今野忠一という画家の絵をみて-1 | コラムなタイム

今野忠一という画家の絵をみて-1


 天童市美術館の今野忠一展に行って来た。最終日、午後2時から学芸員の方によるギャラリートークがあり、70点程の作品の一つ一つの解説を聞きながら鑑賞した。近作からデビュー時代へと遡って行く展示のし方をしていたので、画風の変わりようが分かりやすくリアルに伝わる企画展だった。初期の花鳥画には丹念なスケッチも多く展示され、画布へ描かれたものと比較して楽しめた。また鑑賞者を最後まで圧倒し続けるくらい大きな屏風絵や襖以上の大きさに及ぶ大作などを並べる展示の仕方や、さらに所々に作者自身の短い解説があるのも絵から文字へと鑑賞の領域を別の領域へ鑑賞者を誘うなど、心憎い小さな思いやりのこもった趣向に満ちていた。
 今野忠一は、1915年天童市で生まれ、90歳を数える日本画家である。1955年頃、色彩を多用し背景も描くという新しい試みに挑戦し、日本画壇がそれまでの水墨画から脱皮し始めた活発な動きの中でデビューした。その後は蔵王や月山をはじめ空想の山まで多くの山岳風景を描いている。
 僕が今野忠一を見に行ったのには訳があった。「老樹」という作品を見たかったからだ。その朝日岳の「老樹」は1958年の院展で文部大臣賞と奨励賞のダブル受賞を果たした。樹の幹をアップに描き、その背景に日暮れの秋山がのぞく四曲一双の大きな屏風絵である。大矢鞆音著「田中一村 豊饒の奄美」に、「老樹」の絵の前で田中一村がじっと立ちつくし去りがたい様子で見つめていたという一村の知人の回想が書かれている。一村はその直後、それまでの手許の作品を自ら焼き、孤独な旅へ出た。その彼の旅への思いを知りたかった。あの美校時代の東山魁夷らの帝展入賞、そしてこの今野忠一の院展入賞、二度の惜敗の後に一村の旅は南国の島・奄美へといざなったのだ。田中一村は1977年その奄美で死に、ここ4~5年の間にようやく評価が現われ始めた日本画家である。奄美を描いた作品は当時、日本画よりデザイン画という見方をされたりもした。それほど斬新であったが、画壇から遠く退き多くの作品が衆目に届かなかったというのが現実だろう。
 さて今野忠一の「老樹」だが、一村の気持ちで眺めてはみたものの、ガラスケースの中の「老樹」は展示室をそこまで見てきた圧倒感に比して、幾分小さく画風に張りがなく感じられた。視線を低くしてみたり、ガラスがないことを想像して見てみたりと、なんとか一村の苦渋の心持ちに近づきたかった。しかし、所詮は素人の趣味の内である。想像も苦渋もない。想像は別な絵画への連想へ走り、苦渋は諦観を帯びて萎えたようだった。立ち去りがたいわけでもないのに展示室中央の腰掛けに手をついて座した。果たして諦観は想像を飛躍させるのだろうか。樹の幹に目を凝らすと桜井浜江が浮かび、別の展示室で見た浅間山の絵にはなぜかその空の青と山の赤の色使いや太い黒い縁取りの筆使いなどから萬鐵五郎や梅原龍三郎が浮かび、ある絵にはきっと今野はフォーブを意識したにちがいないなどと、途方も阿呆もない邪想が遊んだ。
 そんな心許なさにたゆたいながらも、ピンと張った記憶の澪(みお)のようなものが突然冗談のように心うちに勃ちのぼった。それは那智滝の縦長の大きな絵だった。今野の滝といえば、岩のような巨大な山の黒い塊の中で白糸のごとくか細く長い孤独な転落を思わせる滝である。探さないと見えない暗い滝である。しかし、かの那智滝は真っ赤な紅葉に抱かれてこれ見栄世がしに真っ白な滝が、まっすぐに落ちると言うよりも天と地を結ぶかのように繋がれていた。それは死よりも生を、落下よりも浮上を想起して止まない精気が感じられる。見ていて凛と居ずまいを正されるのであった。日本画の画風には禅のような厳しさが潜んでいるようなところがある。今野忠一は、南画からの永年の画業に照らしてみると、その様式は実に多才である。それはそのまま近代日本画の歴史の流れと言えるのかも知れない。
(2004年11月・マイ・アーカイブより)