コラムなタイム -30ページ目

本との気持ち61

「月島慕情」浅田次郎
(文春文庫・570円)

「月島慕情」
 博徒に見初められた吉原一番の女郎が裏切られて、最初の初めての男客と吉原を出て行く話。彼女の心変わりの原因は、件の博徒に家庭があったからだが、それにしてもそのことにたいした怒りもなく、「やっぱり世の中にはきれいごとなんて一つもなかった」と思い切るあたりが、郭の世界の女の意地のように思われる。淡い思い出だけで心情をやり過ごすラストは、女郎といえども女らしさが読めてホッとさせられた。

★「供物」
 相手の酒乱で離婚した初江が夕暮れ時、その亡き元夫の家へワインの供物を手に訪ねて行く道すがらを描いている。遠い忌まわしい過去を思い出しては今の夫との幸せをかみしめる。仏前に供物を置き、再婚相手の女とちょっとした諍いの後、一人帰途へ向かう初江に、離婚の時に残してきた子が車で追って来た。「ワインは頂くから」と言って立ち去ったが、その時に我が子に会えたことは何よりの救いとなった。そして初江は涙する。離婚歴のある一人の女のさみしさが短いストーリーの中に優しく詰め込まれた、橋台の片隅にある隠し箱のような短編だ。

★★「雪鰻」
 人は何事にも報われなければならない。どんな過酷な状況にせよ、人は報われるべきだ。そしてその恩をまた人に与えてこそ意義あるものとなる。三田村団長は部下の「私」に鰻の蒲焼きを馳走した。その行為は生きて帰った自らの呪われかねない戦地での上官の温情に救われた体験に根ざしていた。戦地で仲間を殺して食べるなどした非業を今、目の前にいる部下をして償わしめたその思いとは何か。それは「人間としてのまことの栄光は、命の向こう側にある。神仏も地獄極楽もない。命よりも尊いものを見いだすことが人間の栄光だ」。作中の著者・浅田のこの独白に尽きると思った。吉村昭級の重いテーマだった。

「インセクト」
 インセクトとは昆虫のこと。地方から上京した孤独な大学生がアパートに昆虫などの虫けらを飼いながら生活している。隣の部屋の母娘の女には男が通って来ていて、その男を娘はパパと呼ぶ。そんなふしだらな大人達が周囲にいて、美人喫茶のアルバイトをしながら落ち着かない大学生活を送る主人公もまた大都会の虫けらみたいな存在。やりきれない都会生活の中で飼っていた昆虫を手放すことで、人生の再出発を果たそうとするラストへと続く。大都会の片隅で生きる若者と大人達の陰鬱とした暮らしを描きながら、何とか希望につなげようとする若者自らが救いを求めたラストは人間讃歌とも言えるかもしれない。

★★★「めぐりあい」
 感動した。特に後半は込み上げてくる気持ちを抑えがたい程であった。ほんとに泣かされた。目の不自由な中年の美しいマッサージ師の女主人公・時枝が、山深い一軒宿ヘ呼ばれて向かうタクシーの中での運転手との会話から小説は始まる。宿には一人の男が待っていた。その客の男との会話の場面と時枝の悲しい恋の行方が交差しながらストーリーは進む。しかし、そのストーリーを今ここではこれ以上語らないでおく。それにしても、人の心は時が経つとどうしてこうも独りよがりになってしまうのだろう。それは“夢の骸(むくろ)”を抱くような孤独な幸せもあるということか。登場人物達の限りない本物の優しさに気丈に振る舞う女主人公が印象的であった。

★「シューシャインボーイ」
 人には様々な過去がある。特に戦争に関係する過去は多くの人々が体験していることでもあり、その過去の事実の内容には誰にも感動を呼ぶ歴史的な普遍性がある。終戦直後の混乱期と言えば、身内をなくして途方に暮れたり、思わぬことに手を染めて成功のスタート踏み出したりした者も少なくなかった。そうした苦難の時代を生きた人々の光と影は、物語世界の明暗を劇的に浮かび上がらせる。この作品もまたそうした物語世界の一端を描き、読者の感動を呼ぶ。靴磨きの老人と会社社長、それに早期退職した主人公。それぞれの人生が一つに重なり合い、物語は展開していくと、自ずとテーマは見えてくる。老人の「頼みの綱はおまえだけなんだ」と言った言葉は、「人のために役立つ人生」ということ。「あなたにまで捨てられたら2度も捨てられたことになる」と言うことに対して老人は、「だったら2度忘れりゃいい」と言う。こともなげない言い種でも話してくれないよりはいい。そんな時に出る言葉こそ、真実に近いものと言えるだろう。

