本との気持ち91
夏目漱石「坊っちゃん」(岩波文庫)
幼少の頃にも読んでこれで三回目の四十年ぶりの『坊っちゃん』だが、どうして漱石はこんな駄目な男を書いたんだろうという単純な疑問があった。それはただ面白いでは気が晴れない蟠りのように疼いていて、漱石にずっと問い続けてきたことでもあった。漱石先生の書いたものなら当然深い意味がなければならないのだし、それを解決したい気がしてならないのである。人生の意味を探さなければ先生にも、また小宮(豊隆)さんや江藤(淳)さんにも失礼だろう。江藤さんの最期はそれとけして無縁ではなかったのだろうし…。
ストーリーは「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。」主人公の「おれ」が両親に死なれ兄とも別れた後、幼い時から可愛がってくれた清という下女と暮らし、物理学校を出て四国の松山の中学校へ数学の教員として赴任してゆくところから始まる。心配する清への手紙には教員仲間に渾名を付けて近況を報告。一番に親しくなったのが下宿を紹介してくれた同じ数学の山嵐だった。しかし、新任の「おれ」には田舎生徒達からの嫌がれせが続いた。蕎麦屋で天麩羅蕎麦を四杯食べたのが彼等に見られ翌日学校へ行くと黒板一杯に大きな文字で天麩羅先生と書かれたり、宿直部屋の床にバッタやイナゴを隠し込まれたりした。その生徒の処分をどうするかという職員会議で何としたことか山嵐が余計にも俺の宿直中の温泉行きを話してしまった。「おれ」は仕方なくそれを認め、後日とうとう下宿を引き払った。こうして主人公は「損ばかりしている」のだった。
それでも友情はこじれながらも続く。漱石は友情を最後まで理想化しようと物語を諦めない。そこでマドンナの登場だ。彼女は英語教師のうらなりと結婚の約束ができていた。しかし教頭の赤シャツが横取りしてしまう。うらなりを不憫に思った「おれ」は山嵐とマドンナを救い出す作戦をした。だが赤シャツは教頭の立場を利用してうらなりを転任させてしまった。新たに英語教師を安く雇い入れ、その差額を「おれ」の昇給に当て味方に付けようとした。もちろん「おれ」は昇給を断わった。しかしこれでは「損ばかりしている」はずの話にはならないだろう。そこで漱石はもう一芝居を打つ。「おれ」と山嵐は対露の祝勝会で騒いだ生徒の止めに入ったがために警察のお世話になってしまう。それが四国新聞に載ってしまったのは、赤シャツがまた人を陥れようと新聞屋に手を回して書かせたと「おれ」達は思い、いつか赤シャツの急所を押さえつけようと考えた。そして、遂に赤シャツが野だいこと芸者遊びの角屋に入る所を抑え、二人を思い存分殴って懲らしめた。狸や赤シャツの奸物にも警察のお世話にも懲りたので「おれ」と山嵐は自分達から学校を辞め、最後まで損をする結果に終わってしまった。仕方なく「おれ」は東京へ帰り街鉄の技手になり清と暮らしたとさ、というわけだが、この名作、ストーリーは教員仲間の学園ものというところか。
しかし、やはり漱石先生の深い意味を探りたい。この小説のテーマは何なのだろうか。それはひと言で言えば「友情」だろう。友情は人生に愛情と等しいくらいになければ人は生きられないものだろうと思う。その熱い時代を友情がギリギリのところで許す諧謔を大いに楽しみながら友に寄り添い描き切ったのがこの小説だ。僕はそう思っている。あるがままと言うよりも、壁を越えるように思いの丈をたっぷりに演出して、それでも友は喜んでくれるだろうかとドキドキして漱石は書いたにちがいない。心の中の友に孤独を癒されたくて、だからいくらでも喜怒哀楽を縦横にできる自由を楽しんだ。その心の主は作者自身でもあり、広い意味での読者だし世界だ。自分という感情ある摩訶不思議な生きものに手を焼きながらこれでもかこれでもかと問い詰めると、次から次へと千変万化あふれるように登場してくる感情の嵐が巻き起こる。ストーリーはしてやられまいと策を講じ、感情を一人一人に代表させて更なる議論を巻き起こす。そこに小説は佳境を迎える。