コラムなタイム -33ページ目

本との気持ち52

「この一冊で日本と西洋の名画がわかる!」岡部昌幸 著
(青春出版社・定価1000円)

 美術史はアルタミラやラスコーの洞窟絵画に始まり、その後はいつの時代にも抽象から写実へ、写実から抽象へと流れを変えながら発展してきた。目に見える立体的空間をキャンバスの平面の上にどう表現するかという命題を背負いながら。
 本書は西洋と日本の絵画史を、潮流を代表する画家を軸に、それぞれの時代を大胆に割愛した流れで絵画技法を中心に解説している。

 16世紀ルネッサンス美術では、レオナルド・ダ・ビンチの代表作「モナリザ」が、キアロスクーロという明暗法とスフマートというぼかし技法で輪郭線を描かずに表現されていることや、神秘性を醸す空気遠近法という技法によって描かれていることなどが解説されている。そのキアロスクーロなどの技法は、次の17世紀のバロック美術の時代にレンブラントの肖像画などによって内面性を表現することを可能にした。ベラスケスに至って、下絵を描かないで筆勢を残すアラプリマという技法が生み出された。それは後の印象派に引き継がれていったのは周知の通りだ。
 一方、ルーベンスやヴェネチア派の流れを汲むロココ美術ではヴァトーの「シテール島への脱出」を挙げ、絵画に演劇的な物語性が描かれるようになった。そのことは近代美術への多様な可能性を示唆している点で重要な出来事であった。
 こうして19世紀に至る近代美術では、いよいよ筆勢は失われ、ターナーが水蒸気までも描くことになる。そして、モネの「印象 日の出」によって光による色彩の変化を描く印象派の誕生となり、調和と秩序を重んじた古典的な写実絵画の歴史は終わりを告げる。そして激しい感情の表出というロマン派の真骨頂が主流となってゆくが、ゴッホはそこに命を賭けた一人であった。
 しかし、絵画史が「抽象から写実へ、写実から抽象へ」の流れであるように、真実を描く技法の追求は現実にはあり得ない存在感をキャンバスに求めた。それがセザンヌだ。セザンヌは「モネは一つの眼に過ぎない。」と言い切った。そして「リンゴのある静物」や「サント・ヴィクトワール山」などの傑作を、対象を単純な立体で構成し複数の視点で描いた。「自然の中に円筒形と球形と円錐形を見る」と、ベルナール宛ての手紙にはある。それは自己認識の表現である以上に、その延長線上には抽象画へ至るプロセスが胚胎していた。キュビスムのピカソなどが現れ、まさしくセザンヌは「二十世紀美術の父」と呼ばれるにふさわしい存在であった。そう本書は、第1部をセザンヌを讃えて結んでいる。

 第2部の日本絵画編には「西洋絵画と呼応する美」というサブタイトルが付いている。15世紀ルネッサンス美術とほぼ同じ時代に、日本では雪舟が名作「天橋立図」を描いている。それ以前は大和絵が12世紀頃中国の南宗画の影響のもと、様々な流派を生む。
 そうした中、日本独自の水墨画が雪舟により自我の現れを見せ、西洋画に通じる近代芸術として定着、日本絵画が独自な歩みを遂げる。狩野派が誕生し、また長谷川等伯が枯淡の境地を現した。17世紀から18世紀には江戸幕府御用絵師の狩野派に対し、尾形光琳が大和絵に近代的デザインを凝らした技法を確立。円山応挙も独学で写実を極めた。
 一方、江戸時代はまた浮世絵の花盛りの時代でもあった。葛飾北斎はその最も人気を博した浮世絵師の一人であった。
 やがて鎖国が解かれ、西洋絵画の写実の技法が流入し、高橋由一がその先鞭を果たした。さらにフランスなど海外へ赴いた黒田清輝、岸田劉生などが印象派を始めとした絵画技法を広める。こうして日本美術界は文字通り百花繚乱の極みを見せ始めてゆく。

 総じて読みやすく、カラーではないが図版も多く、読み手にとっては気軽に読める編集がされている。タイトル通りにこの一冊で済むかどうかはともかく、絵の見方を学ぶことができ、あらためて最寄りの美術館へ出掛けたくなる一冊といえるかもしれない。ここに紹介された画家を軸に、いろんな画家の作品を見ながら「大人の勉強」をしてみるのも楽しいのではないだろうか。

