入って寝入ってしまっているだろう。
洋一は小さな迷いの中で、千代の誘いに応じようとしていた。
2
寿司屋は、細い小川の川端にあった。
小上がりの障子戸の隙間から橋を渡って行く人通りが見えた。小粋ないい店。カウンターは十人くらい、いつも満席。
「よく、いらっしゃるの、このお店」
「寿司を食べたくなった時はね。ほかの店の寿司は食べられない」
「そんなに美味しいの、ここ」
「シャリがいい……」
そう言いかけた時、片端開けの障子戸の向こうに小川の橋を渡る人影があった。その中に、昼間仕事で小さな口論をした得意先の人間の姿を見たような気がした。
それで洋一は、その記憶を振り払うように、カウンターのほうの店の人に「酒!」と声高に呼び掛けた。威勢のよい板前の声が返り、洋一の心もそれで少し晴れた。
酒が運ばれ、洋一と千代の間の膳の上に、銚子と盃が二本かしこまったように並んだ。店の人が、「今、握っておりますので」と、妙に気を遣ったような小さな言づてをして下がって行った。
「じゃあ、橋倉さん、どうぞ」
お銚子を手に、千代が酌をした。洋一は素直に盃を取って、すぐにグイッと喉を潤した。そして、その盃をそのまま千代に手渡した。千代も素直に受け取って、洋一の酌に応えた。
「何の契りかしら」
ゆっくり飲み干した千代がいたずらっぼい目をして言った。
「何でもいいさ」
「何でもなんて、嫌です」
洋一は、自分から盃を渡したのが、どういうつもりだったのか、よく分からなかった。ただ、契りというよりほんのご挨拶のような気持ちだった。遊び心なんて言ったら失礼だったろうか。でも、変に訳ありな馴れ親しんだ雰囲気にだけはしたくなかったのかもしれないし。
そんな千代の言葉には親しみを超えた甘えがあった。
洋一は千代の盃にお酒をつぎながら、
「それじゃあ、我々の友情のためということにしておこう」
「友情、ですか……」
声をすぼめて、千代が淋しそうな顔をした。
洋一はこういう時、なぐさめを言っては女心を余計に高ぶらせてしまわないかと不安に思う。そこで、洋一はしばらく酌をする側になる。
つまり、千代は一方的に飲む側になり、彼女は当然、酔いのまわりが速くなる。
洋一には、別に下心はない。ただ彼女をそうしてなぐさめるしかなかった。
寿司が運ばれ、あらためてお銚子が並んだ。
すっかり千代は酔っていた。乱れてはいないが、顔から首筋にかけて少し赤らんでいた。
「ねぇ、橋倉さん、私に訊きたかったこと、あったんじゃないのかしら」
千代は片肘をついた盃の手をゆらゆらと揺らしながら、話の続きをねだるように甘い声をして言った。
「あぁ、初恋のことだったかな」
いつにない千代の妖艶な仕種に少し気おされた気分で、洋一はわざと思い出したかのような調子をつくろって応えた。
「そうそう、初恋、初恋よ。私の初恋はねぇ」
「ママの、いえ、千代さんの初恋は」
洋一は、心地よく酔いがまわった千代をかばうように言葉をくり返し、話のプロローグへ導いた。すると、
「初恋は結ばれないって言いますけど、ほんとなんですねぇ」
と、千代はうなだれるようにおとがいに当てていた手を少し肩になでらせながら、途方に暮れたみたいな目をして、そう言った。
それから、洋一を垣間見た視線が膳の横へ流れて、あてどもなく壁づたいを這い、鴨居のあたりでしばたたかせたかと思うと、そこで彼女の瞳が潤んだ。
洋一は、思わず小さく「千代さん」と呼び掛けた。
尾形千代は、十六で両親を失った。海のそばの家で生まれ育って、思春期で親のない淋しさを知ると、もうそれ以上は海を見てはとても生きられそうになかった。 二つ年
上の兄は葬儀の時の失態がもとで、もう二度とこの土地へは帰らないと言い捨てて、どこかへ行ってしまった。