大虚構が観覧車の如きゆるりと動き始め高みを極めると、多感なはずだった感情がこれしきしかないことに恐れをなす。信頼に支えられる友情が揺らいで人を理想化しようとする。そこで小説は世界に問う。友情は愛情のような病いを含んだものでないはずだと。然るに純粋に理想化されなければならない。漱石も純粋に小説を楽しんで書いたのだと思うし、読者の僕も漱石の想像の翼に乗って楽しんだ。だから『坊っちゃん』は『吾輩は猫である』とともに一大ファンタジー小説なのだ。漱石が小説家への入口でサービス精神を謳歌して筆を振るってくれたのだ。人生の深みへの理解はそれからでもいいのだ。楽しむことが先だ。
坊っちゃん/作者不明

¥価格不明
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坊っちゃん (新潮文庫)/新潮社

¥309
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幼少の頃にも読んでこれで三回目の四十年ぶりの『坊っちゃん』だが、どうして漱石はこんな駄目な男を書いたんだろうという単純な疑問があった。それはただ面白いでは気が晴れない蟠りのように疼いていて、漱石にずっと問い続けてきたことでもあった。漱石先生の書いたものなら当然深い意味がなければならないのだし、それを解決したい気がしてならないのである。人生の意味を探さなければ先生にも、また小宮(豊隆)さんや江藤(淳)さんにも失礼だろう。江藤さんの最期はそれとけして無縁ではなかったのだろうし…。
ストーリーは「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている。」主人公の「おれ」が両親に死なれ兄とも別れた後、幼い時から可愛がってくれた清という下女と暮らし、物理学校を出て四国の松山の中学校へ数学の教員として赴任してゆくところから始まる。心配する清への手紙には教員仲間に渾名を付けて近況を報告。一番に親しくなったのが下宿を紹介してくれた同じ数学の山嵐だった。しかし、新任の「おれ」には田舎生徒達からの嫌がれせが続いた。蕎麦屋で天麩羅蕎麦を四杯食べたのが彼等に見られ翌日学校へ行くと黒板一杯に大きな文字で天麩羅先生と書かれたり、宿直部屋の床にバッタやイナゴを隠し込まれたりした。その生徒の処分をどうするかという職員会議で何としたことか山嵐が余計にも俺の宿直中の温泉行きを話してしまった。「おれ」は仕方なくそれを認め、後日とうとう下宿を引き払った。こうして主人公は「損ばかりしている」のだった。
それでも友情はこじれながらも続く。漱石は友情を最後まで理想化しようと物語を諦めない。そこでマドンナの登場だ。彼女は英語教師のうらなりと結婚の約束ができていた。しかし教頭の赤シャツが横取りしてしまう。うらなりを不憫に思った「おれ」は山嵐とマドンナを救い出す作戦をした。だが赤シャツは教頭の立場を利用してうらなりを転任させてしまった。新たに英語教師を安く雇い入れ、その差額を「おれ」の昇給に当て味方に付けようとした。もちろん「おれ」は昇給を断わった。しかしこれでは「損ばかりしている」はずの話にはならないだろう。そこで漱石はもう一芝居を打つ。「おれ」と山嵐は対露の祝勝会で騒いだ生徒の止めに入ったがために警察のお世話になってしまう。それが四国新聞に載ってしまったのは、赤シャツがまた人を陥れようと新聞屋に手を回して書かせたと「おれ」達は思い、いつか赤シャツの急所を押さえつけようと考えた。そして、遂に赤シャツが野だいこと芸者遊びの角屋に入る所を抑え、二人を思い存分殴って懲らしめた。狸や赤シャツの奸物にも警察のお世話にも懲りたので「おれ」と山嵐は自分達から学校を辞め、最後まで損をする結果に終わってしまった。仕方なく「おれ」は東京へ帰り街鉄の技手になり清と暮らしたとさ、というわけだが、この名作、ストーリーは教員仲間の学園ものというところか。
