画家桜井浜江のこと-1(太宰治とのこと)
三鷹へ桜井浜江さんの絵を見に行った。
駅前CORAL5階の三鷹市美術ギャラリーの入口には、最終日とあって関係者らしい人々がたむろしていた。三人展の他の二人を圧倒する桜井浜江さんの油絵は12点、モノクロの記事や個展の開催チラシの小さな図版でしか見たことのなかったいくつかも並んでいた。「淵」「流れ」「海岸」「海」「花無惨」など2m近い大きさの鮮烈な色調と大胆な構図の大作は、薄暗く、さして広くない展示場内をうねらすような圧倒する迫力があった。色調はフォーブ、構図はシュール。それらは誰が見ても、今100歳近い女性が最近20年以内に描いたものとはとても思えないだろう。そこには老境にありながらも何にもためらわない大胆さがある。まさしく覇気が伝わる感動的な鑑賞であった。
桜井浜江さんは、太宰治「饗応夫人」のモデルと言われている。しかし、1995年の青梅市立美術館「画業65年の軌跡」展図録の美術評論家・瀧悌三氏の寄稿文によれば、ご本人は「太宰の小説の主人公にされたと言われても、どの小説にどう書かれたか、一向に判らない」と語っている。
太宰と桜井さんの関係は、離婚された小説家・秋沢三郎が太宰と同じ東大生だったことからで、太宰は壇一雄、新潮社の野原一夫、画家の大野五郎などと釣るんでよく三鷹下連雀の桜井さんのアトリエに転がり込んできていた。そんな時の桜井さんの親切な応対ぶりを書いたのが「饗応夫人」ということになっている。
そのことについては、「グラフみたかVol.11」(1998年3月三鷹市企画部発行)のインタビューに、桜井さんが絵を描いている不思議な太宰をかいま見て「『何してるのかな』なんて、お茶を取りに行きながら描いている様子をのぞいてみると、私より絵の才能があると感心してしまう。」と応えている回想から伺えると思う。その時の太宰の絵は自画像で、「すばやくその場で仕上げてしまう」(同上・桜井さん)酔いの勢いが踊ったような筆致だが、太宰も桜井の絵が好きだったに違いない同質な気配がある。
二人は合い通じるものがあったに違いない。しかし、桜井さんは恋愛には懲りていたであろう。別れた夫の親友となれば、そうもいかない。それに太宰は太田静子を連れて川の字になって寝たなんて、その後の太宰と静子のことを考えれば、桜井さんは賢い女なのである。
さらに太宰は死んでも桜井さんの世話になった。「死ぬ気で僕と恋愛してみないか」なんて山崎富栄を誘ってほんとうに一緒に入水死してしまった時、桜井さんのアトリエが新聞記者や編集者の待機場所となっている。ここまで来れば、どこからどこまでがモデルなのかなんて応えられないのも桜井さんの気持ちがよく判るというものだ。
太宰は死んだが、その後、桜井さんを心配した人達もいた。
桜井さんは、戦後、表現主義の自分流を徹底させてゆく。壺や人物、樹、海など、「ルオーが好き」な彼女がルオーをこえていく中で見つけた凄烈な感情の神秘が宿り始めるのだ。それを「体質の発散だけではない、造形意志のひき緊った反省」(みづえ1949年4月号「桜井浜江論」)と美術評論家・今泉篤男は書いている。
その文中に、「S社の編集をしていたN君」というのはおそらく新潮社の野原一夫のことだろうが、その彼が新興展で同じ画家の児島善三郎と「桜井の今度の絵は、ギリギリの命がけだ。あそこを乗りきらなければ桜井は死ぬかもしれぬ」と語っているくだりがある。続いて今泉も「私は苦しみ多ければそれだけ報いられるところ少いのだと言っていた太宰の言葉を思い出し、この画家も報いられることない為にこそ苦しんでいるのだということが、一種の感動をもって心に溢れた」と書いている。
時代はフォーブに厳しかった。その反省の新しい課題に身を挺して闘ったのが、桜井さんの戦後だ。芸術家は孤独のうちに世界を拓いてゆく存在なのであろう。
ギャラリーを出て、桜井さんのお宅の前へ行ったみた。三鷹駅近くのマンションやビジネスビルの建ち並ぶ禅林寺通り。所々に古くからのお宅がひっそりと居を構えている。そんな一つに桜井浜江さんのお宅があった。高い竹林の垣に囲まれた平屋。表札の門の奥をのぞくと右手が玄関、左手がたぶんアトリエ。ドキドキしながらのぞき見る。心の中では彼女の名前を何度もつぶやいていた。ほんとに声にして出てしまいそうなくらいだった。そこだけが長い長い時間を堆積してきている深く重い別の次元があるようだった。