二人兄弟で、独りきりになった千代を、誰一人面倒みようという近しい者はなかった。それも兄のせいであったが、千代に彼を責めるだけの知恵はなかった。
それよりも自分もどこかへ行って消えてしまおう、そう思い、兄がいなくなってから十日ばかりした雨の日に、海の見える故郷を逃げ出した。
そして、それまでの海鳴りの毎日が行きかう電車の轟音の毎日に変わった。
住み込みの花屋の世話になって二年が過ぎ、千代の初めての恋が始まった。
恋も愛も人生も、当たり前だけど出会いがある。
その日は、よく晴れた土曜日。春の陽ざしが電車通りの歩道橋の下にも、少しばかりの陽だまりをつくり、花屋の軒先の花々を明るく映えさせていた。
そこは、国電の駅のある東京の下町。駅からも近く、通勤通学などの人通りがちぎれて流れてくるところ。さすが土曜日とあって、ラッシュの時刻の人の往来は少なく、一時間に何人かが行きかう程度。
千代は、そんな頼りなげな時間帯が好きだった。
と、一人の青年が店先で花を見下ろしていた。
∧いい人……∨
千代は人を見るとすぐに心の中で、その人がいい人か悪い人か呟く癖がある。もっともお店に来る人は皆いい人に決まってる。
千代は、その青年に駆け寄るように店先へと飛び出した。
「いいお天気ですね」
言ってしまってから、少しわざとらしいかなと思った。千代は慌てて後退りをした。
「ええ、いい天気ですね」
背中が応えた。グレーのジャケットの広く大きな背中。その下から長い脚が伸びていた。
千代は青年の横へ近づいて、腰をかがめ、彼の見ていたフリージアの小鉢を手に、
「これですか、買ってください」
と言っていた。
青年は、千代の一方的な勧誘に少しも驚くようすもなく、
「はい、いいですよ」
と応えた。
貧しい花売り娘が、場末の通り道でお金持ちの紳士に精一杯の笑顔で押し売りしたみたいな光景――。千代は、その日の晩、寝床で自分を、そんなふうに思い描いて赤面した。
翌日、青年はふたたび店に現れた。
「きのうと同じ花、ありますか」
そして次の日も、また次の日も、青年は同じフリージアを手に歩道橋を上がって行った。
向かいの歩道に降り立つと、いつからともなく千代の方へ小さく手を振った。千代はうれしくて体を揺すって大きく手を振って応えた。
そんな日がひと月も続いた。
当然、千代の気持ちは恋心に変わっていった。募る想いは、青年の優しさが礼儀正しく受け止めてくれた。
「はい、いいですよ。今度の日曜日ですね」
駅のすぐ前に素敵な喫茶店ができた。千代の夢は、その喫茶店を舞台にして大きくふくらんでいた。
花を手渡す時、目が合ってしまった。恋のシナリオ通りの台詞が口から飛び出していた。
「十五日のお昼、『オレンジ色の雨』で会ってください、いいですか」
何度も何度も心の中で呟いてきた台詞。
千代は自分に驚くより、彼の返事を待っていた。きっと怖いくらい突き詰めた顔をしていたにちがいない。それで彼が困ってイエスの答えをしてくれた。
きっと、そう――。
千代の恋の予感は、次の日から不安に変わった。青年が花を買いに来なくなった。
十五日はあさって。三日も姿を見ていない。通りを見ても、青年の姿はなかった。
病気でもしたのかしら。それとも遠い所へ出張――。
わけを考えれば考えるほど不安は募った。そして悪い夢を見てしまう。
∧もう、これで終わりかな……∨
悪い夢は、いつも暗い海。耳鳴りのような海鳴りが響いてる。
夜だというのに、真っ黒な海の上で鳥がキーンと声の尾を曳いて鳴いてる。波が暗闇でピカッと光って銀色をしてる。
帰りたくなかった故郷への重い旅の果て、帰る家もなく暗い海辺の波打ちに呟き掛けながら独りで歩いてる、泣いてる。
十五日が明日という日まで泣いた。そして、十五日の日が明けた。
千代は『オレンジ色の雨』にいた。
その日は雨が降った。
やっぱりオレンジ色をして見えた。店は店内からだと、雨がオレンジ色に見える不思議なガラスのお店。