この一冊で日本と西洋の名画がわかる! (知の強化書 6)/岡部 昌幸

¥1,000
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本との気持ち51

短編小説集「姫椿」浅田次郎
(文春文庫・本体514+税)

「獬」(xie・シエ)
 愛猫リンの供養の帰り道、桜並木で、ふとリンは獣医に毒を盛られて殺されたという思いがして怒りが涙とともにわき上がった。そんな日々の晩春ペットショップで、顔がキリンで鹿の角に虎のしっぽのウロコだらけの小動物に出会った。リンを失ってからずっと淋しかったし、また新しい小動物に出会い、それがかわいくて仕方なく買って帰って来てしまった。
 それはシエという人間を幸福な気分にしてくれる動物。シエは飼い主の鈴子の愚痴も聞いてくれるから、人の心が読めるらしかった。しかし、いつのまにか眠り込んでしまうのだった。そんな様子に鈴子は落胆しながらも、シエがかわいくて愛おしい存在になっていくのを感じていた。
 鈴子には宮崎という婚約者がいる。しかしその彼は大の動物嫌い。鈴子は彼の借金の肩代わりをしているらしい。シエはとても鈴子が幸せにはなれないだろうと見抜いた。それでも鈴子はシエに彼の話をする。シエはいつものようにいつのまにか寝入ってしまう。
 やがてシエは年老いて病弱に。「スーちゃんの不幸、全部食べてあげる」と言って、シエは鈴子の涙をなめながら死んでいった。鈴子の腕の中でシエは形を失い煙となって、部屋の窓の夜の闇に散る桜とともに消えていった。
 こんな寂しい女と小動物の心の交流を描いた掌編。人は幸せをしっかりつかまないといけない。幸せを拒み続けてはいけない。人はどんな時でも幸せになる権利がある。そんな思いに駆られた短編だった。

「姫椿」
 読み終わってホッとした。経営難で死に場所を探す社長が自殺を思いとどまってくれるよう祈るような気持ちで読んだ。主人公は苦しい生活の中でも少しずつ自分を取り戻してゆく。そして銭湯の老人客の粋な江戸弁や番台の親父のさりげない思いやりのある言葉など、町衆の善良ぶりが主人公の自殺を思いとどまらせてくれた。その帰りがけの公衆電話での女房のいつもの声も勿論かけがえのない救いだったろう。
 世間には人を癒すようなしぜんに転がっている優しさというものもあるのだ。緩みほぐれる心の有り様に近づいてゆく主人公。死ぬことより生きることの方に心の比重をかけていく生き方が描かれた秀作だ。生きる勇気が与えられるだろう。

「マダムの喉仏」
 この浅田の感覚は何なのだろう。『歩兵の領分』に通じるものがあるようにも思えるのだが、話はオカマの話だ。彼らの悲哀の向こう側に軍靴の響きが聞こえていた。遠い悲しみを永遠の旅の道連れにしてゆくように、マダムは死んだ。そう結んでおこう。

「オリンポスの聖女」
 かつて若い頃、二人芝居の無言劇をしながら「事実婚」の生活をしていた二人は、やがて青春の時代が終わるように別れ三十年が過ぎた。あれは愛と芸術への裏切りだったのだろうか。しかし今この時、世界が奇跡を呼んだ。異国の地で演劇だけで生きて来た彼女の石像のような路上パフォーマンスに出くわしたのだ。その微動だにしない典子に永遠に変わらぬ自分への彼女の愛を見て取るラスト。遠い記憶を呼び覚まし、まさしく二人はかつてした無言劇のように、その場に向かい合い立ちすくんだ。長い時を経てめぐり合えても、何も変わらない確たる記憶に打ち震えてしまう時、人は何を思うのか。忘れられない良い作品だと思う。

「永遠の緑」
 亡き妻と見た芝のターフを走り抜くオグリ。愛猫の名前までオグリにした退官間もない大学助教授の三十年来の競馬好きの話。ある日、競馬場で知った解体屋の若者と飲んでいたら、その若者が自分の娘の恋人だったことが分かった。そして、やがて三人で競馬三昧の暮らしをする。そんなにまで自分が競馬を愛したように再婚もしないのは妻を今でも愛しているからというのだが、ちょっと消化不良気味が否めなかった。