ほんとは聞きたいことがひと言あった。それは「小野幸吉という同じ山形県出身の画家と会われたことがありますか」というものだった。彼女が生まれたのは1908年、上京したのは1924年。それぞれその翌年に彼が生まれ上京している。そして1930年協会洋画研究所の創立の1928年には、同時にそこの研究生になっている。青春の二人はどんな話をしたのだろう。絵のこと、故郷のこと、東京のこと、どんなことだったろう。
小野幸吉は、わずか4年の画業で夭折した。二科展などのいくつかの入選も果たしながら20歳と10ヶ月であった。桜井さんは彼のことを心にのぼらせたことがあるだろうか。もしかして今でも彼が彼女の中を流れているだろうか。僕はそれを知りたい。
と、小路をわたる薫風に竹林が微かにざわめいた。僕はその桜井さんのお宅の前から後ずさるように立ち去った。
(マイ・アーカイブ・2006年3月)
三鷹の桜井邸
駅前CORAL5階の三鷹市美術ギャラリーの入口には、最終日とあって関係者らしい人々がたむろしていた。三人展の他の二人を圧倒する桜井浜江さんの油絵は12点、モノクロの記事や個展の開催チラシの小さな図版でしか見たことのなかったいくつかも並んでいた。「淵」「流れ」「海岸」「海」「花無惨」など2m近い大きさの鮮烈な色調と大胆な構図の大作は、薄暗く、さして広くない展示場内をうねらすような圧倒する迫力があった。色調はフォーブ、構図はシュール。それらは誰が見ても、今100歳近い女性が最近20年以内に描いたものとはとても思えないだろう。そこには老境にありながらも何にもためらわない大胆さがある。まさしく覇気が伝わる感動的な鑑賞であった。
桜井浜江さんは、太宰治「饗応夫人」のモデルと言われている。しかし、1995年の青梅市立美術館「画業65年の軌跡」展図録の美術評論家・瀧悌三氏の寄稿文によれば、ご本人は「太宰の小説の主人公にされたと言われても、どの小説にどう書かれたか、一向に判らない」と語っている。
太宰と桜井さんの関係は、離婚された小説家・秋沢三郎が太宰と同じ東大生だったことからで、太宰は壇一雄、新潮社の野原一夫、画家の大野五郎などと釣るんでよく三鷹下連雀の桜井さんのアトリエに転がり込んできていた。そんな時の桜井さんの親切な応対ぶりを書いたのが「饗応夫人」ということになっている。
そのことについては、「グラフみたかVol.11」(1998年3月三鷹市企画部発行)のインタビューに、桜井さんが絵を描いている不思議な太宰をかいま見て「『何してるのかな』なんて、お茶を取りに行きながら描いている様子をのぞいてみると、私より絵の才能があると感心してしまう。」と応えている回想から伺えると思う。その時の太宰の絵は自画像で、「すばやくその場で仕上げてしまう」(同上・桜井さん)酔いの勢いが踊ったような筆致だが、太宰も桜井の絵が好きだったに違いない同質な気配がある。
二人は合い通じるものがあったに違いない。しかし、桜井さんは恋愛には懲りていたであろう。別れた夫の親友となれば、そうもいかない。それに太宰は太田静子を連れて川の字になって寝たなんて、その後の太宰と静子のことを考えれば、桜井さんは賢い女なのである。
さらに太宰は死んでも桜井さんの世話になった。「死ぬ気で僕と恋愛してみないか」なんて山崎富栄を誘ってほんとうに一緒に入水死してしまった時、桜井さんのアトリエが新聞記者や編集者の待機場所となっている。ここまで来れば、どこからどこまでがモデルなのかなんて応えられないのも桜井さんの気持ちがよく判るというものだ。
太宰は死んだが、その後、桜井さんを心配した人達もいた。
桜井さんは、戦後、表現主義の自分流を徹底させてゆく。壺や人物、樹、海など、「ルオーが好き」な彼女がルオーをこえていく中で見つけた凄烈な感情の神秘が宿り始めるのだ。それを「体質の発散だけではない、造形意志のひき緊った反省」(みづえ1949年4月号「桜井浜江論」)と美術評論家・今泉篤男は書いている。
その文中に、「S社の編集をしていたN君」というのはおそらく新潮社の野原一夫のことだろうが、その彼が新興展で同じ画家の児島善三郎と「桜井の今度の絵は、ギリギリの命がけだ。あそこを乗りきらなければ桜井は死ぬかもしれぬ」と語っているくだりがある。続いて今泉も「私は苦しみ多ければそれだけ報いられるところ少いのだと言っていた太宰の言葉を思い出し、この画家も報いられることない為にこそ苦しんでいるのだということが、一種の感動をもって心に溢れた」と書いている。