千代は大きなガラス窓からいちばん遠く奥まったテーブルの腰掛けに座っていた。そこからだと、外の景色は雨が通りの樹々も敷石も車も人も、何から何までもがオレンジ色をして見えた。
∧きれい……∨
千代は今朝までの不安を忘れて心の中で呟いた。
と、洋服のボタンがやっとかたい穴に通った時のような、心の小さな安堵の中へ、幸せがすっぽりと入り込んで来た。彼が現れたのだ。
広いガラスの自動ドアが開いて、その向こうのオレンジ色の雨音が激しく店の中へ流れて込んで来た。その中を、彼がゆっくりとこちらへ歩んで来る。
ずっとさがしていた姿。オレンジ色の逆光でも、そのシルエットは記憶の通り。近づいて来て、黒いシルエットの彼の声がした。
「いい喫茶店ですね」
青年が言った。店内を見まわすわけでもなく、千代の方をまっすぐ見て言った。
「ハイ」
千代は、自分がほめられたような気がした。青年のセーター姿がまぶしかった。
花の店の前に現れる青年はいつも背広姿だった。セーター姿は、ずっと若く少年のような甘い気配が漂っていた。
千代は、青年の歳がいくつなのだろうかと考えた。もしかして、自分より若かったりして…。
「どうしたんですか」
下を向いた千代の視線をすくい上げるように、青年がのぞき見るような仕種をして聞いた。千代は頬に掛かった髪をおさえて、小さな声をして聞いてみた。
「おいくつですか」
「ハタチになりました」
あぁ、大人なんだ。千代はホッとする心の中で、ひどく恥ずかしかった。大人の人を誘ったりしたんだ。とてもいけないことをしているような、そんな気がした。
「で、君はいくつ」
「ハイ」
ハイだけでは、いくつか分からない。すぐにそう思った。いくつにしよう…。一つ違い、二つ違い。それとも一つ歳上にしといたりして…、バカ。
「ハイ、十七です」
素直に答えると、小さな迷いは吹き飛んだ。
「名前は、尾形千代と言います」
自分から名乗っていた。
青年も、それから自分の名前が前田彰ということ、文房具販売の会社で営業の見習いであること、そして絵を習いに通っていることなどを話した。
そこで、千代は尋ねてみた。
「すると、よく買って頂いているお花は、その絵を描くために」
「いえ、絵を描くためではありません」
「じゃあ……」
「ある人に贈るためです」
ある人って誰だろう。恋人、そう、きっとそう。今は曖昧にしといたほうが少し楽しめるかもしれない。でも、不安。
「ある人って、どなたですか」
「答えなければいけませんか」
「いえ、そんなわけでは……。ごめんなさい」
せっかく打ち解けられそうだったのに…。千代は、吐息を呑み込んだ。
それから、ほんの短い時間、二人してガラス窓の向こうを眺めたままでいた。
気まずさが少しだけ時の流れを緩やかにしてくれている。まだ、大丈夫。千代は、そう思った。
やがて、時計の針が約束の時刻の数字の上を滑ってゆくように、同時に二人がコーヒーカップに手をつけると、忘れかけていた沈黙の扉を押し開くように、
「この曲、好きなんだ」
と、左手の甲で唇の下をぬぐような仕種をして、独り言みたいに彼が言った。
千代は、その言葉が敬語でないのが、自分に向かって言っている言葉でないように聞いた。もっと他の人。ほんとに好きな人、やっぱり恋人。でも今、彼の前にいるのは自分。世界で今、私だけ。
お店のBGMは、ギターが悲しそうな雄叫びを上げている。きっとバラード。ハードロックのバラード。短いフレーズがリフレインして、かすれるような響きとともに消え入るような灯びとなり、その小さな炎の芯から、今度は囁くようでいて甲高いボーカルがしのび出てくる。
「スティール・ハートっていうんです。このグループ。曲は、シーズ・ゴーン」
千代は、その曲名を心の中で呟いてみた。
――失恋の歌かしら。