しかし、やはり漱石先生の深い意味を探りたい。この小説のテーマは何なのだろうか。それはひと言で言えば「友情」だろう。友情は人生に愛情と等しいくらいになければ人は生きられないものだろうと思う。その熱い時代を友情がギリギリのところで許す諧謔を大いに楽しみながら友に寄り添い描き切ったのがこの小説だ。僕はそう思っている。あるがままと言うよりも、壁を越えるように思いの丈をたっぷりに演出して、それでも友は喜んでくれるだろうかとドキドキして漱石は書いたにちがいない。心の中の友に孤独を癒されたくて、だからいくらでも喜怒哀楽を縦横にできる自由を楽しんだ。その心の主は作者自身でもあり、広い意味での読者だし世界だ。自分という感情ある摩訶不思議な生きものに手を焼きながらこれでもかこれでもかと問い詰めると、次から次へと千変万化あふれるように登場してくる感情の嵐が巻き起こる。ストーリーはしてやられまいと策を講じ、感情を一人一人に代表させて更なる議論を巻き起こす。そこに小説は佳境を迎える。大虚構が観覧車の如きゆるりと動き始め高みを極めると、多感なはずだった感情がこれしきしかないことに恐れをなす。信頼に支えられる友情が揺らいで人を理想化しようとする。そこで小説は世界に問う。友情は愛情のような病いを含んだものでないはずだと。然るに純粋に理想化されなければならない。漱石も純粋に小説を楽しんで書いたのだと思うし、読者の僕も漱石の想像の翼に乗って楽しんだ。だから『坊っちゃん』は『吾輩は猫である』とともに一大ファンタジー小説なのだ。漱石が小説家への入口でサービス精神を謳歌して筆を振るってくれたのだ。人生の深みへの理解はそれからでもいいのだ。楽しむことが先だ。
坊っちゃん/作者不明

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坊っちゃん (新潮文庫)/新潮社

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本との気持ち90
夏目漱石「こころ」(岩波文庫)
鎌倉の浜辺で出会った先生が毎月友達の墓参りをしている。先生は働きもせず「自分を生きていても価値のない人間だ」と言う。学校が休みになり、私が帰郷すると何度か先生から「会いたいから上京できないか」という電報があった。しばらくして一通の手紙が届いた。そこには「この手紙があなたに届いた頃には私はもうこの世にいない。死んでいるでしょう」と書かれてあった。そして、この小説は三章目に入り、先生の手紙文の遺書になる。(以下、先生を「私」と括弧付きで記す。)
「私」は両親を亡くし事業家の叔父の所にいたが、彼は「私」の財産をごまかしたので、軍人の未亡人の奥さんとそのお嬢さんのいる下宿に移った。いつしか「私」はお嬢さんに恋をした。そんな折、幼馴友達だったKという男を連れてきて同じ下宿に住むことになった。Kは医者の家に養子にやられたが、お寺の生まれだったこともあって宗教や哲学に深い興味を抱いている人間だった。それで医者にならない道を選んだために養子先から勘当されてきた。「私」は本当の愛は宗教心のように尊いものではないかと、Kと話をするたびにそうした信念とお嬢さんへ寄せる恋への想いを深めていった。
しかし、そんなある日、「私」はKとお嬢さんが一緒にいるところに出くわした。「私」は、お嬢さんの方がKに気があるのではないかと嫉妬心をもった。突き止めると、Kはしごくストイックな精神の持ち主であることを知り、むしろ「私」は精神という言葉の好きなKのその畏敬に満ちた宗教心に心打たれ尊敬の念さえも抱いた。そうしてKと「私」はよく精神論めいた議論をするようになった。「精神的に向上心のない者はばかだ」と発言すると、Kは「僕はばかだ」と答えた。精神だけで人は生きる覚悟がもてるのかどうか。度重なる議論の末、Kはなぜか「もうその話はよそう」と言い、それきりになった。それをいいことにしたのか、「私」はお嬢さんとの結婚の意志を奥さんに伝え賛同を得た。「私」は嬉しさの余りKのことを一度も思い出すことなく街を歩き回り喜びをかみしめた。しかし、Kは「おめでとう」とひと言だったが言ってくれた。後になって「結婚はいつですか」とも奥さんに言ったそうだった。「私」は胸の苦しさを抑えきれなかった。それはこうだ。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」と。ほどなくしてKは自殺して死んだ。葬儀があり、そして二ヶ月後に「私」とお嬢さんは結婚式を挙げた。
