コラムなタイム -13ページ目

本との気持88

夏目漱石「三四郎」(岩波文庫)

 40年ぶりの再読であった。岩波の漱石全集の全巻を彼女とのデート代に変えた青春時代、通学の電車の中で読むために岩波文庫を一冊ずつ買い換えて小説のほとんどを読んだ。その15冊がそっくり残っている。あの当時の文庫にはセロハン紙のカバーが巻かれていたが、今はもうどれにもそれはない。表紙は手擦れで表面が薄く産毛のようにささくれ立っている。すっかり黄ばんだページのあちこちには目を覆いたくなるようなメモが書き込まれている。新しく買って読み始めようかとも思ったが、手放すには漱石はずっと自分のどこかに棲み込んできていてその勇気を出すには忍びなかった。
 まず最初に再読を始めたのは「三四郎」であった。漱石に触発された印象の一冊だったからだ。村上春樹の「ノルウェーの森」や片山恭一の「世界の中心で、愛をさけぶ」に接した時にも再読の機会はあったが果たせずに乱読の海に溺れていた。それから長い月日を経ても、「三四郎」は変わらずに生き生きと古い文庫の中で生きてきていた。
 僕を夢中にしたのは三四郎を取り巻く三人の存在だ。里見美彌子、広田先生、そして与次郎の存在だ。三四郎が美彌子と見た空の雲を自分達に喩えて「迷える羊 ストレイ・シープ」と呼んだ出会いがあって、しかし結婚する美彌子が自分に「我はわが愆(とが)を知る。わが罪は常にわが前にあり」と聖書の言葉をもらして別れとなる終盤、感を極めた漱石の文章は何とも心憎い名文となる。これはその後の恋愛小説の手本として読まれたに違いない。男の頼りなさ故に女は惹かれ、やはり生きるとは違う世界に焦がれる恋という魔術に永遠の夢を見てしまう。男は美しさの前に言葉を失い、微熱に浸る。二人の壁は薄い、しかし越えるには高すぎた。青春はどこまでも甘美だ。三四郎にとって生死を考えることがまだ「青春の血が、あまりに暖かすぎる。」のと同じだったように。
 その三四郎の人生の師のような存在として登場しているのが大学の広田先生である。鼻の穴から悠長に吐き出す煙を「哲学の煙」と言っているのが、それだけで思索的な風貌を想い浮かばせるが、その先生が十二、三の女に会ったという夢を三四郎に語る場面が面白い。「すべて宇宙の法則は変わらないが、法則に支配されるすべての宇宙のものは必ず変わる。すると法則は、物のほかに存在していなくてはならない。」と理科大学の先生らしく夢の根拠を言うのだが、先生は哲学の煙をしきりに吐き出しながら「その時ぼくが女に、あなたは絵だと言うが、女がぼくに、あなたは詩だと言った」と不思議な言い訳をする。またラストの場面でも、美彌子の肖像画を「鼓の音のようにぽんぽんする絵」と評したところではすっかりその洒脱さに恐れ入ってしまった。三四郎にとっては直接学問の師でないだけに気軽な付き合いができ、時折言う衒学にも耳を傾けることができたのだろう。広田先生の存在は、漱石にとってこの小説に欠かせなかった。漱石自身という説もある。
 「哲学の煙」だが、余談を言えば、太宰も煙草の煙を「思索の翼」というようなことを「晩年」か何かで言っていたように思うが、確かなところは今はいいだろう。最後の三人目の与次郎について語っておくとする。
 与次郎は三四郎とは別の科に席をおく同じ学生だが、広田先生から「丸行燈」と呼ばれ、逆に与次郎は先生を「偉大なる暗闇」と評して著作にもしている。馬券に化けた借りた金が返せずにその本の原稿料をあてにしていたが、最終的には立て替えた三四郎が初めの貸し主の妹の美彌子に返すはめになる。しかしそのお陰で三四郎は美彌子に近づくことができた。「お金を返しに来たのではない、あなたに会いたくて来たんです」というようなことまで言って愛を告白する。しかし返してしまったらもう会えなくなると、そんな不安に苛まれた。三四郎は与次郎を「愛すべき悪戯者(いたずらもの)」と、運命を握られているように思う。しかし、美彌子は「お金は持ってらして、お金なんか…」と、小さくもらすばかり。与次郎は他人事のように広田先生に自白した。先生は与次郎を今度は「救世軍の太鼓のような」と喩えた。やがて、三四郎は、その与次郎から美彌子の結婚話を聞かされる。
 何とも気の毒な三四郎だが、熊本から上京して大都会で生き始めようとする三四郎の懸命な迷いは、誰しも青春時代に経験する悩みが成長を推し進めていく力のあったことを思い出させてくれるだろう。冒頭の場面がその後に登場する人物と重なって読める仕掛けにも参った。40年を過ぎて今、沸々と湧く微熱が心地よい。老い先、しばし漱石で楽しむとしよう。

(写真は、自家製表紙の文庫本)

本との気持ち87

「歴史の証言」大久保傳蔵
(サンケイ新聞社出版局・昭和49年)