でも、彼の瞳は輝いてる。ほんとに、この曲が好きみたい。音楽的なことは千代には分からないけれど、彼はきっとそうなのかもしれない。
リードギターが高鳴ると、彼の眉間にかすかな皺が浮く。瞳が細まる。心まですぼめて聴き入ってる。
千代も、感動していた。私も、きっとこの曲が好きになる。そして彼も好きになる―― 。
千代は、泣きたいような気持ちだった。こんな感動、生まれて初めて。もう初恋なのかもしれない。そう思った。
曲が終わって、軽快にトランペットが奏でるポピュラーソングに変わった。
前田青年は、上着のポケットから煙草の箱を取り出して、
「煙草、吸ってもいいですか」
とたずねた。
千代は、初めて目を合わせたように思った。
曲が終わると、前の自分と今とでは何かが大きく変わっているのを感じた。言葉が声にならなかった。口だけが「ハイ」と応えていた。
それから前田青年は、ゆっくり煙草をくゆらせていた。
千代は、その姿をじっと見つめた。そんなに見つめてはいけないと思いながら、どうしても視線を放せなかった。
前田青年は、ときおり千代の視線に微かな笑みを返してくれた。
やがて、外の雨が止んだようだった。
オレンジ色の雨脚が消えて、出入口のドアが開くと、白い陽光が差し込んだ。
「通り雨」
と、ひとこと呟くように前田青年が言った。
「ええ……」
何も多くは話していないのに、もうお別れ。
雨宿りのようなデート。私が待って、彼が来て、もうお仕舞い。
でも、そんな……。
何か話しかけなくちゃ、千代はそう思いながらも、言葉が出なかった。一番訊きたかったこと、お花は誰のため……。そのことがずっと気になっていた。
そして、自分でもよく解らないけど、彼を外に誘い出して、できたら夕暮れまで歩いて、そして……なんて、考えたのかしら。
やっぱり、自分でもよく解らない。「少し散歩しませんか」、そんな言葉が口を衝いて出た。
彼も、じっと向き合っているよりもその方がよかったらしく、先に席を立ち上がると、両腕を大きく伸ばして、「そうしましょう。雨も上がりましたしね」と、快く賛成した。
それから、しばらく二人並んで、街なかを歩いた。
街は、私鉄沿線の商店街と住宅街が混ざり合ったまだ緑の残る新しい街。
やがて、小高い丘に向かって、長い緩やかな坂道をのぼった。
途中、前田青年が足を止めて、見てごらんと言うように生け垣の梢の葉の滴を指差した。玉の滴が今にも落ちそうに震えていた。
千代は、息を殺して見つめた。すると、彼がお呪いを掛けたみたいに丸く膨らんだ滴が溜息を漏らすように細長く伸びて、下の葉の群の中へ吸い込まれるように落ちた。
見上げると、道の先の真正面に白い大きな建物があった。雨上がりの清々しさの中で、その白さが眩しいほどだった。
彼の歩調が心なしか速まったように感じたときだった。前田青年が白い建物を見上げて言った。
「あなたのお店で花を買うと、ここへ来ていたんです」
千代は、そこへ近づくにつれ病院であることがはっきりしてきた。
「来ていたって……」
声がつまった。後は言ってはいけないような気がした。しかし、前田青年がきっぱりとした口調で言った。
「ええ、そうです。死んだんです」
「……」
誰が死んだのだろう。千代は、彼のお母さん、それとも妹さんと思いをめぐらせた後、誰でもない彼の大切な誰かにちがいないと思ったところで、考えることを止した。
すると、前田青年は、白い建物の方を見上げたまま、
「僕の初恋の人でした」
と、悲しみにもどこか遠い過去の思い出をかみしめているような決意に満ちたかたい響きを込めて告白した。
雨上がりの夕空が晴れて、空色がいくぶん赤みを帯びて広がっていた。
「あしたは、晴れたいい天気になりそうだね」
気づまりを解きほぐすような、今度は穏やかな声音をたなびかせて、歩み始めた前田青年が、千代を促すように背中の向こうで言った。
