なにがなしに
消費を促す売文ばかりを書き散らす生業に、60を過ぎてこれでいいのだろうかと悩みはしても、なれた身ゆえ如何んともし難いなにがなしな日々の移ろいに、はたとめぐり合うものがある。毎日新聞の「誤解の多い啄木像を洗う」というタイトルの文芸記事であった。
詩人中村稔著『私の詩歌逍遥』に触れて、「年齢を経てくると、再びその魅力にとりつかれることがある」と書き、青春時代に読んだ石川啄木や中原中也、立原道造などの文学には「単なる感傷ではない根元的な存在の悲しみがある」ことに気づくというのである。
〈汚れつちまつた悲しみ〉を宿阿のごとく抱いて、青春のその後を生きた証しを背負い、頼りなげな歩を進めている我らがある。若くして果てた彼らのうつせみのような気にもなりながら、いま旅の帰り道の途中にいるのだ。そして、悲しみを孤独から解き放つために文学を芸術をとひた走りに生きた彼らに救われるために、いま我らは彼らに再びめぐり合った。悲しみは懐かしみを抱いて癒されようとしている。古い詩集を繰ってみよう。産毛のような埃りを舐めてもみよう。きっと遠い味がする。聞こえるような味がする。
記事はもう一つ、新しい発見に気づいてもいる。それは憑かれたような執着に向こうから探り当ててきた幸運だ。啄木の『一握の砂』に自ら寄せた広告文にそれはあった。
「著者の歌は従来の青年男女の間に限られたる明治新短歌の領域を拡張して、広く読者を中年の人々に求む」と言っているというのだ。つまり、啄木自ら『一握の砂』の読者対象は中年としているのである。欣喜雀躍。早速『一握の砂』を本棚の全集から引き出した。
こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ
こみ合へる電車の隅に ちぢこまる ゆふべゆふべの我のいとしさ
浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心
読み進むうちに我らの青春は何と感傷に満ちていたものかが分かった。それは、置かれた立場からして平和な世界にあり、わが身に置き換えることもなく感傷を感傷のままに体験していたということだ。人の感情の一端をうかがい知るという程度のものでなかったか。己から遠ければ遠いものほどリアリティーを感じとろうとしていなかったか。ひどく勉学的であったのだし、悲しみは心の酌量でしかなかっただろう。それがどうだ。60を過ぎて聞こえてくる啄木の慟哭は身につまされて来はしないか。彼を読み、再び感じるものに、時の隔たりを超えて聞こえてくるものがあり、そのしじまに立ち尽くす我らがある。
この日頃 ひそかに胸にやどりたる悔あり われを笑はしめざり
へつらひを聞けば 腹立つわがこころ あまりに我を知るがかなしき
(『一握の砂』より)
詩人中村稔著『私の詩歌逍遥』に触れて、「年齢を経てくると、再びその魅力にとりつかれることがある」と書き、青春時代に読んだ石川啄木や中原中也、立原道造などの文学には「単なる感傷ではない根元的な存在の悲しみがある」ことに気づくというのである。
〈汚れつちまつた悲しみ〉を宿阿のごとく抱いて、青春のその後を生きた証しを背負い、頼りなげな歩を進めている我らがある。若くして果てた彼らのうつせみのような気にもなりながら、いま旅の帰り道の途中にいるのだ。そして、悲しみを孤独から解き放つために文学を芸術をとひた走りに生きた彼らに救われるために、いま我らは彼らに再びめぐり合った。悲しみは懐かしみを抱いて癒されようとしている。古い詩集を繰ってみよう。産毛のような埃りを舐めてもみよう。きっと遠い味がする。聞こえるような味がする。
記事はもう一つ、新しい発見に気づいてもいる。それは憑かれたような執着に向こうから探り当ててきた幸運だ。啄木の『一握の砂』に自ら寄せた広告文にそれはあった。
「著者の歌は従来の青年男女の間に限られたる明治新短歌の領域を拡張して、広く読者を中年の人々に求む」と言っているというのだ。つまり、啄木自ら『一握の砂』の読者対象は中年としているのである。欣喜雀躍。早速『一握の砂』を本棚の全集から引き出した。
こころよく 我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なむと思ふ
こみ合へる電車の隅に ちぢこまる ゆふべゆふべの我のいとしさ
浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心
読み進むうちに我らの青春は何と感傷に満ちていたものかが分かった。それは、置かれた立場からして平和な世界にあり、わが身に置き換えることもなく感傷を感傷のままに体験していたということだ。人の感情の一端をうかがい知るという程度のものでなかったか。己から遠ければ遠いものほどリアリティーを感じとろうとしていなかったか。ひどく勉学的であったのだし、悲しみは心の酌量でしかなかっただろう。それがどうだ。60を過ぎて聞こえてくる啄木の慟哭は身につまされて来はしないか。彼を読み、再び感じるものに、時の隔たりを超えて聞こえてくるものがあり、そのしじまに立ち尽くす我らがある。
この日頃 ひそかに胸にやどりたる悔あり われを笑はしめざり
へつらひを聞けば 腹立つわがこころ あまりに我を知るがかなしき
(『一握の砂』より)
抑制の美に触れて
「メタセコイヤの木の下で」という映写会に行ってきた。サブタイトルに「いのちを紡ぐ映画」とある。筋ジストロフィーの若い男性と看護婦とのラブストーリーだ。