他、1編。

月島慕情 (文春文庫)/浅田 次郎

¥570
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本との気持ち60

「買わねぐていいんだ。」茂木久美子
(インフォレスト・1260円)

 山形新幹線「つばさ」の車内販売員、カリスマ・アテンダントが書いた営業奮闘記。ふつう1回乗車で8万から10万円の売上げがあるといわれるが、カリスマの所以は著者の彼女はなんとその倍以上を売上げ40万円という最高記録の持ち主だからである。本書はその手法を自ら発見し実行した体験記でもある。後ろ向きにワゴンを引っ張って行けばお客の顔を見ながら販売ができる。そんな発見をし、ごく自然に実行した。他にも文中には販売テクニックが数多く紹介されているが、彼女の凄さはそれらばかりではない。天性の明るさと積極性に加え、生まれ故郷の山形弁を丸出しにした販売姿勢にもある。そして何よりも彼女の美貌は全国の販売女性の中でもピカイチで、その笑顔に接したならば2品、3品と買いたくなること請け合いだろう。
 そんな彼女、就職できるまではコギャルで鳴らしたというから、人に頭を下げるなど考えたこともなかったという。しかしそれではいけないと思い立ち、彼女はほんとの自分の居場所を見つけた。そこが日本レストランエンタープライズというJP関連の車内販売を運営する会社だった。まぁそういうわけだが、これ以上は読んでもらうことにしておこう。営業トークや接客、普段の心掛けなど本書には営業や起業に役立つヒントが満載だ。そのどれもが著者茂木久美子さんの旺盛なサービス精神にもとづいていることは勿論、経営者もこんな社員を望んでいるに違いないだろう。従って今、就活に頑張っている若者にもぜひ読んでもらいたい一冊でもある。
 この本を紹介した理由は、実は彼女にインタビューしたことがあり、すっかり山形新幹線に乗る楽しみが倍増したからである。山形にいる自分としてはできたら彼女が販売活動している新幹線に乗り合わせたいものだが、せめて車内電光掲示板にその時のアテンダントの名前くらいは紹介してもらえると、旅の楽しみも膨らみそうに思う。「お弁当にお茶、冷たいお飲物はいかがですか」。もうそんな声が聞こえてきそうでないですか。

買わねぐていいんだ。/茂木久美子

¥1,260
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本との気持ち59

「こころのうた」山本健吉
(文春文庫・360円)

 人はなぜ歌うのか。そして、なぜそれほどまでに愛しく悲しいのか。慰めか、癒しか、悔いなのか。今この時の想いの丈を書き留める忘れ形見なのか。忘れられないから、石のようにひと塊まりにしておきたいが為なのか。
 愛や人生、旅などテーマ別に八章からなる本編は、明治37年「遂に、新しき詩歌の時は来りぬ」と島崎藤村が記した詩集の「初恋」から始まる。近代作家の詩、短歌が数多く紹介され、それら一つ一つに著者の解説と思いが綴られているアンソロジーである。死も生活も人生も、そして社会も自然も、詩人の誰もが詩情止み難く書かないではいられなかった数々の詩歌。そのどの詩からも抑制を秘めながらも苛烈な言葉で歌う叙情が読み取れ、身も心も焦がして惜しまない生き様が立ちのぼってくる。
 たとえば北原白秋。人妻松下俊子との恋を歌った『桐の花』の哀傷篇では、「ひなげしのあかき五月にせめてわれ君刺し殺し死ぬるべかりき」と、人生の陥穽もいとわぬ姿が浮かび上がってくる。智恵子と恋に落ちた高村光太郎は「をんなは多淫 われも多淫 飽かずわれらは愛欲に光る」と肉欲すら詩とした。しかし、著者は彼らの恋も愛も深い孤独の悲哀であり悲しい追憶のエレジーであると、愛の世界の章を結んでいる。