「はい」
千代は、青年の長い影を避けながら短く応えた。
影に抱かれたら、亡くなったあの人に悪いから︱︱。
丘の上の住宅街を抜けると、電車の走る音が聞こえてきた。
やがて緩やかな下り坂。その沿線沿いに並び立てた枕木の長い塀が駅舎へ向けてのびている。
千代は青年の後ろから、数えるでもなく、その枕木を一本一本手のひらに触れながら歩いた。
そして、駅の改札に来て別れた。まるで、別れには作法があるみたいで、とてもよそよそしくあっけなかった。
青年は、「今度、海を見に行こう」と言って、手を振ってくれた。くれたけど、千代は手を振って応えられなかった。
それは、海だからだった。
海は、暗い思い出の故郷につながっている。二度と帰りたくないところ。
海を見たら、なにも話せなくなる。そしたら、この恋はもう続かない。私に、海は恋をはぐくまないから。
千代は、知らなかった心のありかを探りながら、少しずつ昨日までの自分と違う自分を感じ始めた。
その夜、帰り着いた暗い部屋の隅で、膝小僧を抱いて、胸の膨らみで体を何度も小突くように弾ませては恋の終わりに語りかけていた。
3
土色のした備前の角皿に厚焼き玉子が一つだけ残っている。
「この遠慮の塊、頂いていいかしら」
「どうぞ。僕の方ばかりが食べてしまったようで」
洋一は、箸の先につまんで口許へ運ぶ千代の視線が気になった。
千代は口の中へ入れながら、こちらをすくい上げるように熱い視線をして見つめた。
そういえば、この最後のひと口だけではなかったように思える。今になって、洋一は気付いた。
こちらも酔っていてさして気に止めなかったが、千代は口に運ぶたびにそうしていたように思う。それは千代の癖のようでもあり、何かを訴え掛けたい時の仕種なのかもしれなかった。
しかし、そんな確信が深まれば深まるほど、それはどこか稚拙な卑猥さを妊んだ仕種に姿を変えていった。淫らなおねだりをしている。そんなふうに思えてきてならなかった。
「そろそろ……」
「そろそろって、なぁに……」
「もう遅いですから。それに千代さん、だいぶ酔ってるみたいだし」
「だって初恋のことなんか思い出させるんですもの、酔ってしまいます。もう一軒行きましょ。次は私の知っているお店へ。今度は橋倉さん、あなたの初恋のこと、聞かせて」
言葉を声高に若返らせて、千代はせがむように言った。片腕を小卓の端に肘突かせて、緩やかに首を振って胸元に掛かった髪をはらった。
すると、襟元の胸が盛り上がって覗いた。千代は洋一の視線に恥じるようすもなく、さらにその胸の盛り上がりを誇示するかのように乗り出しながら、洋一の応えを待っている。
しかし、話さないわけにいかないだろう。千代は、もうそれを聞かなければ帰してはくれないかもしれない。
洋一は、すっかり酔ってその気になっている千代の姿を見て観念した。
「じゃあ、あと一軒だけ」
そう言ったかと思うと、千代は立ち上がって、
「静かなお店、知ってるの。行きましょ」
と、もう小上がりを降りようとしていた。
千代のすすめる店は、寿司屋からほんの通りを一つ隔てた先の路地裏にあった。ひと頃はキャッチガールが立ってでもいたような妖しい店が並んでいる。
洋一は、なぜ千代がこんな裏通りを知っているのだろうかと訝りながらも、千代も水商売の女だ、自分は今、そんな女と腕を組んで歩いている。
深い夜のしじまの中で、戒めるよりもすべてを肯定してしまうような諦めが洋一の心を満たし始めていた。と、もうネオンも消して店じまいしている店もある暗い小路に入ってきていた。
夜道を歩きながら、千代は「初恋って結ばれないのよね」と歌うように何度も呟いた。
洋一は、腕にもたれ掛かった千代を支えながら、その言葉の調子に合わせて歩を運んだ。そのたびに千代の胸の弾みが伝わった。洋一も酔いがまわってくるような気がした。