「もうその話はよそう」と言った後、Kはなぜ話したがらなくなったのだろう。それは「私」以上にKが強く高い精神性をもっていたからだろうと「私」は思った。いや、「お前が殺したんだ」という声も聞こえてならない。それからは死んだ気で生きていこうと書物の中に自分を生き埋めにするつもりであったがそれもできなかった。妻に何と言い訳するのか。「私」の心の中には手厳しい悔恨の念が逆巻き始めた。あの「私」を欺いた叔父と自分は同じ人間ではないか。「私」も結局、Kと同じ道を歩んでいく、そんな予感がどうしようもなく死を誘う。こうして死を予告し、手紙が届いた頃には「私」はこの世にいない、と小説を漱石は結ぶのだが…。
折しも明治天皇の崩御があり、妻に「殉死でもしたらよかろう」とからかわれたことで「殉死」という言葉が心にわだかまるというのは、それ自体が「明治の精神」だとすれば明治に生きた「私」にとって自然なことと言うには、物語の流れとその深い哲学的テーマからして安易に感じられてならないのは筆者だけだろうか。明治の精神の象徴たる乃木希典と、そこへの歴史の胚胎性を生んだ一人渡辺崋山の二人の名を挙げてきたのもその孤高な殉死ゆえであろうが、漱石の人間を見る崇高な精神性はどうしたものであろうか。こうした抽象的な短絡性こそが幕末草莽と明治の精神で、その後の日本の百年を仕損じたのでなかったか。漱石は新聞連載で書き過ぎたのだ。最後の三回はいらなかった。
もうひと言、言っておく。恋愛の終わりを死で飾ってはならないということだ。精神性の高みは恋愛にも等しいかも知れない。しかし、そこには永遠が現実的な成就として貫かれなければならないと思う。たとえ欲望と相対しても、それは精神性の高みの極みの域になければならないと思う。そのことを漱石は語ってはいないが、悩める生きものの物語として、人生の鉱脈に触れたくなる小説である。あの時代を読むのではなく今の時代から読み、その深い意味を探る楽しみを味わいたい。こころ (岩波文庫)/岩波書店

¥648
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鎌倉の浜辺で出会った先生が毎月友達の墓参りをしている。先生は働きもせず「自分を生きていても価値のない人間だ」と言う。学校が休みになり、私が帰郷すると何度か先生から「会いたいから上京できないか」という電報があった。しばらくして一通の手紙が届いた。そこには「この手紙があなたに届いた頃には私はもうこの世にいない。死んでいるでしょう」と書かれてあった。そして、この小説は三章目に入り、先生の手紙文の遺書になる。(以下、先生を「私」と括弧付きで記す。)
「私」は両親を亡くし事業家の叔父の所にいたが、彼は「私」の財産をごまかしたので、軍人の未亡人の奥さんとそのお嬢さんのいる下宿に移った。いつしか「私」はお嬢さんに恋をした。そんな折、幼馴友達だったKという男を連れてきて同じ下宿に住むことになった。Kは医者の家に養子にやられたが、お寺の生まれだったこともあって宗教や哲学に深い興味を抱いている人間だった。それで医者にならない道を選んだために養子先から勘当されてきた。「私」は本当の愛は宗教心のように尊いものではないかと、Kと話をするたびにそうした信念とお嬢さんへ寄せる恋への想いを深めていった。