時代はフォーブに厳しかった。その反省の新しい課題に身を挺して闘ったのが、桜井さんの戦後だ。芸術家は孤独のうちに世界を拓いてゆく存在なのであろう。
ギャラリーを出て、桜井さんのお宅の前へ行ったみた。三鷹駅近くのマンションやビジネスビルの建ち並ぶ禅林寺通り。所々に古くからのお宅がひっそりと居を構えている。そんな一つに桜井浜江さんのお宅があった。高い竹林の垣に囲まれた平屋。表札の門の奥をのぞくと右手が玄関、左手がたぶんアトリエ。ドキドキしながらのぞき見る。心の中では彼女の名前を何度もつぶやいていた。ほんとに声にして出てしまいそうなくらいだった。そこだけが長い長い時間を堆積してきている深く重い別の次元があるようだった。
ほんとは聞きたいことがひと言あった。それは「小野幸吉という同じ山形県出身の画家と会われたことがありますか」というものだった。彼女が生まれたのは1908年、上京したのは1924年。それぞれその翌年に彼が生まれ上京している。そして1930年協会洋画研究所の創立の1928年には、同時にそこの研究生になっている。青春の二人はどんな話をしたのだろう。絵のこと、故郷のこと、東京のこと、どんなことだったろう。
小野幸吉は、わずか4年の画業で夭折した。二科展などのいくつかの入選も果たしながら20歳と10ヶ月であった。桜井さんは彼のことを心にのぼらせたことがあるだろうか。もしかして今でも彼が彼女の中を流れているだろうか。僕はそれを知りたい。
と、小路をわたる薫風に竹林が微かにざわめいた。僕はその桜井さんのお宅の前から後ずさるように立ち去った。
(マイ・アーカイブ・2006年3月)
三鷹の桜井邸今野忠一という画家の絵をみて-2
あと30分もすると、二階の福王寺法林展がギャラリートークを始めるという時刻だった。階段のあたりでは、彼がお目当ての人混みがさんざめいていた。
福王寺法林の絵が嫌いなのではなかった。前に別の美術館の企画展で見た今野忠一の感動を穢したくなかったのだ。穢すとは言い過ぎかもしれない。しかし、僕にとって今野忠一はそれほど深く重いわだかまりとなって、ずっと意識の中を流れていた。深い山塊にか細く流れ落ちるあの孤独な転落は、きっと地の世界の果ての響きを聞き取るために落下点に向かっていたに違いない、と。
どうしても忘れられなかった。いや忘れられなかったというよりも、彼をいっときも忘れたくなかったのだろうと思う。今野には、宿昔の孤独がキャンバスいっぱいに張り付いている。そんな彼の孤独が好きだった。
福王寺の孤独は明境へと昇華されて謳歌している。それは畏敬に値し人生の何たるかを教えてくれる。しかし、芸術鑑賞は孤独を伴って初めて感じ取れるものと思いたい。その深見から己を呼び覚ます声を聞きたいと思う。これが僕の絵の愛しかただ。
その日、階下の収蔵展では今野の「火山湖」が出品されていた。新聞記事では「山そのものが一つの人格を持っているような気さえする」と評していた。まさしく抑制された色彩分割が風景を語っている。風景という万象に確かな筆致をもって立ち向かったところに今野の人格が見て取れるように思う。それは孤独な作業で、孤独な鑑賞を欲している。そういう思いかたをして、僕は彼の絵を愛したいのだろうと思う。
(マイ・アーカイ・2005年2月)
福王寺法林の絵が嫌いなのではなかった。前に別の美術館の企画展で見た今野忠一の感動を穢したくなかったのだ。穢すとは言い過ぎかもしれない。しかし、僕にとって今野忠一はそれほど深く重いわだかまりとなって、ずっと意識の中を流れていた。深い山塊にか細く流れ落ちるあの孤独な転落は、きっと地の世界の果ての響きを聞き取るために落下点に向かっていたに違いない、と。
どうしても忘れられなかった。いや忘れられなかったというよりも、彼をいっときも忘れたくなかったのだろうと思う。今野には、宿昔の孤独がキャンバスいっぱいに張り付いている。そんな彼の孤独が好きだった。
福王寺の孤独は明境へと昇華されて謳歌している。それは畏敬に値し人生の何たるかを教えてくれる。しかし、芸術鑑賞は孤独を伴って初めて感じ取れるものと思いたい。その深見から己を呼び覚ます声を聞きたいと思う。これが僕の絵の愛しかただ。