やがて、迷路で行く手をはばまれたような小路に入った。
「さぁ、ここよ。初恋って店なの。今、私の付けた名前、どうぞ」
そう言って、千代が扉を開けた。店は、薄暗いカウンターだけのバー。
心もとない明かりだけを頼りに止まり木に千代と並んで腰掛けた。所在なさそうにしていた初老のマスターが歓迎するでもない独り言のような声で、
「何を」
とだけ言って注文を聞いた。
千代は、何やら不似合いなほど洒落た名前のものを注文した。洋一は、誘われたのだからと同じものでかまわなかった。
それからシェイクが振られて、ボーイがいきなり器用にグラスを二つ並べたままカウンターの上を滑らせてきた。
「カクテルって、一つずつ作るもんじゃないのか」
洋一は、せわしないボーイの作り方に不満を込めて言った。
ところが、千代はそんなことを気にするようすもないらしく、
「やっぱり初恋って、結ばれないものなのかしら」
と、カクテルグラスの細い首をつまんで独り言のように呟いた。洋一は少しムッとして、
「そのカクテルのことを訊いているんだ」
そう言った端から、洋一は彼女に八つ当たりしたようで、すぐに気が引けてしまった。
「これは飲んでしまえば、お・し・ま・い」
千代は語尾を千切って言うと、いっきにグラスをあおった。洋一は千代の止まり木を押さえながら背中に触れると、ブラジャーの止め金が指先に引っかかるのが分かった。
「あっ、熱い」
千代が小さな嬌声を上げた。体勢を戻すと、今度はカウンターに肩肘を投げ出し、小首を傾げてこちらを見上げた。少し詫びるような甘えた目を向けて、
「橋倉さんの手のひら、温かかった」
そう言って、下唇を柔らかそうにかんだ。
今あったことをすぐに過去の思い出にしてしまうのは、誰からもとがめられない未成熟な懐かしい気分が味方してくれているからだろう。
そんな気分を千代も自分も嫌いじゃない。それを分かり合えているような気でいるのも悪くないと心のどこかで思っているからだろう、違うかな。
洋一は、カクテルのことなどどうでもよくなっていた。もう止め金の感触を懐かしく思っていた。
そして沈黙が流れた。その沈黙には、小さなルビをふるようなお互いの鼓動を聴き取ろうとしている愉しみがひそんでいる。
千代の鼓動は、お酒が入って、少しばかり振幅が誇張されているかもしれない。脇の下あたりの服の地が不自然なくらい豊かな円曲を描いて見えた。
やがて、洋一は沈黙に絶えかねて、思い出したように話し始めた。
「そうですね、僕の初恋はですね」
「そうそう、話して下さい。でないと、このまま眠ってしまいます」
「それは困るよ、千代さん」
「どうして。介抱してくれますか、してくれませんか」
「……」
「あっ、照れてるぅー。かわいいなぁ、少年みたい」
「よせよ、からかうのは」
「ねぇねぇ、話して。橋倉洋一くんの初恋物語」
「それは……」
「それは?」
「……」
それきり、洋一はまた考えあぐねてしまった。千代は、そこで突然眠気に襲われたらしく虚ろに目を伏せた。
そんなたゆたうような空気は、夜のしじまがそのまま部屋の中に忍び込んできたような感じだった。
∧あれが初恋だったのかな∨
洋一は、細い記憶の糸をたぐり始めた。
その夜、幼い男の子と女の子二人が、どうしてそこにいたかは、本人達も定かでなかった。
六月の雨期も去って、夕刻ともなると、海からさほど遠くない坂道のある町を、しのぎよい風が吹き渡っていた。
二人は、空き地の土手の上から坂道の方に投げ出した脚を所在なげにブラブラと揺らしながら、何を話し合うでもなくそこに並んで座っていた。
時折、濃い緑色をしたトラックやジープが、土埃りを舞い散らかせながら行き来した。坂道を登りつめた先に進駐軍があるのだった。