しかし、そんなある日、「私」はKとお嬢さんが一緒にいるところに出くわした。「私」は、お嬢さんの方がKに気があるのではないかと嫉妬心をもった。突き止めると、Kはしごくストイックな精神の持ち主であることを知り、むしろ「私」は精神という言葉の好きなKのその畏敬に満ちた宗教心に心打たれ尊敬の念さえも抱いた。そうしてKと「私」はよく精神論めいた議論をするようになった。「精神的に向上心のない者はばかだ」と発言すると、Kは「僕はばかだ」と答えた。精神だけで人は生きる覚悟がもてるのかどうか。度重なる議論の末、Kはなぜか「もうその話はよそう」と言い、それきりになった。それをいいことにしたのか、「私」はお嬢さんとの結婚の意志を奥さんに伝え賛同を得た。「私」は嬉しさの余りKのことを一度も思い出すことなく街を歩き回り喜びをかみしめた。しかし、Kは「おめでとう」とひと言だったが言ってくれた。後になって「結婚はいつですか」とも奥さんに言ったそうだった。「私」は胸の苦しさを抑えきれなかった。それはこうだ。「おれは策略で勝っても人間としては負けたのだ」と。ほどなくしてKは自殺して死んだ。葬儀があり、そして二ヶ月後に「私」とお嬢さんは結婚式を挙げた。
「もうその話はよそう」と言った後、Kはなぜ話したがらなくなったのだろう。それは「私」以上にKが強く高い精神性をもっていたからだろうと「私」は思った。いや、「お前が殺したんだ」という声も聞こえてならない。それからは死んだ気で生きていこうと書物の中に自分を生き埋めにするつもりであったがそれもできなかった。妻に何と言い訳するのか。「私」の心の中には手厳しい悔恨の念が逆巻き始めた。あの「私」を欺いた叔父と自分は同じ人間ではないか。「私」も結局、Kと同じ道を歩んでいく、そんな予感がどうしようもなく死を誘う。こうして死を予告し、手紙が届いた頃には「私」はこの世にいない、と小説を漱石は結ぶのだが…。
折しも明治天皇の崩御があり、妻に「殉死でもしたらよかろう」とからかわれたことで「殉死」という言葉が心にわだかまるというのは、それ自体が「明治の精神」だとすれば明治に生きた「私」にとって自然なことと言うには、物語の流れとその深い哲学的テーマからして安易に感じられてならないのは筆者だけだろうか。明治の精神の象徴たる乃木希典と、そこへの歴史の胚胎性を生んだ一人渡辺崋山の二人の名を挙げてきたのもその孤高な殉死ゆえであろうが、漱石の人間を見る崇高な精神性はどうしたものであろうか。こうした抽象的な短絡性こそが幕末草莽と明治の精神で、その後の日本の百年を仕損じたのでなかったか。漱石は新聞連載で書き過ぎたのだ。最後の三回はいらなかった。
もうひと言、言っておく。恋愛の終わりを死で飾ってはならないということだ。精神性の高みは恋愛にも等しいかも知れない。しかし、そこには永遠が現実的な成就として貫かれなければならないと思う。たとえ欲望と相対しても、それは精神性の高みの極みの域になければならないと思う。そのことを漱石は語ってはいないが、悩める生きものの物語として、人生の鉱脈に触れたくなる小説である。あの時代を読むのではなく今の時代から読み、その深い意味を探る楽しみを味わいたい。こころ (岩波文庫)/岩波書店

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本との気持ち89
夏目漱石「それから」(岩波文庫)
親友の女房を愛した男が父の勧める縁談を拒否して他人の女房に「死ねとおっしゃれば死ぬわ」と言わせるまでに肉欲のすっかりない愛情に溺れる。それをいい大人の愛などと言ってしまっては、この文豪の小説は身も蓋もなくなってしまう。実際二人は越えられない関係だろうけど、若い頃の出会いは親友に「君は僕のために泣いてくれた」と言われてまで彼女を譲ったことからして失敗なのである。しかも金銭的援助の関係も潜ませていた。長じてその親友に「君の女房を愛しているんだ」と告白すると、親友は病の妻を看取ってからなら譲ると諫言されてしまう。それを「三千代さんの死骸だけを見せるつもりなんだ」と怒ったところで何も解決はしないだろう。果たして親友とはお互いに「落ち着かなくちゃ」と言い合い、曖昧を友情の代償にしたまま別れてしまう。純愛にしては凄まじいラストなのに、この主人公の正体は理想でも哲学でもなく、やはり兄から「お前は人間の屑だ」と言われてしまう何ともやりきれないあっけなさなのである。書生に「職を探しに行く」と言い残して気が狂うほどに街を徘徊する。実家の送金で暮らしていて今さらそれはないだろう、と叫んでしまう読後感がやりきれなかった。
