古えを縁しに、瀬見温泉へ
全国あまたある温泉地の中でも、瀬見温泉ほど源義経に思い入れの深い温泉地は珍しいだろう。山あいを流れる小国川に架かる橋には欄干に飛び乗って横笛を吹いている義経(牛若丸)の彫刻があったりする。かと思うと、老舗旅館には義経一行が訪れた様を描いた古い大きな絵があったりもする。
義経の正妻・北の丸が道中に産気づいてその産湯を求めて弁慶が薙刀で河原の岩を突くと温泉がこんこんと湧き出したというのが瀬見温泉の由来。弁慶が浅瀬を探しあちこちと「瀬を見る」格好で歩いたからとか、薙刀が「せみ丸王」という名称だったからとか、名前の由来もいくつかある。というのも室町時代の物語『義経記』が生んだ伝説によるところが多いからだろう。
この義経弁慶ゆかりの瀬見温泉は山形県の北部にある。奥羽山系から最上川に注ぐ小国川の渓谷にあるひなびた中規模の温泉街である。川沿いには国道47号線とJR陸羽東線が平行して走っている。瀬見温泉駅は無人駅だが、目の前の商店が駅員がわりに客足を寄せている。その裏を流れる小国川沿いが瀬見の温泉街。橋を渡って行くと、軒を連ねる旅館や土産物屋のある小路へ吸い込まれるように細い道が温泉町を貫いている。
駅から歩いて、かの 笛吹童子の義経大橋にさしかかる。手前に小さな公園があって、さっそく弁慶ゆかりの松と大きな岩が目につく。松は弁慶が亀若丸の誕生を祝って投げた松でそれが根付いたものとか。一方、大岩は弁慶がその子の命名を書き記した硯だったとか。
ひときわ大きな温泉ホテルと、かの大きな絵のある老舗旅館に挟まれた小路に来ると、今度は産湯のモニュメントのある薬研様の神社が建っていてその前には流行りの足湯があり、向かいには「ふかし湯」なる公共の名物温泉がある。ブームの割りには人通りが少なく、宿の使用人が用足しに出歩いているといったどこかしんなりとした空気が漂っている。むしろ夏の夕暮れ時に産湯のような柔らかな温泉に浸かった孤独な湯上がりには実に清々しく気持ちがよい。
小路をくねった宿の陰からカランコロンと呼んでいるような下駄の軽やかな音が聞こえてきた。誘われるままに浴衣を懐手に歩を運んだ。
義経通りの温泉街をほぼ行き尽くしたあたりで瀬見大橋を渡る。再び国道へ出ると、目の前は立ちはだかる緑の山。その山裾にもゆかりの神社がある。亀割子安観音といい、北の方の安産にあやかった子授かりの神様。さらに山奥にはお産した場所といわれる奥の院もある。
鎌倉の兄頼朝にうとんじられ、やむなく平泉をめざした弟義経は歴史上悲劇の人として人気がある。かわいそうと思うその心が、ことほどさようにもゆかりあやかれば、慰め甲斐もあろうというもの。そんな温泉町の人の優しさに触れる旅こそ、何よりの温泉の効能ではあるまいか。そして悲劇をめぐる旅で慰められ癒されることになれば、それも古えを縁しにした旅のまた一つでもある。
(Myアーカイブスより)

義経の正妻・北の丸が道中に産気づいてその産湯を求めて弁慶が薙刀で河原の岩を突くと温泉がこんこんと湧き出したというのが瀬見温泉の由来。弁慶が浅瀬を探しあちこちと「瀬を見る」格好で歩いたからとか、薙刀が「せみ丸王」という名称だったからとか、名前の由来もいくつかある。というのも室町時代の物語『義経記』が生んだ伝説によるところが多いからだろう。
この義経弁慶ゆかりの瀬見温泉は山形県の北部にある。奥羽山系から最上川に注ぐ小国川の渓谷にあるひなびた中規模の温泉街である。川沿いには国道47号線とJR陸羽東線が平行して走っている。瀬見温泉駅は無人駅だが、目の前の商店が駅員がわりに客足を寄せている。その裏を流れる小国川沿いが瀬見の温泉街。橋を渡って行くと、軒を連ねる旅館や土産物屋のある小路へ吸い込まれるように細い道が温泉町を貫いている。