そこには、まったく違った世界があるように、子供達には思えていた。
親からは近づかないように言われていたけれど、少し大きくなった少年達は「タンケン」と称して潜入を試みたりして遊んでいた。しかし、まだ小学三年生の小さい二人は、行き交う軍用車を見て過ごすしかなかった。
やがて、見る見るあたりが薄暗くなった。それでも、男の子と女の子はその場から動かない。
そして、すっかり夜のとばりが落ちた時だった。
女の子が、「あっ」と、小さな声を放った。
見ると、坂道を下った先に、火の手が舞い上がった。窓ガラスが割れる音がして、そこから閻魔大王の舌がまくれ上がったかのように、メラメラと火柱が飛び出た。
暗闇の中で、たちまち他の窓も炎の赤い色に染まり始めた。仄かに建物の輪郭が浮かんで、中から人の「火事だぁ」と叫ぶ悲鳴が聞こえた。
すると、炎が建物の裏手の方からも吹き上げて、あたりを真っ赤に照らした。ゴーゴーッと、炎の音がした。そして、建物の崩れ落ちる鈍い音がしたかと思うと、さらに火の手は高く大きく膨れ上がった。
すっかりあたりが炎に照らされて明るくなると、そこに人影がうごめいているのが見て取れた。
と、建物の中から一人の人影が飛び出して来て、叫んだ。
「フジオーッ!」
女の人の声だった。
坂道の土手の上にいた男の子と女の子は、恐怖でおののいていた。フジオ君の家が燃えたことは、すぐに分かっていた。しかし、恐怖のあまり身動きができなかった。
女の子はふるえながら、「フジオちゃん、フジオちゃん」と、声にならない嗚咽を上げていた。
「助けに行こう!」
男の子は女の子の手を取って、土手から飛び降りた。そして、一目散に炎の舞い上がるフジオ君の家の方へ、薄暗い坂道を駈け下りて行った。
その夜、男の子はなかなか寝付かれなかった。
女の子は、どうしてあんなにフジオ君を心配したのだろう。
フジオ君は、無事消防署員に助け出されて、お母さんの腕の中で泣きじゃくっていた。それを見た女の子も、もらい泣きしたように泣きじゃくった。
炎の傍で怖くて泣き出してしまったのかもしれない。男の子は、あの時そう思っていた。そして慰めるように手を取ってあげていた。
でも、その手には力がこもっていなかった。それが今も不思議だ。
男の子は寝床で、フジオ君に嫉妬した。
女の子の家は、男の子の家と同じ敷地の中にあった。
女の子のお父さんが男の子のお父さんの部下で、終戦直後に空いていた土地に家を建ててもらったということを、男の子はずっと大人になってから知った。
女の子のお父さんとお母さんはよく夫婦喧嘩をした。決まって夜遅くで、何かを投げ付けた音や激しく言い争う声が聞こえた。
すると、男の子のお母さんが寝巻に上っ張りを羽織って止めに走り出した。
男の子のお父さんは、旅が仕事みたいな人で、ほとんど家にはいなかった。
お母さんはとても強い人。男の子は、お母さんをとても頼もしく思っていた。
女の子は夫婦喧嘩があると、庭木の下でうずくまっていた。少し前までは泣いてばかりいたけど、三年生になってからは泣かない。そのかわり、そのままその場で寝込んだりしていることがあった。
すると、男の子も一緒に寝込んでしまうのだった。
朝、目が覚めて気が付くと、男の子の家で女の子と並んで寝ていた。
そして、学校へ行く道、友達たちによく大声で冷やかされた。男の子は一生懸命言い訳したけれど、傍を歩く女の子は忘れたみたいに不思議と元気を取り戻してニコニコしていた。
そんな時も、いつもフジオ君だけが静かだった。
火事で家をなくしたフジオ君は、一学期の終わる前にどこかへ引越して行った。それまでは、半焼して残った一間にトタンを立て掛けた部屋で親子二人で暮らしていた。