他、3編。

姫椿 (文春文庫)/浅田 次郎

¥570
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高木もよさんにお会いして

 ほぼ二十四年ぶりにお目にかかった。その間の金さん銀さんのブームの時、何度も彼女のことを思い出した。それでも一度も訪ねないでいる自分がどんどん嫌な人間になっていくように思えてならなかった。薄い座布団にちょこんと座った姿が、ふだん立っている時の小さな体がさらに小さくちじこまってしまったかのような、それこそずっと前の生まれた時の百年も近い昔からそこに座ったままでいたかのような、そんな姿がかわいらしいやら、いとおしいやら、とにかく彼女のその姿から目が離せなっくなってしまった自分がいた。その姿はまた、山形に来てから身勝手に数えるほどしか会っていない横浜の年老いた母の姿にも似ていた。
 小路は雪に覆われていた。山形から寒河江川を越えて、すぐの河北町溝延。鎮守の森の八幡様。近所の人が家の行き帰りにしか通らないような、か細い鍵型の通り沿い。その石像は鳥居の横にある。当たり前なのに、二十年前と同じ場所にあったことがひどく嬉しかった。また参道のほうよりもその石像の台座のまわりのほうが雪がきれいに掃き清められていたことが、僕をいっそう嬉しくした。そして、新たに屋根付きの覆いも掛けられていて、誰にともなくそうして大切に守られ続けていることに地域の人々の優しさが感じられて、あぁ山形にいて良かったなと思った。もよさんはそんな僕を見おろして、「そろそろお母様にお会いしてらっしゃい」と言っているかのように見えた。
 高木もよさんは、生涯を産婆として生き地域の人々にこよなく愛された女性。慶応三年溝延に生まれ、明治十八年十九歳で産婆を開業し、以来昭和二十年に廃業するまでの長き六十一年間にわたって、地元はもとより寒河江川や最上川を渡った近郷近在へ妊婦の赤子を取り上げに走った。今こそ少なくはなったけれど、彼女の手によって産声を上げた人は、その数一万余人。もよさんご自身も七人の子に恵まれ、貧しい生活の中、当時流行したツツガムシ病の治療にも貢献。困っている人のことを聞きつけるにつけ、じっとしていられない心優しくたくましい女性だった。
 僕はあの二十四年前、取材の仕事で山形市にもよさんの娘さんにあたる方を訪ねたり、実際にもよさんに取り上げられたという何人かの地元の方にもお会いしたりした。どなたも目にしたのが、戦地に赴く子供達を見送るもよさんの姿だという。その写真が残っていて、日の丸を手にした左腕には数珠がのぞいている。無事を祈りながらも、たとえ散華しても忘れない誓いのようで、人々の心に強く今でも残っているという。命に触れる努めが自然にそうした信心深さに通じているとおっしゃる方もいらした。
 そしてこのたび、そうしたお一人のご子息に再会した。懐かしいお話をさせて頂いている間に、一つの質問をした。それは、あの座った姿勢だった。どうしてあの姿になったのか。戦士を見送る姿でなかったのか。答えは石工の方から伝わるもので、当時はもう亡くなる前の年のこと、もよさんはすでに晩年にあり、地域の人々から彼女を顕彰しようと話が持ち上がっていた。さて、いつもは柔和な面立ちをされているのに、石工の前でモデルとなったもよさんはなかなかにっこりとしてくれない。そこで、座ったままのもよさんに飴玉をしゃぶってもらった。すると、いつもの和やかな良いお顔になったというのだ。まわりで彼女を一生懸命あやすご家族らの姿も浮かぶようで、心かようほほえましいお話であった。
 終生その慈愛あふれるまなざしは、地域の多くの人々の温かい記憶の中に生きている。久しぶりに訪ねたお宅の座敷に次から次へと人が集まった。懐かしさが束ねるように心を一つにしてゆく。話が飛び交い、笑顔がこぼれる。女性はみんなもよさんのように見えた。
 夕暮れ、雪が舞っていた。帰る車中、母のことを思った。

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