子供ができ彼女は彼の前から姿を消し、僻地の恩師の病院へ。それから三年が経ち、彼の危険の知らせに女の子を連れて病室へ駆けつける。そこで初めて彼は自分の子を知る。
そのシーンが良かった。取り乱すのでも涙するのでもなく、誰もが静かに悲しみをこらえている。とくに女の子の不思議なまなざしが印象的だった。小さな彼女が人間と人生の大切な多くのものを学ぶ、そんな世界が呼んでいるような時間(とき)の恵みのシーンだ。
誰のせいでもない世界を引き受けた偉大さに触れたような思い。その一瞬から、未来に約束できる見知らぬ世界の美しい意味を汲み取れるようでもあった。
ほんの後半になって登場したその女の子にこそ、この映画の本当の良さを観て取りたいと思った。
子供ができ彼女は彼の前から姿を消し、僻地の恩師の病院へ。それから三年が経ち、彼の危険の知らせに女の子を連れて病室へ駆けつける。そこで初めて彼は自分の子を知る。
そのシーンが良かった。取り乱すのでも涙するのでもなく、誰もが静かに悲しみをこらえている。とくに女の子の不思議なまなざしが印象的だった。小さな彼女が人間と人生の大切な多くのものを学ぶ、そんな世界が呼んでいるような時間(とき)の恵みのシーンだ。
誰のせいでもない世界を引き受けた偉大さに触れたような思い。その一瞬から、未来に約束できる見知らぬ世界の美しい意味を汲み取れるようでもあった。
ほんの後半になって登場したその女の子にこそ、この映画の本当の良さを観て取りたいと思った。
ブックオフ・ジェネレーション
趣味が何かと聞かれると、散歩とか読書とかぐらいしか答えられない。その僕の読書は乱読きわまりない。しかし必ず読破しなければ気がすまないタイプでもある。
このところ新刊本に読みたい本がなく、新刊が出ると宣伝や書評が先行してその既成概念をなぞるような読書になるのが耐えられない。ましてや内容に裏切られた時はとんだ無駄遣いをした気持ちになる。そんなおりブックオフを覗くようになっていた。
ブックオフには普通の書店では手に入らない本を見つけることができる。上坂冬子「巣鴨プリズン13号鉄扉」、菅原徹「絵画の領分」、五味川純平「ノモンハン」、寺久保友哉「こころの匂い」など、さほど古くはなくても書店から消えた本などである。嵐のような新刊本の誕生の影で、本当に読みたい本、読み忘れた本、読んだけれどなくした本など、もう古本屋のほとんどなくなった山形のような地方にとってはブックオフの出現はこの上ない贈り物である。
市内にある3店舗を週に1店舗ずつ見て回る。どんなに懐が寂しくても最低100円と消費税分があればよい。買いたい本がなければまた来るか、他店に行くなどの楽しみができたように思えばいい。
そんな親しみを胸にどんどん本が増え、書棚は懐かしい本で飾られてゆく。それらをまた売ることもできるというが、懐かしいものとせっかく出会えたのだもの、とても手放せるわけがない。まして僕の場合、書き込み、折り込み、爪痕おびただしく、さすがのブックオフさんの蘇生術にかかっても生き返らないほどのひどい使い込みで、ほとんど行き場はないだろう。手放せない所以である。
従って本の増えることは僕の幸せのバロメーターみたいなものだ。ブックオフで背表紙を眺めている時の僕はきっと夢遊病者のようなテイであろう。無為なようでいてあれほど充実した時間帯があるだろうか。そう思うのだ。
そして近頃の自分を鑑みるに及んでは、何よりも安いのがいい。たとえ無職でもブックオフなら1冊、2冊ぐらいは買えるだろう。ゆっくり読書が楽しめるというものだ。人生80年、あとどれほどというのか、少し休ませてほしい。そしてブックオフさんの蘇生術のように再生する自分を楽しみにしたい。
このところ新刊本に読みたい本がなく、新刊が出ると宣伝や書評が先行してその既成概念をなぞるような読書になるのが耐えられない。ましてや内容に裏切られた時はとんだ無駄遣いをした気持ちになる。そんなおりブックオフを覗くようになっていた。
ブックオフには普通の書店では手に入らない本を見つけることができる。上坂冬子「巣鴨プリズン13号鉄扉」、菅原徹「絵画の領分」、五味川純平「ノモンハン」、寺久保友哉「こころの匂い」など、さほど古くはなくても書店から消えた本などである。嵐のような新刊本の誕生の影で、本当に読みたい本、読み忘れた本、読んだけれどなくした本など、もう古本屋のほとんどなくなった山形のような地方にとってはブックオフの出現はこの上ない贈り物である。
市内にある3店舗を週に1店舗ずつ見て回る。どんなに懐が寂しくても最低100円と消費税分があればよい。買いたい本がなければまた来るか、他店に行くなどの楽しみができたように思えばいい。
そんな親しみを胸にどんどん本が増え、書棚は懐かしい本で飾られてゆく。それらをまた売ることもできるというが、懐かしいものとせっかく出会えたのだもの、とても手放せるわけがない。まして僕の場合、書き込み、折り込み、爪痕おびただしく、さすがのブックオフさんの蘇生術にかかっても生き返らないほどのひどい使い込みで、ほとんど行き場はないだろう。手放せない所以である。
従って本の増えることは僕の幸せのバロメーターみたいなものだ。ブックオフで背表紙を眺めている時の僕はきっと夢遊病者のようなテイであろう。無為なようでいてあれほど充実した時間帯があるだろうか。そう思うのだ。
そして近頃の自分を鑑みるに及んでは、何よりも安いのがいい。たとえ無職でもブックオフなら1冊、2冊ぐらいは買えるだろう。ゆっくり読書が楽しめるというものだ。人生80年、あとどれほどというのか、少し休ませてほしい。そしてブックオフさんの蘇生術のように再生する自分を楽しみにしたい。