コラムなタイム -36ページ目

藤田嗣治の「戦争画」を見て

 終戦間もない1945年10月、朝日新聞紙上で戦争画の是非をめぐる論争があった。「軍部に阿諛」したと暴言する画家宮田某に対して、藤田が「画家の良心」を謳い上げ反論した。このたび実際の藤田の絵を見て、そこに「藤田の良心」が見て取れたことは、彼がまぎれもなく「世界のフジタ」であることを納得し得るものであった。

 藤田は「戦争画」というより、歴史画を描いたのだと思う。「シンガポール最後の日」「アッツ島玉砕」「サイパン島同胞臣節を全うす」「神兵の救出到る」「血戦ガダルカナル」のいずれも2m近い大作で、そのコーナーだけが圧倒的なスケールと重厚な威厳さに満ちていた。敵味方の双方が入り乱れる死闘を描き、戦争というものが何たるかを描いている。どれを見ても藤田は戦争を賛美しようとも、戦意を高揚しようともしていない。日本軍が壊滅して行く様や、民間人が身を投げて自決して行く様だ。それらを西洋の古典絵画に学んだ筆致で克明に描き切っている。歴史画として記録してとどめておかなければならなかった、まさしくドキュメンタリーではないのだろうか。

 では、なぜ藤田が「戦争画家」と「阿諛」されたのだろうか。彼はピカソやキスリングらを友としエコール・ド・パリの新風を浴び、大戦の戦火を逃れて帰国。母国も戦況逼迫の時、たちまち戦争画を描いてしまう。「右の腕はお国に捧げた気持ちで居る」「日本にドラクロア、ベラスケス、の様な戦争画の巨匠を生まねば成らぬ」とまで語る。しかし敗戦するやいなや敵国アメリカへ渡り、そこで同じ画家の国吉康雄らに嫌われ、四度目のパリへ。いよいよレオナールと称し日本人であることを捨ててしまう。
 それにしても、ことほどさように軍の委嘱に従ったのは、そもそも房州長尾藩家老職の名門という出目が遠因したとも言われるが、近藤史人著『「異邦人」の生涯 藤田嗣治』によれば、なによりも藤田の父・嗣章が文豪森鴎外の後の軍医総監を務めた陸軍軍医であったことが軍の要請を断りきれなかった事情だったという。1938年の中国・漢口攻略に始まる藤田の「戦争画」の初期の作品は、どれも力がなく風景画のようなのだが、その後はドラクロアやベラスケスの実践を戦場に見出して行く一連の大作を生む。そして、史観を呼ぶ迫真的な高みがそこにはある。それらの迫力を前にして、私には「すばらしき乳白色」といわれる巷間有名な作品群よりも、むしろこちらの方が藤田の本領なのではなかっただろうかと思われてならなかった。「乳白色」は暗黒の記憶を振り払い、平和なエコール・ド・パリへの憧れだった。芸術とは、やはり暗い闇の中の一閃の孤独な光なのだ。藤田は芸術家としての矜持をもって生きたというべきだろう。

 司修・著『戦争と美術』(岩波新書)からの多少長い引用になるが、藤田の反論「画家の良心」にはこう書かれている。「元来画家というものは真の自由愛好者であって軍国主義者であろうはずは断じて無い。遇遇開戦の大詔渙発せらるるや一億国民は悉く戦争完遂に協力し画家の多数の者も共に国民的義務を遂行したに過ぎない。(中略)戦争中国家への純粋なる愛情を以て仕事を成した画家は勿論、凡ての画家も今敗戦の事実に直面し、心からの謙遜と良心とを以てその敗因を正視し反省し、軍官によって成された世界観とその指導との誤れる今日迄の国家の方針を一蹴して世界平和と真の美への探究を研め、精一杯の勉強を成さねばならぬと思う。(中略)今こそ我等画家は須く日本への愛情を世界への愛情と一つに結ばなければならぬ。」と。そうして藤田はパリへと旅立った。
 わが展覧の春、竹橋の葉桜は花片の陰から小さき若葉をのぞかせていた。
(マイアーカイブ・2006年5月)