その日、階下の収蔵展では今野の「火山湖」が出品されていた。新聞記事では「山そのものが一つの人格を持っているような気さえする」と評していた。まさしく抑制された色彩分割が風景を語っている。風景という万象に確かな筆致をもって立ち向かったところに今野の人格が見て取れるように思う。それは孤独な作業で、孤独な鑑賞を欲している。そういう思いかたをして、僕は彼の絵を愛したいのだろうと思う。
(マイ・アーカイ・2005年2月)
今野忠一という画家の絵をみて-1
天童市美術館の今野忠一展に行って来た。最終日、午後2時から学芸員の方によるギャラリートークがあり、70点程の作品の一つ一つの解説を聞きながら鑑賞した。近作からデビュー時代へと遡って行く展示のし方をしていたので、画風の変わりようが分かりやすくリアルに伝わる企画展だった。初期の花鳥画には丹念なスケッチも多く展示され、画布へ描かれたものと比較して楽しめた。また鑑賞者を最後まで圧倒し続けるくらい大きな屏風絵や襖以上の大きさに及ぶ大作などを並べる展示の仕方や、さらに所々に作者自身の短い解説があるのも絵から文字へと鑑賞の領域を別の領域へ鑑賞者を誘うなど、心憎い小さな思いやりのこもった趣向に満ちていた。
今野忠一は、1915年天童市で生まれ、90歳を数える日本画家である。1955年頃、色彩を多用し背景も描くという新しい試みに挑戦し、日本画壇がそれまでの水墨画から脱皮し始めた活発な動きの中でデビューした。その後は蔵王や月山をはじめ空想の山まで多くの山岳風景を描いている。
僕が今野忠一を見に行ったのには訳があった。「老樹」という作品を見たかったからだ。その朝日岳の「老樹」は1958年の院展で文部大臣賞と奨励賞のダブル受賞を果たした。樹の幹をアップに描き、その背景に日暮れの秋山がのぞく四曲一双の大きな屏風絵である。大矢鞆音著「田中一村 豊饒の奄美」に、「老樹」の絵の前で田中一村がじっと立ちつくし去りがたい様子で見つめていたという一村の知人の回想が書かれている。一村はその直後、それまでの手許の作品を自ら焼き、孤独な旅へ出た。その彼の旅への思いを知りたかった。あの美校時代の東山魁夷らの帝展入賞、そしてこの今野忠一の院展入賞、二度の惜敗の後に一村の旅は南国の島・奄美へといざなったのだ。田中一村は1977年その奄美で死に、ここ4~5年の間にようやく評価が現われ始めた日本画家である。奄美を描いた作品は当時、日本画よりデザイン画という見方をされたりもした。それほど斬新であったが、画壇から遠く退き多くの作品が衆目に届かなかったというのが現実だろう。
さて今野忠一の「老樹」だが、一村の気持ちで眺めてはみたものの、ガラスケースの中の「老樹」は展示室をそこまで見てきた圧倒感に比して、幾分小さく画風に張りがなく感じられた。視線を低くしてみたり、ガラスがないことを想像して見てみたりと、なんとか一村の苦渋の心持ちに近づきたかった。しかし、所詮は素人の趣味の内である。想像も苦渋もない。想像は別な絵画への連想へ走り、苦渋は諦観を帯びて萎えたようだった。立ち去りがたいわけでもないのに展示室中央の腰掛けに手をついて座した。果たして諦観は想像を飛躍させるのだろうか。樹の幹に目を凝らすと桜井浜江が浮かび、別の展示室で見た浅間山の絵にはなぜかその空の青と山の赤の色使いや太い黒い縁取りの筆使いなどから萬鐵五郎や梅原龍三郎が浮かび、ある絵にはきっと今野はフォーブを意識したにちがいないなどと、途方も阿呆もない邪想が遊んだ。
そんな心許なさにたゆたいながらも、ピンと張った記憶の澪(みお)のようなものが突然冗談のように心うちに勃ちのぼった。それは那智滝の縦長の大きな絵だった。今野の滝といえば、岩のような巨大な山の黒い塊の中で白糸のごとくか細く長い孤独な転落を思わせる滝である。探さないと見えない暗い滝である。しかし、かの那智滝は真っ赤な紅葉に抱かれてこれ見栄世がしに真っ白な滝が、まっすぐに落ちると言うよりも天と地を結ぶかのように繋がれていた。それは死よりも生を、落下よりも浮上を想起して止まない精気が感じられる。見ていて凛と居ずまいを正されるのであった。日本画の画風には禅のような厳しさが潜んでいるようなところがある。今野忠一は、南画からの永年の画業に照らしてみると、その様式は実に多才である。それはそのまま近代日本画の歴史の流れと言えるのかも知れない。
(2004年11月・マイ・アーカイブより)