 少し古い本であるが、長く大事にしている本である。しばらく本棚から取り出されることもなく収まったままであった。
 ところが2001年(平成13年)に9.11が起こり、世界中で見えざる敵への報復の連鎖が始まった。そうした中、耳にした言葉が論語の「怨みに報いるに徳を以てせよ」という言葉であった。悪い人間はいる。しかしその彼をいつまでも怨むより、その怨みを我が身に照らし顧みれば同じ人間のしたこと。そう気づいた心を広めていけば必ず平和はくる。そう信じる心を大切にしよう。こんな思いではなかっただろうか。
 それから10年、東日本大震災が起こった。今度の相手は地震という天災と原発という人災であった。もう誰を怨んだところで人はこれ以上の欲望を増大させることはできない。足るを知れ、駄目なものは駄目なのだ、そう諭されたのだ。そして同じ「怨みに報いるに徳を以てせよ」という言葉が聞こえてきた。
 この言葉を知ったのが本書であった。左翼を超えた考え方がどこかにないだろうかと思い悩んでいた頃だ。本屋でタイトルを見て、少し広い世界へ出て行けそうな気がした。あれからずっと孔子の言葉は心の奥に棲んで示唆を与え続けて来てくれたし、今の自分もあるのだと思っている。
 さて本書についてである。
 第二次世界大戦の終戦後、大陸からの引揚者が大勢日本へ帰ってきた。引揚者には2通りあった。中国大陸からの引揚者は多くの荷物を背負って栄養状態もよく帰って来ることができた。しかし、満州や南方、朝鮮からの引揚者はひどかった。着の身着のまま餓死寸前の悲惨な状態で帰って来た。筆者は当時、戦災援護会のメンバーとして働いていて、そうした彼らを目の当たりにした。そこで戦後、衆議院議員や山形市長を務めた筆者にあった疑問は後者よりも前者にあった。それは当時の中国の蒋介石軍がどうして日本人引揚者をあたたかく遇したかであった。
 そのテーマ追究のため筆者は、蒋介石が敗戦国日本に対する賠償要求を放棄するまでの歴史的経緯をもって綴っている。あの年の8月15日、ミズリー艦上での日本の降伏文書が交わされ、周恩来共産党の中国はサンフランシスコ条約(1951年)通りに権利を規定。しかし蒋介石は翌年(1952年)台湾での日中平和条約の席上、自発的に賠償請求権を放棄した。彼の支柱を成した孔子の「怨みに報いるに徳を以てせよ」の前には「既往をとがめず」とある。まさしくそれは「仁政」であったと筆者は解き、副題に「日華関係—恩を仇で返してよいのか」と付け若い読者へのメッセージとして綴った思いを込めている。
 本書は同様に『忘れてならぬ歴史の一頁』というタイトルでもその抄本が出ている。いずれも戦争を考える時の必読書といえる一冊であろう。


夫婦の時間


 その日、夫婦でテレビを見ていてタレントの名前を妻に聞かれこちらも思い出せないという事態がまたも再現されてしまった。お互いの非を責め合うと夫婦喧嘩になることは百も承知になってきているので、思い出しっこはすぐにその場で諦め新たな話題で楽しむことにしている。しかしその日は妻がこんなことを言った。「なんで私が思い出せないと、あなたも思い出せないんだろうね」。これは暗にこちらを責めてやしないだろうか。私はせんなく言った。「似た者同志だからだろ」と。
 こんなこともある。自由業らしく仕事がない時はめっきり暇になる。夫婦で無聊をかこつのは「もう私達もこれまでなのかしら」なんて妻が言い出さないかと不安になる。外へ一歩でも出れば金のかかる世の中、じっとしているのが一番という「貧乏暇だけ」なんてことが身に付いてしまったからには家で楽しむことを探さなければならない。そこで庭いじりかランニングマシーンの外には数独やパズルのクイズ三昧と相成った。
 妻はパズルや漢字の読み書き問題集が好きで時間があればやっている。しかし私はそういう知らないと解けない問題はプライドに係わるのか大嫌いである。したがって私は数独の難問集に挑戦している。テレビのつけっ放しの茶の間で向き合いそれぞれに夢中になる。どちらかがどうしても解けないことになると一緒にやるしかなく、額を付き合わせてとことん挑戦する。やがて何時間もかかって正解にたどり着く。外はもう夕暮れだ。そこでも妻が言った。「なんで私達って二人で一人みたいなことしかできなのかしら」。私はいつからか思っていることを言った。「俺達、1足す1は2にならないで1なんだよ」と。
 夫婦のこと、もう一つだけ明かしておく。ちょっと意味深だけど…。
 それは久しぶりの旅行を計画している時だった。ほぼ年に一度とはいえ費用は贅沢できない。宿泊は格安ホテルに決まっている。しかし今年の宿泊は違った。妻は介護で帰省する親友が泊まる駅前ホテルのサービスの良さが気に入っていた。話だけではあったが、全国チェーンなので私達の旅の行き先にもそのホテルはちゃんとあって、妻はそこに予約する決意であった。そこで詳しく調べたところ、二人部屋は二段ベッドだというのだ。妻は嫌がりシングルを二部屋取ると言い出した。もちろんそれでは予算がオーバーしてしまうことになる。しかたなくどちらかが上になるか下になるかでしばし論争した。そして結論はわが家でもそうであるとおりに私が上で彼女が下で決着した。妻が観念したように言った。「どうせいつも貴方は二階で寝てるし…。それにしても私達どうして家庭内別居みたいな生活になったのかしら」。私も思いをめぐらせてみた。そこで、あれがなくなってからなんていくら夫婦でも言えないので口にしたのが、「俺達の仲が男でも女でもなくなった頃じゃないの」だった。すると妻は「もっともネ」なんて妙な顔つきをした。
 すみません、これくらいにしておきます。