絵のコラムを読んで

 言いたいことの意味が、言葉の選び方で読み手の意味するところと違って、拭い難い違和感を伴う時がある。小西真奈の絵を、「不穏さをはらむ別世界」と評した毎日新聞文化欄(2006.4.9)のコラムを読んだ時だ。

 1968年生まれ、ワシントンの美術学校卒業の彼女にとっては、やはり「怖いけれどワクワクする感じ。次に何があるのか分からないみたいな」、そんな好奇心に満ちた動機のはずだ。しかも「目の前に広がる光景を全部描きたくなった」、とも言うのだ。それは足元から見遥かす世界へ広角していく思考の眼差しだろうか。
 ところが、その見えない世界を「不穏さ」としてしまうのには、そこに忘却的な孤独を思わせる表現を読むからだろうか。しかし、彼女の絵にはさわやかな空気と開放感も感じられるのだ。それは心地よい孤独感を漂わせている。耳を澄まして自然の鼓動を聞くように、平和な孤独感だ。不穏な暗さや怪しさを感じるには最も遠い世界のはずなのに。

 きっと、初めは「不安」という言葉に「さ」を付けたかったにちがいない。しかし、日本語の曖昧な拡張性が「不穏さ」に変換してしまった。それで、小西真奈のコメントの明るさとはちぐはぐに流れる文脈になった。違和感を伴う読後感を抱いたのは自分だけだろうか。どうしても彼女の絵に感じるのは、視界が拡散して戻れずに、時を止めた一瞬のまま空気まで止めて、そこにあるという感じなのだ。

 そうした時を止めたかのような絵は、長谷川燐二郎の絵にも感じられる。こちらは、息を呑むような静けさが凍りついたかのような、どことも言うことのない市井の一隅や、透明な眼を持った人が見た景色。ひとたび眼にしたら眼が放せなくなる絵なのだ。こちらまで彼の絵の中でしかいられなくなる。彼の事情を察するよりも、こちらの事態が差し迫ってくる不思議に打ちひしがれてしまうのだ。

 しかし今、途切れるわけにはいかない。甘美でも、待ち望んでいたわけでもないのに、そこにとどまるわけは、遠のいた記憶の夢を終わらせたくないからだろう。それは、芥川が何かで言っていたように思う、あれだ。「絵は、眼を見開いたままで夢を見ることができる」。
(マイアーカイブ・2006年4月)

画家桜井浜江のこと−2(100年目の夢)

 桜井浜江展を見た。画業90年の長きにわたって変わらない画風にあらためて感じ入った。そして、そのほとんどが200号前後の大作であった。美術館での一個人の展示会でこれほどの大作が偉並ぶのも、洋画では珍しいことだろう。しかし、初期の作品に剥奪の目立つのには心が痛んだ。

 今回は、昨年絶筆となった「富嶽」というおそらく最大級の遺作が展示された。それは、富士が赤い火花を噴いた火山であった。見たものを見たとおりには決して描かなかったのに、こんなに分かる絵の彼女は初めてであった。
 誰にあの激しい思いを伝えたかったのだろう。あまたの人が去来し、次の作品がいつと知れなければ、今しかない。そうだ、たれがしに伝えるものがあふれてあふれてならなかったのだ。そんな寄る辺に立たされていたのではないだろうか。
 100年を目の前にしても癒えない孤独は、あの「富嶽」しかなかった。夢を夢のままにはしておけなかった孤独が死をも恐れなかったということだ。違うだろうか。

 それにしても、あと三日で誕生日のはずだった。
 いや、それが何なのだ。彼女はもういないのだよ。

 美術館の前の広場には春のまだ冷たい風が吹き渡っていた。図録本を小脇に抱え、出てきた入口の大きな看板を振り返った。すると年甲斐もなく感極まったか、書かれた文字を見て彼女の名を呼んだみたいな読み方をしていた。
(マイアーカイブ・2008年4月)