駅から歩いて、かの 笛吹童子の義経大橋にさしかかる。手前に小さな公園があって、さっそく弁慶ゆかりの松と大きな岩が目につく。松は弁慶が亀若丸の誕生を祝って投げた松でそれが根付いたものとか。一方、大岩は弁慶がその子の命名を書き記した硯だったとか。
ひときわ大きな温泉ホテルと、かの大きな絵のある老舗旅館に挟まれた小路に来ると、今度は産湯のモニュメントのある薬研様の神社が建っていてその前には流行りの足湯があり、向かいには「ふかし湯」なる公共の名物温泉がある。ブームの割りには人通りが少なく、宿の使用人が用足しに出歩いているといったどこかしんなりとした空気が漂っている。むしろ夏の夕暮れ時に産湯のような柔らかな温泉に浸かった孤独な湯上がりには実に清々しく気持ちがよい。
小路をくねった宿の陰からカランコロンと呼んでいるような下駄の軽やかな音が聞こえてきた。誘われるままに浴衣を懐手に歩を運んだ。
義経通りの温泉街をほぼ行き尽くしたあたりで瀬見大橋を渡る。再び国道へ出ると、目の前は立ちはだかる緑の山。その山裾にもゆかりの神社がある。亀割子安観音といい、北の方の安産にあやかった子授かりの神様。さらに山奥にはお産した場所といわれる奥の院もある。
鎌倉の兄頼朝にうとんじられ、やむなく平泉をめざした弟義経は歴史上悲劇の人として人気がある。かわいそうと思うその心が、ことほどさようにもゆかりあやかれば、慰め甲斐もあろうというもの。そんな温泉町の人の優しさに触れる旅こそ、何よりの温泉の効能ではあるまいか。そして悲劇をめぐる旅で慰められ癒されることになれば、それも古えを縁しにした旅のまた一つでもある。
(Myアーカイブスより)

小野幸吉の絵を見て
酒田の本間美術館へ小野幸吉展を見に行った。ほの暗い会場の四方の壁に息をひそめるように絵が並んでいた。一つ一つを見てゆく彼に似つかわしくない低いつぶやきが聞こえるようだった。荒々しいタッチの彼の絵は、もうきっと僕の中で何度も何度も問いかけては答えのない遙かな存在で、彼に憑かれた僕に対する慰めのようなものなのである。
絵には点いているのか点いていないのか分からないランプがぶ厚い大きな板の台に張り付いている。そのまわりにノートか本か、煙草のケースのようなものと、皿に載った柿のようなものが2個、その向こうに湯差しがあって、一番手前には木の椅子がある。画面の大半は赤茶けた平面。背景に緑と黄色。おぼつかない境界が補色でせめぎ合っている。荒々しい筆遣いはそのまま彼の気性であり、生き急ぐ焦燥のようなものと例えられている。
ゴッホにこれと似た構図の絵がある。「製図板、パイプ、玉葱、封蝋のある静物画」1891年、アルルの時代で明るい色調に輝いている。小野幸吉はその作品を見ただろうか。彼は大都市にあおられるように絵画の世界の潮流にも敏感なはずだった。彼もまた、そこから新しい時代の寵児にならんと夢見ていたはずだ。急がないで何が芸術か。誰も知らなかった世界に誰よりも一番に踏み込んでゆくために、そのためだけにこの世界に躍り出てきたのじゃないか。そうじゃないか。ゴッホの次は、俺に決まっているんだから、と。
しかし、才能よりも才気が先走った。彼の死は躍り出た瞬間から早くも約束されていたかのようにおとずれる。それも赤が象徴した。喀血は鼻からも吹き出て、彼は遠のく頭の中で「あぁ、この色だ。赤はこの色でなくちゃぁいけない。おい、筆はどこだ」。そう叫んでまもなく、彼は孤独のやり場を死で決着を付けた。