しかし、この小説は漱石の小説なのである。何をかしてその文学的価値を認めなければならないだろう。できるならば、それは漱石自身というより人間世界の存在の悲しみを描いたとしよう。極限としてこうなったとしか説明できないにしても、働かない、結婚しないでは、近代にあって経済社会が悪に満ちているとしか説明できなくなる。とすれば、この小説は人間の愚かさを描いたものとしよう。かくて描くはずだった真実も救済できるのではないか。そこに文学が哲学に勝利できる道が見え、漱石はその扉を開けようとしたのかも知れない…。
ところが、これは百年も前のことではないか。文学とは何か、人間とは何か、語るに恥じらいをも隠さない何でもありのこの世の中では、そんな大上段を翳したところで何の価値もないのだ。文学も人間も何者にでもなって人知を越えて憚らないこの現代社会では最も下等な存在になり果てていやしないか。科学は自然を模倣するはずが、戻れない原発を造っておいて自然を、人間を、この地球までを破壊するかも知れないというのに。漱石があの時代に何を見たのか。見てしまったのか。筆者はそれを垣間見てみたい。
余談が過ぎた、小説の話をしよう。この小説には3つの柱がある。平岡という親友の妻・三千代への恋慕とその告白の行方という愛の物語。2つ目には主人公代助の父との間をめぐる見合いと生活費の顛末。そして筆者が「三四郎」の与次郎に感じたと同じ書生の門野と主人公のささやかな味方となる嫂梅子という余白を埋める存在。これらが幾度となく場面場面を巡らし物語は展開していくのだが、何といっても後半の代助と三千代の別れの場面のやり取りでは、小説が言葉の上だけの芸術であることをこの上なくまっすぐと思い知らされてしまった。二人の心に正直なままの言葉で、まるで紙面がこちらに向かって活字を投げて寄こしてくるような感じで読まされてしまうのだ。
「僕の存在にはあなたが必要だ。それを承知して下さい」と代助。「あんまりだわ。残酷だわ」と涙して言う人妻三千代。「父が見合いの結婚を勧める。あなたが僕に復讐している間は断わらなければならない」と語気を強めて言う代助に、「復讐」とその二文字を恐るる反復する三千代。それでも「僕が生涯黙っていたほうが、あなたには幸福だったんですか」とまた代助。「私だって、あなたがそう言って下さらなければ、生きていられなくなったかも知れませんわ。しょうがいない、覚悟を決めましょう」。そう言って三千代はひとしきり泣き崩れる。二人は「恋愛の彫刻のごとく、じっとしていた。」
なぜか「ロダンの恋人」が浮かんだ。三千代はほんとはカミーユのように抱かれてもかまわなかった。しかし、「近代」を背負った代助にも漱石にもその気負いは頽廃を意味することなのかも知れなかった。文学がようやく個人の誇りを発見し始めていた。時代を照らして描いて見せたかったのがこの小説であり、漱石の一連の作品がテーマとしていることなのだと思う。タイトルの『それから』は屑となった存在の道行きをさしているのかも知れないし、最後、三千代は病のまま死なせてあげたかったとも思った。
それから (岩波文庫)/岩波書店

¥605