喘息持ちのフジオ君のために、思いきり温かい地方へ転地して行ったと、しばらくして学校の先生がクラスで話した。その時、先生が喘息は死ぬ程息苦しくなることを言ったので、男の子もクラスの皆も、とても恐ろしい病気のように思った。フジオ君は、白い紙人形のような体をしていた。
「フジオちゃん、かわいそう」
あれからしばらくの間、それが女の子の口癖になった。小さな野の花を空に仰ぐようにかざして言う。それはきっと遠く離れても同じ空の下なのだから、思いはつながってゆくことを願掛けしているようで、迷子の雲もやがて大きな雲間に吸い込まれて行くように、世界を一つにしてくれることを、ほんとに信じているようだった。
男の子はからっぽになったような気持ちで、そんな女の子を見つめた。
クンと突き出した顎先から伸びた首筋の半円が、青空を背にして水平線のようにきれいだった。初めてなのにもっと見せつけるみたいに、水平線を平たくそびやかす。思いがつながったのかしら、女の子は瞳を閉じて何事か、となえている。
と、男の子は「もう、いいから」と言いながら、声にしてしまいそうな女の子の口をふさいだ。
女の子は驚いた。
「びっくりするよ」
その反応に、男の子は嘘をついて謝った。
「口の中にゴミみたいのが入りそうだったから」
女の子は、すぐに口を手の甲でぬぐった。
でも嘘だったから、やっぱり「ありがとう」はなかった。
男の子は、女の子の手を握りしめた。ちょっとでも気持ちがすれ違いそうになると、男の子はいつもそうした。そうしたまま坂道の多い町をあてもなく女の子を連れて歩いた。何かの拍子に手が放れると、今度は女の子の方が男の子の手にすがった。
そうして、いつも日が暮れた。
どこまで歩いてきたのだろう。二人の行く畦道を赤い夕陽が染めていた。いつしか小川に月明かりが散らついた。そして見る見るうちに夕闇は濃くなり、二人は月明かりをたよりに見合っていた。
田んぼの淵にどちらともなく小さな光を見つけた。蛍だった。一つきりの光が密かな息遣いをしているようにゆっくりとした点滅を繰り返して いた。
他に光は見当たらなかった。どこから迷ってきたのか、それとも今、そこで一つだけが生まれ出たのか、男の子はそんな話をして女の子の不安を慰めようとした。
「わからないよ」
女の子が蛍の光の方に応えるみたいに言った。
「じゃあ、捕まえてみようか」
それで分かるわけでもないのに、男の子は強がりを言ってみせた。川面の岩に足をかけ、両腕をのばし、手の平を丸くすぼめながら捕まえようとした。
女の子は息を殺して見ていた。
と、蛍の光が男の子の両の手の平に入って消えた。
「ほらっ」
男の子は女の子の目の前に丸めた両の手の平をかざした。すると、指の隙間から仄かな光が漏れてかすんだ。
「ねっ、ほらっ」
もっと見せたくて、指の隙間を緩めて解どくように広げた。その瞬間、蛍がひときわ光を強くまばたかせた。
「わっ」
女の子が小さな叫びを上げた。
それに驚いた男の子の手の平が開いて、蛍の光が二人の顔の間で行く手を探すように舞い上がった。
その時だ。女の子はどういうわけか、突然パクッと蛍をくわえ込んだ。
すぐに、女の子は自分の思いがけない行動に驚いた。
「開いてごらん」
男の子がそう促すと、女の子はかぶりを横に振った。そして、
「食べちゃったぁ」
と、大変なことをしてしまったような戸惑いを見せた。
男の子は、女の子の手を取って、
「大丈夫だよ、一匹くらい」
と言って慰めた。
女の子は男の子に救いを求めるような眼差しを向けた。
「大丈夫だよ」
「うん」
「大丈夫……」
「うん」
「大丈……」
「うん……」
男の子は一生懸命、大丈夫を繰り返した。
女の子のうなづく眼差しの奥でひときわ光って放つものが映った。それは月明かりが涙を溶かしていたのかもしれないし、蛍が女の子の瞳に宿ったのかもしれなかった。
帰り道、二人は黙って来た道をたどりながら歩いた。
(下巻へ、続く)