僕の空想は躍った。ひと通り見てまわって来ると、ほの暗い館内の柔らかなシートに腰掛けていた。彼の最後を想像するのは何度目だろう。どの絵を見ても、彼が最後に言いたかったこと、描きたかったもの、それは何だったのだろうと考える。誰も彼のことなど心にのぼらせないことを知っていたから、誰に告げる必要もないくらい想いをあふれさせたまま、彼は逝ってしまった。
美術館を出るとき、受付嬢が「好きなんですね、わかります」と、僕を見て言った。その不思議が僕を嬉しくした。きっと彼女も彼が好きなのだろう。もう100年も前の、20年しか生きられず、画業も4年足らずしかなかった人なのに。
(マイアーカイブス・2007年12月)
小野幸吉「ランプのある静物(C)」1929年
小野幸吉「ランプのある静物(A)」1929年
ゴッホ「製図板、パイプ、玉葱、封蝋のある静物画」1891年
絵には点いているのか点いていないのか分からないランプがぶ厚い大きな板の台に張り付いている。そのまわりにノートか本か、煙草のケースのようなものと、皿に載った柿のようなものが2個、その向こうに湯差しがあって、一番手前には木の椅子がある。画面の大半は赤茶けた平面。背景に緑と黄色。おぼつかない境界が補色でせめぎ合っている。荒々しい筆遣いはそのまま彼の気性であり、生き急ぐ焦燥のようなものと例えられている。
ゴッホにこれと似た構図の絵がある。「製図板、パイプ、玉葱、封蝋のある静物画」1891年、アルルの時代で明るい色調に輝いている。小野幸吉はその作品を見ただろうか。彼は大都市にあおられるように絵画の世界の潮流にも敏感なはずだった。彼もまた、そこから新しい時代の寵児にならんと夢見ていたはずだ。急がないで何が芸術か。誰も知らなかった世界に誰よりも一番に踏み込んでゆくために、そのためだけにこの世界に躍り出てきたのじゃないか。そうじゃないか。ゴッホの次は、俺に決まっているんだから、と。
しかし、才能よりも才気が先走った。彼の死は躍り出た瞬間から早くも約束されていたかのようにおとずれる。それも赤が象徴した。喀血は鼻からも吹き出て、彼は遠のく頭の中で「あぁ、この色だ。赤はこの色でなくちゃぁいけない。おい、筆はどこだ」。そう叫んでまもなく、彼は孤独のやり場を死で決着を付けた。
僕の空想は躍った。ひと通り見てまわって来ると、ほの暗い館内の柔らかなシートに腰掛けていた。彼の最後を想像するのは何度目だろう。どの絵を見ても、彼が最後に言いたかったこと、描きたかったもの、それは何だったのだろうと考える。誰も彼のことなど心にのぼらせないことを知っていたから、誰に告げる必要もないくらい想いをあふれさせたまま、彼は逝ってしまった。
美術館を出るとき、受付嬢が「好きなんですね、わかります」と、僕を見て言った。その不思議が僕を嬉しくした。きっと彼女も彼が好きなのだろう。もう100年も前の、20年しか生きられず、画業も4年足らずしかなかった人なのに。
(マイアーカイブス・2007年12月)
小野幸吉「ランプのある静物(C)」1929年
小野幸吉「ランプのある静物(A)」1929年
ゴッホ「製図板、パイプ、玉葱、封蝋のある静物画」1891年画家・梅津五郎のこと
真っ赤な背景の自画像は、荒削りな強烈なタッチで描かれている。白い着物を着た横向きの男性の眼は、白眼を剥いて斜交いににらんで鋭い目つきをしている。激しいフォーブな筆使いが生々しく、背景の赤も鬼気をはらんでいる。他の蔵王や海外の風景画など100号や200号の大作に迫る存在感だ。
自画像は、絵画104点を出身地の山形県白鷹町に寄贈し2003年の7月に83歳で亡くなった梅津五郎という洋画家である。同年11月地元の町の公民館で遺作展が行われ、その後2005年9月にも山形美術館で作品展があった。自画像以外で印象深かったのは、森田茂に師事したように分厚く塗り込む手法で重厚なアルルの群家を描いた一連の作品だった。彼は、きっとゴッホになりきったような旅先の気分だったにちがいない。