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親友の女房を愛した男が父の勧める縁談を拒否して他人の女房に「死ねとおっしゃれば死ぬわ」と言わせるまでに肉欲のすっかりない愛情に溺れる。それをいい大人の愛などと言ってしまっては、この文豪の小説は身も蓋もなくなってしまう。実際二人は越えられない関係だろうけど、若い頃の出会いは親友に「君は僕のために泣いてくれた」と言われてまで彼女を譲ったことからして失敗なのである。しかも金銭的援助の関係も潜ませていた。長じてその親友に「君の女房を愛しているんだ」と告白すると、親友は病の妻を看取ってからなら譲ると諫言されてしまう。それを「三千代さんの死骸だけを見せるつもりなんだ」と怒ったところで何も解決はしないだろう。果たして親友とはお互いに「落ち着かなくちゃ」と言い合い、曖昧を友情の代償にしたまま別れてしまう。純愛にしては凄まじいラストなのに、この主人公の正体は理想でも哲学でもなく、やはり兄から「お前は人間の屑だ」と言われてしまう何ともやりきれないあっけなさなのである。書生に「職を探しに行く」と言い残して気が狂うほどに街を徘徊する。実家の送金で暮らしていて今さらそれはないだろう、と叫んでしまう読後感がやりきれなかった。
しかし、この小説は漱石の小説なのである。何をかしてその文学的価値を認めなければならないだろう。できるならば、それは漱石自身というより人間世界の存在の悲しみを描いたとしよう。極限としてこうなったとしか説明できないにしても、働かない、結婚しないでは、近代にあって経済社会が悪に満ちているとしか説明できなくなる。とすれば、この小説は人間の愚かさを描いたものとしよう。かくて描くはずだった真実も救済できるのではないか。そこに文学が哲学に勝利できる道が見え、漱石はその扉を開けようとしたのかも知れない…。
ところが、これは百年も前のことではないか。文学とは何か、人間とは何か、語るに恥じらいをも隠さない何でもありのこの世の中では、そんな大上段を翳したところで何の価値もないのだ。文学も人間も何者にでもなって人知を越えて憚らないこの現代社会では最も下等な存在になり果てていやしないか。科学は自然を模倣するはずが、戻れない原発を造っておいて自然を、人間を、この地球までを破壊するかも知れないというのに。漱石があの時代に何を見たのか。見てしまったのか。筆者はそれを垣間見てみたい。
余談が過ぎた、小説の話をしよう。この小説には3つの柱がある。平岡という親友の妻・三千代への恋慕とその告白の行方という愛の物語。2つ目には主人公代助の父との間をめぐる見合いと生活費の顛末。そして筆者が「三四郎」の与次郎に感じたと同じ書生の門野と主人公のささやかな味方となる嫂梅子という余白を埋める存在。これらが幾度となく場面場面を巡らし物語は展開していくのだが、何といっても後半の代助と三千代の別れの場面のやり取りでは、小説が言葉の上だけの芸術であることをこの上なくまっすぐと思い知らされてしまった。二人の心に正直なままの言葉で、まるで紙面がこちらに向かって活字を投げて寄こしてくるような感じで読まされてしまうのだ。
「僕の存在にはあなたが必要だ。それを承知して下さい」と代助。「あんまりだわ。残酷だわ」と涙して言う人妻三千代。「父が見合いの結婚を勧める。あなたが僕に復讐している間は断わらなければならない」と語気を強めて言う代助に、「復讐」とその二文字を恐るる反復する三千代。それでも「僕が生涯黙っていたほうが、あなたには幸福だったんですか」とまた代助。「私だって、あなたがそう言って下さらなければ、生きていられなくなったかも知れませんわ。しょうがいない、覚悟を決めましょう」。そう言って三千代はひとしきり泣き崩れる。二人は「恋愛の彫刻のごとく、じっとしていた。」
なぜか「ロダンの恋人」が浮かんだ。三千代はほんとはカミーユのように抱かれてもかまわなかった。しかし、「近代」を背負った代助にも漱石にもその気負いは頽廃を意味することなのかも知れなかった。文学がようやく個人の誇りを発見し始めていた。時代を照らして描いて見せたかったのがこの小説であり、漱石の一連の作品がテーマとしていることなのだと思う。タイトルの『それから』は屑となった存在の道行きをさしているのかも知れないし、最後、三千代は病のまま死なせてあげたかったとも思った。
それから (岩波文庫)/岩波書店

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