 「あめゆじゅとてちてけんじゃ」。これは、宮沢賢治の「永訣の朝」で妹の臨終を儚んだリフレーンだ。雪の一握りに妹の命を託した兄妹の交情が澄んだ声のように聞こえて来る。この詩を「結晶」と著者は呼び、賢治の敬虔な心を讃えている。
 また、詩はどこかで時代とも命脈しているものだ。自由や反抗は彼らの創造性と直結していて、その闘いは悲しみなのかもしれないのである。佐藤春夫も石川啄木も明治末、社会主義に目覚め、死を賭して闘うアナーキストの悲しみを詩に書いた。それは揺るぎない強権の凄まじさを改めて思い知る悲しみでもあった。賢治が農民とともに生きようとしたこともまた、病のために農業技師としての挫折感を思い知らされる闘いであったろう。
 さらに敗戦の口惜しさを綴った詩人も少なくなかった。原民喜は「コレガ人間ナノデス」と反戦を記録する詩を書いたし、三好達治は敗戦による日本人の心の荒廃に対する嘆きや憤りを「ちっぽけな象がやってきた」という詩に綴った。戦争で青春を奪われた茨木のり子は「わたしが一番きれいだったとき」と悔いる気持ちを時代に向け晴らすように書きながらも、未来を見据える心を失わず自らと闘った。

 詩人はまたいつも自由でありたいと願う。その自由は自然の中にこそあると。自然は人を癒し、人は自然に救いを求める。自然はそこにあるだけでいいし、神のごとき存在でもあるとも。
 「山林に自由存す」と国木田独歩は自然を謳歌した。戦争責任を自覚し山中にこもった高村光太郎も「万境人をして詩を吐かしむ。」と、悩める心を自然の厳しさの中に身を置くことで凌いだ。
 しかし、そこから紡ぎ出される己の詩境はなんと悲しく捉え難いものなのだったろうか。室生犀星然り、自然に託す切なさは「張り詰めたる氷」のごとく儚く刹那に呻吟しなければならなかった。著者は「自然の意志は、人の思考の及びがたい不思議な力を現す」ものであるという。
 自然は時として恋心にも響き、人を童心にも帰えらせる。谷川俊太郎は「喜んでひろがっている」空を飛行機が傷つけて飛ぶことを悲しみ、空は鳥の為にあると詩にした。文明批判が底流に流れているのだろうか、知るということの空しさが思い知らされる。人知も自然の前には何ものでもないのである。

 「旅人のこころ」という章では、初めて知るショックな言葉に出会った。それは「旅死にの墓」という言葉だった。旅路の峠ごとにそれがあったというのだ。馬頭観音は今でも目にすることはあるが、旅の果てに行き倒れになる旅人の墓は知らなかった。中には、業病を背負ったまま死ぬまで旅に出てついえた人もあったという。釈迢空に「人も、馬も、道ゆきつかれ死ににけり」と歌われ、彼自身「黒衣の旅人」と呼ばれた。
 かと思うと、旅は終わろうとしているのに心は癒されない、この岬の宿を後にしなければ明日はないと、三好達治は「春の岬」で鴎を目にして歌い、旅情に病のごとき悲哀を感じる。
 旅は夢の中のようなもの。しかし、齢い傾き老境に見る夢は古えの寂しき夢ばかり。それは秋の終わりのように暮れてゆく。それだから老境にする旅は二度と訪れぬ覚悟を強いる。西行もまた、「年たけて又越ゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」と詠んだ。旅は人生、人生は旅。まさしくその通りなのだ。

 「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの」。室生犀星はこの歌で、実は故郷を去って遠い都へ帰ろうとしているのである。都に帰れば今度は故郷を懐かしく思われてくるだろう、というのである。そう、「ふるさとの山はありがたきかな。」と。
 しかし、「石をもて追はるるごとく」故郷を発った石川啄木の望郷の詩には、辛い思い出に打ちひしがれた心情が歌われている。彼の望郷は切ないあこがれだ。だから旅は人知れずするもの。啄木は死ぬまで故郷には帰らなかったではないか。「かくぞ我恒に祈れり、今日こそはわれ死になむと かなしくも泣きぬるる日に。」と。故郷喪失は多くの詩人が歌っている。しかしそれでも人は故郷を懐かしむ。失っても心に宿るそれは悲しい孤独な絆なのかもしれない。

 以上、本書に取り上げられた詩歌と著者の解説を読んで、詩歌とは何かを考えた。表現というよりはあるがままを表出する。止むに止まれぬ想いを吐露する。詩の言葉はそれだけで全部が動詞だ。そんな気がした。
 本書は、近代詩歌の流れをつかむことのできる良書である。シンプルなタイトルがそのすべてを語っている。著者は故人であり、この文庫は1981年の昭和56年の発行だが、おそらく絶版であろう。日本近代詩歌鑑賞の最高峰と言っても過言ではない。

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