その山形美術館で、梅津五郎が浅草で「満楽」という中華料理店を開いていたことを知った。ラーメンは浅草では評判の味で、彼は二階の部屋で絵を描きながら店に出ていたという。そして時折海外へ行ったりもしていたというのだから、かなり行動的な人で、海の向こうの話は店でも話題になり、主人をひそかに「ラーメン画伯」と呼ぶ客もあったという。
そんな親しみのある反面、梅津五郎は東光会という画壇の理事長や日展参与などを歴任した。しかし初めから売る絵は描かなかった。売るのはラーメンだけというのではなかっただろうが、そのスタイルには頑なな一貫したものが流れていて、そのことがまさしく彼の絵にゆるぎない生命力を宿らせたのだろうと思う。
後日、上京の折、私はそのラーメン店へ行ってみた。
浅草鳥越神社の西側の通りにあり、こじんまりとした庶民的な造りの懐かしさを感じさせる店だった。入ろうとすると、ガラスの引き戸に白い張り紙があった。なんと、昭和25年以来続いた店を閉店するという知らせであった。私は驚きとともに間にあって嬉しいような、残念でもあるような複雑な気持ちがした。しかし、それは彼とどこかでつながっていたような奇跡的な感慨だった。
中に入ると、奥の壁に一枚の小さな額縁の絵が飾られてあった。都会のビルの空に緑色がかった月が浮かんでいる。月のある絵は彼が好んで幾つも描いた下落合の風景画だ。
その絵のすぐそばのテーブルに腰掛けると、コップを手にした白い前掛けの店主が現れた。梅津五郎のご子息であった。「ラーメンを」と注文すると「あい」と応えてから、「初めてのお客さんですね。もう明日で店、閉めてしまうんです」と申し訳なさそうに言った。「張り紙見ました。今日山形から来ました」と告げると、「そうですか。今日でお客さんが最後になるかもしれませんね」と、自分に言い聞かせるような覚悟の込もった堅い口調で言った。「ありがとうございます。じっくり味わって行きます」と、私は光栄な思いを伝えた。
目の前の絵を眺めながらラーメンをいただいた。中太の麺に濃厚でいてさっぱりとしたスープがからんだ味わいは、半世紀をへて梅津五郎の絵と同様に、激しい自己主張ばかりに陥らない奥深さを秘めているようだった。殊に二代目店主の「最後になるかもしれませんね」という言葉は身にしみた。
小一時間ほど居ただろうか、奥様と並んで見送られ店を後にした。夕空を見上げると、梅津五郎の絵のような、ビルの高みに薄い月が浮かんで見えた。
山形へ帰った翌日、「絵樹会」というグループ展を見た。前の年から二度目なのに顔馴染みのようにしていただき談話していると、思いがけない話にめぐり合った。なんと、グループの代表で画家の小川光蔵さんが梅津五郎に師事したことがあるというのだった。なるほど小川さんの絵には梅津五郎の気配がある。大胆でいて本質をとらえる筆使いは、見る者をとらえて放さない機微に触れてくる力がある。 しかし、小川さんは梅津五郎についてあまり多くを語らなかった。私はそれが気になった。いつかまた聞いてみたいと思う。
訪ねた梅津五郎のいた浅草のラーメン店が閉店になる寸前だったこと。帰形して見た絵画展がその梅津五郎の弟子の方のものだったことなど、絵を愛しただけ報われる奇跡があるものだと、どこか矜持にも似た誉れのようなものを感じた。しかし、これはいささか自惚れ過ぎだろうか。ご容赦願いたい。
(マイアーカイブス・2006年3月)


自画像は、絵画104点を出身地の山形県白鷹町に寄贈し2003年の7月に83歳で亡くなった梅津五郎という洋画家である。同年11月地元の町の公民館で遺作展が行われ、その後2005年9月にも山形美術館で作品展があった。自画像以外で印象深かったのは、森田茂に師事したように分厚く塗り込む手法で重厚なアルルの群家を描いた一連の作品だった。彼は、きっとゴッホになりきったような旅先の気分だったにちがいない。
その山形美術館で、梅津五郎が浅草で「満楽」という中華料理店を開いていたことを知った。ラーメンは浅草では評判の味で、彼は二階の部屋で絵を描きながら店に出ていたという。そして時折海外へ行ったりもしていたというのだから、かなり行動的な人で、海の向こうの話は店でも話題になり、主人をひそかに「ラーメン画伯」と呼ぶ客もあったという。
そんな親しみのある反面、梅津五郎は東光会という画壇の理事長や日展参与などを歴任した。しかし初めから売る絵は描かなかった。売るのはラーメンだけというのではなかっただろうが、そのスタイルには頑なな一貫したものが流れていて、そのことがまさしく彼の絵にゆるぎない生命力を宿らせたのだろうと思う。
後日、上京の折、私はそのラーメン店へ行ってみた。
浅草鳥越神社の西側の通りにあり、こじんまりとした庶民的な造りの懐かしさを感じさせる店だった。入ろうとすると、ガラスの引き戸に白い張り紙があった。なんと、昭和25年以来続いた店を閉店するという知らせであった。私は驚きとともに間にあって嬉しいような、残念でもあるような複雑な気持ちがした。しかし、それは彼とどこかでつながっていたような奇跡的な感慨だった。
中に入ると、奥の壁に一枚の小さな額縁の絵が飾られてあった。都会のビルの空に緑色がかった月が浮かんでいる。月のある絵は彼が好んで幾つも描いた下落合の風景画だ。
その絵のすぐそばのテーブルに腰掛けると、コップを手にした白い前掛けの店主が現れた。梅津五郎のご子息であった。「ラーメンを」と注文すると「あい」と応えてから、「初めてのお客さんですね。もう明日で店、閉めてしまうんです」と申し訳なさそうに言った。「張り紙見ました。今日山形から来ました」と告げると、「そうですか。今日でお客さんが最後になるかもしれませんね」と、自分に言い聞かせるような覚悟の込もった堅い口調で言った。「ありがとうございます。じっくり味わって行きます」と、私は光栄な思いを伝えた。
目の前の絵を眺めながらラーメンをいただいた。中太の麺に濃厚でいてさっぱりとしたスープがからんだ味わいは、半世紀をへて梅津五郎の絵と同様に、激しい自己主張ばかりに陥らない奥深さを秘めているようだった。殊に二代目店主の「最後になるかもしれませんね」という言葉は身にしみた。
小一時間ほど居ただろうか、奥様と並んで見送られ店を後にした。夕空を見上げると、梅津五郎の絵のような、ビルの高みに薄い月が浮かんで見えた。
山形へ帰った翌日、「絵樹会」というグループ展を見た。前の年から二度目なのに顔馴染みのようにしていただき談話していると、思いがけない話にめぐり合った。なんと、グループの代表で画家の小川光蔵さんが梅津五郎に師事したことがあるというのだった。なるほど小川さんの絵には梅津五郎の気配がある。大胆でいて本質をとらえる筆使いは、見る者をとらえて放さない機微に触れてくる力がある。 しかし、小川さんは梅津五郎についてあまり多くを語らなかった。私はそれが気になった。いつかまた聞いてみたいと思う。
訪ねた梅津五郎のいた浅草のラーメン店が閉店になる寸前だったこと。帰形して見た絵画展がその梅津五郎の弟子の方のものだったことなど、絵を愛しただけ報われる奇跡があるものだと、どこか矜持にも似た誉れのようなものを感じた。しかし、これはいささか自惚れ過ぎだろうか。ご容赦願いたい。
(マイアーカイブス・2006年3月)

